2019年1月23日水曜日
他人に期待すること
娘のともだちのおかあさんと話してたんだけど、保育士の悪口をいっぱい聞かされた。
あの先生のああいう言い方はよくないとか、あの先生は笑っていても目が笑っていないから何を考えているかわからないとか、あの先生は頼りないとか。
ふうん、いろいろ思ってるんだなあ。
ぼくも毎朝保育園に娘を送っているのでいろんな先生を見ているけど、特に不満を感じたことはなかった。
「保育士って給料安いのにがんばってるなあ」ぐらい。
保育士の悪口を言うおかあさんの愚痴の内容にもうなずけるところはあるんだけど、しかしこの人は生きづらいだろうな。
だってさ。愚痴ってもしょうがないじゃない。何も変わらないじゃない。
保育士に不満があるなら直接言えよ。いや、ちがうな。言ったところでたぶん何も変わらない。関係が悪化するだけ。相手のモチベーションを下げるだけ。
だってぼくなら、仕事のことでド素人から「あなたのやりかた変えたほうがいいんじゃないですか」と言われても「うるせえよ」と思うだけだ。「おまえには見えてないだけでこっちにはこっちの事情があるんだよ。現状ではこれが最善なんだよ。だったらおまえやってみろよ」と思うだけだ。
素人の意見ひとつで反省して改めたりしない。そんな保育士いたら、そっちのほうがよっぽど信用ならない。
他人に変わってくれることを望むのは無駄だ。
可能性はかぎりなく低い。そんなものに賭けるぐらいなら、自分が変わるとか相手から離れるとか第三者にはたらきかけるとかしたほうがずっと早い。
ぼくは、保育士さんにかぎらずほとんど他人に期待しない。
娘に対しては「こうなってほしい」という思いはあるが、大人が変わることなんてまずないから「この人とはやっていけそうにない」と思ったら距離を置く。
さすがに妻とは距離を置くわけにはいかないから「〇〇してほしい」と伝えるが(そして却下されるが)、「だまって期待」はしないようにしている。無駄だから。
ぼくは他人に期待しない。
だからぼくに期待もしないでほしい。期待されても変わらんから。
だれもぼくに期待しないことを、期待する。
2019年1月22日火曜日
【漫才】歯ブラシの第二の人生
「歯ブラシが汚れてきたら、洗面所のせまいところとかガスコンロの周りとかを掃除する用に置いとくんだけどさ」
「うん。うちもそうしてる」
「だいたい一ヶ月に二本ぐらい歯ブラシを消費するのね。二人家族だから」
「うん」
「でも洗面所のすきまとかはそんなに掃除しないの。一ヶ月に一回ぐらい」
「うん」
「ということは、古い歯ブラシがどんどん溜まっていくわけよ」
「そうなるね」
「というわけで、今、うちには六十本ぐらい古い歯ブラシがある」
「そんなに!?」
「だって一ヶ月に二本買い替えるのに、掃除で使うのは月に一本だもん。一年で十二本増えるから、五年で六十本」
「捨てなよ」
「それが捨てられないんだよ」
「なんでよ」
「だってまだ掃除に使える能力があるんだよ。それを捨てるなんてなんかもったいないじゃん」
「でも歯を磨くためにはもう十分使ったんでしょ」
「せっかくだから第二の人生をまっとうさせてやりたいじゃない」
「そうはいっても二本ぐらい置いとけば十分でしょ。あとは捨てなよ」
「おまえそれ自分の親に対しても同じこといえるの?」
「は?」
「自分のお父さんが会社を定年退職して、これから老後の人生を楽しもうってときに、もう仕事人としては十分生きたんだから死ねっていえるの?」
「どういう怒られかたされてるのかわからない」
「今の日本は高齢化社会も高齢社会も通りこして、超高齢社会だよ。そんな時代にまだまだ働ける人材を活用しない手はないでしょ」
「歯ブラシの話してるんだよね?」
「だからおまえは自分の親が使いおわった歯ブラシになったとして、それでも捨てられるのかって聞いてんの」
「自分の親が使いおわった歯ブラシになるって状況がイメージできない」
「べつに親じゃなくてもいいよ。近所のおじさんでもいいし、なんなら自分が歯ブラシになることを想像してくれてもいい」
「いや誰だったらとかいう問題じゃない」
「とにかく、歯みがき用として使いおわった歯ブラシに活躍の場を与えてやりたいわけ」
「じゃあもっと掃除したら? 今は一ヶ月に一回のすきま掃除を、月に二回やるようにしたらいいじゃない。そしたら収支のバランスがあうじゃない」
「収支のバランスがあうだけじゃだめなんだよ。今使いおわった歯ブラシが六十本あるのに、これがいっこうに減らないじゃない」
「じゃあ毎週掃除しなよ。そしたら月に四本ずつ減っていくから、二年半で使用済み歯ブラシのストックがなくなるじゃない」
「洗面所のせまいすきまなんかそんなに汚れないのに、毎週やる必要ある?」
「しょうがないじゃない。ストックをなんとかしたいんでしょ」
「なんかさ、雇用を生みだすために無駄な公共事業を増やしてるみたい。そういうハコモノ行政の考え方が今の環境破壊を生んだんじゃないの?」
「どういう怒られかたされてるのかわからない」
「だから歯ブラシを消費するために掃除をするのは本末転倒だって話をしてんの」
「そうでもしないと歯ブラシなくならないんだからしょうがないじゃない」
「でもさ、洗面所を掃除するときは、まず掃除用のスポンジを使うんだよ。激落ちくんってやつ」
「あーあれよく汚れが落ちるね」
「激落ちくんでも届かないすきまを掃除するときにだけ、使用済み歯ブラシを使うわけ」
「うん」
「洗面所掃除を毎週するってことは、激落ちくんも毎週使うってことじゃない」
「うん」
「激落ちくんはわざわざお金出して買ってきてるんだよ。使用済み歯ブラシを消化するために、必要以上に激落ちくんを買わなきゃいけないんだよ。消費税を引き上げても消費者の負担が増えないように軽減税率を導入して、結果的に社会の負担コストが増えるみたいな話でしょ。そういう考え方が経済格差を招いてるんじゃないの」
「どういう怒られかたされてるのかわからない」
「使用済み歯ブラシに用途を与えるためだけにお金まで使いたくないってこと」
「だったら激落ちくんを使うのは従来通り一ヶ月に一回にして、すきまだけは毎週掃除するようにすればいいだろ。それだったら余計なお金使わなくていいじゃん」
「すきまはこまめに掃除するのに、広いところは汚れたままにしとくわけ? それってたばこ税を上げたりしてとりやすいところからは税金をとるくせに、法人税とか相続税とかもっと大きいところには手をつけないみたいなことだよね。そういう考え方が今の財政の不健全化を招いたんじゃないの」
「どういう怒られかたされてるのかわからない」
「大きな汚れは放置して小さな汚れだけ掃除するのは優先度がおかしいって言ってんの」
「じゃあ激落ちくんを使うのやめて、広いところも狭いところも歯ブラシで掃除したら? 歯ブラシ五本くらい束ねてごしごしやれよ!」
「それって労働力不足だから移民労働者を増やして、結果的に日本人の雇用が奪われるみたいな話だよね。そういう考えが若者の政治離れを……」
「どういう怒られかたされてるのかわからない!」
2019年1月21日月曜日
車は後戻りができない
車の運転がきらいな理由をいろいろ考えてたんだけど、やっぱり「まちがえたら引き返せない」ことがいちばんなんじゃないかと思う。
車って後戻りできないじゃない。
機能としてバックすることはできるけど、「あっここ右折だった。バックバック」ってやったらクラクションに怒られるか追突されるかのどっちかだ。
おまけに車道はトラップだらけだ。
ここは右折禁止ですとか、ここを曲がりたいんだったらもっと手前から右折専用レーンに入っとかないといけなかったんだぜ残念だったな坊や、みたいなトラップがそこかしこに仕掛けられている。
時速数十キロの速さで走りながら次々に迫りくる試練に対して正しい選択肢を選ばなくてはならないのだ。むちゃだ。
周囲の車も敵だ。
「いっけない、まちがえちゃった、右折右折!」とこっちがドジっ子丸出しで右折しようとしてるのに、ぜんぜん曲がらせてくれない。いじわる!
で、気づいたら高速に乗っていたりする。どこまで連れていかれるんだ?
![]() |
ドライバーを苦しめるトラップの例 |
道をまちがえること自体はこわくない。
こっちはもう三十数年方向音痴をやってるんだ。歩いてたって自転車に乗ってたって、道をまちがえることなんて日常茶飯事だ。
今さらそんなことにびくつくようなタマじゃねえぜ。
だが徒歩や自転車の場合は、まちがえたと気づいたらすぐにやりなおしができる。
すぐさまリセットボタンを押して、セーブしたところからリスタートできる。
車を運転していて耐えられないのは、「まちがってると知りながら進まなきゃいけない」ことだ。
ちがう、ぼくの進みたいのはこの道じゃない、さっきのあそこを右折したかったんだ、わかってる、わかってるのにどんどん遠ざかる。
組織的な不正に手を染めている人はこんな気持ちだろうか。
この会社がやっていることは違法だ。わかっている。告発しなければ。だがここまで来たらもう引き返せない。いけないと知りつつ加担してしまっている。もっと早くに別の道を選んでいれば。
あるいはギャンブルにはまる人もこういう気持ちなのかもしれない。
さっきやめておけばよかった。使ってはいけない金に手をつけてしまった。ここで戻るわけにはいかない。だめだ、わかっている。これ以上やっても傷口は深くなるばかりだ。でももう戻れない。
車で道をまちがえるということは、不正に手を染めたりギャンブルで泥沼にはまるのと同じ、転落人生を歩むということだとこれでわかってもらえただろう。
なによりこわいのは、車の運転での判断ミスは、命にかかわる事態につながることだ。
運転時の判断を誤って、人を殺す。あるいは自分が死ぬ。
人の命にかかわるような自己を起こしたら、もう引き返しがきかない。
セーブポイントからやりなおしたいとどれだけ願っても、決してかなわない。
これこそが、車の運転における「まちがえたら引き返せない」の最たるものだ。
2019年1月18日金曜日
【読書感想文】今よりマシな絶望的未来 / 村上 龍『希望の国のエクソダス』
希望の国のエクソダス
村上 龍
村上龍という作家のキャラクターはあまり好きじゃないんだけど、この人の書く小説は超一流だと認めざるをえない。
うまい。序盤に出てくる「バランスの悪いシーソー」の比喩なんか絶妙の表現だ。
うまいだけじゃなく熱量もすごい。
中学生の反乱小説といえば、宗田理『ぼくらの七日間戦争』だ。
ぼくは中学生のときに『ぼくらの七日間戦争』を読んで、「なんかちがうな」とおもった。登場人物がみんなつくりものっぽいのだ。おっさんの頭の中にある理想の中学生、という感じがした。作者の「おれは大人だけど中学生の気持ちがわかるぜ」という感じが伝わってきて気持ち悪かった(恩田陸の『夜のピクニック』にも同じものを感じた)。
『ぼくらの七日間戦争』には、中学生のこわさ、残忍さ、不安がまるで書かれていなかった。意図的に書かなかったのかもしれないが、完全ファンタジーにしたいならキャラクターは中学生じゃなくて小学生のほうがいいと思う。
ぼくにとっていちばんこわい存在は、中学生だ。
以前、夜中に治安の悪い地域をひとりで歩いていたとき、道の向こう側から中学生の集団がやってきた。
二十人ぐらいの中学生が自転車に乗ってやってきて、ぼくとすれちがったのだ。
ただすれちがっただけなのに、めちゃくちゃこわかった。殺されるかもしれないとおもった。なぜなら相手が中学生だったから。
たとえば二十歳ぐらいの悪そうなやつとか本職のヤクザとかなら、存在としてはこわいけど「相手を刺激しなければ大丈夫だろう」とおもう。「よしんばつっかかってきたとしても、最悪、金を渡せばなんとかなるだろう」という気持ちもある。「話せばわかる」というか。こちらがめいっぱい譲歩すれば一応合意はできそうだ。
しかし中学生集団は何をするかわからない。何の理由もなく殴ってきそうだし、一度火が付いたらこちらが金を出したとしても許してくれなさそうな気もする。
力はあるのに損得だけで動かない(つまり何をするかまったく読めない)、それがぼくにとっての中学生のイメージだ。
じっさい、自分の中学生時代をふりかえってもそういうところがあった。
何か訴えたいことがあるわけでもなく、何かを手に入れたいわけではなく、なのに社会規範に反旗を翻したくなる。中学生とはそういう時期なのだ。
『希望の国のエクソダス』で描かれる中学生は、最初から最後まで大人にとって理解不能な存在だ。
彼らが何のために何をやろうとしているのか、とうとう最後までわからない。これはとても誠実な書き方だ。大人が中学生を理解するのは不可能だ。彼ら自身だってわかっていないのだから。
それは「体制への反抗」なんて言葉で片付けられない。反抗ならどちらに向かっているのかがわかりやすいが、中学生の行動は原子があっちこっちにランダムな運動をしているようなものだ。それは外から見ていると枠を広げようとしているようにも見えるが、原子自身にそういう意思は存在しない。
それは「体制への反抗」なんて言葉で片付けられない。反抗ならどちらに向かっているのかがわかりやすいが、中学生の行動は原子があっちこっちにランダムな運動をしているようなものだ。それは外から見ていると枠を広げようとしているようにも見えるが、原子自身にそういう意思は存在しない。
「この国には何でもある。ただ、『希望』だけがない」
『希望の国のエクソダス』で、国会に姿を現した中学生のポンちゃんがこう語るのは、作中時間で2002年のことだ。
彼らは学校に行くことをやめ、ネットワークをつくり、経済や技術的な力をつけてゆき、日本という国から距離をとろうとする。
さて今、現実の世の中は2019年。
状況は何も変わっていない。いや、悪くなっているのかもしれない。
不況は一応脱出したことになっているが、ほとんどの人の暮らしぶりは良くなっていない。少子化、高齢化、国家財政の悪化、年金制度の破綻、貧富の拡大。先を見ると悪い材料しかない。
「自分は今後いい生活を手に入れてみせる」と思える人はいても、「国民全体の暮らしがこれから良くなっていく」と信じている人はもう今の日本にはひとりもいないんじゃないだろうか。未来の生活が悪いというのは今が悪いよりも絶望的かもしれない。
ひと昔前は閉塞感という言葉が使われていたが、もう「閉塞」の段階すら通りすぎてしまった。悪い方向に転がっていくことが確定しているのだから。閉塞のほうがまだマシだったかもしれない。
この文章を読んで、ぼくはどこか懐かしいような気がしていた。
そういえば二十年ぐらい前はこんな言説をよく耳にした。日本にいちゃだめだよ、これからは海外に出ていかないと。
でも今、そんなことを言う人はすっかり減った。たぶん理由は三つ。
ひとつは、誰にとってもあたりまえすぎてあえて言う必要がなくなったこと。日本が今後力を持つことなんてありえないと誰もが知っているから。
ふたつは、そういうことを言う人たちはもうとっくに日本から出ていってしまったこと。今の日本には世界に出ていけない人しかいない。
そしてみっつめは、海外に出たって似たりよったりな状況だと気づいていること。日本の未来はたしかに暗澹たるものだが、他の国だって遅かれ早かれ同じ状況に陥ることが目に見えている。
村上龍氏が『希望の国のエクソダス』で指摘した日本の病理は、哀しいかな、一部では的中し、一部ではもっとひどい状況になった。
『希望の国のエクソダス』の中学生たちはインターネットを駆使して日本経済のありかたに一石を投じる。当時はまだインターネットは危険なものであると同時に希望だったのだ。
しかし情報の高速化・簡便化・グローバル化は、力のある者により大きな力を与えるということがわかってきた。この流れは当分変えられないだろう。
ああもう考えるほど絶望的な気持ちになってくる。目を背けたくなってくる。
……と、そうやってみんなが未来から目を背けつづけてきた結果が今の日本の状況なんだろうな。
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2019年1月17日木曜日
『ホーム・アローン』と己の成長
五歳の娘といっしょに『ホーム・アローン』を観る。
「なんだかつまらない。ディズニーがよかった」と娘がいうのを、
「もうちょっと待ったらすごくおもしろくなるから」と説得しながら。
「ほら。この子が家にひとりで置いていかれちゃったんだよ」
「おかあさんはケヴィンを置いてきちゃったことにまだ気づいてないよ」
「この人たちは悪い人で、ケヴィンの家に泥棒に入ろうとしてるんだよ」
と解説をしながら。
そういえばぼくがはじめて『ホーム・アローン』を観たときも(小学生だった)、父がストーリーを説明してくれたっけ。
途中まで退屈そうにしていた娘も、後半になってケヴィンが泥棒をやっつけるところでは大爆笑。
げらげら笑いながら楽しんでいた。
「ほらね、おもしろかったでしょ」とぼくも満足した。
中学生のとき、友人三人と「カルキン・クラブ」というクラブを結社していた。
カルキンとは『ホーム・アローン』の主役だったマコーレー・カルキンのこと。
『ホーム・アローン』で一躍スターになったカルキン坊やの家庭が、大金を手にしたことで家族内に不和が生じて一家離散し、カルキンも後に薬物の不法所持で逮捕されたという絵に描いたような転落人生を送ったことを知ったぼくらは、それをおもしろがって「カルキン・クラブ」をつくったのだ。中学生とはなんて残酷なんだろう。
「カルキン・クラブ」の活動は、たまに誰かの家に集まってビデオを観ること。
はじめは『ホーム・アローン』『ホーム・アローン2』『リッチー・リッチ 』など、マコーレー・カルキン主演の作品を観ていたが、そのうちカルキンとは無関係の映画を観る会になった。
そんなわけで、ぼくは今までに『ホーム・アローン』を何度も観ている。
純粋におもしろがっていた小学生時代、
「主演子役の転落人生」という裏側を意地悪く冷笑していた中学生時代、
そして子どもの反応を楽しむようになった今。
いろんな楽しみ方ができる『ホーム・アローン』は名作だ。
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