2018年12月14日金曜日

【読書感想文】岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」


『罪と罰』を読まない

岸本 佐知子 三浦 しをん 吉田 篤弘 吉田 浩美

内容(e-honより)
「読む」とは、どういうことか。何をもって、「読んだ」と言えるのか。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがない四人が、果敢かつ無謀に挑んだ「読まない」読書会。

誰もが名前は知っているが、その分量の多さから「読んだことありそうでない本」であるドストエフスキー『罪と罰』。
その『罪と罰』を読んだことのない四人が、無謀にも読まずに『罪と罰』について語りあうという座談会。

序文で吉田篤弘氏がこう書いている。
 こうしてわれわれは、本当に『罪と罰』を読まずに読書会をしたのだが、「読む」という言葉には、「文字を読む」という使い方の他に、「先を読む」という未知への推測の意味をこめた使い方がある。
 このふたつを組み合わせれば、「読まずに読む」という、一見、矛盾しているようなフレーズが可能になる。「本を読まずに、本の内容を推しはかる」という意味である。他愛ない「言葉遊び」と断じられるかもしれないが、言葉遊びの醍醐味は、遊びの中に思いがけない本質を垣間見るところにある。
この試みはすごくおもしろい。
ぼくも「読んだことはないけどなんとなく知っている」作品をいくつも知っている。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』といわれれば「あー強欲なユダヤ人の金貸しが血を出さずに肉をとれと言われるやつでしょ」といえるし、カミュの『異邦人』といわれれば「人を殺して太陽がまぶしかったからと答えるやつだよね」といえる。

ガンダムもエヴァンゲリオンもスターウォーズも観たことないけど、「黒い三連星が出てくるんだよね」とか「シンジ君がエヴァンゲリオンに乗せられて惨敗するんでしょ」とか「フォースの力を使って親子喧嘩をするんだって?」とか断片的な知識は持っている。

そういった「断片的に知っている」作品について、やはり知らない人同士で憶測をまじえながらああだこうだと話すのは楽しいだろうな、と思う。

だが。
企画自体はおもしろかったが内容は期待はずれだった。
まずメンツがイマイチ。
岸本佐知子氏、三浦しをん氏はよかった。両氏とも想像力ゆたかだし、どんどん思いきった推理をくりひろげてくれる。
篤弘 トータルで千ページ近い――。どうだろう? もしかして、第一部で早くも殺人が起きますかね。もし、しをんさんが、六部構成の長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?
三浦 いえ、殺りませんね。
岸本 どのくらいで殺る?
三浦 ドストエフスキーの霊を降ろして考えると――そうだなあ、これ、単純計算で一部あたり百六十ページくらいありますよね。捕まるまでにどれぐらいの時間が経つのかによるけれど、私だったら第二部の始めあたりで一人目を殺しますね。
岸本 それまでは何をさせとくの?
三浦 金策をしてみたり、人間関係をさりげなく説明したり。
岸本 そう簡単には殺さず、いろいろとね。
三浦 主人公をじらすわけですよ。大家がたびたび厭味なことを言ってきて、カッとなっては、「いやいやいや」と自分をなだめたり。
三浦しをん氏の「自分が書くとしたら」なんて、まさに作家ならではの視点で、なるほどと思わされた。

しかし吉田篤弘氏、吉田浩美氏は正直つまらなかった(この二人は夫婦らしい)。
わりとマトモなことを云う進行役みたいな立ち位置をとっているが、そのポジションに二人もいらない。
おまけに吉田浩美氏はNHKの番組で『罪と罰』を影絵劇で観たことがあるらしく、大まかなストーリーをはじめから知っている。はっきりいってこの企画には邪魔だ。他の三人の空想の飛躍を妨げている。おまけに「私は知ってますから」みたいな口調で語るストーリーがけっこうまちがってる。ほんとこいつは邪魔しかしてない。
おまえ何しにきたんだよ。ていうかおまえ誰なんだよ(経歴を見るかぎりデザイナーっぽい)。

読んでいて椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二の四氏がやってた『発作的座談会』を思いだしたのだが、発作的座談会のほうがずっとおもしろかった。
よくわかっていないことを適当にいう「酒場の会話」が自由気ままでよかったし、メンバーも行動派の作家、常識人の弁護士、世間知らずのイラストレーター、活字中毒の編集者とキャラが立っていた。あの四人で「〇〇を読まない」をやったらおもしろいだろうなあ。



あとちょっと冗長なんだよね。
『罪と罰』がボリューム重厚なわりにそれほどストーリー展開があるわけではないので、はじめは四人の謎解きを楽しんでいたが、だんだん飽きてきた。

分量を四分の一ぐらいにして、いろんなジャンルの本を四冊ぐらい扱ってほしかったな。「『東海道中膝栗毛』を読まない」とかさ。

ぼくも『罪と罰』を読んだことがないけど、この本を読んで、ますます読みたくなくなった。
ロシア人の長ったらしい名前も疲れるし。
あらすじで読むだけでも飽きるんだから、つくづく読むのがしんどい小説なんだろうなあ。



篤弘 もしかして、ソーニャって探偵役でもあるのかな。
三浦 「『リザヴェータおばさんを殺したのは誰なの!』。ソーニャは悲憤し、ついに安楽椅子から立ち上がった。」
篤弘 名探偵ソーニャ。
岸本 やがて憤りが愛に変わっていく。
浩美 捕まえたら、わりにイケメンだった。
三浦 「犯人はあの栗毛の青年に違いない。ああ、だけど彼って、なんてかっこいいのかしら。憎まなければいけない相手なのに、神よ、なんという残酷な試練をわたくしにお与えになるのですか!」
岸本 濃いめのキャラ(笑)。
三浦 「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。

こういう、妄想がどんどん飛躍していくノリはすごくおもしろかったんだけどなあ。だけどこのノリが続かないんだよな。
三浦しをん氏、岸本佐知子氏の二人は残して、メンバー変えてべつの本でやってほしいなあ。


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2018年12月13日木曜日

【読書感想文】見えるけど見ていなかったものに名前を与える/エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』


『翻訳できない世界のことば』

エラ・フランシス・サンダース(著)
前田 まゆみ(訳)

内容(e-honより)
FORELSKET フォレルスケット/ノルウェー語―語れないほど幸福な恋におちている。COMMUOVERE コンムオーベレ/イタリア語―涙ぐむような物語にふれたとき、感動して胸が熱くなる。JAYUS ジャユス/インドネシア語―逆に笑うしかないくらい、じつは笑えないひどいジョーク。IKUTSUARPOK イクトゥアルポク/イヌイット語―だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。…他の国のことばではそのニュアンスをうまく表現できない「翻訳できないことば」たち。

翻訳できない言葉、つまりある言語だけにしかないユニークな概念の言葉を集めた本。
日本語からも「こもれび」「積ん読」などが紹介されている。
「こもれび」なんて、なくても特にこまらない。日常会話でつかうことまずない。詩や歌詞ぐらいでしかつかわない。
でもこういう「なくてもいい言葉」をどれだけ持っているかが言語の豊かさを決める。なくてもいいからこそ、あるといいんだよね。

「積ん読」もすばらしい言葉だ。ダジャレ感も含めて。かゆいところに手が届く感じ。
積ん読も読書の一形態なんだよね。読まない読書。読んでないけど「いつか読もうとおもってそこに置いておく」ことが大事なんだよね。読書好きならわかるとおもうけど。
その感覚を「積ん読」という一語は見事に言いあらわしている。



『翻訳できない世界のことば』で紹介されている中でぼくのお気に入りは、トゥル語の「KARERU」。
これは「肌についた、締めつけるもののあと」という意味だそうだ。

言われてみれば、たしかに存在する。
パンツのゴムの痕やベルトの痕など。
だれもが見たことある。毎日のように見ている。
でもこれを総称して表現する言葉は日本語にはない。「肌についた、締めつけるもののあと」としか言いようがない。

この言葉を知るまえと知ったあとでは、目に見える世界が少し変わる。
これまではなんとも思わなかったパンツの痕が「KARERU」として意識されるようになる。ほんの数ミリだけ世界が広がる。

ドイツ語の「KABEL SALAT」もいい。
「めちゃめちゃにもつれたケーブル」という意味だそうだ(直訳すると「ケーブルのサラダ」)。
かなり最近の言葉だろう。ふだん意識しない。けれども確実に存在する。今ぼくの足元にも「KABEL SALAT」がある。イヤホンのケーブルもよく「KABEL SALAT」になっている。見えるけど見ていなかったものが、名前を与えられることではっきりと立ちあがってくる。


あとになって思いうかんだ、当意即妙な言葉の返し方」なんてのも「あるある」という現象だ。
だれもが経験しているはず。
「あのときああ返していればウケたはずなのに」と、後になってから気づく。言いたい。でももう完全にタイミングを逃しているから今さら言ってもウケない。あと二秒はやく思いついていれば。あのときあいつが話題をそらさらなければ。くやしい。



いちばん笑ったのはドイツ語の「DRACHENFUTTER」。


龍のえさ!
「こないだワイフが怒ってたからDRACHENFUTTERを与えたんだけど高くついたよ」みたいに使うんだろうな。
まるっきり反省していないのが伝わってきていいな。ぼくもつかおうっと。


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2018年12月10日月曜日

たからさがし


五歳の娘と、その友だちが公園で「なんかおもしろいことしてー」と言ってきたので、
「じゃあ宝さがししよっか」と云った。

よくわからないままに「するー!」と手を挙げる五歳児たち。
「じゃあちょっと待ってて」と鉄棒をさせて、その間にぼくは宝を隠す準備をする。

ノートの切れ端を使い、メモを書く。
「いちばんたかいてつぼうのしたをみろ」と。
で、鉄棒の下に「すべりだいのうえをみろ」と書いた紙をわかりやすく埋めておく。
すべりだいの上には「せがさをんだか  ヒント:はんたいからよむこと」を挟んでおく。
十回ぐらいあちこちいったりきたりさせてあげくに、最後には「おっちゃんのぼうしのなか」として、ぼくの帽子の中にどんぐりを入れておいた。

これを五歳児にやらせたところ、とても楽しんでいた。
ずいぶんやさしいヒントにしたつもりだが、それでもときどき迷いながらああでもないこうでもないと宝をさがしていた。

「たのしかったー!」「またやってー!」
とお褒めの言葉をいただき、その後、何度も宝さがしをした。



これはぼくが子どものときに好きだった遊びだ。
『きょうはなんのひ?』という絵本で知って、真似をして何度もやった。


『きょうはなんのひ?』は、女の子が家中に散りばめた謎を、おかあさんが解いてゆくという話だ。
絵本にはめずらしく子どもよりおかあさんの登場シーンが多いが、それでもこの絵本の主人公はあまり姿を見せない"まみこ"だ。姿は現さなくても、いたずら好きで頭のいいチャーミングな女の子を感じることができる。
この本を読んだ子は、ぜったいに"まみこ"のように宝さがし(の仕掛人)がやりたくなる。

少し前に脱出ゲームなるものが流行っていたが、それを思いついた人もきっとこの絵本を読んだことのある人なんじゃないかな。



何度か宝さがしゲームをやっているうちに、娘たちも仕掛人をやりたくなった。
「今度は子どもたちがつくるからおっちゃんがやって!」

そう。
この遊びは、仕掛ける側のほうが楽しいのだ。

しかし五歳児たちがつくった宝さがしはめちゃくちゃだった。

「いしのした」とか(どの石やねん!)
「すなのなか」とか(どこやねん!)
「したをみろ(うそ)」とか(じゃあどこ見たらええねん!)。
とても解けない。

そもそも五歳児の書いた文字が読めないし。

2018年12月7日金曜日

カンタのおばあちゃん


何度も観た『となりのトトロ』だけど、ひさしぶりに観てみたら新たな発見だらけだった。

ぼくは現在、ふたりの娘の父。
かつてはサツキやメイの立場で観ていた『となりのトトロ』も、今ではおとうさんの視点で観てしまう(たぶんサツキとメイのおとうさんはぼくより若い)。

いちいち感動して泣いてしまう。
それも、なんでもないシーンで。

たとえば病院におかあさんのお見舞いに行った帰りに
サツキが「メイは大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの!?」と言い、
メイが「おかあさんはいいの」と返すシーン。

ああ。
メイもがんばってるんだよなあ。おかあさんが入院した当初は、毎晩寝る前に泣いていたんだろうなあ。サツキは自分も寂しいのに「メイのそばにいてあげる」という役割を自らに課すことで寂しさをまぎらわせていたんだろうなあ。
そんな日々を乗りこえて「大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの?」という冗談を言いあえるようになったんだねえ。ふたりともよくがんばったねえ。

おとうさんが大学に行く日だからおばあちゃんにメイを預けたのに、メイが寂しくなって小学校に来ちゃうシーン。
我慢しなくちゃいけない、いい子にしていなくちゃいけないと思いながらも、やはり耐えきれなくておねえちゃんに会いにいってしまう。だけどわがままを言ってはいけないとも思っているから、おねえちゃんを前にすると何も言えない。
しょうがないよ、まだ四歳だもん。メイちゃんはよくがんばったよ。

病院に行ってサツキがおかあさんに髪を結ってもらうときの表情。
サツキはおかあさんと話しながらはにかんでいる。メイに対するときの「姉の顔」とはまったくちがう。おとうさんにも見せない顔。おかあさんだけに見せる、こどもの顔。

おかあさんの退院が延びたと聞かされたときのサツキとメイの喧嘩。
ずっと我慢して退院の日を心待ちにしていたのにそれが先になると聞かされたメイの悲しみ。
おかあさんの病気が重いのではという不安に押しつぶされそうになりながらも、懸命に「しっかり者の姉」という役割を果たそうとする、けれど折れてしまいそうになるサツキの心細さ。
ついでに、好きな子が困っているからなんとかしてあげたいけど自分の立場では何もできないカンタのもどかしさ。

子どもの頃に読んだときには気づかなかった心の動きに胸がしめつけられる。



しかし、ぼくがいちばん感情移入をしてしまったのはカンタのおばあちゃんだった。

メイが行方不明になったときのおばあちゃんの心境を思って、ぼくも心がつぶされそうになった。

「ばあちゃんの畑のもんを食べりゃ、すぐ元気になっちゃうよ」
と言ってしまったせいで、メイがトウモロコシを持って病院に行ってしまった。

「メイちゃんはここにいな」
と言ったにもかかわらずメイは駆けだしてしまった。

そして今、メイがいなくなった。
池からは女の子のサンダルが見つかった……。

幼い子どもを持つ親として、おばあちゃんの心境が痛いほどよくわかる。
子どものときはなんとも思わなかったが、四歳の子が行方不明になるというのはとんでもないことだ。まっさきに命の心配をする。

あのとき「すぐ元気になっちゃうよ」なんて言わなければよかった。励ますために言ったつもりだったが、おかあさんの退院を心待ちにしている四歳の子に言うには無責任すぎる言葉だった。
あのとき、むりやりにでもメイの手をつかんで止めていれば……。
もしものことがあったら一生悔やんでも悔やみきれない。

ばあちゃんは自分のことをずっと責めていただろう。
自分のせいで小さい子が死ぬなんて、自分が死ぬことよりもおそろしい。
サツキの到着を持っているときのばあちゃんの「ナンマンダブナンマンダブ」には魂の祈りが込められている。

だからばあちゃんはサツキの「メイんじゃない」にどれだけ救われただろう。
池の中をさがしていた男の人(おそらくばあちゃんの息子)からは「なんだぁ。ばあちゃんの早とちりか」と"人騒がせなばあさん"扱いされたが、その言葉にどれだけ安堵しただろう。自分が人騒がせなばあさんになっただけで良かったと心から思っただろう。

最終的にメイと再会したおばあちゃんはめちゃくちゃ泣いただろうなあ。メイが生きていたことに心から感謝しただろうなあ。
そして、メイはもちろん、サツキも、おかあさんもおとうさんも、おばあちゃんがどれだけ祈っていたかを知らないんだろうなあ。

でもぼくはわかっているからね、おばあちゃん。ぐすっ。

2018年12月6日木曜日

【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』


ピクサー

~早すぎた天才たちの大逆転劇~

デイヴィッド・A・プライス (著) 櫻井 祐子(訳)

内容(e-honより)
『トイ・ストーリー』から現在まで、大ヒット作を連発し続けているピクサー・アニメーション・スタジオ。だがその成功までには長い苦難の時代があった。CGに対する無理解、財政危機、ディズニーとの軋轢…。アップルを追放されたジョブズとディズニーを解雇されたラセター、ルーカスフィルムに見限られたキャットムルら天才たちは、いかに力を結集し夢を実現させたのか?

『トイ・ストーリー』をはじめて観たときの衝撃は今でも鮮明におぼえている。

高校一年生の林間学校の帰りのバスだった。バスガイドさんが、社内のテレビで『トイ・ストーリー』を流しはじめた。

なんだよ、ディズニーかよ。おれたち高校生だぜ。ディズニー見て胸をときめかせるような歳じゃねえんだよ。しかもおもちゃの話? ガキっぽいな。

そんな感じで斜に構えながらぼんやりと『トイ・ストーリー』を観ていた。
あっという間に心をつかまれた。
おもちゃが動くというアイディア。その動きのなめらかさ。動きだけでなく、嫉妬やプライドや絶望や憐憫や諦観や友情といった感情が活き活きと描かれている。
少年の日におもちゃに対して持っていた気持ちを思いだした。
食いいるようにバスの小さなテレビ画面を観ていた。ふと周りを見わたすと、クラスメイトは誰ひとり寝ていなかった。みんな真剣に『トイ・ストーリー』に魅いっていた。林間学校の帰りで疲れていたにもかかわらず。

すごい映画だ。今までにないぐらい感動した。
その映画をつくったのはピクサー・アニメーション・スタジオという制作スタジオだと知ったのは、ずっと後のことだ。

以来、ピクサー作品だけはほぼ欠かさず観ている。あまり映画は観ないんだけど。
『モンスターズ・インク』『カールじいさんの空飛ぶ家』『ウォーリー』『Mr.インクレディブル』……。
現時点でピクサーの長編アニメーションは20作あるが、まだ観ていないのは『カーズ/クロスロード』だけだ(カーズシリーズだけは好きじゃない)。
延期に延期を重ねている『トイ・ストーリー4』もずっと楽しみにしている。

ピクサーのすごいところは、打率がめちゃくちゃ高いところだ。『カーズ』シリーズ以外はみんなおもしろい。
しかもすごい完成度を誇る『トイ・ストーリー』よりも『トイ・ストーリー2』のほうがおもしろい。『トイ・ストーリー2』よりも『トイ・ストーリー3』のほうがもっとおもしろい。続編がつくられている映画はたくさんあるが、回を重ねるごとにおもしろくなっていく作品は他にほとんどない。



そんな、世界が誇る3Dアニメーションスタジオ・ピクサーの歴史を書いた本。ピクサーファンとしてはすごくおもしろかった。
ディズニーやスティーブ・ジョブズはもちろん、ジョージ・ルーカス、ティム・バートンといった大御所の名前も随所に出てくるのでアメリカ映画好きなら楽しめるんじゃないかな。

ピクサースタジオの物語は、それ自体が映画にできそうなぐらい波乱万丈だ。

ピクサーはコンピュータソフトウェアの会社だったが、アップルを追いだされたスティーブ・ジョブズに買収される。
1989年に一般人向けに3Dレンダリングをできるソフトを売りだして大コケしたエピソードが紹介されているが、早すぎるとしか言いようがない。2018年でも一般の人が3D画像処理をしてないのに。
買収された後もピクサーはずっと赤字続きだった。だがスティーブ・ジョブズは手を引かない。おそらく成功を信じていたわけではないだろう。意地になっていただけだ。
「アップルでのジョブズの成功はたまたまだった」という世間の評価を覆すため、それだけのためジョブズはピクサーを支えつづける(かなり口も出していたようだが)。

ディズニーを辞めたジョン・ラセターが加わり、ピクサーは「アップルを見返す」「ディズニーを見返す」「世間を見返す」という目標のために世界初の全編3Dによる長編映画製作にとりかかる。
もちろんそれだけで動いていたわけではないだろうが、個人的怨恨がかなりの原動力になっていたことはまちがいなさそうだ。

ディズニーに宣伝してもらったこともあって『トイ・ストーリー』が大ヒット、さらに『バグズ・ライフ』『モンスターズ・インク』『ファインディング・ニモ』と次々にヒットを飛ばすピクサー。
その勢いに反比例するかのようにディズニーは低迷期を迎え、気づけばディズニーとピクサーの立場は逆転していた……。

と、つくづくドラマチックな展開。プロジェクトXのような大逆転劇だ。逆襲劇といったほうがいいかもしれない。



スティーブ・ジョブズといえばアップルの人というイメージを持つ人が大半だろうが、ジョブズ抜きにはピクサーは語れない。
立場としてはパトロンみたいなもので制作に携わっていたわけではないが、ジョブズという濃厚なキャラクターがピクサーに与えた影響は大きいだろう。
この本の主役はジョブズではないが、やはりいちばんインパクトを与えるのはジョブズだ。

ジョブズがアップルにいたときのエピソード。
 一年後、状況は逆転していた。ケイはまだアップルで働いていたが、ジョブズはもういなかった。アップルにはジョブズのビジョンと完璧主義を崇拝する社員は多かったが、彼には鼻持ちならない面があって、上から下まで多くの社員を敵に回した。マッキントッシュ・プロジェクトの考案者ジェフ・ラスキンは、ジョブズと一緒に働けない十の理由を列挙した絶縁状を叩きつけ、のちに会社をやめた(その一「認めるべき功績を認めない」、その四「人格攻撃が多い」、その一〇「無責任で思いやりに欠けることが多い」)。ジョブズは愛車のメルセデスをマッキントッシュ・チームの建物の目の前にある、身体障害者専用スペースに停めるのを常としていた。その理由は、建物のうしろや横の目の届かない一般向けスペースに停めると、誰かに腹いせにキズをつけられるからだと囁かれていた。
たったこれだけの文章で、ジョブズがどんな人物だったかがなんとなくわかる。
他の社員に何をしたのかはこの本には書かれていないが、相当なことをしないかぎりはここまで嫌われないだろう。

とはいえジョブズの話を聞いていると誰もが引きこまれてしまうカリスマ性についても書かれていて、良くも悪くも強烈な個性の持ち主だったようだ。

「なぜ日本にジョブズは生まれないのか」なんてことを言う人がいるが、こんなクレイジーな人物、どこの国でも居場所がないだろう。
彼がアップル、ピクサー、そしてアップルで成功をしたのはたまたま時代と場所にめぐまれた奇跡のような出来事だったのだと思う。

しかしその奇跡のおかげでぼくらはピクサーの上質な映画を楽しむことができるのだから、ジョブズ被害者の会の人たちには申し訳ないが、ジョブズに感謝したい。



ピクサー映画の特徴として、「何度観ても楽しめる」ということがある。
『トイ・ストーリー』なんて何度観たかわからない。それでも、観るたびに新しい発見がある。こんなとこでこんな動きをしていたのか、この台詞が後から効いてくるんだな、ここの映像はすごいな、と。

それは映像、音楽、台詞、ストーリーすべての細部に至るまで丁寧につくりこまれているからだ。
「だが全般的にいって、リアリズムへのこだわりは狂信的なほどだった。マーリンとドリーがクジラに飲み込まれるシーンの下調べとして、美術部門の二人がマリン郡の北部海岸で座礁して死んだコククジラの体内によじ登って入った。魚の筋肉や心臓、えら、浮き袋などの生体構造を知るために、死んだ魚を解剖したクルーもいた。サマーズは世界的権威を何人も連れてきた。スタンフォード大学のマーク・デニーが波に関する講義を行ない、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のテリー・ウィリアズがクジラについて、バークレーのマット・マクヘンリーがクラゲの推進力について、バークレーのミミ・ケールが藻や海草の動きについてくわしく説明した。海中には半透明な、つまり完全に透明でも完全に不透明でもない物体が多いことから、デューク大学のゾンケ・ジョンセンを呼んで水中の半透明感について話をしてもらった。モス・ランディング海洋研究所のマイク・グレアムから、ケルプ(藻の一種)は珊瑚礁には生えないという指摘を受けると、スタントンは珊瑚礁のシークエンスのデザインからケルプをすべて取り除くよう指示した。
これは『ファインディング・ニモ』を製作時の逸話だ。
はっきりいって、観客の99%は気にしない。クジラの体内が本物とちがっていようが海藻の動きが不自然だろうが、珊瑚礁に藻が生えていようが、ほとんどは気づきもしない。
だがこういうところで徹底的にリアリティにこだわることで、「大胆な嘘」が説得力を持つようになるのだろう。

読んでいるうちに、またピクサー作品を観かえしたくなってきた。
この本を読んだ後だとまた新たな発見があるんだろうな。


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