2018年9月23日日曜日

横で人が怒られてるときの居心地の悪さ


歯医者がすごく感じの悪い人だった。

患者であるぼくに対してはにこやかに接するんだけど、歯科助手に対する当たりがとにかくきつい。

「〇〇出しとけって言っただろうが」
「はぁ? なんで□□だと思うんだよ。チッ」
みたいな感じ。
歯科助手に対してずっとイライラしている。
歯科助手がふたりいてどっちにも当たりがきついから、歯科助手がとりたてて愚鈍というわけではなく、歯科医師側に問題があるのだと思う。


歯科助手へのあたりはきついのに患者であるぼくには「大丈夫ですか~。痛くないですか~」みたいな柔和なしゃべりかたをしてくる。うわこわいこわい。余計にこわい。

全方位的に不愛想なのもイヤだけど、まだマシだ。
自分だけ優しくされたら
「患者に無理して優しくした分のストレスのはけ口が歯科助手に向かってるのだろうか」
と、こっちまで罪悪感をおぼえる。
すまない歯科助手よ、ぼくが来てしまったせいで。だってかんたんに予約とれたんだもん。そりゃ患者寄りつかんわ。



横で人が怒られてるときの居心地の悪さについて。

『孤独のグルメ』という漫画に
「主人公が入った飲食店で、店主が年寄りの従業員を激しくののしっているのを見てげんなりする」
というエピソードがあった。
あの気持ち、よくわかる。

自分が怒られるのも嫌だが、自分と無関係の人が無関係のことで怒られているのはもっと嫌だ。
ぼくは子どもの頃から親や教師に怒られつづける人生を送ってきたので自分が怒られても蛙の面に小便だが(一応反省しているフリだけはする)、それでも他人が説教されているのはつらい。

ヤンキー風の親が自分の子に「うるせえから泣くなっつってんだろ、ボケ!」なんて言ってるのを聞いたときは、自分が怒られたとき以上に胸がいっぱいになる。



わざわざ部外者の前で叱りたおす人は、どういう気持ちでやっているのだろうか。
仮説を立ててみた。

1.相手のプライドをへし折るため

こっそり注意されるよりも人前で口汚く罵られたほうが当然ダメージは大きい。
だから相手を育成するためにプライドをへし折ってやろうと思い、わざと衆人環視のもとで罵倒しようと考えているのかもしれない。
修復できないぐらい信頼関係が傷つくから、育成には逆効果だろうけど。

2.周囲へのアピール

信じがたいことだが、
店だったら「うちはちゃんと従業員教育に力を入れているんですよ」
親だったら「わたしはちゃんと公共の場で子どもを厳しくしつける親ですよ」
というアピールのため、つまりはサービス精神の発露なのかもしれない。
当然ながら逆効果にしかならないわけだが(サービス業なら「感じの悪い店」、親なら「児童相談所案件予備軍」と思われるだけ)本人は「うちはちゃんとやってますよ!」というアピールのつもりなのかもしれない。

3.何も考えてない

これがいちばんありそうだね。
二歳児のように感情をうまくコントロールできないだけ。


2018年9月22日土曜日

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか


五歳の娘は「死ぬ」のことを「死む」と言う。
知人の子ども(六歳)も、やはり「死む」と言っていた。

おや、同じ間違いだ。
と思って調べてみたら、これは幼児によくある間違いらしい。

間違いやすい原因のひとつは、
「死ぬ」が変則的な活用をすることだ。

「死ぬ」はナ行五段活用をする動詞だ。
ナ行五段活用をする動詞は「死ぬ」と「往ぬ」しかない。「往ぬ」は絶滅寸前なので(関西のおじいちゃんとかは使ったりするけど)、「死ぬ」はほぼ唯一無二のナ行五段活用動詞なのだ。

一方、マ行五段活用の動詞は多い。
「噛む」「飲む」「頼む」「せがむ」「しゃがむ」など。
また、「染む」「惜しむ」「軋(きし)む」「楽しむ」「怪しむ」「訝(いぶか)しむ」など、「-しむ」を含む動詞も多い。

そこで圧倒的多数であるマ行五段活用チームに釣られて、「死んだ」の終止形を「死む」だと思ってしまうわけだ。
「"噛んだ"は"噛む"、"飲んだ"は"飲む"、じゃあ"死んだ"は"死む"だろう」と推測するんだね。



また、多くの親は幼児に対して「死ぬ」にまつわる話題を積極的には口にしない。

幼児に対して
「さあ死のう」(未然形)とか
「死ぬときは一緒だよ」(連体形)とか
「死ねばいいのに」(仮定形)とか
「死ね」(命令形)とか
の活用形は、(ふつうの家庭)ではあまり使わない。

「そんなの食べたら死んじゃうよ」とか「この虫死んでるね」のような使い方が多い。
「死んじゃう」「死んで」は連用形で撥音便化している(「死にて」→「死んで」になる)ため、元の形が分かりにくい。

このことも「死む」を発生させる要因になっているのかもしれない。



ちなみにうちの娘は、「居る(いる)」の否定形を「いらない」という。
これもよく考えたら納得のいく間違いだ。

同じ「いる」という音でも「要る」は五段活用、「居る」は上一段活用なのでごっちゃになってしまうのだろう。
(ちなみに「入る」「煎る」は五段活用、「射る」「鋳る」は上一段活用だ。ぼくらは無意識に使い分けてるけど、改めて考えるとすごくややこしい)

だからこないだ電話で祖母から「おとうさんはいますか?」と訊かれた娘が「いりません!」と答えてしまったのだ。
決しておとうさんが嫌われているからではないのだ。


2018年9月21日金曜日

娘語


五歳の娘語。

「えんとつ」は屋根のこと

「はっぱ」は野菜のこと、または植物全般のこと

「ちいさいおふとん」は枕のこと

カラスやウグイスも「はと」

りんごの芯も魚のしっぽも「かわ」

口にあわないものはすべて「からい」

飲食店のメニューは「りょうりのかみ」

力士が履くまわしは「パンツ」
まわしについてるヒモ(さがり)は「パンツのりぼん」

最上級の悪口は「ばばあ」(相手が父親であっても)

言わんとすることはわかる。

2018年9月20日木曜日

片付けの非合理性


一番きらいなのが「片付け」。家事の中で。

畳んだ服をたんすに入れる、使ったボールペンをペン立てに刺す、乾いた食器を食器棚にしまう。
イヤだ。すごく苦手だ。できることなら一生やりたくない。ごみ屋敷の住人の気持ちがよくわかる。

何がイヤって「また使うのに」片付けないといけないのがイヤだ。
服をたんすに入れたって数日したら出してきて着る。食器棚にしまった皿もすぐまた出してきて使う。
だったら出したままにしとけばいいじゃない。

めったに使わないものなら苦にならない。
喪服を着終わったらちゃんと衣装ケースに入れて吊るしておく。客用ティーカップも使ったら食器棚にしまう。めったに使わないから。

でも一日か二日したらまた使うものは片付けたくない。なんて非合理的なんだろう。

じっさい、ひとり暮らしのときは片付けなかった。
包丁もどんぶりもコップもタオルも出しっぱなしだった。洗いはするが、すぐ使えるところに置いておく。だってまたすぐ使うもの。

でも家族と暮らしているとそうもいかない。つづきを読む本や今晩使うコップや気が向いたときに回したいハンドスピナーであっても、片付けることを求められる。
合理的に生きたいというぼくの崇高な願いは、きれいな部屋で暮らしたいという妻の俗世間的な願いの前に一掃されてしまう。

いいじゃない、片付けなくたって。どうせまた使うんだし。どうせいつか朽ちるんだし。どうせみんな死ぬんだし。

2018年9月19日水曜日

【読書感想文】ここに描かれていることが現実になる/青木 俊『潔白』


『潔白』

青木 俊

内容(e-honより)
札幌地検に激震が走った。30年前に小樽で発生した母娘惨殺事件に前代未聞の再審請求が起こされたのである。すでに執行済みの死刑が、もし誤判だったら、国家は無実の人間を殺めたことになってしまう。「何としても握り潰せ!」担当に指名されたのは、曰く付きの検事。司法の威信を賭けた攻防の行方は…。

再審請求がされたのは死刑判決が出た事件、しかもよりによって刑は執行済み。はたして新たな証拠とは、そして裁判所は誤りを認めるのか……。
というショッキングなストーリーの小説。ショッキングだが決して荒唐無稽な物語ではない。

現実に検察や裁判制度は完璧なものではない。にもかかわらず死刑という「とりかえしのつかない」制度を導入している時点で、近い将来こういうことは起こる。
もしかしたらもう起こっているのかもしれない。これまでに死刑執行された中には、冤罪を主張していた人もいた。後から見れば不確かな証拠で有罪にされた人もいた。
彼らが無罪だった可能性は否定できない。

たいていの人は、「死刑判決なんてよほど確かな証拠がないかぎりは下されない」と思っている。ぼくもそう思っていた。極悪非道で反省しないやつは死刑にするしかないよね、と。
でも清水潔氏の『殺人犯はそこにいる』や瀬木比呂志氏・清水潔氏の『裁判所の正体』を読んで、明確な証拠がなくても起訴されることもあるし、怪しい証拠と強要された自白だけで死刑判決が下されることもありうるのだと知った。自分が冤罪に巻きこまれる可能性もないとはいえないのだと。

無実の罪を着せられて死刑にされるかもしれない、真実を述べているのに誰にも信用してもらえない、その恐怖と絶望を『潔白』は描いている。
今の制度のままだと、近い将来ここに描かれていることが現実に起こるだろう。そのとき死刑を言い渡されるのは無実のあなたかもしれない。

そして無実の人を死刑にしたと判明したとき、検察や裁判所が過ちを認めるかというと……。残念ながら意地でも認めようとしないだろう。
「99%こいつが犯人だから死刑!」という判決を下した裁判所は、「99%その判決は誤りだった」ということが明らかになったとしても頑として過去の誤審を認めようとしないにちがいない。
真実よりも人の命よりも組織を守ることを優先するだろう。




司法制度の穴を指摘したという点ではたいへん意義のある小説だが、残念ながら小説としてはあまりうまくない。
文章はヘンだし(「~です」と「~だ」が混在するのは校正が指摘しなかったのか?)、ストーリーは都合が良すぎる。みんな初対面の人間にデリケートな話をべらべらしゃべりすぎだ。真犯人が明らかになるあたりは安いドラマを観ているようだった。せっかくリアリティを持たせて作りあげてきた物語があれでいっぺんに嘘っぽくなってしまった。
中盤で判決の行方が二転三転するあたりは非常におもしろかったけどね。

残念ながら、参考文献として挙げている『殺人犯はそこにいる』のほうが、ノンフィクションとしても、物語としてもずっと上だった。まああの本に勝てる小説はめったにないだろうけど。

題材がすごくよかったんだから、変にどんでん返しを入れてミステリとしての味付けをしなくても十分読みごたえのある話になったと思うんだけどなあ。


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