2017年12月8日金曜日

不良中学生のチキンレースが生んだ殺人/大崎 善生『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』


『いつかの夏
名古屋闇サイト殺人事件』

大崎 善生

内容(e-honより)
2007年8月24日、深夜。名古屋の高級住宅街の一角に、一台の車が停まった。車内にいた3人の男は、帰宅中の磯谷利恵に道を聞く素振りで近づき、拉致、監禁、そして殺害。非道を働いた男たちは三日前、携帯電話の闇サイト「闇の職業安定所」を介して顔を合わせたばかりだった。車内で脅され、体を震わせながらも悪に対して毅然とした態度を示した利恵。彼女は命を賭して何を守ろうとし、何を遺したのか。「2960」の意味とは。利恵の生涯に寄り添いながら事件に迫る、慟哭のノンフィクション。

2007年に起きた強盗殺人事件。インターネットで知り合った初対面に近い男たちが共謀し、やはり面識のない女性を拉致して殺害した。いわゆる「闇サイト殺人事件(→Wikipedia)」。
かつては、今のように誰もがスマートフォンを手にしておらず、テレビの報道なんかでは「インターネットはネクラなやつがやる陰湿なもの」という扱いを受けていた時代。そうしたイメージを裏付けるような事件だったので、「インターネットの闇」というような言葉とともにセンセーショナルに報道されていた。

そんな事件について、被害者の生い立ち、犯行の一部始終、そして事件後の裁判まで克明に記録したノンフィクション……かと思ったら。

うーん、これはノンフィクションじゃなくて小説だなあ。それも趣味の悪い。

 左腕にできた激しい傷は語っている。
 私は生きたいのだ。
 それが富美子には聞こえる。体に残した傷痕で利恵は自分への最後のメッセージを伝えようとしている。言葉はもう届かない。手紙も電話もメールもできない。でもこうして、自分の体に傷を残すことで母に伝えることができるかもしれないと利恵は考えたのではないだろうか。母ならばきっとその意味を汲み取ってくれる。
 富美子は静かに利恵の手首を指でなぞった。
 そこには利恵の生きることへの強い意志が残されていた。

こういう描写がちりばめられていて、すごく気持ち悪い。

「無計画で残忍無比な犯人」と「最期まで毅然として立派だった被害者」の対比として書いているのはまあいいとして、作者の「こうあってほしい」という理想を含んだ描写が強すぎて嫌悪感が生じる。人が残酷に殺された事件を美談にするなよ。

たとえばこんな文章。
(「瀧」は被害者の恋人の男性、「利恵」は被害者)
 瀧にとっては忘れられない光景。
 目に染みるような浴衣姿の利恵。
 手にはビールとイカ焼き。
 ベンチに並んで座り、自分の方へ向けて団扇をあおいでくれる利恵。
 いつまでも失いたくない。
 そう思うと胸が苦しくなる。
 これが愛しさなんだ。
 そんなことを教えられた真夏の一日。
おえー。なんだこのポエム。
いやポエムを書くのは好きにしたらいいんだけど。
勝手に実在の人物の心情を代弁すること、そして殺人事件を使って美しい物語にしあげることが気持ち悪い。

ノンフィクションって、作者が感情をあらわにしたらだめだと思うんだよね。事件が凄惨で衝撃的であるほど、冷静な筆致で書いてほしい。新聞記事のような客観的な文章のほうが、読む人の想像力がはたらく。

どうしてもポエティックな美談を書きたいなら、ノンフィクションの体裁をとらずに事件を題材にした小説を書けばいい。
桐野夏生の『グロテスク』(東電OL殺人事件が題材)や、やはり桐野夏生『東京島』(アナタハンの女王事件が題材)のように。


同じ作者の『聖の青春』『将棋の子』『赦す人』では、そんな気持ち悪さを感じなかったんだけどな。
ぼくは書かれたものに対してあまり倫理観を求めないほうだと思うけど(ピカレスクものなんかも好きだ)、それでも殺人事件を踏み台にして美しい物語を書くことには生理的な不快感をおぼえる。



とはいえ、犯人たちが殺人に至るまでの描写や、公判の様子なんかは丁寧な取材に基づいていて、かつ冷静に書かれていて良質なルポルタージュだった。

ずっとこんな調子だったらいいノンフィクションだったんだけどな。

 神田がこれまで主にやってきたことはほとんどが詐欺である。神田にとっては強盗などという短絡的なことではなく、詐欺組織のようなものを立ち上げてゆっくりと稼いでいこうという考えがあった。しかし目の前にいる男たちは金に困っていた。堀も今週中に何とか三十万円欲しいという。川岸も西條も同様に切羽詰まっている。「殺すのか」という神田の問いに、同意する二人。
 川岸は後に虚勢の張り合いだったと言っているが、しかし見知らぬ三人が見栄を張り合っているうちに強盗殺人も辞さない方向へといつの間にか話は転げ落ちていく。

犯人の三人が集まったときは、おそらく誰も人を殺そうとは思っていなかった。詐欺や強盗で金さえ手に入れられればいい、と思っていた。どうやって金を手に入れようかといきあたりばったりに行動していることや、犯人のひとりが犯行直後に自首していることからも、「闇サイト殺人事件」という言葉から連想されるような殺人願望はなかったんだろう。
でも、三人が(当初は四人)顔を突きあわせ「おれのほうがワルだぜ」という意地の張り合いをしているうちに、誰も「殺人はやめとこう」と言いだせないまま突き進んでしまった。
いってみれば、不良中学生のチキンレース。「びびってんじゃねーよ」と言われるのが怖くて降りるに降りられなくなってしまっただけ。

そんなばかばかしいチキンレースでも、とうとうほんとに人を殺すところまで突き進んでしまうのだから集団心理は恐ろしい。
「悪友と一緒にいたせいで、ひとりではぜったいにしないような悪さをしてしまった」という経験はぼくにもあるから、犯人たちの心理状態もわからないでもない。
もちろん人を殺すまで至る気持ちまでは理解できないけど。

この犯人たちだって、インターネット上で犯行計画を練っているだけなら冷静に「殺人はやめとこう」ってなって振り込め詐欺ぐらいで済んでいたかもしれないと思う(それもあかんけどさ)。じっさいに顔をあわせてしまったことでマウントのとりあいがはじまり、殺人事件にまでエスカレートしてしまったんじゃなかろうか。

だからこの事件を「闇サイト殺人事件」という名前で呼ぶのはふさわしくない。
ほんとに恐ろしいのは生身のコミュニケーションなのだから。


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2017年12月5日火曜日

氷漬けになったまま終わる物語



四歳の娘とともに、今さらながら『アナと雪の女王』を観た。
あれだけ話題になっていた作品だがぼくが観るのははじめて、公開当時ゼロ歳だった娘ももちろん初鑑賞だ。

噂にたがわぬ良い作品だった。テンポの良い展開、映像の美しさ、わかりやすくもほどよく意外性のあるストーリー、心地いい音楽、上品なユーモアといかにもディズニー映画らしい魅力にあふれていた。


で、「この人は誰?」「今エルサはどうなってるの?」としきりに訊いてくる娘に対して「クリストフっていう氷を売っている人だよ」とか「今はひとりで氷のお城にいるよ」とか説明しながら観ていたのだが、終盤のアナとエルサがピンチに陥るシーン、ふと見ると娘の様子がおかしい。
「アナは凍っちゃったん?」と尋ねるその声は、完全に涙声。顔をのぞきこむと、泣いてこそいないものの目を真っ赤にして涙をいっぱいに浮かべている。


なんとひたむきな鑑賞姿勢だろう、とその姿に感動してしまった。

『アナと雪の女王』を観るのはぼくもはじめてだけど、こっちは「まあディズニー映画だからいろいろあってもみんな助かって誤解も解けて悪いやつは罰を受けて、最後はみんなで楽しく踊るんでしょ」という心持ちで観ている。エルサが捕まって牢屋に入れられるシーンも、アナが凍ってしまうシーンも「このままのはずはない」と思っている。これまでに観て、聴いて、読んだ数多くの物語の経験から知っている。

だが四歳児は己の中に蓄積した物語の量が圧倒的に少ないから、「この先どうなるか」という選択肢を限定せずに観ている。登場人物が「このままじゃ死んじゃう!」と言えば、物語慣れしている大人は「ということは助かる道があるのね。そして助かるのね」と読みとるが、四歳児は素直に「死んじゃうんだ」と思う。


もちろん最後はハッピーエンドになるが(ネタバレになるが、エルサが暗い牢屋に閉じ込められてアナが氷漬けになったまま終わらない)、最後まで観終わった娘はしばらく茫然自失だった。
もし自分が殺されそうになって間一髪で助け出されたら、こんな状態になるのではないだろうか。
四歳児がストーリーをどこまで理解できたかはわからない。だが、彼女は完全に物語の登場人物たちと同じ体験をして同じ気持ちを味わっていたのだ。

ドラえもんの道具に『絵本入りこみぐつ』という、絵本に入って登場人物と同じ体験ができる道具があるが、幼児はそんな道具を使わなくても同じことができている。
なんともうらやましい話だ。


2017年12月4日月曜日

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』


『13階段』

高野 和明

内容(e-honより)
犯行時刻の記憶を失った死刑囚。その冤罪を晴らすべく、刑務官・南郷は、前科を背負った青年・三上と共に調査を始める。だが手掛かりは、死刑囚の脳裏に甦った「階段」の記憶のみ。処刑までに残された時間はわずかしかない。二人は、無実の男の命を救うことができるのか。江戸川乱歩賞史上に燦然と輝く傑作長編。
過失致死で服役後に仮出所した青年がとある死刑囚の疑いを晴らすために刑務官と証拠探しをする、というストーリー。

導入はちょっと不自然。そんなにうまく事が運ぶかね、よく知らない人が持ってきた話にほいほい乗りすぎじゃない?
作者としては早く「冤罪を晴らすための証拠探し」に持っていきたかったんだろうけど、そこはもうちょっと丁寧に話を進めてほしかったな。
死刑囚が「おれは冤罪だ!」と主張しているならともかく、彼は犯行時の記憶がなく、さらに被害者の遺品を持っていたわけで、そんな「誰がどう見ても犯人」な見ず知らずの人の言い分をかんたんに信じられる?

ということで導入はいまいち入りこめなかったが、大量に散りばめられた伏線が最後に次々に回収されていくところではページをめくる手が止まらなくなった。
真相は偶然が過ぎるけど、それにしても見事な筋書き。これを個人で考えてるってのがすごいよね。大作映画ぐらいの複雑に入り組んだプロットだ。

これがデビュー作かー。死刑制度に関する重厚な知識といい複雑かつ丁寧な物語の組み立て方といい、途方もないスケールだ。
江戸川乱歩賞ってすごいね。新人賞でこのレベルが求められるのか。


高野和明の小説を読むのは『ジェノサイド』に続いて二作目。『ジェノサイド』もそうだけど、すごく上手にほらを吹く人だね。
よくよく考えたら到底ありえない話なんだけど、圧倒的な情報、綿密に設定されたディティール、映像的な迫力ある描写で嘘を嘘と思わせない。「そんなにうまくいかないでしょ」という批判を力でねじ伏せるというか。
小説家としてすごい力を持ってる人だと思う。



死刑と冤罪というテーマって意外とミステリでは多くないよね。
ミステリの世界では連続殺人事件もめずらしくないから、その犯人たちの多くは死刑になっているはずなんだけど、ミステリの多くは謎の解明と犯人逮捕(または逃亡)がゴールになっているから、裁判→死刑確定→死刑実行が描かれることはほとんどない。

「ああ犯人が捕まってよかった」と思っているところに「でもこの犯人は後に処刑されます。刑務官がボタンを押して絞首刑にされます」って書いちゃうとすっきりしないもんね。

ミステリでも現実でもぼくらはなるべく死刑について考えないようにしているんだなということを改めて気づかされたね。


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2017年12月3日日曜日

葬式に遅刻してスニーカーで行った男


祖母の葬式に遅刻した。
大学生のときだ。

ぼくは関西在住、祖母は福井県の田舎に住んでいることもあり、顔を合わすのは子どものときでも一年に一度くらい、中学生になって親戚付きあいを疎ましく思うようになってからは三年に一度くらいしか会わなかった。
祖父母の家は田舎の農家だから絵にかいたような亭主関白の家庭で、ぼくたちが遊びにいっても祖母は常に台所にいて働いており、食事のときも常に忙しく立ちふるまっていてみんなの食事があらかた済んでから部屋の隅で自分の食事をとっていた。愛想のない人ではなかったが、遊んでもらったという記憶はない。孫が来たときでもそうなのだからずっと働きづめだったのだろう。

そんな祖母だから、あまり思い出がない。
唯一おぼえているのは、ぼくが中学生のときに祖母が家にやってきて、ぼくの姉に向かって「よう肥えたねえ」と言ったことだ。「大人っぽくなった」「女らしくなった」という意味で言った褒め言葉だったのだと思うが、思春期の姉には「デブ」と聞こえたらしく、翌日から食事制限をするようになった。田舎のおばあちゃんらしいエピソードだ。


あまり思い出がないからというわけではないが、ぼくは葬式に遅刻した。
原因は、二度寝。最悪のやつだ。
父から祖母が死んだという電話があり、翌日、下宿先の京都から特急に乗って福井に向かうことになっていた。起きたら出発予定時刻を一時間半も過ぎていた。
前日から行って通夜や葬儀の準備をしていた父に電話をした。
「ごめん、寝坊した」と告げると父は絶句した。「……」絵にかいたような絶句。母親が死んだときに息子から「寝坊したから葬式に遅れる」と告げられた中年男の感情は今でもうまく想像することができない。絶句するしかないのだろう。

「ともかく急いで来い。駅からはタクシーで来い」とだけ言われた。
あわてて喪服を着て家を出た。電車に乗ったところで、いつもの習慣でスニーカーを履いてきてしまったことに気がついた。大学生らしいかわいい失敗だ。しかし今さら取りに帰る時間も、革靴を買う時間もない。そのまま特急サンダーバードで福井へと向かった。
駅でタクシーを拾い、行き先を告げた。本当なら父親が駅まで迎えにくる手はずになっていたが、もう葬式がはじまっている時刻だ。故人の次男が葬式を抜けだすのは無理だろう。
祖母の家は最寄駅から車で四十五分の山中にある。父親が幼少の頃は牛を飼っており、冬の夜は凍えないように家の中に入れていたという。そんな昔話のような家の「ただ、広い」という唯一の長所を活かして家で葬儀をあげることになっていた。
タクシーで四十五分だから料金は一万円くらいだったか。大学生には痛かったが致し方ない。

ぼくが到着すると、葬儀は故人に最後のあいさつをするくだりだった。いよいよ大詰め。ぎりぎり間に合ったのだ。
あまり悲しくなかったが、泣きくずれている父親を見ていると「この人はお母さんをなくしたんだな」と思ってつらくなった。祖母が死んで悲しいというより「母親が死んで悲しい人の気持ちを想像して悲しい」だった。他人の悲しみを拝借しているのだ。人間の感情って複雑だな、とひとごとのように思った。

無事に葬儀が終わった。盛大に遅刻したうえに喪服にスニーカーでやってきたぼくは親戚一同から怒られるだろうなと覚悟していたのだが、ちっとも怒られないどころかおばちゃんたちから「たいへんだったねえ」「よく来てくれたねえ」と労われた。
終わるぎりぎりに現れた変な恰好のぼくを見て「忙しいのにとるものもとらず急いで駆けつけたおばあちゃん想いの孫」と解釈してくれたようだった。
ちがうんです、ただの寝坊です。しかも一度は起きたのに二度寝しちゃったんです。スニーカーなのはただばかなだけです。

父親は苦々しげにぼくを見ていたが、「でもまあ間に合ってよかった」とタクシー代として一万円をくれた。
ラッキーと思ったが、「でも母親を亡くした直後にばかな息子にお金を渡さなきゃいけないなんてこの人もつらいだろうな」と思うとひとごとのように嘆かわしくなった。父親の嘆かわしさを拝借しているのだ。人間の感情って複雑だな。

2017年11月30日木曜日

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】


『文学ムック たべるのがおそい vol.1』

西崎 憲 (編集)


【執筆陣】
<巻頭エッセイ>
「文と場所/夢の中の町」 穂村 弘 
<創作>
「あひる」 今村 夏子 
「バベル・タワー」 円城 塔 
「日本のランチあるいは田舎の魔女」 西崎 憲 
「静かな夜」 藤野 可織
<翻訳>
「再開」 ケリー・ルース 岸本 佐知子・訳 
「コーリング・ユー」 イ・シンジョ 和田 景子・訳
<短歌>
「はばたく、まばたく」 大森 静佳
「桃カルピスと砂肝」 木下 龍也
「ひきのばされた時間の将棋」 堂園 昌彦
「ルカ」 服部 真里子
「東京に素直」 平岡 直子
<特集 本がなければ生きていけない>
「虚構こそ、わが人生」 日下 三蔵
「Dead or alive?」 佐藤 弓生
「楽園」 瀧井 朝世
「ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず」 米光 一成
穂村弘、岸本佐知子という「ぼくの好きな変な文章を書く人」の両巨頭が執筆陣に名を連ねているのを見て(岸本さんは翻訳だけど)購入。

小説、短歌、翻訳小説、エッセイから成るムックなんだけど、なんだかふわふわした作品が並んでいるという印象だった。夢を見ているみたいというか。
ぼくは地に足のついた物語のほうが好きなので正直あまり性に合わなかったな……。

しかし今村 夏子『あひる』と西崎 憲『日本のランチあるいは田舎の魔女』は、幻想的な雰囲気と妙なリアリティが融合していておもしろかったな。森見登美彦の描くファンタジーみたい。なさそうである、ありそうでない話。特に『日本のランチあるいは田舎の魔女』は劇団員のなんでもない日常から突然霊能力バトルになって意表を突かれた。どんな展開だと思ったが不自然ではなく、これは表現力のなせる業なんだろうなあ。


米光 一成『ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず』に出てくる一節。

 人にあげたり、処分したとたんに、必要になる(気がする)。名著は手に入りやすいが、トンデモな本(ありがとうの重要さを説くため何十ページもありがとうと繰り返し印刷されてる本や、短歌で綴った聖書や、とんでもない誤植がある本など)は、これを手放したら二度と手に入らないという恐怖のために手放せず、名著を評判の高いものばかり手放してしまう(「バカの棚になる」と読んでいる法則である)。

これ、本コレクターとしてはわかるなあ。
電子書籍のおかげでそんなことなくなったけど、基本的に本って一期一会だからねえ。不人気な本ほど二度と手に入らないからなかなか手放せないんだよねえ。
ぼくの本棚もバカの棚になってるなあ。まあバカな本ばかり買ってるからかもしれんけど。


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