我ながら気持ちが悪いと思うのだが、高校生のときにやっていたことがある。
春。新しいクラスが発表されると、真新しいノートを一冊用意する。
ノートに新しいクラスメイト全員の名前を書く。出席番号順に書いてゆく。
名前と名前の間は10行ほどの間隔をとってある。このスペースを、数ヶ月かけて各人のパーソナルデータで埋めてゆく。
何中学出身か。
部活は何をやっているのか。
誰と仲が良いのか。
わかったことからどんどん書いてゆく。
クラスメイトが立ち話をしていたら、会話の内容を盗み聴きしてはノートに書く。
そして。
ときどきノートを読み返しては、書いてある情報を頭にたたき込む。
クラスメイトの田中くんが南中出身で、陸上部で高跳びをやっていて、渡辺くんと幼なじみで、将棋が強いなんて情報は、すべて頭に入っているのだ。
田中くんとはまだ一度も話したことがないのに。
おお。
おのれのことながらなんて気持ちが悪いんだ。書きながらゾクゾクしてきた。
どう考えても、他人との距離の取り方がわからない人間だ。
精神科に行ったらちゃんとした病名をつけてもらえるやつだ。保険証用意しなくちゃ。
あと、席替えのたびにクラス全員の座席表を記録して、自宅の机に置いていた。
自宅の机の前で、教室でのふるまい方をシミュレーションしていたのだ。
おお。なんて不安定な人格なんだ。鳥肌が立ってきた。
親が知ったら「うちの子大丈夫かしら」と神主さんに相談するタイプのやつだ。
そこそこ友人たちと仲良くやれていたと自分では思っていたけど、はたしてちゃんと人付き合いできていたのだろうか。今になって不安になってきた。
まあ思春期って誰しもそんなことしちゃうよね。
よくあることさっ。
と己を慰めた後で、もらった名刺の余白をその人のパーソナルデータで埋め尽くしている自分に気づく。
誰か、いい神主さんがいたら紹介していただきたいものだ。
2017年10月19日木曜日
2017年10月18日水曜日
思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】
超・反知性主義入門
小田嶋 隆
いっとき「反知性主義」って言葉流行ったね。
ぼくは「本ばっかり読んでても何も身につかない。会って話すことが重要だ!」「東大生は頭でっかちで社会では何の役にも立たないぜ。経験こそがすべてだ!」みたいな、「先人の知恵を否定する態度」みたいな意味かと思ってたんだけど、どうもそうではないみたいね(そういう面もあるみたいだけど)。
既存の権威主義的な論理体系に対するカウンターというか、当然のこととして受け入れられているものに疑問を投げて再定義しなおそうとする、むしろ科学的なアプローチだったりが本来の意味らしい。
ところが「反知性主義」という言葉が独り歩きしてしまい、単なる「バカ」「自分の考えを理解できないやつら」ぐらいの意味になってしまった。
まあ字面からはそう読み取れてしまうよね。
小田嶋さんの『超・反知性主義入門』は本来の意味での反知性主義に近い。
ばかなやつらを啓蒙しようという感じではなく、「みんな同じようなこと言ってるけど、おれはこっちの面から見てみたらこんなふうに見えたよ」ってなぐらいの温度感。
とはいえ世の中には「違う考えの人間がいることが許せない」人たちがけっこういるから、日経ビジネスオンライン連載時はずいぶん炎上したみたい。
そんなに過激なことを言っているようには読めないんだけどなあ。
「おれはこう思うよ?」ぐらいなんだけど。
これぐらいの意見でも多くの批判がぶつけられるなんて、職業的に物を書く人にはやりづらい世の中になったねえ。同情する。
謝罪会見について。
ふうむ。
云われてみれば、謝罪って理性的な話し合いとはもっとも遠いところにあるコミュニケーションかもしれない。
きちんと事実経緯を述べて、原因究明と再発防止策を講じて、被害に遭った人に対して相応の賠償をしたとしても、謝罪する人間が偉そうにふんぞりかえって鼻くそをほじっていたらきっと許してもらえない。
逆に、終始しどろもどろで「すみません、すみません」の一点張りであっても額に汗かいて深く頭を下げていたら「誠意がある」ということでその場は流してもらえたりする。
ぼくも客商売をしていたときに謝罪をする機会がよくあったけど、こちらに全面的な非があるときはむしろ楽だった。
すみません、すみません、と一方的に謝罪しつづければそのうち相手は怒りの矛を収めてくれる。
こちらも誠心誠意謝ることができる。
たいへんなのは、クレームをつけている側に落ち度があるときだ。
店側は、どうしても「納得してもらおう」と説得を試みてしまう。
そうすると相手の怒りは静まらないどころかどんどんヒートアップする。
これも、謝罪を要求している側が求めているのは理屈ではないからなんだろう。
政治には関心があるが選挙は嫌いだという小田嶋さんの主張はおもしろかった。
いわれてみれば、たしかに選挙ってクソダサいよなあ。
スマートなイメージで売っている人でも、選挙では拡声器持って大声を張りあげて、選挙カーの中から身を乗りだして必死に手を振って、握手したりバンザイしたりとぜんぜんスマートじゃない。
雨の中傘もささずに立って演説したり、真夏の選挙では真っ黒に日焼けしたり、ド根性主義が跋扈している。
うん、クソダサい。
ぼくはほとんど選挙公報を読むだけで誰に投票するかを決めているから、拡声器も選挙カーも握手もバンザイもずぶ濡れも日焼けもまったくもって「どうでもいいこと」なんだけど(というよりマイナス要因でしかない)、世の中には「意味のない努力」を重視して投票する人もいるんだろうね。
「あのセンセイは毎日立って演説しているからがんばっとる」「あの人は演説の時、日陰に入っとったから気に入らん」みたいな人が。
「高校野球は炎天下に汗水たらして全力疾走している姿が感動を呼ぶ」タイプの人が。
たぶん個人レベルではいわゆるドブ板選挙に反対している人もいるんでしょうが、きっと党本部が許さんのでしょうね。
「んまー、〇期当選の〇〇先生でも毎日演説やってらっしゃるのに新人のあなたが演説しないんですって!?」みたいな圧力がかかるんでしょう。
そういや堀江貴文さんが「自分が出馬したとき、かけずりまわるドブ板選挙なんてぜったいやるものかと思っていたのに、終盤戦になったら声をからして叫んだり応援にきてくれる人たちに頭を下げて握手したりしている自分がいた」ってなことをどこかに書いていた。
あれはお祭りなんだろうね。お祭りの熱狂が人をおかしくさせるんだろう。
だって尋常じゃないもの。声をからして叫んでるやつに理性的な判断ができるとはとうてい思えないもの。それでもやらずにはいられないんだろうね。
まあお祭りだからそれでもいいのかもしれないけど、合理性を捨てた選挙で勝ち上がった政治家が合理的で効率追求型の政治をできるかっていったら、まあ無理だよね。
選挙のやり方をもっとスマートにすれば、政治ももうちょい見栄えのするものになるんじゃないかとわりと真剣に思う。まあべつに見栄えを良くする必要もないけど。
小田嶋隆氏の文章って、その内容に同意できないことはあっても、論旨の組み立て方にはいつも感心させられる。内田樹氏もそうだけど。
難解な言葉を使わずに、軽やかな飛躍もまじえながら、論理的に文章を組み立てている。
だから結論には同意できなくても「ふむ。その考え方はよくわかる」と毎回思う。
世の中には弁の立つ人が多いけど、こういう語り方をできる人ってすごく少ないよね。
世の中を敵味方に分けて相手を言い負かすことを考えている人ばかりだ。
必要なのは、敵を攻撃することや、味方の同意を得ることではなく、「立場や思想の異なる人に優しく語りかけてほんの少しだけでも自分の考えを知ってもらう」ことだよねえ。
オダジマさんの語りにはそういう姿勢を感じる。
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2017年10月17日火曜日
正義は話をややこしくする
大学1年生のとき、サークルの同級生たちとしゃぶしゃぶを食べた。
ある程度食事も進んだとき、友人Hが言った。
「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」
その言葉はKという男に向けられたものだった。
Kが野菜をほとんど食べずに肉ばかり食べていたのを腹に据えかねて、Hが注意したのだ。
Kはべつに自己中心的な人間なわけではなく、ちょっと周囲の反応に無頓着なだけで、だから「肉を食べたい」という欲望そのままに肉ばかり食べていたのだ。
Kは温厚な人間だったので、少しひるんだ様子は見せたものの「ごめん、気を付けるわ」と言って特にいさかいにはいたらなかった。
さて。
ぼくは、Hの発した「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」という言葉にしびれていた。
「肉ばっかり食いやがって」という気持ちは、よくわかる。
Hが怒鳴る前からぼくもうっすらと「Kのやつ、肉ばっかり食ってるな」と思っていた。
だがぼくはそれを口には出さなかった。
それはぼくが「ええかっこしい」だったからだ。
「おれの食う分が少なくなるから肉ばっかり食うなよ」と口にするのはあさましいと思い、なんでもないようにふるまっていただけだ。
内心では、Hと同じように「肉ばっかり食うなよ」と思っていたにもかかわらず、細かい人間に思われたくないというプライドがじゃまをして、注意することができなかっただけだ。
あまりにも度を越したら注意したかもしれないが、だとしても「みんなの食う分がなくなるから控えてくれ」と言ったと思う。
「おれの食う分がなくなるだろうが」という物言いはぼくにはできなかっただろう。
だがHはきちんと自分の主張を明確にしたうえで、Kに対して要求をつきつけた。
そしてKは素直にその要求に従い、問題は解決した。
Kのように私益のために直截的な怒りをぶつけられるのは、ある種とても誠実な態度といってもいいのではないだろうか。
人は、公益のためなら相当強気になれる。
「地球環境を汚す二酸化炭素を大量に排出する企業はつぶれろ!」とか「こどもたちの健康を害する喫煙者は出ていけ!」とか、大義名分があれば過激な主張もできてしまう。
だが「おれの嫌いなデザインの服をつくっている企業はつぶれろ!」とか「あたしの飯がまずくなるから喫煙者は出ていけ!」なんてことを、顔や名前を出していう人はほとんどいない。
私利私欲のために強い主張をするのは気が引けるのだ。
それは、立場が強いものが弱いものに言うときでも同じである。
企業の経営者は「会社を大きくするためにみんなもっとがんばろう」とか「必死に働くことが自分のためになるのだ。若いときは休みを削ってでも働いたほうがいい」なんて偉そうなことを言うが、「おれの役員報酬を増やすためにみんなもっとがんばろう」とは言わない。
たぶん本心は後者だと思うのだが、どんな強欲な経営者でもそれを口に出すのは気恥ずかしいのだろう。
おそらく自分自身にも嘘をついて「社会のため」「会社の未来のため」といった、より公共性の高いものを持ちだしてくる。
こうした公共的な道徳を持ちだしてくる態度は、話をややこしくする。
たとえば騒音問題。
「おれがうるさく感じるからやめてくれ」と主張すれば、解決に持っていくことはさほど難しくないのではないだろうか。
「あなたは何デシベルまで許容できますか」と訊いて、だったら夜間は〇デシベル以下に抑えましょう、といった具体的な方策を立てることができる。
だが「みんな迷惑してるんですよ」とか「赤ちゃんが安心して眠れないじゃないですか」なんて公共的な道徳を持ちだしてくると、そうかんたんにはいかなくなる。
「みんなが許容できるデシベル数」は誰にもわからない。「うちはいいけど赤ちゃんのいるお隣はどうでしょう……」なんて言いだしたら、騒音をゼロにしないかぎりは「みんな」が騒音に悩まされる可能性はなくならない。
「世界中の貧しい人たち」だとか「未来を担うこどもたち」だとか「この地球に生きる動物たち」だとか、会ったこともないものを持ちだして主張をはじめると、その問題は永遠に解決されることがない。
だって彼らは実在してないんだもの。実在してないものが納得して許容する日は永遠に来ない。
だからぼくは、私的に怒る人でありたいと思う。
自分の怒りを、自分の要求を、自分のものとして伝える人でありたい。
誰かの怒りを代弁するして正義を主張するのは話をややこしくするだけだ。
「みんなが迷惑するから」ではなく「おれの食う分がなくなるから」肉の食いすぎを注意する人でありたいと思う。
2017年10月16日月曜日
テクニックではカバーできない衰え/阿刀田 高『脳みその研究』【読書感想】
『脳みその研究』
阿刀田 高
「短篇の名手」を誰かひとり挙げるとするなら、ぼくなら阿刀田高を挙げる(星新一はショートショートの神様なので別格)。
奇抜なアイデア、スリリングな展開、無駄のない構成、スマートなオチ。どれをとっても一級品だ。
中高生のときは古本屋で阿刀田高の短篇集を買いあさり、50作以上あった短篇集のほぼすべてを所有していた。今でも実家にある。
阿刀田高の小説とはなんとなしにしばらく遠ざかっていたのだが10年ぶりぐらいに読んでみた。
あれ。つまんない。
いや、うまい。すごくうまいのだ。
無駄のない構成も、ほどよく散りばめられた教養知識も、テンポのよい文章も健在。
リズムよく読める。
さすがは短篇の名手。
でも、オチまで読んでがっかり。
ぜんぜん切れ味がない。読者の予想を裏切ってくれない。中にはだじゃれのオチもあって、そこまでの話運びがうまいだけに期待を裏切られたがっかり感も大きい。
短篇集だから一作ぐらいはあたりもあるだろうと思って最後まで読んだが、どれも期待外れだった。
最近の作品のレビューを読んでみると、どうやらこの作品にかぎらず衰えが目立つらしい。旧年からのファンたちの嘆きの声ばかりが並んでいる。
小説家にかぎらず、クリエイティブな仕事ってだいたい歳をとるごとに斬新な着想は衰えていく。
そのかわり経験を重ねてテクニックは上がっていくから、技巧を凝らすことで作品の完成度は高くなったりする。
阿刀田高にもそういう時期があって、たいしたことのないアイデアでも阿刀田高が巧みに味付けすることで一級品の仕上がりになっていて、これを他の作家が書いたらきっと凡作だったはずだ、さすがは短篇の名手だとうならされたものだ。
しかし名手のテクニックではカバーできないぐらいアイデアの枯渇が進行してしまったのだろう。
なんちゅうか、引退間近のスポーツ選手を見るような寂しさを感じるな……。
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2017年10月15日日曜日
なんとなくずるやすみ
朝、4歳の娘が「しんどい……。ごはん食べたくない……」と言う。
ゼリーなら食べられそう? と訊くとこくんとうなずく。
保育園おやすみする? と訊くとこくんとうなずく。
しかし熱を測ると36.2度。
咳も出ていないし昨夜は元気に跳びはねていた。
これはもしかして……と思いながらも保育園に休みますと連絡を入れて、ぼくも会社を休むことにした。
しばらくはおとなしくえほんを読んでいたが、やがて暇をもてあましたらしく「どっか行こうよー」などと云う。
「お昼何食べたい?」と訊くと、「串カツ!」と云う。
おいおまえ、それもっとも病人食と遠いやつじゃないか。
ゼリーしか食べられなかったやつが食べたいっていう食べ物じゃないだろう。
串カツを食べに外に出ると、さっそく元気よく走りはじめた。
「しんどいんじゃなかったの?」と訊くと「しんどい……」と弱々しく応じるが、1分たつとすぐに設定を忘れてまた走りはじめる。
まちがいない。これは詐病というやつだ。
もっと平易な言葉で言うならば仮病。
そういや1年前にも同じようなことがあった。
まあいいか。1年に1回ぐらい、保育園をずるやすみしたくなる日もあるだろう。
うまく表現できないけど、4歳児なりにいろいろ抱えていらっしゃるんでしょう。
保育園に行きたくない理由が具体的にあるわけじゃないけど、ただなんとなく行きたくないこともあるんでしょう。
あえて指摘せず「病気でしんどい娘」という設定に乗っかってあげることにした。
おかげでぼくも仕事を休めた。
こんなことでもないと「体調不良でもないのに休む。何の用事もないのに休む」ってできないしね。いい機会だ。
ぼくも娘のずるやすみにつきあい、本を読んだり昼寝をしたりしてごろごろと過ごした。
翌日、娘は何事もなかったかのようにいつも通りに起きて元気よく保育園に行った。
子どもも大人も、たまには「何の理由もないけどなんとなく休む日」があってもいいと思う。
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