2020年1月17日金曜日

【読書感想文】時代劇はいろいろめんどくさい / 大森 洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料

大森 洋平

内容(e-honより)
織田信長がいくら南蛮かぶれでも、望遠鏡を使わせたらドラマは台無し。「花街」を「はなまち」と読ませたり、江戸っ子に鍋料理を食わせようものなら、番組の信用は大失墜。斯様に時代考証は難しい。テレビ制作現場のエピソードをひきながら、史実の勘違い、思い込み、単なる誤解を一刀両断。目からウロコの歴史ネタが満載です。
NHKでドラマの時代考証を担当している著者による、時代考証資料集。
読み物ではなく製作者向けの手引きなので少々読みづらい(五十音順じゃなくてテーマ順にしてほしい!)が、素人が読んでも十分おもしろい。

時代も、戦国・江戸だけでなく、平安から昭和まで幅広い知識が紹介されている。
立ち上げる 【たちあげる】 これはパソコン用語で九〇年代前半から次第に使われ始め、九五年の「ウィンドウズ95」発売によって一気に広まった言葉で、それ以前には一切ない。台詞・ナレーションともに、「設立する」「生み出す」「編成する」「創立」「設置」等と正しく改める。
へえ。立ち上げるってそんなに新しい言葉なのか。
今じゃ「新規事業の立ち上げ」とかあたりまえのように使うけどね(逆にPC用語としてはほとんど使わなくなった。起動に時間がかからなくなったからかな)。

考えたことなかったけど、よく見たら「立ち上げる」って変な言葉だよね。自動詞+他動詞だもんね。
複合動詞って「立ち上がる(自動詞+自動詞)」とか「持ち上げる(他動詞+他動詞)」という形をとるもんね。「立たせ上げる」のほうが日本語として自然なんじゃないかな。



時代劇というと「言葉遣いに気をつけなくちゃいけないんだろうなー」と素人でも想像がつくが、言葉以外にも留意すべき点はいろいろあるようだ。
オーストラリア 【おーすとらりあ】 オーストラリアの発見は一七世紀初めであるから、戦国時代劇の「南蛮地球儀」に同地が描かれていたら間違いである。ドラマのシーンで織田信長に地球儀を回させたい時は、オーストラリアが映る前にカメラを切り替える必要がある。織田武雄『地図の歴史─日本篇』(講談社現代新書、九一頁)によると、司馬江漢の『地球全図』(寛政四年:一七九二年)にはオーストラリアが出ているが、これが日本での最初の例である。小道具にはアンティークな地球儀がいくらもあるだろうが、使う前に必ずオーストラリアの有無をチェックすることが戦国時代劇の鉄則。
こんなのとか。
へえ。オーストラリアが発見されたのって、地球が丸いと明らかになったよりも遅かったのか。
こんなの言われなかったら思いもよらないよなー。

冲方丁『天地明察』に渋川春海が地球儀を水戸光圀に贈るというシーンが描かれていたけど、あれにもオーストラリアはなかったんだな。

小説なら「地球儀を見せた」で済むことも、時代劇なら現物を用意しないといけない。オーストラリアが描かれていないものを。
あやふやなことがあっても、小説のように「書かずにごまかすというわけには」いかない。

時代劇を作るのってたいへんだなあ。



軍議・本陣 【ぐんぎ・ほんじん】 最近の戦国時代劇では、幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーンが多いが、これは慣習に過ぎず、多分スタジオのセットの組み方等、収録上の制限から来たものだろう。関ヶ原古戦場の東西両軍の本陣跡に登ればすぐわかるが、実際には戦況を見ながら指揮をとる(ナポレオンの時代でも同様)。往年の大河『天と地と』の川中島合戦では、両軍ともちゃんと戦場に向かって視界の開けた本陣で指揮していた。「地図を見ながら大兵力の配置を考えつつ指揮する」というのは近代ヨーロッパの戦争方式で、電信機がない戦国時代にそんなことをしても無意味である。
「幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーン」
たしかに観たことある気がするわ、これ。
言われてみれば意味ないよね。戦闘がはじまってから現場を見ずにあれこれ策を練っても。
大将は絶対に戦況が一目で把握できる場所(山の上とか)にいなきゃいけないよね。電話もモールス信号もないんだから。

しかし戦場がよく見える場所ということは、裏を返せば戦場にいる兵士たちからも容易に見つかる場所だ(しかも肉眼で見ているわけだからそう遠くないはず)。
飛び道具の発達した近代戦だったら「超危険な場所」だから、まずそんなところに本陣を置かない。
現代の感覚だとまちがえちゃうよね。

おつかれさま 【おつかれさま】 これは日本の一般的伝統的なねぎらいの言葉ではない。時代劇なら「ご苦労様でございます」「お役目ご苦労に存じまする」、旧日本陸軍なら「ご苦労様であります!」等が適切である。大河『篤姫』で「ごくろうさまでございます」という台詞がでた時、視聴者から「『おつかれさま』でないと失礼だろう」という批判があったが、そういうことはない。 一例をあげると、劇評家でエッセイストの矢野誠一著『舞台人走馬燈』(早川書房、二四頁)に、俳優の長谷川一夫が隣に住んでいた少年時代(一九四六年)の思い出として「私は隣家でもって交わされる、『おつかれさま』という挨拶語を生まれて初めて耳にした。いまでこそ立派に市民権を得ている『おつかれさま』だが、その時分はもっぱら藝界や水商売の世界で用いられていて、少なくとも山の手の生活圏には無かった言葉だ」とある。
「目上の人に“ご苦労さま”は失礼。“おつかれさま”と言いましょう」
と何度となく聞いたことがあるけど、“おつかれさま”は水商売の言葉だったんだね。

言葉は変わるものだから「だから“おつかれさま”は失礼!」とは言わないけど、「“おつかれさま”じゃないと失礼」も同様に間違いだよなー。



この本の端々に、時代劇を観た視聴者から「この時代に〇〇はおかしいだろ!」という電話がかかってくることが書かれている。

まあ誤りに対する指摘なら「ありがとうございます」といって拝聴すればいいけど、まちがった認識で電話をかけてくる人がたくさんいるらしい。

「江戸時代に〇〇はなかったはずだ!」
「いやあるんですよ。文献に出てきます」
なんてことが多々あるようだ。

自分の思いこみだけで他人の仕事にケチをつける人って……なんていうか……頭おかしい自己肯定感が高いんだなあ。

テレビで時代劇が減った理由のひとつに「めんどくさい人の相手がたいへんだから」ってのもあるかもしれないね。


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2020年1月16日木曜日

給料安いよ!来てね!


北新地という大阪でも有数の繁華街のすぐそばの地下街に、ひっそりと「各自治体のPR会場」がある。
ブースがいくつかあって、そこに「〇〇県就農体験者募集」「〇〇県〇〇町でお見合いパーティー」みたいなポスターがたくさん貼ってある。
わりと人通りもある場所なのにその一角だけやたらと薄暗く、妙に静まりかえっている。そこを通るたびにぼくはいたたまれない気持ちになる。

ポスターたちの発するうらさびしいオーラに吸い込まれそうになるのだ。とても直視できない。つらい。

なにがつらいのかというと、みんな「虫のいいこと」しか言ってないのだ。
就農だの移住支援だのお見合いパーティーだのと書いているが、内容はどれも同じ。
「この地域で生まれ育った若者にすら見放されるような土地だけど、働き者で文句を言わずに土地の蛮習に従ってくれる若者来てくれませんか? 給料安いよ! 不便だよ! 不自由だよ!」
としか言ってないのだ。

メリットがないか、せいぜい「空気がきれい」ぐらい。
そりゃあ来ねえだろう。こういうポスターを作っちゃうところがもう絶望的にセンスがない。
ブラック企業が「やりがいのある職場です!」「オンとオフの切り替えは大事。土日はみんなバーベキューをするぐらい仲良しです!」と求人票に書いちゃうぐらいまちがっている。


まあそれはいい。感覚は人それぞれだ。ぼくも地方で育ったのでその感覚はわからなくもない。

ただ心配になるのは、こういうポスターにお金を使っていること。
いろいろ背景を想像してしまう。
街のコンサルだか広告代理店だかが村役場を訪れて
「このままじゃいけませんよ。他の町村はいろんな手を打ってますよ。たとえばお隣の〇〇町なんか××っていうプロジェクトをやってますよ。ほら」
なんて持ちかけて、町長さんだか広報課長だかが「そっか。お隣もやってるのか。じゃあうちもやらなきゃな」
なんつってお金払って、各部署からだったらこれも載せてくれこれも書いといたほうがいいだろなんて言われて、見た目だけきれいだけど結局何が言いたいのかわからないポスター作って、ろくに効果検証もしないままお金を垂れ流しているんだろう。

「そんなお金があるなら今いる若者のために仕事をつくりましょうよ」なんていう人はひとりもいないまま、誰も足を止めないブースにポスターを貼るためにお金を払いつづけている。

そりゃあさ。
「来てね!」って呼びかけるだけで来てくれるならそれがいちばんいいけどさ。
でもじっさいは逆なわけじゃない。
「働き手がいねえんだよー。嫁さんが来ねえんだよー。若い夫婦もいないんだよー」って言ってる自治体に行きたい人はほとんどいないわけじゃない。

なんだか、貧乏人ほど宝くじを買うって話みたいで切なくなる。もう配当率の低い一発逆転に頼るしかないんだよなー。


2020年1月15日水曜日

書店の飾りつけは自己満足


とある書店員のツイートを目にした。
その人は売場をPOPや装飾できれいに飾りつけた写真を投稿して、「Amazonには負けない」とつぶやいていた。

それに対して賛同するコメントもあったが、「努力の方向がまちがってる」「客はそんなの求めてない」「飾りつけをがんばるんじゃなくて本を切らさぬようにしろ」という辛辣なコメントも並んでいた。

ううむ。
元書店員であり現Amazonヘビーユーザーであるぼくとしては、どちらの気持ちもわかるので心苦しい。


飾りつけは自己満足


「努力の方向がまちがってる」、厳しいがその通りだ。
まったくの無駄とは言わない。
でも飾りつけに使う材料費と人件費以上の効果があるかといわれれば、残念ながら首をかしげざるをえない。
シビアにコストと効果を計算すれば、おそらく「やらないほうがマシ」だろう。

そもそも店舗内で目立たせてどうする。
書店が二店舗並んでいるので、看板やのぼりを目立たせてライバル店から客を奪ってくるのならわかる。
でも自店舗内で〇〇フェアをやって一角だけ目立たせるということは、相対的に他の売場を目立たなくさせることになる。

ぼくも文庫コーナーで「〇〇フェア」を何度となくやったのでわかるが、フェアをやればたしかにその売場内の本はよく売れるが、文庫全体の売上が伸びるわけではなかった。
店舗内で売上をあっちからこっちに動かしているだけなのだ。

書店員のやれることに限界がある


とはいえきれいに飾りつけをしたくなる書店員の気持ちもわかる。
「大事なのは売場を飾りたてることじゃなく買いたくなる本を置くことなんだよ」
そんなことは客から言われるまでもなく書店員自身がよーくわかっている。できることなら人気の本を山のように積みたい。

が、やりたくてもできない事情がある。
まず売場面積の事情。
オンライン書店とちがって実店舗の棚には限りがある。すべての本を置くのが理想だが、そうはいかない。「この本を置いておけば一年に一冊ぐらいは売れるんだけどなあ」という本でも泣く泣く返品せざるをえない。

また経済的な事情もある。
返品すれば取次からお金がかえってくる。つまり在庫を持つことには金がかかるのだ。
資本が無限にあるならいいけど、使えるお金に制約がある以上、一定数は返品にまわさざるをえない。
在庫量を二倍にすれば売上も二倍になるのならいいけど、実際は十パーセント増えればいいほうだ。
棚に置いておくより返品するほうが確実に収入になるのだから、コンスタントに売れない本は返品に回さざるをえない。

そしてなによりいちばん大きな理由は、注文した本が手に入らないことにある。
話題の本、人気作家の新刊、映画の原作、文学賞受賞作品。いくら注文しても入荷しないのだ。
どこにもないのならあきらめもつく。だがあるところにはあるのだ。
取次や書店によって力の強弱があり、力の弱い書店がどれだけ注文しても入ってこない本が、力の強い書店には山のように積んであったりする。
返品すれば基本的に仕入れ値でお金がかえってくるのだから、力の強い書店は必要以上に仕入れる。で、弱いところにはまわってこない。まわってくるのはもうブームが去ってから。

もちろんこんな事情は客の知ったことではないのだが、書店員だって「もっと大事なことがある」ことはとうに承知なんだよ。

意欲だけがからまわり


で、意欲のある書店員はPOPや売場の飾りつけに走る。
「とりあえず何かやった気になれる」からだ。
フェアを組んで売場の一角を目立たせればとりあえずそこの売上は伸びるから、達成感も得やすい(さっきも書いたように店舗全体の売上が増えているわけではないのだが)。

たぶんほとんどの書店員は、こんなことをしても大して意味がないと気づいているとおも(「Amazonには負けない」と書いていた人は書店が好きすぎて気づいてないかもしれないけど)。

でも他に打てる手がないから売場を飾る。不安から逃げるために。
意欲はあるけどできることがなくてからまわり。

そしてある日気づく。
もうだめだ、と。
書店が息を吹き返すには、業界全体をリセットしてやりなおすしかない(それでもうまくいかない可能性のほうが高いけど)。
でもそんなことは不可能だと。
書店といっしょに沈むか、沈む船から逃げだすか。選択肢は二つだけ。


ああ。
書いてていやになった。
同じようなことを今までにも何度も書いている。書店で働いているときからずっと同じことを考えていた。でもどうにもならない。

書店は好きだ。だけど「買って応援」なんてする気にはなれない。
そんなことしてたらますます現状にあぐらをかいてAmazonとの差が拡がるに決まってるんだもの。

でももうしかたない。

いっそ完全に滅んでみんなが「リアル書店があったころはよかったなあ」と懐かしむ……。

それが書店にとっていちばん幸福な未来のかもしれない、とまで最近はおもうようになった。
想い出の中で美しく生きていてくれればそれでいいよ……。

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書店員の努力は無駄

書店が衰退しない可能性もあった

2020年1月14日火曜日

【読書感想文】差別意識が生まれる生物学的メカニズム / ロブ・ダン『わたしたちの体は寄生虫を欲している』

わたしたちの体は寄生虫を欲している

ロブ・ダン(著)  野中 香方子(訳)

内容(e-honより)
「キレイになりすぎた人体」に、今すぐ野生を取り戻せ!腸に寄生虫を戻す。街に猛獣を放つ。大都市のビルの壁を農場にする。―無謀な夢想家たちの、愛すべき実験の数々。
人類の歴史をざっとなぞる第一章は正直退屈だったが(ついこないだ読んだビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』と内容が重複していたので)、第二章で寄生虫の話が出てきてからぐっとおもしろくなった。

医学の歴史は、基本的に体内から異物を排除することの歴史だった。
病気をもたらす細菌や寄生虫や微生物を排除するために、手を洗い、風呂に入り、殺菌し、抗生物質を飲む。
現在我々は人類史上最も清潔な暮らしをしている。

では病気とは無縁になったのか。答えはノー。
一部の病気はほぼ撲滅することに成功したが、まだまだ病気はなくならない。それどころかクローン病、糖尿病、花粉症といった病気の患者はどんどん増えている。
 こんなありふれた病気がまだあまり理解されていないというのは、奇妙に思えるかもしれないが、実を言えば、人間を苦しめる病気のほとんどは、原因がいまだによくわかっていないのだ。人間がよく罹る病気の四○○余りが命名されているが、名前のついていない病気が、まだ数百は残っているはずだ。名前のある病気にしても、ポリオ、天然痘、マラリアなど一○余りの病気は比較的、理解が進んでいるが、その他の大多数は、謎の部分が多い。症状を抑える方法や、厄介な病原体(原因が病原体だとしたら)を殺す方法がわかっていたとしても、その病気に侵された体の中で何が起きているのかは、よくわかっていないのだ。
素人からすると、現代の医学ではほとんどの病気は原因も対処法もわかっていて対処できないのは一部の難病だけかとおもっていたが、実際は逆なのだ。
圧倒的に多くの病気は原因不明で、一部の病気以外は「なんかわからんけど〇〇をすればよくなることが多いとわかっている」「手の打ちようがないけど生命にかかわるほどではなく、ほっておけば身体が勝手に直してくれる」だけ。

コンピュータシステムで
「でたらめにあちこちさわってみたら一応正常に動くようになったけど、どこがあかんかったのか、何をしたのがよかったのか、ようわからんわ」
なんてことがあるけど、人体で起こっているのはまさに同じ。
ジェンガの後半みたいに、絶妙なバランスで立っていてどこを動かしたら倒れるのかはわからない、それが人体なのだ。

にもかかわらず我々は、薬を飲み、注射をされ、手術をされている。

数百年前の医者は手当たり次第に変な薬品や草を飲ませていたけど、今の医学もやっていることは基本的に変わらない。
ただ臨床実験を厳密にやるようになっただけで「なんかわからんけどこれをやったら病状が良くなることが多いみたい」という理由で変な薬品とか草とかを飲ませていることに変わりはない。



ここ数百年にわたって医学がやってきた「体内から異物を排除する」も、それが正しいことだったのか誰にもわからない。

プログラムコードの中の不要に見える1行を消したら動作が速くなったように見えても、実はそのコードは十年に一度だけ機能する大切なコードだったかもしれない。
 ワインストックの成功は他の人々を激し、ほどなくして多くの研究者が、自己免疫やアレルギー性の病気は、寄生虫の欠如が原因だと考えるようになった。うつ状態や一部のガンまで、寄生虫の欠如とのつながりが疑われ、漠然とした見通しの上に、さらなる実験が行われた。これらの追跡調査は、次第に過激で意義深いものになっていったが、いずれもワインストックの仮説の正しさを証明した。寄生虫を導入すると、炎症性腸疾患の患者たちは快方に向かった。糖尿病のマウスは血糖値が正常値に戻った。心臓疾患の進行は遅くなり、多発性硬化症の症状さえ改善した。
ここ数十年で我々は体内から寄生虫を追いだしたが、人類の歴史を考えれば寄生虫と共存してきた時代のほうがはるかに長かった。
ヒトは寄生虫がいることを前提とした体内環境を作り、寄生虫もまたヒトが健康に生きていける環境を整えることに協力した(なぜなら宿主が死ねばいちばん困るのは寄生虫なのだから)。
たまーにごく一部の寄生虫が悪さをすることはあっても、全体としてはうまくいっていた。

が、寄生虫は駆逐された。
結果、寄生虫が攻撃していた外敵は居座るようになり、寄生虫が消化を助けていた食べ物は栄養を吸収されぬまま体外に排出され、免疫細胞は寄生虫の代わりに自らの臓器を攻撃するようになった……。

これがこの本で唱えられている説だ。
あくまで一説だが(なにしろさっきも書いたように人体はわからないことだらけなのだ)、ありそうな話だ。
自然界には相利共生関係(互いにとってメリットのある共生関係)が多数見られるので、ヒトだけが例外であるとおもうほうが不自然だ。

ヒトの内臓のひとつである虫垂も、昔は不要な器官と考えられていた(ぼくも子どもの頃そう教わった)が、今では有用なものだとわかっているらしい。
細菌を蓄えて、必要に応じて体内の最近の活動を制御するはたらきをするのだそうだ。
細菌もまた、ごく一部が悪さをするだけで大半は人体にとって有用または善でも悪でもない存在なのだ。


『奇跡のリンゴ』なる本に、木村秋則さんという人が無農薬でリンゴを作ることに成功したことが書かれている。
無農薬でリンゴを育てる秘訣は、なるべく余計なことをせずに自然に任せることだそうだ(すごくかんたんに言うとね)。
基本的にリンゴは、虫や細菌と共存しながらバランスをとって勝手に成長してくれる。それを支えてやるだけでいい。これが木村秋則さんが何十年もかかって導きだした答えだ。

人間もリンゴと同じで、手を入れすぎるとかえって調子が悪くなるのかもしれない。

はたして寄生虫を追いだしたことは健康にとっていいことだったのか。
その答えを知るためには寄生虫を体内に戻してみるしかないけど、いまさら後戻りはむずかしいだろう。ぼくも、いくら健康になるとしてもできることなら寄生虫を腸内で飼いたくない。



タイトルは『わたしたちの体は寄生虫を欲している』だが、寄生虫の話がすべてではない。
本の後半では、今もヒトの肉体が、捕食者の存在におびえ毒や伝染病を避けるよう設計されている例をいくつも挙げている。

「ここ数百年、あるいは数十年で我々の暮らしは劇的に変わったが、肉体や脳はまだ旧時代のやりかたをひきずっている。そのギャップのせいでいろんな不具合が生じている」
が全体を通しての論旨だ。

たとえば、病気が蔓延している地域の人ほど、個人主義的であり、閉鎖的な傾向があるという(因果関係は証明されていないのであくまで傾向)。
知らず知らずのうちに他人との接触を避けて病気を回避しようとしているのだ。
 病気の兆候を誤解することで生じるさらに危険で深刻な問題は、その誤解ゆえに、わたしたちは無意識のうちに、何らかの社会集団を避けようとする可能性があるということだ。シャラーは、高齢であることや、伝染性でない病気(たとえば病的な肥満など)、身体障害なども嫌悪感の原因になりうると主張し、いくらかは証明している。そうだとすれば、その嫌悪は誤解によるもので、わたしたちの潜在意識が、高齢や肥満、身体障害を、感染症と間違えたのだ。人は、病気の脅威を認識すると、高齢者を差別する行動をとりがちになることをシャラーは示してきた。肥満に対しても同じような行動をとり、病気になることを心配している人の場合、嫌悪はさらに強くなる。
 こうした反応が実際に広く起きているとしたら、社会における高齢者や障害者、慢性疾患患者に対する扱いに大きな影響を及ぼしているはずで、そうした人々は社会の周辺的な地位に追いやられることになるだろう。行動免疫システムの機能は、完璧と呼べるものとは程遠い。人間が自分たちのために作った世界において、部分的にしか機能していない。何が正しく何が間違っているかをわたしたちが判断できないうちに、そのシステムは、無意識の行動と免疫反応を引き起こしてしまうのだ。
ふうむ。
あまり大きな声では言えないけど、ぼくは年寄りが嫌いだ。個人個人でいえば例外もあるけど、総じていえば嫌いだ。身内以外の年寄りとは関わりたくない。

たとえば電車で隣の席に年寄りや顔色の悪い人が乗ってきたとき、ぼくは不快感をおぼえる。内心でおもってるだけのつもりだけど、もしかすると顔にも出てしまっているかも。
無意識のうちに「病気を保有している可能性の高いもの」を忌避しているのかもしれない。

外国人を嫌う人は世界中にいるが、これも同じ理由なのかもしれない。
違う民族の人は「コミュニティの外の人」なわけで、新たな病原菌を持ちこむ可能性が高い。
だから接触を避け、排除することで健康を守ろうとする。

もしかすると世の中にある差別の多くは「病気になる確率を下げたい」という無意識の免疫反応から生まれているのかもしれない。
屠畜業者を避けるのも、動物の死体に触れる人は病気を持っている可能性が高いからだろうし。

だからといって差別を肯定するつもりはない。我々は生理的な欲求に打ち勝つことで文明社会を築いてきたのだから。
でも、免疫学を知ることで差別意識が生じるメカニズムを理解する一助にはなるかもしれない。

「生理的にムリ」の根っこにあるのは「健康でいたい」という自然な欲求なのかも。

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2020年1月10日金曜日

【読書感想文】逆に野球が衰退しない理由を教えてくれ / 中島 大輔『野球消滅』

野球消滅

中島 大輔 

内容(e-honより)
いま、全国で急速に「野球少年」が消えている。理由は少子化だけではない。プロとアマが啀み合い、統一した意思の存在しない野球界の「構造問題」が、もはや無視できないほど大きくなってしまったからだ。このままいけば、三十年後にはプロ野球興行の存続すら危ぶまれるのだ。プロ野球から学童野球まで、ひたすら現場を歩き続けるノンフィクション作家が描いた日本野球界の「不都合な真実」。
いっときは熱心なプロ野球ファンだった。
小学生のときは毎年春になると選手名鑑を買い、新聞の結果をチェックして、テレビで試合を観戦して、スポーツニュースも観て、ときには『週刊ベースボール』を買うこともあった(なぜか新聞の結果を毎日ノートに書き写していた時期もある)。プロ野球関連の本も読みあさった。

人生の最大の楽しみが野球だった。
公園でも友人たちと野球をし、その成績をノートに記録していた。
家でもひとりでプロ野球カードゲームなる遊びをしていた。自分と自分で対戦して、その結果をノートに記録していた(もしかしたら野球よりも記録することが好きだったのかもしれない)。

中学生になってそれほど熱心なプロ野球ファンではなくなった。他にいろいろ楽しみができたからかもしれない。
とはいえ新聞の結果は欠かさず見ていたし、テレビでタイガース戦をやっていれば(他に観たい番組がなければ)観ていた。

高校一年生のとき、横浜高校の準々決勝での延長17回の死闘、準決勝での6点差逆転ゲーム、決勝でのノーヒットを観て高校野球ファンになった。
反比例するようにプロ野球を観る機会は減った。高校野球を観た後だと、プロ野球の試合は冗長で観ていられないのだ。

そして今。プロ野球はまったく観ない。知っている現役選手は十人いるだろうか。
そもそもテレビでやっていないのだから観る機会がない。新聞もとっていないので結果もわからない。テレビのニュースも観るのをやめたのでまったく情報が入ってこない。ふだん観ないのに日本シリーズだけ観たっておもしろくない。日本シリーズもオールスターゲームもWBCも観ない。昨年どのチームが優勝したのかもしらない。
二十数年前の選手はよく知っているが、現役選手のことはそこらへんのOLと同じくらいの知識しかない(負けるかも)。



野球への興味をなくしているのはぼくだけでないようだ。
 プロ野球の営業面を短期的に見るなら、CRMビジネスを回していけば成果は出るだろう。ただし中期的、長期的な視点に立ったとき、「ファンの延べ人数は増えているけれど、実人数が増えていない」のは大きな課題になる。
「2017年スポーツマーケティング基礎調査」(出典:三菱UFJリサーチ&コンサルティングとマクロミル)によると、日本のプロ野球ファンは2009年の3780万人から2017年には2845万人に減少。この調査は男女各1000人から回答を得て、年齢階層別のファン率と年齢階層別の人口を掛け合わせて算出した数字だ。
 スタジアムに足を運ぶ人の延べ人数が増え続けている一方、同調査における「プロ野球ファン」が減少しているという対極的な事実は、球場には行かなくてもテレビ観戦やニュースで結果を確認するといったライトファンが少なくなった可能性を示唆している。
球場に足を運ぶ熱心なファンは増えている一方、「テレビでやっていれば観る」程度のライトなファンは減少しているという。
ぼくの体感とも合致する。
ぼくが子どもの頃、プロ野球は大人の男のたしなみだった。熱心なファンではなくても「好きな球団は?」と訊かれたら答えられる必要はあったし、「好きな選手は笘篠です」「おっ、渋いですなあ」みたいな会話のひとつもできなければいけなかった。ぼくは子どもだったのでよく知らないけど、たぶんそう。
ぼくなんか兵庫県で育ったので阪神タイガースの話題はあいさつみたいなものだった。
「ノムさんはあきませんな」「久慈を出したのは痛かったなあ」とやっていた。

でも今、少なくともぼくの周りにはあいさつ代わりに野球の話をする人はいない。
前置きなしに「今年もあきませんな」だけで阪神のことだなと伝わる時代ではなくなったのだ。
 1990年代から社会が激変し続けるなか、当たり前のように、人々(特に子ども)と野球の関わり方も大きく変わった。
 40年前の少年は誰もが気軽に野球遊びを行なっていた一方、高校まで続ける割合は5%に満たなかった。それでも野球のルールや楽しみ方を知っており、テレビで「見る」スポーツとして熱中した。そうして巨人戦のテレビ視聴率は1970年代後半から平均20%を記録し、多少の増減はあれども2000年まで同等の数字を維持している。
 しかし、イチローがMLBに移籍した2001年に年間平均15.1%を記録すると、徐々に下落していく。遂には地上波から姿を消し、同時に「見る」スポーツとしての野球は日本で存在感を薄めている(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東)。
 そうした環境で生まれ、野球少年は減り続ける一方、子どもの頃に野球を選択した少年の1割が高校生になっても野球を続けている。「する」スポーツとしての野球は、いまだ一定の支持者がいると言える。
 では、残り9割の高校生はどうだろうか。子どもの頃に触れなかった野球を大人になり、「見る」ようになる割合が高まるとはなかなか考えにくい。彼らが就職した後、可処分所得を有料放送中継観戦に使う割合は減っていくはずだ。そうしてプロ野球は収入を減らすと、現在のような規模を維持するのは難しくなる。
人々が野球離れを起こしたのはテレビの影響が大きい。
デーゲームの中継がなくなり、ナイター中継もなくなり、プロ野球ニュースもなくなった。
昔なんかオープン戦を中継していたんだぜ。サンテレビ(兵庫県のテレビ局)なんてタイガース戦の中継を再放送してたんだぜ。スポーツ中継の再放送って。今じゃ信じられん。

みんなが野球を観なくなったからテレビ中継がなり、テレビ中継がなくなったことで野球はますます観られなくなった。
野球は「テレビをつければやっている」スポーツではなくなり、「お金を払ってわざわざ観にいかないといけない」スポーツになった。

『野球消滅』ではその原因をいろいろ挙げているのだが……。


ちょっと待てよ、と言いたい。
筆者は野球ファンとして「日本人の野球離れ」の原因をあれこれ考えているけど、ぼくからすると理由はひとつだ。

今までがおかしかっただけ。


だってそうでしょうよ。
子どもたちが集まれば野球をし、中学高校では健康な男子は野球部に入って丸刈りにし、テレビでは昼も夜も野球を流し、他の番組をつぶして野球を流し、野球が延長すればまた別の番組をつぶし、ついさっき中継が終わったところなのに夜のニュースでは野球の結果を長々と報じ、翌朝のニュースでも野球の話題を報じ、会社ではおっさんたちが野球の話に興じている……。
どう考えたってそっちのほうが異常な世界でしょ。昭和の人間、どれだけヒマなんだよ。もっとやることなかったのかよ。なんで一スポーツの地位がそこまで高いんだよ。

しかも野球をやるには高価な道具が必要で、グローブ、ミット、バット、ボール、ベース、スパイク、プロテクターをそろえれば数十万円かかる。
専用のスタジアムも必要だ。野球場は特殊な形なので基本的に野球しかできない。サッカースタジアム兼陸上競技場のように、他の競技との兼用はむずかしい。
ボールは遠くまで飛んでいくし当たると危険なので周囲に民家や道路のある場所でやるためには高いフェンスがいる。
試合をするためには最低十八人の選手が必要で、控え選手、審判、監督を入れたら三十人近くはいないと成立しない。
費用、人数、場所などゲームをするまでのハードルがとにかく高い。

野球自体は嫌いじゃないけど「野球を好きにならないなんて何かがおかしい!」という傲慢さを見せつけられると「そういうとこだぞ」と言いたくなる。
野球離れに理由なんてなく、適正値に近づいただけなんだよ。



この本の中では、子どもを野球から遠ざける原因、それに対する提言も書かれている。
怪我をするまで選手を酷使することとか、うまい子(というより早熟な子)ばかり起用されてそうでない子に出番がまわってこないこととか、野球をやるために金銭的・時間的なコストが大きいとことか。

中でもぼくが大きくうなずいたのはこれ。
 現在の日本野球界の問題は、勝利至上主義のチームばかり存在していることにある。第三章で「高校野球の二極化」について取り上げたが、勝亦准教授は高校野球のそもそものあり方について指摘する。
「高校野球の二極化という話になるのは、『強い・弱い』という軸だけで見るからです。そこにもう一つのY軸をつくって、例えば『競技性が高い・レクリエーション(楽しむことを重視)』という軸があるとします。そうなると、『うちはレクリエーションがすごく高くて、同時に強いチームを目指そう』というチームが出てきます。チームが2軸のマトリクス表の中でどの辺に位置しているかがわかると、子どもたちは選びやすいし、自分はどこで野球をやりたいかをもっと考えるようになると思います。
 今は『甲子園優勝』という軸しかなく、その軸から離れた人が軟式野球をやっていたりしますよね。だから、選択肢を増やせばいい。子どもたちが自分の進路を考えるという意味でも、高校野球こそ理念が大事だと思います」
そうなんだよねえ。中学高校ぐらいで「楽しく野球をやる」環境がないんだよね。

ぼくが高校に入学した時。
ぼくは野球が好きだった。だが野球部には入りたくなかった。体育会系のノリも厳しい練習も丸坊主も休みの日の試合も朝練もなにもかもイヤだったからだ。
ソフトボール同好会があったのでそこに入ろうかとおもったのだが、顧問の先生から「うちは女子だけ。男子は野球部に入りなさい」と言われた。
しかたなくぼくは野外観察同好会に籍を置き(活動は半年に一回)、放課後友人たちと公園で野球の真似事をして過ごした。

勝たなくていい、そんなにうまくならなくていい、だからきつい練習をしなくていい、練習は楽しいのだけでいい、気軽に休んでいい、気が向いたときに参加するだけでいい、手を抜いてもいい。
そういう場がないんだよね。

大人になってから草野球チームに助っ人として何度か参加したことがあるが、そこでもやはり勝利至上主義が幅をきかせていた。
ぼくらのチームは半数近くが野球未経験者だったので適当に楽しくやっていたのだが、相手はすごくいいバットを使って、へたなぼくら相手にも全力でプレーして(キャッチャーが野球未経験者なのに盗塁までしてくる)、味方のエラーや凡退には容赦ない罵声を飛ばしていた。
ああいやだ、なんで楽しく野球をできないんだろう。「ちょっと力の差があるのでそっちの攻撃時は6アウトで交代にしましょう」とかあってもいいのに。


今までが人気スポーツだったから、「野球は野球道だから楽しくなくていいんだよ。厳しい練習についてこれないやつはやらなくていいよ。やる気がないならやめちまえ」って言ってきたのが野球の世界なんだよね。
それで「じゃあやめます」って子どもが増えてきて、今になって「えっ、ちょっと待って、ほんとにやめるやつがあるか」ってあわててるのが今の状況。ざまあみろとしかおもわない(野球という競技自体は好きなんだよ、ほんとに)。

著者はあれこれ改善提案を挙げているけど、まず野球界(特に学生野球)は悪い意味で伝統ある組織だからなかなか変われないだろうし、仮に変わったとしても野球が国民的人気スポーツになる日はもう来ない。

過去の栄華にすがって見苦しくあがくよりは、さっさと「一部の愛好家からの人気の高いスポーツのひとつ」に舵を切るほうがまだうまくいく可能性が高いんじゃないだろうか。
今のラグビーやテニスみたいに。
ま、無理だろうけど。

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