2026年7月22日水曜日

【読書感想文】成田 悠輔『22世紀の資本主義 ~やがてお金は絶滅する~』 / わかりにくいことに価値がある本

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22世紀の資本主義

やがてお金は絶滅する

成田 悠輔

内容(e-honより)
株価も仮想通貨も過去最高値を更新、生成AIの猛威が眼前に立ち現れ、かつてなく資本主義が加速する時代。お金や市場経済はどこへ向かうのか?この先百年で起きる経済、社会、世界の変容を大胆に素描。人の体も心も商品化される資本主義の行き着く果てに到来する「お金の消えた経済」。驚きの未来像が出現する。

 ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。


 まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。

 でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。

「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。



 ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。


 意外だった事実。

 ただ、あまり知られていないが大切な事実がある。ネットは今のところ産業革命と呼べるような変容を作り出せてい「ない」という事実だ。第一次・第二次産業革命の前後で経済的な生産性が誰の目にも明らかなほど伸びたことと比べ、IT・ウェブ産業が世界を食べたこの数十年は産業革命と呼ぶには程遠い。
 地球全体の経済的生産性の伸びを見てみよう。全要素生産性と呼ばれる最も広く用いられる生産性の指標の世界全体での成長が、実はここ20年ほど停滞している。00年くらいまではいい兆しがあったが、05年以降は生産性のかつてない停滞期で、19世紀末以降最も成長が伸び悩んでいる。ウェブが家庭や職場に浸透しても、人類の経済的生産性には何の爆発も起きていない。ウェブの経済的価値はまだ花開いていないことになる。そしてこの傾向は日本や欧米のような先進民主主義国で特に著しい。
 そうなるのも不思議ではない。たしかにコンピューターやウェブは仕事を効率化した。手紙や書類を手やタイプライターで書いて郵便やFAXで送ることもなくなって、大量の人手を投入しなければ無理だった会計計算もExcelや会計アプリで一発だ。会議もやりとりもメールやSlackやTeamsやZoomで済むようになった。
 その一方で、ウェブは壮大な無駄も生んでいる。仕事するより気づけばTwitter/Xで罵り合い、インスタでマウントを取って、AVばかり見て、広告とPRまみれになり、オンライン会議中も関係ないページを眺めている。ウェブは古い無駄を省くことに成功したが、新しい無駄も生んだ。ウェブによる古い無駄の削減と新しい無駄の生成で差し引きゼロという可能性も十分にある。

 インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。

 当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。

 言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。

 インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。




「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。

 デジタルでグローバルな村落経済の発生は強烈な帰結をもたらす。お金の価値が下がっていくという帰結だ。なぜか。経済の実態の大半を記録できる太古の台帳経済や現在のデジタルグローバル村落経済では、実態と記録のズレが小さい。ということは、実態と記録のズレを埋める装置としてのお金の必要性が下がるからだ。お金に頼らず記録に直接尋ねて、信用するかしないか、取引するかしないか、罰するかしないかを決めればいい。記録を覗き見て判断するのは、古代では人間だった。現在、そして未来ではプログラムであり、ソフトウェアであり、AIである。

 物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。

 たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。


「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。

 あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。

 だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。

 こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。

 個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。



 そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。 

 だが、お金がもはや必需品でなくなる日も近い。経済社会活動を記録する情報やデータの量が増え実態と記録のギャップがなくなるにつれ、お金の役割は少なくなるからだ。その日を先取りして想像したい。情報・データ技術を用いて単純な価値尺度自体を蒸発させるような実験はできないだろうか?
 お金を使わず値段をつけず、価値が高いとか低いとか比べない経済である。測って比べるから大小や高低が生まれ、大小や高低のような非対称性はすぐに優劣に脳内変換される。大きいものが小さいものを制し、成長するものが勝つ。正の利子がつけば、富めるものがますます富む。そして規模が価値になる。とすれば、壊れた経済を修理する一番の方策は、経済を測れなくすることではないだろうか。

 わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。

 しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。

 正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。


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