2026年4月7日火曜日

【読書感想文】スティーブン・スローマン フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』 / 人間の愚かさと賢さに気づかされる

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知ってるつもり

無知の科学

スティーブン・スローマン(著) フィリップ・ファーンバック(著) 土方 奈美(訳)

内容(e-honより)
インターネット検索しただけで、わかった気になりがち。極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない。人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか?それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション。

 我々はほとんど何も知らない。世の中は知らないものだらけだ。

 べつに量子論とか超ひも理論とかの話をしているわけじゃない。たとえば我々が毎日のように使っている水洗トイレ、ファスナー、自転車。どういう仕組みで機能しているかと訊かれて正しく説明できる人はほとんどいない。スマートフォンのような複雑な機械にいたっては、そのすべてを完璧に理解している人などこの世にいないだろう。たった一人でスマホを一から組み立てられる人などいない。


 問題は、知らないことではなく、我々が「知らないことを知らない」ことだ。

「あなたはファスナーについてどれぐらい理解してる? 正しく説明できる?」と訊く。「うーん、まあ60%ぐらいかな」と答える。なにしろこれまで何万回と使ったことがあるのだから。「じゃあファスナーがどうやって開閉するか説明して」と問われて、はじめて気づく。自分がファスナーについて10%も理解していなかったことに。


 この本は、「なぜ我々は自分の知識について過大評価してしまうのか?」「なぜ我々は身の周りのものについて知らないのに社会はうまく機能しているか?」に答える本だ。



 我々は「知識・記憶は脳の中にある」とおもいこんでいる。だが実際は必ずしもそうではない。

 ここに挙げたのは、人間が思考や記憶に身体をどのように使うかといった事例のほんの一部にすぎない。ここから学ぶべき主な教訓は、知性を脳の中でひたすら抽象的計算に従事する情報処理装置と見るべきではない、ということだ。脳と身体、そして外部環境は協調しながら記憶し、推論し、意思決定を下すのだ。知識は脳内だけでなく、このシステム全体に分散している。思考は脳内の舞台だけで起こるわけではない。私たちは賢く行動するために、脳、身体、そして身の回りの世界にある知識を使って思考する。言葉を換えれば、知性は脳の中にあるのではない。むしろ脳が知性の一部なのだ。知性は情報を処理するために、脳も使えば他のものも使う。
 ここまでで、個人レベルでは比較的無知なのに、なぜ人類は自らを取り巻く環境を思うままにできるのかという問いに、多少は答えられたと思う。外部からの手助けがあれば、個人はかなり無知ではなくなる。身体を含めた身の回りの世界が記憶装置や外部支援装置の役割を果たすことで、それらがないときよりずっと賢くなる。

 記憶、知識は身体と深く結びついている。「自転車でカーブを左に曲がるときにおこなう動作をすべて挙げよ」と言われて正確に答えられる人はまずいない。でも実際に自転車に乗ればなんなく左に曲がることができる。身体がおぼえているからだ。

 PCのキーボードをたたくときいちいち「この文字を打つにはここを叩く」なんて考えていない。勝手に指が動いている。だから「Rのキーはどの指で打ちますか」と訊かれても即答できない。頭の中で(または実際に)指を動かして、はじめて「左手の人差し指」と答えられる。



 人は、自分自身が知らなくても「知っていそうな人を知っている」だけで、「自分はわかっている」と感じやすくなるらしい。

被験者の自らの理解度に対する評価は、他の人々の理解度についての情報に影響を受けていた。科学者がある現象を理解しているという事実を伝えるだけで、被験者自身の理解度の評価も高まったのだ。被験者には、質問しているのは被験者自身の理解度であることを明確に伝えていた。被験者は自分の理解していることと、他の人々の知っていることとを区別できないようだった。
 あるレベルでは、これはきわめて理にかなっているのかもしれない。私自身の頭の中に情報があるか否かが、なぜ重要なのか。あなたから特定の電話番号を知っているかと尋ねられた場合、私がそれを記憶しているのか、紙に書いてポケットに入れているのか、あるいは隣に座っている人が記憶しているのかで、何か違いはあるのだろうか。私の行動する能力は、ある瞬間にたまたま頭に入っている知識によって決まるわけではない。必要なときにアクセスできる知識によって決まる。

 周囲の人が持っている(であろう)知識も自分の知識と勘違いしてしまうのだ。

 たしかに「〇〇さんの連絡先わかる?」と訊かれたとき、「自分が電話番号を記憶している」でなくても「スマホを見ればわかる」とか「隣にいる××さんに訊けばすぐ教えてもらえそうだ」という状況であれば「わかるよ」と答えることはある。

「研究者がある物質のはたらきを解明した」というニュースを見ただけで、そのニュースについてわかっている気になったらしい。

 これはなかなかおそろしい。まったくわかっていないことをわかったつもりになってしまうのだ。

 おまけに現代はインターネットのおかげで、情報にアクセスしやすくなった。多くのことが調べればわかる。可能性は広がった。科学でも歴史でも政治でも、調べればかなり詳しいことがわかる。でもわからない。実際には調べないからだ。


 インターネットによって「アクセスできる可能性のある情報」は飛躍的に増えた。でも実際の知識はべつに増えていない(減っているかも)。真偽の定かではないごみみたいな情報はべつにして。

 それでも人はは「アクセスできる可能性のある情報」がたくさんあるだけで自分の知識を高く評価してしまう。

 結果インターネットは、「賢い人」ではなく「賢いつもり」の人間を増やしてしまったのだ。なんてこった! 自信だけあるバカだらけだなんて、控えめに言っても最悪じゃないか……。




 この本を読むと、人間ってなんてバカなんだろうという気になる。特に政治にからむような話だとひどい。

 2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)への賛否について。


二〇一二年、最高裁判所が同法の主要な条項を支持する判断を下した直後、ピュー・リサーチ・センターは判決への賛否を問うアンケートを実施した。当然ながら賛否は真っ二つに分かれた。三六%が賛成、四〇%が反対、二四%が意見を表明しなかった。アンケートではさらに最高裁の判決がどのようなものであったかを尋ねた。すると正解したのは、回答者の五五%にすぎなかった。一五%は最高裁は法律を違法と判断したと回答し、三〇%がわからないと答えた。つまり回答者の七六%が最高裁判決に賛成か反対か明確に答えたにかかわらず、そもそもの判決の内容をわかっていたのは全体の五五%にすぎないということだ。
 医療費負担適正化法は、もっと根本的な問題が表面化した一例にすぎない。世論は、問題に対する国民の理解度からは説明できないほど極端になる、というのがそれだ。アメリカ国民のうち、二〇一四年のウクライナに対する軍事介入を最も強く支持したのは、世界地図上でウクライナの位置すら示せない人々であった。

 なんと、最高裁の判決がどんなものだったかも知らないのに「判決に賛成!(あるいは反対!)」と主張してた人が少なからずいたのだ。わからないのに反対するって……。

 これはアメリカに限った話ではないんだろうな。日本でも「〇〇法案に賛成ですか?」なんて世論調査をやってるけど、その質問に「賛成/反対」と答えた人のうち、どれだけの人がその法案のことを正しく説明できるかというとかなり怪しいものだ(ぼくもたぶん無理だ)。


 そして、対象についてよく知らない人ほど極端な意見を持つ傾向があるらしい。たしかになあ。SNSとか見てると、バカほど極端な意見をふりかざすもんなあ……。

 きちんと説明されて対象への理解を深めれば意見は穏健なものになっていくらしいが、政治のように思想信条に関わるものであれば、知識を深めてもあまり立場が変わらないらしい。

 人間の信条はそうかんたんに変わらないのだ。知識よりも思想信条のほうが優先されてしまう。



 そもそも……。

 知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたいと思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった。因果的説明は錯覚を打ち砕く効果的な方法だが、人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない。たしかにヴォルテールもこう言っている。「錯覚にまさる喜びはない」と。錯覚を打ち砕くことは無関心につながりかねない。誰もが自分は有能だと思っていたい。無能だと感じさせられるのはまっぴらだ。

 人間は自分の誤解を正したいとおもっていないのだ(でも他人の誤解は正したい)。勘違いしたのなら、勘違いしたままでいたい。他人から「あなたまちがってますよ」と指摘されて考えを改める、なんてまっぴらごめんなのだ

 だからわかってない人に「あなたわかってませんよ」と言ってもほとんど無駄なのだ。考えを改めるどころか「だったらもういい!」と情報をシャットダウンしてしまったり、余計に意固地になってしまったりする。なんてバカなんだ人間たちよ(ぼくも含む)……。



 我々はぜんぜん物事を理解していないし、理解していないことを理解していないし、おまけに正しい人の意見に耳を貸さない。

 なんてどうしようもない種族なんだ人間よ。ヤハリ地球人ハ滅ボスシカナイヨウダナ……。と惑星破壊ミサイルの発射ボタンに手をかけた宇宙人よ、待ってください!

 たしかに人間ひとりひとりはどうしようもないバカです。でも、それこそが希望だとおもいませんか?

『知ってるつもり』では、集団としての知恵の重要さを説いている。

 ひとりひとりは何の知識もない人間が集まれば、集団になればトイレを作れる。ファスナーも作れる。自転車もスマホもロケットも作れてしまう。人間は集団になることでとんでもなく賢くなれるのだ。

 これこそがヒトという種族がここまで繁栄している理由だろう。オオカミは群れをつくって行動するが、全員ほぼ同じような行動しかできない。俺たちは狩りに行ってくるからその間におまえらは寝床をバージョンアップしといてくれ、おまえは肉を捌く係で、おまえは捌いた肉を敵から守る係、おまえは食糧をみんなに公平に分配してくれ……という分業ができない。

 ヒトは分業制度を取り入れたことで個としては弱くなった。ひとりで野菜と果実と肉と魚を獲得して調理して家を建てて服を作って生きていける人はいない。だがそれと引き換えに種としての強さを手に入れた。ひとりで生きていく力を捨て、集団として大きなことを成し遂げる力を手に入れた。


「頭がいい」は個人の能力だと考えてしまう。もちろん個体差はある。でもそんなものはあまり関係ない。みんなで10,000の仕事を成し遂げようというときに、個人の能力が1だろうが1.1だろうが大した問題ではない。1.1の力を持っているが周囲と協力しない人よりも、0.9の力しか持っていないが周囲に呼びかけて10のコミュニティを作れる人のほうがはるかに優秀だ。

 ということで、真に頭がいいとは物事をたくさん知っているとか計算能力が高いとかではなく、他者とうまく協力する能力を持つことだと著者は語る。共感、傾聴、ムード作り、そういった能力のほうが重要なのだと。


 なるほど……。これは身につまされる話だ……。

 ぼくは人より本を読むし勉強もできるほうだし自分を頭がいい人間だとおもっていたが、頭がいいとはそういうことじゃないんだな。積極的に他人とコミュニケーションをとり、苦手な人もおだてたりすかしたりしながら上手にコントロールし、チームをまとめて全員でひとつのゴールに向かわせる(必ずしもリーダーでなくてもいい)ような人こそが真に有能で頭のいい人なのだ。頭の良さは個の中にあるのではなく、個と個の間にあるものなのだ。




 いやあ、いい本だった。人間の愚かさと賢さの両方に気づかされた。そして己のアホさと。

 もっと早く知りたかったぜ! 自分はひとりで世界を変える天才だとおもっていた学生時代に!


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