2025年8月4日月曜日

【読書感想文】畑 正憲『ムツゴロウの獣医修業』 / 医者はだめでもともと

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ムツゴロウの獣医修業

畑 正憲

内容(文藝春秋BOOKSより)
ホモの豚、カゼ引きのキツネ、虫歯と痔に悩む犬、ペニスを骨折した牛等々、難病奇病でテンヤワンヤの動物王国。名獣医をめざすムツゴロウ氏と動物たちとの間のお色気ムード。

 1980年刊行。50年近く前ということで、あらすじの文章ですらかなり強烈。もちろん中身はこれ以上。ほとんど下ネタである(といっても動物の性行為とか性器とかの話だが)。


 畑正憲氏(通称ムツゴロウさん)といえばテレビでの変人のイメージが強いとおもうが、本業は作家である。ぼくは中学生のときに畑正憲氏のエッセイにはまり、古本屋をまわって数十冊のエッセイのほとんどを蒐集していた。畑正憲氏はすごく賢くてすごく行動力があってすごく変な人なので、エッセイも抜群におもしろい(小説はイマイチだが)。現在ではほとんど入手困難なのが惜しい。

 ひさしぶりに古本屋で氏の本を見かけ、なつかしかったのと、『獣医修業』はたぶん読んだことがなかったので(似たようなタイトルが多いので自信はない)、数十年ぶりに氏のエッセイを読んでいた。

 うん、今も変わらずおもしろい。というか、こういうヘンな文章を書く人が他にいないんだよな。鳥類学者の川上和人さんとか昆虫学者の前野ウルド浩太郎さんとか鳥類学者の松原始さんとかがそれに近いかな。動物を研究している人に特有の文章があるのか?

 でも畑正憲氏の博学で精力的で淫靡で嘘か誠かわからない文章はやっぱり他に類がない。どこまでほんとかどこからホラ話かわからない文章は、今の時代だと書かせてもらえないのかな。



 

 犬の交尾を手伝っている獣医の話。

「染色体だとか遺伝子だとか、難しいことはわかりませんがね、犬が年々下手になっていっているのは、これはもう疑いようのない事実ですよ。月末に収支をしめてみますとね、助手料が着実に増えています。この助手料というのは、つまり、交配の際の犬の押え役であるわけです」
「物理的に好き嫌いを超越させるわけですね。今度、私にもやらせて下さい」
「ああどうぞ。しかしですね、獣医というのが犬同士の結びの神であるわけでして、本来は必要でないところへシャシャリでているわけでしょう。要らぬことをやるので、犬どもが下手になっていくと思えるし、だとしたら犬に悪い影響を与えているのは獣医だと言えるし、これで、なかなか複雑な思いをさせられています」
 童貞の犬と十分に発情したメス犬を広い囲いの中に入れると見ものである。オスの方は次第に落着かなくなり、メスの上に乗ろうとする。しかしメスは、そう簡単に許さないので、童貞夫は身をよじって、サービスにこれつとめる。
 首筋を咬む。体をこすりつける。食物をゆずる。前にまわって口を開け、必死で相手の関心をひこうとする。
 要するにサービス精神のかたまりとなり、メスのしもべと化すのである。その有様を先生はこう表現した。
「まったく何か至上のもの、この世で一番の快楽がすぐそこにあるぞと自然が犬に吹込み、犬は食事も要らぬ、プライドも要らぬと張切っているのだけれど、さてどうしていいかわからない。それで、ひたすらメスにつきまとい、機嫌を取り結んでいるみたいですな」
 と、私は相づちを打って、
「かわいいとも言えるし、じっと見ているとアメリカの男性を連想しませんか」
「そうですね。あの似非ヒューマニズム、レディファーストの習慣は童貞犬のものですなあ」
「もし犬が煙草を吸うとしたら、ライターをパチリとつけるのはオスの役目ですね」

 酒の席の会話のようなくだらない会話だ。でもくだらなさの中にも知性が漂う。だけどいいかげん。

 最近、こういう「賢いのにちゃらんぽらんな文章を書く人」が減ったよなあ。北杜夫、遠藤周作の系譜。



 

 この本に書かれているのは、畑正憲氏が北海道の広大な土地で数多くの動物を飼いはじめた時期のことである。多くの動物がいれば怪我もするし病気にもなる。そんな中で、駆け出し獣医として奮闘している。

 ちなみに氏は免許を持つ獣医ではない。

 獣医師法第十七条には「獣医師でなければ、飼育動物(牛、馬、めん羊、山羊、豚、犬、猫、鶏、うずらその他獣医師が診療を行う必要があるものとして政令で定めるものに限る。)の診療を業務としてはならない。」とあるが、あくまで「業務としてはならない」なので、自分の飼っている動物を治療したり、知人の動物を無報酬で診療したりするのは獣医師法違反ではないようだ。そのへんは人間の医者とはちがう(人間の場合は無報酬でも医師でない者が医療行為をしてはいけない)。

 虫歯が一本や二本ならば、何とでもする自信が私にはあった。
 ロボットの腕みたいな歯医者のドリルは、私も一台持っている。先がとがったドリルや平たいヤスリをつけ、かつては幾多の手術に活用したものだ。
 特に便利だった点は、出血する部位の骨を削る場合などに、ごく僅かずつ作業を進め得ることだった。カエルやナマズの脳下垂体除去手術、カメ類の手術にも有用だった。
 なに、歯だって似たようなものだろう。人と違って全身麻酔を施してあるのだから、手早く削って悪い部分を除き、充填剤を注入すればよい。
 この充填剤も、私はしばしば活用している。二剤にわかれているものをガラス板の上で混ぜると、後の作業を急がねば固化してしまう速乾性が気に入って、ズガイ骨に穴を開ける手術などを行なった際には、ちょいと借用しているのである。
 動物学者はさまざまな手技を獲得しなければやっていけないのである。この私でさえ、センバンからガラス細工、七面倒くさいアンプの組立て並びに設計、バキュームカーの運転並びに汲取作業、処女の鑑定から発情の検定まで、一応の技術は身につけている。
 私は自分で再手術をすることにした。
 薬品類を調べると非バルビタール系の麻酔剤や、全身麻酔の薬が取揃えてあった。それを使って開いてみた。
「あれ、何だいこれは」
 皮を切って私はうろたえた。何が何だか分らないのである。
 赤い肉がごちゃごちゃと重なり、膿らしきものは見当らない。しかも、筋肉の所在が明瞭でないし、あまり深く切ると、腸を傷つけるのではないかと不安になった。私は途方に暮れ、
「おい。どうしよう」
「そう訊かれたって困りますよ。執刀医はムツさんだから、どうするのか自分で決めて貰わなければ」
 助手はてんで冷たいのである。私は、切口を引っ張ったりつねったりしてみたが、結論らしきものは出なかった。
「えい、思い切って!」
 メスを一閃、ズバリと切ってみた。分らなければ、分るようにしなければならぬ。手掛けた以上、原因をつきとめてやるのが情というものだ。傷口が三十センチになった。
 すると、見慣れた懐しい腹壁が現れたのである。胸のすぐ下で、腹直筋と外腹斜筋が見分けられた。とすれば、わけの分らぬ代物は、皮膚と腹壁の間に存在しているのだ。そこまで調べて私はやっと件の代物が腫瘍であろうと見当をつけた。
「大丈夫ですか」
「なるほど。おぼろげながら正体がつかめたぞ。こんなものを腹に入れていいわけがないから、ながら正体がつかめたぞ。こんなものを腹に入れていい切除してしまおう」
「なあに、腹壁の上ならことは簡単だよ」
 腫瘍が悪性のものであるのか良性であるのか、判別するのは容易ではない。私に出来るのは、止血しながら切ってしまうことだけである。
 切除には三時間かかった。傷が古く、治っては口が開き、閉じては開きしたものらしく、どうに惨憺たる有様だった。こぶしを三つ並べたほどもある肉塊を切出して開いてみたら、管状になった腫瘍が三つ複合し、ねじれ合って一つになっていた。
 切ってしまうと犬は元気になった。お腹がペソリとしてスマートになって、食もすすむようになった。素人の治療でもたまには功を奏すこともあるようだ。

 ずいぶん悪戦苦闘、試行錯誤している様子が伝わってくる。


 ほんの百数十年前までは人間の医療もこんな感じだったんだろうな。

 よくわかんないけど切ってみる。なんだかわからないけど悪そうなものがあるから切り取ってみる。切ったらうまくいったから次回もそうする。切ったら死んじゃったから次はもうやめとく。医療ってその歴史の大部分は「勘でやってみる。だめでもともと」で成り立っていたんだろう。

 でも今はそんなやりかたをとるわけにはいかない。人間相手なら当然、動物相手でも、世間的に許されないんじゃないだろうか。たとえ法的にはOKでも。

 畑正憲氏は、見よう見まね、試行錯誤、実践あるのみ、だめでもともと、というやり方で医者ができた最後の人かもしれない。


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