2025年8月19日火曜日

【読書感想文】松岡 享子『子どもと本』 / 物語の種明かしをするなよ

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子どもと本

松岡 享子

内容(e-honより)
財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳、創作、研究をつづける第一人者が、本のたのしみを分かち合うための神髄を惜しみなく披露します。長年の実践に力強く裏付けられた心構えの数々から、子どもと本への限りない信頼と愛が満ちあふれ、読者をあたたかく励ましてくれます。


 今から60年ほど前のアメリカの児童図書館で勤務し、日本に帰国後も児童向け図書館の設立などに携わった著者によるエッセイ。

 前半は「あたくしはこんな苦労をしてきたのよ」ってな感じの話が長々と続くので、あーおばあちゃんの自分語り本かーこれはハズレだなーとおもっていたのだが、中盤の児童文学論はおもしろく読めた。



 口承の物語について。

 ストーリーテリングの研究者で、恵まれた語学の才能を生かして、世界各地の語りの実状を調べたアン・ペロウスキーさんから聞いた話ですが、語りの伝統が生きているアフリカでは、たいていの子どもたちが、ひとつやふたつ物語を語ることができるものだそうです。ところが、地域に学校ができて、子どもたちが字を習うようになると、語れなくなってしまう、というのです。どうやら、わたしたちは、文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失うのではないかと考えざるをえません。失うというよりは、その能力を十全に発達させる機会を失うということでしょうか。その「失う」能力は、実は、読書のためには欠かすことのできない力ことばをこころに刻む力、ことばに対する信頼、想像力を目いっぱい伸ばしてことばの奥に世界を創り出す力なのです。
 学校へ行くまでに、人より半年、一年ほど字をおぼえるのが早かったり、遅かったりすることが、十年後にどれほどの差を生むでしょうか。子どもが興味をもって習いたがったり、ひとりでにおぼえてしまったりするのはよいとして、耳からのことばをまず蓄えるべき幼児期に、無理に字を教え込もうとすることは、けっして賢明なことではないと思います。

「語りの伝統が生きているアフリカでは」ってめちゃくちゃ雑なくくりかただなー。さすが戦前生まれ(これも雑なくくり)。

 それはさておき。

「文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失う」というのは興味深い考察だ。というのも、最近似た話を読んだからだ。

 鈴木 宏昭『認知バイアス』によれば、多くの幼児には写真のように見たものをそのまま記憶する能力があるのに、成長して言語を習得すると同時にその能力は失われてゆくのだそうだ。

 幼児は未熟で大人になるにつれ様々な技能を身につけていく、つまり成長とは一方的な能力アップだと思いがちだが、案外そうでもないのかもしれない。多くのステータスはアップするが、中には能力ダウンするステータスもあるのではないだろうか。


 うちの下の子は小学一年生だが、今でも寝る前には本の読み聞かせをしている。すると一度聞いただけの言い回しを正確におぼえていたりして、驚かされることがある。

 ぼくはまとまった文章を読んで内容を理解するのは得意な方だと自負しているが、その反面、他人の話を聞いて理解するのはめっぽう苦手だ。仕事でセミナーを聞いたことがあるがまったくといっていいほど頭に入ってこない。学生時代も、授業を聴くのをやめて教科書を読んで独学するようにしてからぐんぐん成績が上がった。

 そんな、「耳よりも目から情報を入れるほうが圧倒的に得意」なぼくからすると信じられないぐらい、娘は耳から聞いた情報をしっかりおぼえている。学校で先生から言われたこともちゃんと伝えてくれる。ぼくなんかまったく聞いていなかったのに。

 娘は一年生なのでもう一人で(ふりがながあれば)本を読めるが、それでもまだ耳から聞くほうが得意なのだろう。なのでぼくのところに「本読んでー」と持ってくる。

 そのうち目で読むほうが得意になって、父親のもとに「本読んで―」と言ってくることもなくなるのだろう(上の子はもうない)。さびしいことだ。




 昔話の特性について。

 また、リュティは、昔話の主人公には個性がないといいます。それは彼らに名前がないことからもわかるでしょう。昔話に登場する人物は、ただ「男とおかみさん」、「王さまとお妃さま」であって、名前がある場合でも「太郎、次郎、三郎」「ジャック」「イワン」など、性別や、兄弟の順を示すだけのもので、それらの人物の年齢、顔かたち、背格好、さらには、性格や、好みなどがくわしく描写されることはありません。せいぜい「世界一美しいお姫さま」「見あげるような大男」といった程度です。これらの人物は、ひとりの人間であるより、ひとつのタイプを示していると考えられます。
 タイプである人物には、「いいおじいさんと、わるいおじいさん」「やさしいおかあさんと、意地悪なまま母」「働き者の姉に、怠け者の妹」というふうに性格も極端に色づけされています。現実社会では、善良と見える人が、別の場面ではずるく立ち回ったり、相手によっては悪意をもって行動したりと、ひとりの人間のなかに違う性質が重層的に存在しているわけですが、昔話では、複雑なものを単純化し、ひとつの性質をひとりの人物にあてはめ、それをひとつの平面にならべて、違いを際立たせて見せています。リュティは、これを「平面性」と呼んでいます。単純になったことで、人の性質がつかみやすくなり、個性の縛りのないことで、聞き手(読者)の主人公との一体化が容易になります。これも、昔話が子どもに受け入れられやすい理由のひとつです。

 なるほどね。たしかに昔話の悪人って「四六時中悪いことを考えている徹底した悪」として描かれるよね。

 でも現実の悪はそんなんじゃない。たとえば賄賂を贈って東京オリンピックを誘致したやつらはすっごい悪だけど、一部の業界には利益をもたらしてくれる“いい人”なわけだし、家に帰れば善良な父や母や友人であったりするのだろう。

 大人になると、「いいやつに見えて悪いことをしてるやつ」が成敗される物語のほうがおもしろいけど、子どもにとってはもっと単純なほうが理解しやすくておもしろいのだろう。そういえばうちの子も小さいとき、映画などを観ていると「これいい人? 悪い人?」と聞いてきたものだ。すべての人はどちらかに分類できるとおもっているのだ。


 最近のディズニー映画やドラえもん映画などを観ていると、“完全なる悪”が減ってきているのを感じる。少子化の影響や大人もアニメを観るようになった影響だろう、ディズニーやドラえもんの映画でも「一見いい人の顔をして近づいてくるけど実は悪だくみをしている敵キャラ」や「こっちサイドにとっては悪だけど向こうには向こうの事情があって形は違う理想を描いている敵キャラ」が出てくる。敵に深みがあると物語に奥行きが出て大人にとってはおもしろいんだけど、はたして子どもにとってもおもしろいんだろうか。

 たとえば白雪姫の妃やフック船長のような、「己の欲望にしか興味のない、誰がどう見ても悪いやつ」のほうが、子ども向けコンテンツの敵役にはふさわしいんじゃないだろうか。

 近年はアニメ映画なんかがヒットしているけど、ほんとに子ども向けのコンテンツはかなり少なくなっている気がする。




 昔話、おとぎ話における“先取り”について。

 ビューラーは、予言、約束と誓い、警告と禁止、課題と命令、の四つを効果的な先取りの様式としてあげています。なるほど、「いばらひめ」は、予言が軸になって物語が展開しますし、「おおかみと七ひきの子やぎ」は、警告と禁止がきっかけで物語が動きはじめます。そのほかの項目についても、少しでも昔話に親しんでいる人なら、すぐにいくつかの例を思いつくでしょう。もし、首尾よくこれをなしとげたら、三つのほうびを約束しておこう。この三つのなぞを解いたら、娘を嫁にやろう。ほかはよいが、この扉だけは開けてはならぬ。これをなしとげるまで、けっして口をきいてはならない。ひとことでもしゃべれば、命はないぞ……。
 これらは、昔話のなかで、わたしたちが何度も耳にすることばです。そして、これらのことばが発せられるたびに、わたしたちの心には、期待、不安、怖れなどの感情が生まれ、緊張感をもって話の先へ注意を向けることになるのです。
 
 (中略)
 
 一般的にいって、子どもたちの注意の集中力は長くありません。先を見通す力も十分ではありません。そんな子どもたちに、話の先を知らせ、注意をそらすことなく、いつも話の中心に関心をひきつけておく、それが先取りの方法だと思います。先取りの示すヒントに従っていけば、注意力の散漫な子どもでも、話についていけます。
 歩きはじめた子どもは、いきなり長い距離を歩きとおすことはできません。でも、母親が、ちょっと先に立って、手招きしてやれば、そこまではたどりつくことができます。そして、母親がそのたびに、少しずつうしろへ下がって同じように誘えば、そこまで、またつぎのところまで……と歩き、結果として、かなりの距離を歩くことになるでしょう。先取りは、この母親役なのです。幼い子でも、昔話であれば集中して聞けるのは、この先取りがうまく作用しているからではないでしょうか。

 たしかにね。昔話って、この「予言」あるいは「警告」が頻繁に出てくる。「○○するだろう」と言えばその通りになるし、「決して××してはいけない」と言えば必ず××することになる。

 あれは物語におけるガイド役なんだね。歩くときに子どもの手を取って「そこに段差があるからこけないように気を付けて」「車が来るからちょっと待ってね」と先導してやるように、上手に歩けるように助ける役割を果たしているわけだ。

 毎日絵本の読み聞かせをしているけど、気づかなかったなあ。




 著者のエッセイ部分で、大きくうなずいたところ。

 国語力をつけるという面では、多くを負っている先生なのですが、たったひとつ、恨めしく思うことがあります。それは、副読本でその一部を読んだメーテルリンクの「青い鳥」についての説明のなかで、作品がいわんとしているのは、幸福は結局家庭にあるということだと種明かしをしてしまわれたことです。
 それまで、どんな物語も、ただただ「おもしろいお話」として読んできたわたしに、これは手痛い一撃でした。ふぅーん、そうなのか! 幻滅といっていいのか、裏切られたといっていいのか、「青い鳥」が一瞬にして色あせた気がしました。F先生は、わたしがよもやそこまで幼いとは思っていらっしゃらなかったのでしょうが、大げさな言い方をすれば、これはわたしの読書生活史のうえで、無邪気で幸せな子ども時代の終焉を告げる忘れがたい出来事でした!

 そうそう、物語って教訓とか意図とかを言語化されると急に色あせてしまうんだよ!

 以前にも書いたが(魔女の宅急便と国語教師)、物語に込められた作者の意図を説明してしまうという行為は、マジックの種明かしをするようなものだ。種明かしをされたら感心するし種明かしをするほうは気持ちいい。でも、それをしてしまうとマジックのおもしろさは永遠に損なわれてしまう。

 物語の種明かしはやめてくれよな! 特に国語教師!


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