2025年8月22日金曜日

【読書感想文】熊代 亨『人間はどこまで家畜か』 / 家畜化というより年寄り化じゃなかろうか

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人間はどこまで家畜か

熊代 亨

内容(e-honより)
自己家畜化とは、イヌやネコのように、人間が生み出した環境のなかで先祖より穏やかに・群れやすく進化していく現象だ。進化生物学の近年の成果によれば人間自身にも自己家畜化が起き、今日の繁栄の生物学的な基盤となっている。だが清潔な都市環境、アンガーマネジメント、健康や生産性の徹底した管理など「家畜人たれ」という文化的な圧力がいよいよ強まる現代社会に、誰もが適応できるわけではない。ひずみは精神疾患の増大として現れており、やがて―。精神科医が見抜いた、新しい人間疎外。

 精神科医による、“ヒトの自己家畜化”傾向と、それによって生まれる病理についての本。

 自己家畜化とは、たとえばイヌやネコがペットとして飼われるうちに人に好かれる特徴をより強く発露させるようになること。小さく、かわいく、噛まず、人の言うことに従う。野生で生きるには不利な特徴だが、ペットとしてはそういう特徴を持っている個体のほうが有利なので、世代を重ねるごとに増えていくらしい。

 そして、ペットだけでなく、ヒト自身が自己家畜化しているのではないか。より理性的、合理的で、安定した感情を持ち、衝動的・暴力的な行動をとることが減っているのではないか。

 これが“ヒトの自己家畜化”だ。この著者の熊代亨氏が言いだした概念ではなく、もっと前から提唱されている考え方だ。


『人間はどこまで家畜か』の前半では、数々の文献などをもとに「ヒトが自己家畜化している」根拠をあげていく。

 正直、このパートはちょっと強引だ。「ヒトは自己家畜化している」という結論ははじめから決まっていて、そのために都合の良い証拠を方々から集めてきているだけ、という感じがする。

 そもそも「自己家畜化」というワードの定義自体があいまいで、どうなったら自己家畜化なのか、どこまでは自己家畜化じゃないのか、という基準がない以上、著者の言ったもん勝ちじゃないのという気がする。


 論としては少々乱暴であるとはいえ、「ヒトが自己家畜化している」、もっとあけすけにいえば「飼いやすい存在になっている」こと自体はぼくの感覚とも一致している。

 もし、自分が絶大な力を持つ宇宙人で地球人たちを支配するとしたら、千年前の地球人よりも現代の地球人のほうが支配しやすそうだもん。

 ここ数十年に限っても、古い本や映像を見ると(それが生活の一部しか描いていないことはさしひいても)昔の人って現代人よりもずっと暴れている。他人にからんだり、暴力をふるったり、徒党を組んでものを壊したり、そういうことをするハードルが今よりずっと低い。人々がルールを守って暮らしている社会のほうが暮らしやすい可能性は高い。もちろんそれはルールが適切であることが条件なので、ルールに従順であることが必ずしもいいとは言えないけれど。

 我々がテレビで昭和の映像を見て「昭和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうように、五十年後の人々もまた「令和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうことだろう。またそうあってほしい。それはすなわち社会から暴力、暴言、怒りの発露が消えてゆくことだから。




 ただ人々の「自己家畜化」により多くの人にとっては生きやすい社会になったとしても、それがすべての人の救済になるかというと、それはまた別の話である。

 ただし、進化にはさまざまな制約もあります。人間の身体は哺乳類共通のメカニズムから成り立っていて、そのひとつが衝動や感情です。読者の皆さんも身に覚えがあるでしょうけど、これらは私たちを穏やかならざる行動へと導いたり、理性では制御しづらい気持ちを生み出したりします。どんなに進化しても人間が哺乳類をやめられるとは思えませんから、これからも人間には衝動や感情がついてまわるでしょう。そのうえ人間は世代交代に長い時間がかかるため、進化のプロセスも非常にゆっくりとしか進みません。ラジオの時代からテレビの時代へ、そしてスマホの時代へと早足で変わっていく文化や環境の変化に比べれば、過去に起こった自己家畜化のスピードも、現在進行形で起こっているだろう自己家畜化のスピードも、スローベースと言わざるを得ません。
 だから自己家畜化というトピックを眺める時、私はこう思わずにいられないのです。文化や環境が変わっていくスピードが速くなりすぎると、人間自身の進化のスピードがそれに追いつけなくなるのではないか? 実際、現代社会はそのようになってしまっていて、動物としての私たちは今、かつてない危機に直面しているのではないか? と。
 たとえば令和の日本社会は暴力や犯罪が少なく、物質的にも豊かで、安全・安心な暮らしが実現しています。過去のどんな時代より法や理性に照らされたこの社会は、一面としてはユートピア的です。ところがその裏ではたくさんの人が心を病み、社会不適応を起こし、精神疾患の治療や福祉による支援を必要としているのです。
 精神医療の現場にいらっしゃる患者さん(以下、患者と略します)の症状から逆算するに、現代人はいつも理性的で合理的でなければならず、感情が安定しているよう期待されているようです。都会の人混みでも落ち着いていられ、初対面の相手にも自己主張でき、読み書き能力や数字的能力も必須にみえます。ですが、それら全部を誰もが持ち合わせているわけではなく、このユートピアでつつがなく生きるのもそれはそれで大変です。

 かっとなって大声を出したり、手を出したりするのは良くない。冷静になるべきだ。できることなら感情的にならないほうがいい。多くの人が賛成するだろう。

 だが、ついつい大声を出したり手を出したりしてしまう人がいるのもまた事実。直したほうがいいけど、かんたんに直せるものではない。そういう人の居場所はどんどん減っている。昔はもっと“荒くれ者たちが働く職場”があったはず。

「理性的な行動ができない人」が減るのはいいことかもしれないけど、「理性的な行動ができない人の居場所」まで減るのはいいことなのだろうか。


 家畜化というより、規格化といったほうがいいかもしれない。昔は大きさも形もばらばらだったキュウリが、今では大きさも形もそろったものばかりスーパーに並ぶようになったもの。それはつまり“スーパーの棚に並ぶことのできないキュウリ”が増えたことを意味する。




 著者は精神科医の立場から「自己家畜化」の流れについていけない人たちの処遇を心配するが、中でも子どもたちの社会への適応について警鐘を鳴らす。

 確かに文化や環境は人間の行動を変え、世代から世代へ受け継がれ内面化されながら洗練の度合いを高めてきました。しかし変わっていったのは大人たちの行動、それと子どもたちに内面化されていくルールまでです。新しく生まれてくる子どもは必ず、生物学的な自己家畜化以上のものは身に付けていない野生のホモ・サピエンスとして、〝文化的な自己家畜化〟という観点ではいわば空白の石板として生まれてきます。
 赤ちゃんは本能のままに夜泣きや人見知りをし、母親の抱っこを求めます。危険や外敵の多かった時代には、そのような行動形質こそが生存しやすく、夜泣きも人見知りもせず抱っこも求めない赤ちゃんは自然選択の波間に消えていったでしょう。
 ところが赤ちゃんの行動形質は現代社会ではまるきり時代遅れです。第二章でも参照した進化生物学者のハーディーは、著書『マザー・ネイチャー』のなかで、働く母親にとって都合の良い架空の赤ちゃん像を描いてみせましたが、それは朝夕に簡単な世話さえすれば良く、昼間は放っておいても構わない、そのような赤ちゃん像でした。
 今日の文化や環境に最適で、社会契約や資本主義や個人主義にも都合の良い赤ちゃんとは、きっとそのようなものでしょう。しかし実際の赤ちゃんは文化や環境の手垢がついていない状態で生まれてきますから、そんな行動形質は望むべくもありません。
 幼児期から児童期の子どもも、まだまだ真・家畜人には遠いといえます。教育制度ができあがる前の子どもたちは、大人たちの手伝いや集団的な遊びをとおしてルールも技能も身に付けていきました。第一章でも触れたように、人間の子どもは文化や環境をとおしてルールを内面化したり、年長者を模倣したりする点ではとても優れています。しかし、教室に静かに座って学ぶのは教育制度以降の新しい課題ですし、拳骨を封じること、感情や衝動を自己抑制することも近現代以前にはあまりなかった課題です。
 現代社会は座学のできない子どもを発達障害とみなし、感情や衝動を自己抑制できない子どもを特別支援教育の対象とするでしょう。ですがそれは、社会契約の論理が子どもの世界にまで闖入した管理教育以降の文化や環境に適応できていないからであって、ホモ・サピエンスのレガシーな課題に適応できていないからではありません。

 社会がより洗練された人々を求めるようになった結果、社会に適応できない子どもが増えた。なぜなら子どもは動物として生まれてくるから。

 だから発達障害とみなされる子どもが増えたのではないか、と疑問を投げかける。




 ここまで読んで「『自己家畜化』というより『年寄り化』じゃないのか」とおもった。

 社会はどんどん年寄り化している。

 暴力的でない、感情を抑制して冷静、理性的。これって一般に年寄りの特徴じゃないか。脳が壊れてすぐキレちゃう老人もいるけど。

 少子化、超高齢化で社会の平均年齢がどんどん上がっていることと関係あるのかわからないが、社会はどんどん年寄り化している。だから子どもほど社会に適用できない。

 昔は十数年で「社会が求める大人」になれたが、社会が年寄り化して求められる精神年齢が上がった。二十代なんてまだまだ子ども。だから大人のルールについていこうとするとそのギャップに苦しむことになる。


 ぼく自身のことを考えても、歳をとって生きやすくなった。自己顕示欲や性欲や社会の矛盾に対する怒りが薄れて、年寄り化した社会の求める“大人”の姿に近づいていったから。

 今の日本において、人口のボリュームゾーンは50代だ。40~70代ぐらいの人が「平均的」とされる。10代、20代が社会に適応しづらいのもあたりまえかもしれない。

 すまんなあ、若者たちよ。


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