岸本佐知子(翻訳家)のエッセイがめっちゃくちゃおもしろいので買ったのですが、いやあ、やっぱり奇才・岸本佐知子が訳そうと思うだけありますね。
これも異常な小説でした。
誰にでも薦められる小説ではないけど、人によってはものすごくおもしろく感じると思います。ぼくはこういうの大好きです。
◆ 異常なとこ 1
ほんとに何も起こらない。
昔、井上ひさしの『吉里吉里人』を読んだときに、数百ページを費やして2日しか経たないので、「なんて話の進行の遅い小説だ!」と思ったものですが、『中二階』はその比じゃない。
なにしろ、主人公がエスカレーターに乗るところではじまり、エスカレーターを降りるところで終わる。その間、エスカレーターが止まったりするようなトラブルもない。ただ主人公がエスカレーターに乗っている間に考えたことをひたすら書いているだけ。
そういう実験的な小説はほかにもあると思います。「ものすごく短い時間に起こったことを長々と書く」という思いつき自体はそこまでめずらしいものではないでしょう。
でもそういう実験的小説はたいていおもしろくない(おもしろくないから手法として定着せずに実験で終わるのでしょう)。
『中二階』はちゃんとおもしろい小説としても成立しているのがすごい。これはかなりめずらしい実験成功例ですね。
◆ 異常なとこ 2
注釈の多さ。
量も多いが、ひとつあたりの長さも尋常じゃない。
5,000字以上にわたって長々と注釈が続いていたりする(しかもその注釈の中でさらに脱線して余談の余談になったり)。
もう読みづらいことはなはだしい。
でもその注釈が本編と同じくらいおもしろいので読み飛ばすわけにもいかないのが困ったものです。
しかし数ページにまたがって延々と注釈が続いていたりするので、編集者はレイアウトを組むのに苦労しただろうなあ。
◆ 異常なとこ 3
視点の細かさ。
アメリカ人っておおざっぱでがさつなやつらだとぼくは思っているのですが(そしてだいたいあっているんですが)、ニコルソン・ベイカーという人はアメリカ人作家とは思えないぐらい細かい。
両脚の靴紐が同じ日に切れたことについて、「同じ日に切れる確率はどれぐらいか」「どういった動作をしたときに靴紐にどの程度の力がかかるのか」といつまでも考えています。もうこの小説のはじめっから最後まで、ことあるごとに靴紐のことを考えていて、しまいには「1年のうちで靴紐が切れることについて考えるのは何回ぐらいだろう」と考えます。
ほとんど「靴紐が切れることについて考える小説」だといってもいいぐらいです。
ところでこの小説が発表されたのが1988年。
「たいしたトピックのない文章」「注釈の多い文章」「ものすごく視点の細かい極私的な文章」というのは、今ではWeb上にあふれています。
FacebookやTwitterのテキストはほとんどが内容の薄い私的な日記ですし、リンクは注釈に相当しますしね。
とすると、1988年発表の『中二階』がインターネット時代のテキストの氾濫を予想していたというのは考えすぎでしょうか......、
考えすぎですね、はい。
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