なぜだろう。
お店のシャッターに貼られたお知らせを見ると泣きそうになるのは。
『喫茶シャンゼリゼは□□月□□日をもちまして閉店いたしました。長い間ご愛顧ありがとうございました』
この手の貼り紙を見ると、つい足を止めて見入ってしまう。
「そっか……。閉店か……。
ちくしょう、なんで店をたたむ前にぼくにひとこと相談してくれなかったんだよ!」
と叫ばずにはいられない。
深夜1時。
喫茶店シャンゼリゼの店主、山井伸彦(仮名)は部屋の灯りもつけずにじっと目を閉じていた。
もう決めたことだ。今さらどうなるものでもない。わかってはいるが、身体が石にでもなったように動かない。
しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。伸彦は痛む腰を押さえながら座布団から立ち上がった。
たしかここにしまっておいたはず。階段下の物置部屋からすずりと筆を引っ張り出してきて、文机の上にならべた。
ふうっと深い息をついた。墨を手に取りすずりに当てる。
いつか絶対役に立つからと小学生のときに習わされていた書道。それがこんなときにやっと役に立つなんて。人生は皮肉なものだな、伸彦は苦笑した。
なんと書こうかと墨を動かしながら考えた。
未練がましいことは書きたくなかった。最後まで喫茶シャンゼリゼにはダンディーな店であってほしい。
考えがまとまらないうちに自然と筆が動きだした。
「喫茶シャンゼリゼは閉店いたしました。長い間のご愛顧ありがとうございました」
もっと気の利いたことを書きたかったが、結局ありきたりな文章になってしまった。だがそれが今の心情を過不足なく表しているように思えた。
これをシャッターに貼ればすべてが終わる。二十数年積み上げたことも、こんな紙切れ一枚で終わってしまうんだな。
思った瞬間、伸彦の目からは涙がとめどなく……。
そんな光景が貼り紙の奥に透けて見える。
伸彦(仮名)の苦悩や無念さが想像されて、途方もなく悲しくなる。
実際、酔っ払って帰ったときには、閉店したパン屋の前で涙を流してしまったことまである。
そのパン屋を利用したことは一度もないのに。
これだけでもちょっとした異常者だが、だんだんエスカレートしてきて、最近では閉店のお知らせだけでなく、なんでもないお知らせを見ただけで涙腺が熱くなるようになった。
『お盆休みのため、八月十三日から十七日までは休業させていただきます』
の貼り紙を見ただけで
「そっか……。お盆休みか……。
ちくしょう、なんでひとこと相談してくれなかったんだよ!」
と条件反射的に悲しみがこみあげてくる。
ここまでいくとほとんどビョーキだ。自分でも気持ち悪いと思う。
そのうち『全品2割引!』とか『アルバイト募集』の貼り紙を見ただけで涙を流すようになるかもしれない。
べつにぼくは感受性豊かでも、情に厚いわけでもない。どちらかといえば冷たい人間だと思う。
葬儀中の家にでている「忌中」の貼り紙を見てもなんとも思わない。
ふーん、人間誰しも死ぬしねー、と思って5秒後にはもう忘れている。
なぜお店の貼り紙だけが心に響くのだろうか。
医者でも神でもないぼくが人の死をくい止めることはできないが、閉店や休業ならなんとかできたかもしれないと思うから、悔しいのだろうか。
だが実際には財力も人脈もないぼくには、お店がシャッターをおろすことさえ止められない。
なんて無力なんだろう。
ぼくにできることはただひとつ。
山井伸彦(仮名)のお盆休みが幸せなものになるよう、心から祈ること。
ただそれだけだ。
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