2023年1月31日火曜日

自分の心に正直に

 特急電車とかで、二人掛けの座席ってあるよね。


 あれ、困るんだよね。

 すいているときはいい。両方ともあいている席の、窓際に座る。

 混雑していてすべての席が埋まっている場合もいい。立っとくだけ。迷うことはない。


 問題は、ほどほどに混んでいて「両方ともあいている席はないけど、誰かの隣ならあいている」とき。

 どこに座るか。

 言いかえると、誰の隣に座るか。


 親しい友人でもいれば「おう、ひさしぶり。隣いい?」と隣に座るし、そんなに親しくない間柄なら隣に座ってもお互い気をつかうので気づかないふりをしてあえて避ける。

 でもまあそんな偶然はめったになく、ふつうは全員知らない人だ。


 おじさん、おばさん、おじいさん、若い男、若い女。おばあさんはあまりひとりで電車に乗っていない気がする。

 本音を言えば、若い女性の隣に座りたい。もちろんきれいな人に越したことはない。

 ことわっておくが、エロい気持ちだけが理由ではない(90%はエロい気持ちだが)。

 若い女性はたいてい細い。脚を広げて座ったりもしない。太っていて脚を広げて座るおっさんの隣よりも、どう考えても快適に座れる。

 だから肉体的にも精神的にも若い女性の隣がいい。


 が、ぼくにも見栄がある。

 おっさんがいくつもある座席の中からあえて若い女性の隣に座ったら、当の女性には「なにこのおっさん。いやらしいことするんじゃないでしょうね」とおもわれそうだし、周囲の乗客には「あのおっさん、わざわざ若い女性の隣を選ぶなんてエロいな。気持ちわりい」とおもわれそうだ。なぜそうおもうかというと、ぼくだったらそうおもうからだ。

 ということで、よほどのことがないかぎり、若い女性の隣には座らない。

 おじさんの隣や、若い兄ちゃんの隣を選ぶ。

 きっとぼくが横にきたおじさんや兄ちゃんは、「ちっ、おっさんかよ。どうせなら若くてきれいな女の人が来てくれたらよかったのに」とおもっているんだろうな。なぜそうおもうかというと、ぼくだったらそうおもうからだ。


 他の乗客を観察してみると、ぼくと同じように若い女性の隣を避ける男性はけっこう多い。

 どうせ電車で隣の席に座ったところで、ロマンスが起こるはずないのだ。だったら余計な気をつかう女性の隣よりも、無害そうなおじさんの隣のほうがいい。


 そんな中、一目散に女性の隣をめざすおじさんもいる。

 うわあ、あのおじさん、女性の隣に行ったよ。嫌がられるのわからないのかな。

 とおもうのだけど、心のどこかでそのおじさんをうらやましいとおもっている自分もいる。あんなふうに自分の心に正直に生きられたらいいな、と。



2023年1月30日月曜日

【読書感想文】パオロ・マッツァリーノ『サラリーマン生態100年史』 / 昔はマナーもへったくれもなかっただけ

サラリーマン生態100年史

ニッポンの社長、社員、職場

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
「いまどきの新入社員は…」むかしの人はどう言われていたのか?ビジネスマナーはいつ作られた?忘年会、新年会はいつ生まれた?こころの病はいつからあったのか?いったい、この100年で企業とサラリーマンは本当に変わってきたのか?会社文化を探っていくと、日本人の生態・企業観が見えてくる。土下座の歴史をはじめ、大衆文化を調べ上げてきた著者が描く、誰も掘り下げなかったサラリーマン生態史!


 少し前に堀井憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス』という、日本におけるクリスマスの歴史について調べた本を読んだ。知っているようで知らないクリスマスの話が盛りだくさんで、おもしろかった。

 戦争とか天災とかイノベーションのような出来事はよく調査されて語られるけど、クリスマスのような「身近すぎるもの」について、まとまった研究をする人は少ない。みんなそこそこ知っているから、わかった気になってしまう。今、自分のまわりに見えるものがすべてだとおもってしまう。

 だから、歴史の改竄(というより認識違い)は、戦争のようなビッグイベントよりも平凡な出来事のほうが意外と起こりやすいのかもしれない。


 で、サラリーマン史である。

 ものすごく身近な存在だ。今ではサラリーマン人口は全労働者の半数以上を占める。ほとんどの人は、サラリーマンであるか、サラリーマンであったか、これからサラリーマンになるか、家族にサラリーマンがいるかだ。

 そんな〝あたりまえ〟のサラリーマンについて、ふつうの人はわざわざ調べようとおもわない。もうだいたい知っているから。それをことさら調べるのがパオロ・マッツァリーノ氏。「歴史のあたりまえ」を疑うのが好きな自称イタリア人だ。




『サラリーマン生態100年史』を読んでいておもうのは、いつの時代も人間のやることはたいして変わらないのだな、ということ。

 戦前も、戦後も、高度経済成長期も、バブル期も、バブル崩壊後も、サラリーマンのやっていることは今と大して変わらない。もちろん仕事の内容や使う道具は変わるが、サラリーマンの生態はそんなに変わらない。

 食うために働き、隙あらばサボり、なんとかして会社の金を自分のものにしようとし、かといって安定を失うほどの大それた悪事はせず、上には文句を言い、下には小言を言っている。いつの時代も同じだ。

 たとえば、新入社員を表した言葉。今どきの新入社員は、教養がない、礼儀がなってない、えらそう、指示を待っているだけ、野心がない……。戦前も、戦後も、今も、言っていることはずっと同じ。いつの世もおじさんにとって若いやつは気に入らない存在であるらしい。こんなやつらで大丈夫かと憂いている。そしてその若いやつらがおじさんになって、また文句を言う。おそらく何万年もくりかえされてきた営みだ。

 もしもおじさんたちが口をそろえて「今どきの新入社員たちは立派だ! 安心して仕事を任せられる!」と言いだしたら、そのときはほんとに社会があぶないかもしれない。




 昔の満員電車はひどかった、という話。テレビでも昔の通勤風景を見たことがあるけど、そりゃあひどいものだった。今の満員電車の比じゃない。

 なにしろ『サラリーマン生態100年史』によれば、ほぼ毎日電車の窓が割れてけが人が出ていたとか、靴が脱げて行方不明になる人が多かったから駅ではサンダルの貸し出しサービスをして毎日利用者がいたとか、乗客が多すぎるときは車掌の判断で駅を飛ばしていたので駅によっては何十分も電車が止まらなかったとか、今では想像もつかないような話が出てくる。

 きっと死者だっていたんじゃないかなあ。おそるべし昭和。

 いま書店のビジネス書売り場では、「通勤電車で学べる○○」みたいな本がたくさん並んでます。その手の本が増えたのも八〇年代後半からでした。それ以前はほとんどありませんでした。というのは、あまりに電車が混んでいて本も読めない状態だったから。混雑が解消されたことで、化粧をしたり本を読んで勉強したりする余裕ができたのです。
 テレビでおなじみの脳科学者は、電車で化粧をするのは若者の前頭葉が退化したせいだなどと決めつけてましたけど、完全にまちがい。電車で化粧する女性がいることは、大正時代から昭和初期にかけても問題になっていました。それが戦後高度成長期に消えたのは、電車がむちゃくちゃ混んでただけのこと。日本女性の道徳心も脳機能も戦前に比べて低下などしてません。根拠もなく非科学的なウソを広める科学者にこそ、脳機能の精密検査をおすすめします。
 一九六〇年代には、通勤電車の混雑率が三〇〇パーセントを超えていました。新聞雑誌に、圧死アワー、酷電、痛勤、家畜車など、通勤地獄を描写するさまざまな表現が登場したのもこのころです。

 なるほどね。昔の人はマナーが良かったのではなく、電車が混みすぎてたから「電車で化粧をするOL」も「足を広げて座るおじさん」も存在できなかっただけ。そりゃそうだ。混雑率300%の電車でマナーもへったくれもない。




 ぼくは音痴なのでカラオケが大嫌いで、以前会社の宴会の後の二次会でむりやりカラオケにつれていかれてずいぶん嫌な思いをした。

 そんなわけでカラオケに対しては憎しみに近い感情を持っていたのだが、昔の宴会のことを知ってちょっとカラオケに対する印象が変わった。

 批判の声もあったものの、カラオケの登場によって無芸のサラリーマンが救われたのも事実です。カラオケはシロウトが歌いやすいようにキーなどを調整してあるので、多少のヘタはカバーしてくれます。ヘタでもとりあえず一曲歌っておけば、場をシラケさせることもありません。OLさんも以前のようなセクハラ宴会芸に悩まされることはありません(デュエットの強要をセクハラと見るかは議論がわかれますが)。

 カラオケ以前の宴会では、かくし芸や長唄や小唄など、一芸を披露させられることが多かったのだ。歌も、カラオケセットがないってことはアカペラで。

 うひゃあ。素人のへたな歌をアカペラで。歌わされるほうも地獄なら、聞かされるほうも地獄。

 いやあ、カラオケがあってよかったー。ま、宴会が悪いというより昔のパワハラ体質が悪いんだけど。




 戦前の出張について。

 ラクなのは視察が目的の出張で、これは報告書さえきちんと書けばいい。でも、なにかを売ってこい、買ってこいと命じられると、結果を出さねばならないのでなまやさしいことではない、とまあ、これはいまでもうなずける話。しかし、女工や鉱夫など、人を集めてこいって課題がもっともむずかしいというくだりは、ネットで求人できてしまう現在ではあまり聞かないかもしれません。
 人跡未踏の開墾地に行き、不景気で困っている百姓に声をかけたり、鉄道工事が終わったばかりの現場に駆けつけ、仕事が一段落した朝鮮人の人夫をもらい受けて炭鉱の鉱夫として連れて行くなんてのは、「その仕事のいわゆる下品なことお話に相成らぬ」とこぼします。大学を出て就職したのに、人買いみたいなまねをしなくちゃならないのは沽券に関わるとでもいいたいようで、露骨に差別的ではありますが、大量の肉体労働者を必要とした炭鉱が基幹産業だった時代ならではのサラリーマン物語。

 うわあ。こんなことまでしてたのか。「人買いみたいなまね」っていうか人買いそのものじゃねえか。

 まあそりゃそうだよな。求人サイトどころか求人誌もない時代だもんな。大量に人を採用しようとおもったら、人が集まるところに行って声をかけるのがいちばんだよな。

 でもこういう採用活動が成り立っていたってことは、当時は「誰にでもできる仕事」がたくさんあったってことだよね。だって外見以外何にもわからない人に声かけるわけだもんね。「力がありそう」とか「金に困ってそう」ぐらいしかわかんないもんね。

 一部の人以外は就活だとか自己分析とか面接想定問答とか無縁の時代だったんだろうな。ある意味、いい時代だったのかもしれない。とはいえそうやって就いた仕事がめちゃくちゃひどい労働環境だったりもしたんだろうけど。




 さっきも書いたけど、サラリーマンなんて、いや人間なんて、百年たっても中身はぜんぜん変わらないのだとわかる。行動原理も思考方法もたいして変わらない。

 でもまあ、あからさまな差別だとか、セクハラだとかパワハラだとか無意味な上下関係だとかはちょっとずつではあるけど減ってきているわけで、長期的には良くなっていってるなと感じる。

 怪我するぐらいの満員電車に詰めこまれて、接待や麻雀に遅くまでつきあわされて、宴会で一芸を披露しなくちゃならない昭和の時代にサラリーマンをやってなくてほんとによかった。精神を病んでいたとおもう。

 あ、この本によると精神を病んでいたサラリーマンは昭和時代も戦前もいっぱいいたそうだ。そりゃそうだ。「昔はこれがあたりまえだった。今の若いやつは甘えてる」なんて戯言を信じちゃいけません。昔だっていっぱい精神を病んで、いっぱい自殺してるんです。たまたま生き残ったやつがえらそうにしてるだけで。

 

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2023年1月27日金曜日

きょうだいの上が損か下が損か

 きょうだいの上が損か下が損か問題ってあるじゃない。

「上の子は『おにいちゃん/おねえちゃんだから我慢しなさい』と言われて損だ」とか

「下の子は、上の子のおさがりばっかりで損だ」とか。

 誰しも何度かは耳にしたことのある話題だろう。


 あれ、たいていきょうだいのいちばん上は「上のほうが損だ」と言うし、下の子は「下のほうが損だよ」と言う。

 みんな、自分が損したことのほうが得をしたことよりも強く記憶しているのだ。


 あの問題、もちろん家庭によってちがうんだろうけど、一般的にはきょうだいの下のほうが得だとおもう。弟のぼくが言うんだからまちがいない

 うちは年子で、ぼくと姉は学年でひとつしか変わらない。ひとつしかちがわないのに、姉のほうがよく我慢させられていたようにおもう。うちの親は「おねえちゃんだから」と言う人ではなかったが、それでもやっぱり姉のほうが割を食うことが多かった。

 家族でゲームをしていて、ぼくが負けると泣いて収拾がつかなくなるので勝たせてもらっていたこと。

 姉が誕生日に、当時はやっていたローラースケートを買ってもらった。そのときぼくも「ほしい!」と駄々をこねてぼくの分までいっしょに買ってもらえたこと(そしてちゃっかり自分の誕生日には別のプレゼントをもらった)。

 友だちが遊びにきたときに姉の持ち物を壊したこと。

 そのほか数えあげればキリがないが、ぼくが姉に迷惑をかけたことのほうが、その逆よりもずっとずっと多かった。

 姉からするとずいぶん理不尽な我慢を強いられただろう。一学年しか変わらないから、権利だけは姉と同じものを要求するくせに、義務のほうは年下を理由にちゃっかり回避する弟。憎かったにちがいない。


 第一子が得をするのは、弟妹が生まれるまでの間ぐらいかな。周囲の愛を独占できる時期。

 が、そんなものはほとんどおぼえていない。だいたい、周囲からの期待やプレッシャーを一心に受けることがいいとは一概にはいえないだろうし。

 家庭によるとはいえ、やっぱり一般的には第一子が損をすることのほうが多いとおもうな。


2023年1月25日水曜日

できない人は指導しなくていい

 最近、こんなブログ記事を見た。


入社二年目の社員に仕事を振るが、数日たってもぜんぜんできていない。その時点ではまだ叱責はせず、何をやったのかを尋ねても返答がない。何がわからなかったのか尋ねると、検索すれば一分でわかるようなことがわからず困っていたとの回答。調べるでもなく、人に訊くでもない。こいつは使い物にならないんじゃないか。


 それに対し、いくつものコメントが寄せられていた。賛否両論。

 大きく分けると、

「それはその二年目社員が悪い。またはそいつをその部署に配属したやつが悪い」という意見と、

「それは指導する側(つまりブログの書き手)が悪い。数日放置するのではなく、もっと細やかに管理すればその二年目社員も成長する。育成するのが上役の仕事だ」という意見だ。


 もちろんブログの書き手以外は当事者たちの実際の働きぶりを知らないわけで、ブログの書き手側の見解だけをもとに判断しているわけだから、正確な判断などできるわけがない。みんなそれぞれ「自分の周りにいる、使えない二年目社員的な人」や「自分の周りにいる、能力の低い指導係的な人」などに当てはめて好き勝手ものを言っているだけだ。


 ぼくも実情を知らないから、上記ブログの件についてどっちが悪いとかこうしたほうがいいとか書ける立場にない(そもそもブログ主は愚痴としてつづっていただけで読者からの判断やアドバイスを求めていたわけではなさそうだった)。

 ただ「言われるまで何もしないし、やっても成果が低いし、わからなくても調べられないし、他人に訊くこともできない人」はたしかに存在する。

 その人が悪いとか言うつもりはない(悪い場合もあるが)。最初に彼を指導した人のやり方が悪かった(たとえば勝手に何かをやれば怒り、わからないことを質問してきたら怒るような指導者)とか、別の部署なら彼はもっと力を発揮できるのにまったく適性のない部署に配置した人事担当者が悪いとかかもしれない。

 誰がいいとか悪いとかでなく、人間の能力に差がある以上、こういうことは必ず起こる。

 大谷翔平をプロ棋士の世界に放りこめば「使えないやつ」だろうし、藤井聡太をプロ野球の世界に放りこめば「使えないやつ」になる。


 で、問題はそういう人の処遇をどうするかだ。

「言われるまで何もしないし、やっても成果が低いし、わからなくても調べられないし、他人に訊くこともできない人」に対して熱心に指導したってあんまり意味がない。

 指導すれば成長はする。20点だった人を熱心に指導すれば、30点をとれるようになる。

 でも、その間に「言わなくてもそこそこできるし、アウトプットも高いし、わからないときは自分で調べるし、それでもわからなければ他人に訊くこともできる人」のほうは70点だったのが90点をとるようになっていたりする。しかも放っておいても。

 差は詰まるどころか拡がっているのだ。

 そして、がんばって20点の人を30点に育てた結果、指導する側のアウトプットが80点から60点に落ちてしまったりする。アホだ。


 20点の人を30点にするのは、幼稚園や小中学校だったら大事なことだ。教育が目的だから。

 でもたいていの組織においてはそうではない。がんばって20点の人を30点にするぐらいなら、同じ労力をかけて70点の人に120点取らせるほうがいい。組織全体として見てもいいことだし、20点の人も性に合わない仕事でがんばらされるのはつらいだろう。120点の人は不満が残るかもしれないが、そこは給与や賞与で評価してやればいい。

 20点の人は20点のままでいい。放っておけばいい。


「数日放置するのではなく、もっと細やかに管理すればその二年目社員も成長する。育成するのが上役の仕事だ」

という意見に関しては、前段に関してはその通り、でも後段は誤り。それは義務教育の仕事。


 以前読んだ本によれば、アフリカなどの貧しい国では、努力して豊かになれるような仕事自体がそもそも国内にないので、まじめに働く人がすごく少ないのだそうだ。その代わり、一部のエリートは海外に出て、ものすごく稼ぐ。そうすると、エリートの親やきょうだいだけでなく親戚一同がそのエリートからの仕送りをあてにしてますます働くなる、ということがよくあるらしい。

 ずるいじゃん、とおもうかもしれないが、エリート本人が納得しているのであればなんの問題もない。

 月に100ドル稼ぐ人が200ドル稼げるようになることに比べれば、月に10,000ドル稼ぐ人が11,000ドル稼ぐようになるほうがずっとかんたんだ。そして後者のほうが収入増加額は10倍も多いのである。

 組織ってそれでいいとおもうんだけどね。カバーしあえるのが組織の強みでしょう。



2023年1月24日火曜日

子どもと仲良くなるコツは「なめられる」ことである

 何度か書いているが、ぼくは子どもと遊ぶのがうまい。

 まず、子どもと遊ぶことが苦にならない。父や伯父が子どもとよく遊んでくれる人だったので、大人の男たるもの子どもと遊べるようになって一人前、みたいな感覚を持っている。親になって「世間の大人は子どもと遊ぶことがあんまり好きじゃない」ことを知ったぐらいだ。

 何時間でも子どもと遊べる。きっと精神年齢が低いのだろう。子どもと対等に遊べる。かくれんぼも大縄跳びもけいどろも、わりと楽しく遊べる。「えらいですね」なんて言われるが、べつにえらくない。いっしょになって楽しく遊んでいるだけだ。

 よく会う子どもだけでなく、初対面の子どもと遊ぶのもうまい。たいていの子は三十分もすればぼくと全力で遊ぶようになる。さいしょはもじもじしていた子も、二時間もすればぼくのお尻を叩いてきたりする。


 子どもと仲良くなるコツは「なめられる」ことである。

 たいていの大人は、鷹揚な態度で子どもに接する。子どもが失礼なことをしても笑って許してやり、子どもの失敗をどっしりと受け止め、子どものご機嫌を伺い、常に優しくする。

 これは優しいようで、じつは相手を見下している。相手を下に見ているからこそ許すのだ。

 だってそうでしょう。友だちが自分の家のトイレに行って「まにあわなかった~」と言いながら床をおしっこでびしょびしょにして拭かずに出てきたらめちゃくちゃ怒るでしょ? でも二歳児が同じことをしたら、内心では「なにやってくれてんだよ」とはおもうけど「しょうがないね。次はもっと早く行こうね」なんて言って許すよね。本気で「おまえ何やってんだよふざけんなよ!」と怒鳴らない。いい大人は。

 寛容であるというのは、相手を見下しているからこそできることだ。若くて金のない若者が「飯おごってくださいよ~」と言ってきたらおごってやる余裕がある人でも、自分と同い年で自分よりモテて自分より幸せそうで自分より年収の高い人が「飯おごってくださいよ~」と言ってきたらむっとする。それは相手を下に見ていないからだ。自分と同等以上の人には寛容になれない。

 この「寛容=見下している」態度は、相手が子どもであってもちゃあんと伝わる。三歳ぐらいになると察する。この大人は優しくしてくれる。ということは自分より上の立場の存在だ、と。

 相手から、上の立場だとおもわれたらもう仲良くなんてなれない。社長から「今日は無礼講だから言いたいこと言っていいぞ」と言われても「正直、こんな安い飲み会じゃなくて早く帰らせてもらえて給料上げてくれるほうが百倍うれしいんですけど」とは言えないのと同じだ。


 ということで、子どもと仲良くなるために必要なのは「なめられる」こと、言い換えれば上に立たないことだ。

 まずは子どもにお願い事をする。「そこのお茶とって」とか「○○教えて」とか。お願い事をする局面においては、頼む側の立場が下で頼まれる側が上だ。子どもでもわかる。これにより自分の立場を下げる。

 それから、子どもに優しくしない。お願いをされても「いやだね」と断る。ゲームをするときは子ども相手にしっかり勝つ。さらに自慢する。子どもがミスをしたら「やーい、失敗してやんのー」などと言う。

 要するに「大人げないふるまいをする」ということだ。頼みをなんでも聞いてやるとか、わざと負けてやるとか、なにをされても「大丈夫だよ」と笑って許してやるとか、そういう「大人なふるまい」をしない。「ちょっといじわるなライバル」としてふるまう。「ほーらおじさんはこんなにうまくできたよ。すごいでしょ。君にはできないでしょ」なんて大人げない言葉を口にする。

 こうなると子どもも目の色が変わる。眼の前にいるのはいつでも優しくしてくれる大人ではない。にっくきライバルである。本気で対峙しなくては勝てない。


 その上で、うまく手を抜いて負けてやるのだ。

 そうすると子どもは「この大人はわざと勝たせてくれたのだ」とはおもわない。なにしろ相手は優しい大人ではなく、いじわるなライバルだ。「本気で自分を負かそうとしてくるにっくきライバルを自分の力で打ち破ったのだ」とおもう。本気で喜ぶ。

 負けたら悔しがる。そうしないと、勝たせてやったことがばれてしまう。悔しがり、次は勝つ。そしておおげさに喜ぶ。相手を悔しがらせる。

 ただ六歳ぐらいになると、うまくやってもわざと負けていることを見抜かれてしまう。そんなときはハンデを与える。その上で全力を尽くす。それなら、手を抜くことなく、負けてやることができる。勝ったときは相手を悔しがらせることができる。


「子どもといっぱい遊んでくれる優しいおとうさんですね」なんて言われるが、じっさいはまったくの逆だ。まったく優しくない。いじわるなおじさんだ。だからこそ遊べるのだ。


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四人のおとうちゃん