2021年12月2日木曜日

【読書感想文】さくらももこ『たいのおかしら』 ~自分をよく見せない文章~

たいのおかしら

さくらももこ

内容(e-honより)
「こんなにおもしろい本があったのか!」と小学生からお年寄りまでを笑いの渦に巻き込んだ爆笑エッセイの金字塔!!著者が日常で体験した出来事に父ヒロシや母・姉など、いまやお馴染みの家族も登場し、愉快で楽しい笑いが満載の一冊です。「巻末お楽しみ対談」ではもう一度、全身が笑いのツボと化します。描き下ろしカラーイラストつき。


 ご存知、『ちびまる子ちゃん』作者によるエッセイ。

 小学二年生の娘もそろそろこういうの楽しめるかなー、『ちびまる子ちゃん』好きだしなーとおもって買ったものの、「さすがにこれは二年生がひとりで読むにはまだ早すぎるわ」とおもった。漢字にルビがふってないし、前提となる知識が必要な話も多いしね。

 ということでぼくが読んだ。

 



 二十年ぐらい前に『さくらももこ編集長 富士山』という雑誌を買ったことがある。さくらももこさんのエッセイを読むのはそのとき以来だ(『ちびまる子ちゃん』の単行本にあるおまけページは除く)。

『さくらももこ編集長 富士山』にはエッセイが何篇か載っていたのだが、それがことごとくつまらなかった。
 えっ、あのおもしろいエッセイ漫画を描く人がこんなにつまらない文章を書くの、と驚いたぐらい。

 なので「さくらももこのエッセイ=つまらない」という認識を二十年近く持っていたのだが、今読んでみるとちゃんとおもしろい。
『富士山』のときだけがつまらなかったのだろうか。疲れていたのかな。


 グッピーを死滅させた話とかおっかない小杉のババアの話とか、それほど大したことは起こらないのにおもわず笑ってしまう。

 特に、グッピーを死滅させた話なんて、書きようによっちゃめちゃくちゃ後味の悪い話なのに、それを軽妙なエッセイに仕上げるのだから大した腕だ。


 ぼくは小学生のとき、事故でかわいがっていた文章を死なせてしまった。でもその話は家族以外誰にも言ったことがないし、書いたこともない。これからも心に秘めたままだとおもう。なぜなら、つらすぎて誰にも言えないから。
 上手に笑い話にでもしたほうが供養になるのかもしれないが、今もって吐きだせないままだ。三十年近くたった今でもずっと心の中でもやもやしている。




 おもしろいエッセイを書く才能というのは、うまい文章を書く能力やいい小説を書く力とはまた違う。
 どちらかといえば、文才よりも生き様によるものだとおもう。


 十五年ぐらい前に、mixiやらFacebookといったSNSが流行った。それまでにもホームページを開設したり、ブログを作ったりする人はいたが、SNSはそれらとは一線を画していた。それは「特に書きたいことがあるわけでもない人がネット上に文章を上げるようになった」ことだ。

 ホームページやブログをわざわざ開設する人は、なにかしら世に向けて発信したいものを持っている人だった。ところがmixiやFacebookは「誘われたから」ぐらいの消極的なユーザーを大量に招き入れた。「こういうのあんまり好きじゃないんだけど、誘われたのに無碍にするのも悪いから」ぐらいの人が大勢いた。

 そして「誘われたから」SNSアカウントを作ったユーザーも、「せっかくだから」ぐらいの気持ちで日記を書いて投稿した。
 その中に、驚くほどおもしろい文章を書く人がいた。

 ぼくの知人に、おもしろい文章を書く人がふたりいた。
 ひとりは、高校時代の友人Nくん。もうひとりは実の姉。
 彼らに共通しているのは、ぜんぜん本を読まないこと。そしてオンラインでの活動にあまり興味がないこと。これまでホームページもブログも(少なくともぼくが知る限りでは)やってこなかった。
 ぼくの姉なんて小説やノンフィクションはおろか漫画すらほとんど読まない人間で、機械にもとんと疎くて携帯ではメールしかしないおばあちゃんのような人間だったのに。

 Nくんと姉の書く文章はおもしろかった。自分の失敗談を淡々とつづっているだけなのに、おもわず笑ってしまうものだった。語彙が豊富なわけでも、構成がうまいわけでも、エッジの利いた表現をするわけでもない。学校の作文みたいな文章だ。
 テーマも新奇なものではない。身近な出来事をつづっているだけだ。
 なのにおもしろい。

 なぜ彼らの文章はおもしろいのか。
 ぜんぜんおもしろくないその他大勢の文章との違いは何なのか。

 ぼくは考え、そして気づいた。
 彼らは、まったく自分をよく見せようとしていないのだ。

「こんなにめずらしい体験してるんやで」
「こんなにすごい人と知り合いなんやで」
「こんなに見事な文章書けるんやで」
「こんなに鋭い着眼点持ってるんやで」

 そういう気持ちが微塵もないのだ。あるのかもしれないが、読んでいる側にはまったく伝わってこない。

 ほら、Facebookの文章って自慢話が氾濫してるじゃない。失敗談かな? とおもってもじつは失敗談に見せかけた自慢話だったりするわけじゃない。それって読む側にはすぐわかるじゃない。ああ、こいつ自分をよく見せるために書いてるな、と(ことわっておくが非難しているわけではなくそれがふつうだ)。
 Nの文章も、姉の文章も、自慢の要素がひとつもなかった。


 意外や意外、こんなにおもしろい文章を書く人がいたのか。SNSは彼らの意外な文才を発掘してくれた。すばらしい。

 とおもいながらNと姉の投稿をチェックしていたのだが、Nも姉もぜんぜん投稿をしてくれない。まさに三日坊主。ふたりとも、二、三回投稿しただけでまったく投稿しなくなった。たぶんログインすらしていないのだろう。

 よく考えたら当然の話で「自分をよく見せたいとおもってない人」には書く動機がないのだ。金にもならないのに、自分をよく見せたいとおもっているわけでもないのに、わざわざ時間と頭を使って文章を書く動機がない。

 だから「自分をよく見せたいとおもってない人」はSNSもすぐに飽きてしまう。SNSを続けるのは、何かを発信して自分をアピールしたい人ばかりなのだ。悲しいぜ。

 二十年ブログをやっている自己顕示欲の塊であるぼくが言うなって話だけど。


 ふだん目にするエッセイってさ、「文章書きたいです!」って人が書いたものばかりじゃない。あたりまえだけど。
 でも「いやいや私は文章なんて書きたくないです。身の周りのことを書くなんて恥ずかしいし、書けません」って人をむりやり拉致監禁してエッセイを書かせたら、そのうちの何パーセントかはめちゃくちゃおもしろい文章を書くんじゃないかとおもうんだよね。それか「助けて助けて助けて……」っていう地獄のメッセージのどっちか。


 前置きが長くなったが、さくらももこという人は、表現を生業にする人でありながら「自分をよく見せてやろう」が強くない人だとおもう。いや、もちろんそんなことはないんだろうけど、この人のエッセイからは「自分をよく見せてやろう」がほとんど感じられない。
 まるで「頼まれたから書きました。ほんとは書きたくないんだけど」なんて気持ちで書いたんじゃないか。そんな気さえしてくる。




『ちびまる子ちゃん』の読者にはおなじみの、父ヒロシ(本物)の話。

 私も三歳半になり、やっとひとりで便所に入れるようになった。しかし、当時の我が家のくみ取り便所は幼児がひとりで入るのが危険であったため、必ず誰か大人が監視する事になっていた。
 私が用を足している時、ヒロシはふざけて便所の電気を消してしまった。三歳の私の恐怖は、とてもここに書ききれるものではない。大絶叫を発し、小便の途中でパンッを上げ、慌てて立ちあがったとたんに片足が便壺の中にはまってしまった。
 私の悲鳴を聞きつけた母がものすごい速さでとんできて、ぼっ立って呆然としているヒロシを押しのけて私を救出してくれた。
 ヒロシは母に叱られた。ものすごく叱られた。私はヒロシなんてこの際徹底的に叱られるべきだと思っていたので、わざとダイナミックな泣き声を放ち、
「おとうさんがァ、わざとやった」などと稚拙な言語で責め立ててやった。
 ヒロシは、ウンともスンとも言わずに、ただウロウロして私と母の周りに佇んでいた。母は、私の汚れた片足を、ヒロシの古いパンツでふいていた。そして「これ、あんたのパンツだけど、この子の足ふいたら捨てるからねっ。バチだよっ」と怒鳴った。くだらないいたずらをしたために、ヒロシは自らのパンツを一枚失ったのである。

 ああ、父ヒロシだなあ。漫画のまんまのキャラクターだ。どっちも同じ人物をモデルにしてるんだからあたりまえなんだけど。

 だめな父親だなあ、とおもうけど、自分が父親になった今、父ヒロシの気持ちもちょっとわかる。ぼくも娘にちょっかいをかけてしまう。

 娘の鼻をつまんでみたり、まじめな質問をされているのにふざけて答えたりして、娘に叱られる。ささいないたずらでも娘はむきになって怒るので、それがおもしろくてついついふざけてしまう。

 こんなことやってたら娘が成長したらまったく相手にされなくなるだろうとわかっているのに、それでもやってしまう。自分が子どものとき、嫌だった父親になってしまう。ああ、こうやってだめな父親は再生産されてゆくんだなあ。




 巻末に脚本家の三谷幸喜さんとの対談が載っているのだけど、笑ってしまったやりとり。

さくら よく犬は飼い主に似るって言いますけど……。
三谷  それはあるかもしれない。僕も妻も人見知りが激しくて、妻は世間的にはオキャンなイメージがありますけど、普段はとってもひっこみ思案。「とび」もそういうところありますね。妻が犬と散歩してると両方とも、なるべく皆と目を合わさないようにして道の隅っこを、うつむいて目立たないように歩いてますから。おしっこする時も、実に控え目にやってますよ。
さくら 奥さんが?
三谷  犬が、です。


 これは天然なのか狙ったものなのか……。そりゃ訊くまでもなく小林聡美さん(当時の三谷さんの妻)は控え目にやるでしょ。

 三谷幸喜脚本のコメディみたいなやりとりだな。


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『りぼん』の思い出



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2021年12月1日水曜日

おいしくいただけない時代

 かつては、たとえば「芸能人が大食いに挑戦!」的なテレビ番組では、出演者が食事を残したときには 「この後スタッフがおいしくいただきました」というテロップが出てきた。

 ぼくはEテレばかり観ているので知らないんだけど、たぶん今はなくなったんじゃないかな。

 だってコロナ禍においては「他人が残したものを口にする」なんて、「食べ物を粗末にする」以上の大罪だもの。


 かといって「このごはんはこの後手を付けずに廃棄しました」と書くわけにもいかない。

「一度はギブアップした出演者が後から食べました」だと、演出的によくなさそうだ。「なーんだ、まだ食えたんじゃん」となってしまう。


 今はどうしてるんだろう。大食い番組自体がなくなったんだろうか。

 それとも、大食い番組であっても、小分けにして出すようにしたんだろうか。

「超巨大ラーメンに挑戦!」という番組だけど、ファミレスで幼児のために出してくれるようなちっちゃい丼によそってから挑戦者に出すとか。わんこそばスタイル。

 これなら、残しても 「この後スタッフがおいしくいただきました」と言える。おおもとの巨大ラーメン自体には箸をつけていないから。


 しかしテレビは視覚的なメディアだから、それじゃあつまらないだろうな。

「5kgの超巨大ラーメンに挑む!」って言いながらちっちゃい丼でラーメンをすすっている映像じゃサマにならないもんな。


 どうするのがいいのかね。

「この後豚のエサにして豚がおいしくいただきました。ついでにその豚もスタッフがおいしくいただきました」とかどうかな。

 それでもやっぱり「豚にラーメンみたいな味の濃いものを食べさせるなんて!」という苦情がきたりするのかな。

「このラーメンは豚の健康にも配慮したものです」って書かなきゃいけなくなるな。

 だったらもう最初っから、出演者がラーメンすすっているときに「これは豚のエサです」とテロップ出すほうが早いね。




2021年11月30日火曜日

ダイエットと節約に失敗する方法

 節約もダイエットもそうだけど、「節約してる」「ダイエットしてる」とおもってる時点でもうほとんど失敗してる。

 だって痩せてる人ってダイエットしてないもん。食べたいのを我慢してるわけじゃなくて、そもそも食べたくない。

 節約もそう。貯金をしてる人は買いたいものを泣く泣く我慢してるわけじゃなくて「そんなに欲しいとおもわない」。


 ぼくは生まれてからこのかた、一本も煙草を吸ったことがない。だから煙草を吸いたいとおもうことがない。あたりまえだけど。

 禁煙中の人は、ずっと煙草を吸いたい、でも吸っちゃいかんというストレスにさらされる。

 でも煙草を吸ったことがない人は、煙草が吸えないことに関して一切のストレスを感じない。ノーストレスで禁煙に成功しているともいえる。

 当然、禁煙に成功する確率が高いのは「ついこないだまで煙草を吸っていた人」ではなく「一本も煙草を吸った人」のほうだ。吸ったことない人が吸わないことを禁煙っていうのか知らんけど。


 だからさ。

 身も蓋もないことを言うけど、ダイエットも節約も成功しないのは当然なんだよ。

「痩せなきゃ」「お金貯めなきゃ」っておもう時点でもうストレス環境に自分を追いこんでるんだから。成功する人はがんばらずに食べる量や使うお金を減らすんだから。


 ということで、「ダイエット」「節約」で検索してここに来たあなたには残念なお知らせなんですが、あなたはもう失敗してるんですね。ごめんなさいね。でもそうなんです。


 ところでさ。

 さっき「煙草を吸ったことがない人は煙草が吸えないことをストレスとは感じない」って書いたじゃない。

 あれ、ほとんどすべてのことにあてはまるよね。

 お酒を飲んだことがない人は酒が飲めないことをストレスに感じないし、ラーメンを食べたことがない人は夜中にラーメンが食べたくなったりしない。

 でも、例外もある。

 童貞の性欲。

 あれだけは、経験したことがないのに猛烈に追い求めてしまう。

 なんでなんだろうね。


2021年11月29日月曜日

【読書感想文】中町信『模倣の殺意』 ~そりゃないぜ、なトリック~

模倣の殺意

中町信

内容(e-honより)
七月七日の午後七時、新進作家、坂井正夫が青酸カリによる服毒死を遂げた。遺書はなかったが、世を儚んでの自殺として処理された。坂井に編集雑務を頼んでいた医学書系の出版社に勤める中田秋子は、彼の部屋で偶然行きあわせた遠賀野律子の存在が気になり、独自に調査を始める。一方、ルポライターの津久見伸助は、同人誌仲間だった坂井の死を記事にするよう雑誌社から依頼され、調べを進める内に、坂井がようやくの思いで発表にこぎつけた受賞後第一作が、さる有名作家の短編の盗作である疑惑が持ち上がり、坂井と確執のあった編集者、柳沢邦夫を追及していく。著者が絶対の自信を持って読者に仕掛ける超絶のトリック。記念すべきデビュー長編の改稿決定版。


 この作品、『そして死が訪れる』というタイトルで乱歩賞への応募され、その後『模倣の殺意』と改題されて雑誌に掲載、単行本刊行時には『新人賞殺人事件』というタイトルになり、文庫化の際は『新人文学賞殺人事件』とまたタイトルが変わり、そして復刊の際には『模倣の殺意』に戻った、という複雑な経緯をたどっているそうだ。
 つまり(いくらか手が加えられているとはいえ)ひとつの作品なのに、四つの題名を持っているわけだ。なんともややこしい。


 最初に刊行されたのが1973年ということで、今読むと「うーん……当時は斬新だったのかもしれないけど……」となんとも微妙な出来栄えである。

 トリックも強引だし、アリバイ工作も嘘くさすぎる。
「○時にちょうど時計台の前で撮ってもらった写真があります」とか
「○時には××にいました。ちょうどその時刻に知人に××に電話をかけるように依頼していたので証明できます」とか。

 いやいやいや。
 アリバイがどうとか以前に、それもう「私が犯人です」って言ってるようなもんじゃない。犯行時刻にたまたま時計台の前で撮った写真があるって……。


 それから、トリックは賛否両論あるとおもうけど、ぼくは「否」だとおもう。これはフェアじゃない。

 以下、そのトリックについて語る(ネタバレあります)。




(ここからネタバレ)


『模倣の殺意』のストーリーをかんたんに説明すると、坂井正夫という売れない作家が不審な死を遂げ、それを中田秋子という編集者と、津久見伸助というルポライターがそれぞれ追う。中田秋子のパートと津久見伸助のパートが交互に語られる。


『模倣の殺意』には、犯人が仕掛けたトリック(さっき挙げたアリバイ工作など)とは別に、〝著者から読者に仕掛けられたトリック〟がふたつある。
 いわゆる叙述トリックというやつだ。

 ひとつは、中田明子と津久見伸助が同時期に別行動をとっているように見えて、じつは中田秋子のパートが、津久見伸助のパートの一年前の出来事であるということだ。

 これは(今となっては)めずらしい叙述トリックではない。というか定番といっていい。ぼくもすぐにそうじゃないかとおもった。
 ミステリで別々の語り手による話が交互に進んでいく場合は、時間や空間が隔たれていることをまず疑ったほうがいい。


 もうひとつのトリックは、中田明子が追っている坂井正夫と、津久見伸助が追う坂井正夫が、同姓同名の別人ということだ。

 これはフェアじゃない。
 前にもやっぱり〝同名の別人〟が出てくるミステリを読んで、同じことをおもった。ずるい。

 いや、同姓同名を登場させるのが全部反則とはいわないが、同姓同名の人間がいることを早めに提示するとか、坂井正夫Bは坂井正夫Aになりすますために同じ名前を名乗ったとか、もう少しフェアな書き方があるだろう。

 だってさ。それってミステリのルール以前に、小説のルールに違反してるじゃない。

「田中は家に帰った。その夜、田中は彼女を殺した」
って書いておいて、「じつははじめの〝田中〟と次の〝田中〟は別人でしたー!」っていうようなもんじゃない。そりゃないよ。
 特にことわりがなければ、同じ名前が指す人物は同じものっていう暗黙のルールがあるじゃない。この、日本語の最低限のルールを破っておいて「トリックでしたー!」ってのはずるすぎる。それはトリックじゃなくてただの反則だ。

 下村敦史『同姓同名』っていう同姓同名を扱ったミステリ小説があるらしいけど(読んだことはない)、同姓同名をミステリに使うならそんなふうに最初にことわらなきゃいけないとおもうよ。


 しかもこの『模倣の殺意』、どっちも坂井正夫が出てくるんだけど、どっちも作家志望で、どっちも七月七日の七時に殺されるんだよ(一年ちがいだけど)。
 強引すぎでしょ。

「だまされたー!」じゃなくて「著者と読者の間にある最低限の信頼関係を踏みにじられたー!」という気持ちしか湧いてこなかった。そりゃないぜ。


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2021年11月26日金曜日

本屋で働いていたころの生活

 十数年前、本屋で働いていたころの生活。


 朝四時半に起きる。
 朝食。まだ胃が起きていなくて気持ち悪くなることもよくあった。

 五時二十分に家を出る。冬だと外は真っ暗。当然めちゃくちゃ寒い。
 車をびゅんびゅん飛ばして六時ぐらいに職場に着く。

 始業が六時半なので、それまでの間職場の椅子で寝る。椅子をふたつ並べて横になる。
 家でギリギリまで寝ていると遅刻するので(そして車を飛ばしすぎて事故ったことがあるので)、早めに着いて職場で寝ていたのだ。
 慢性的に寝不足だったので、仮眠なのにすごく深い眠りに達した。携帯のアラームをかけるのだが、アラームが鳴って「起きなきゃ」とおもうのに身体がまったく動かないことがあった。脳は起きているのに身体が起きられなくて金縛り状態になっていたのだ。

 タイムカードを押し、業務開始。金庫を開けてレジ金の準備をする。冬は寒すぎてうまく指が動かないこともあった。
 売場に行き、レジの電源をつけたり釣銭の用意をしたりしていると早朝番のバイトがやってくる。ほとんど大学生。フリーターのバイトも多かったが、フリーターは早起きができないのだ(偏見)。


 七時から本の荷出し。
 本屋で働いているというと、よく「本屋って朝遅いからのんびりできそうだよね」と言われた。とんでもない。
 店にもよるが、ぼくが働いていた店では六時前にはもうその日発売の雑誌が到着していた(書籍はもうちょっと遅くて七時ぐらい)。本を届けてくれる人が店の鍵を持っていて、勝手に鍵を開けて本を置いていってくれるのだ。
 もっとも、到着時間は店によってずいぶんちがうようだ。ある店の新規オープンを手伝いに行ったことがあるが、その店は九時ぐらいだった。それはそれでたいへんで、到着から開店まで時間がないのでめちゃくちゃあわただしい。オープンと同時に買いに来る人もいるし、そういう人は目当ての本がなければよそに行ってしまったりする。しかも開店してから本を並べることになるわけだが、客がいるとものすごく本を並べづらい。本屋の客は本に集中しているので、近くで店員が本を並べたそうにしていてもどいてくれないのだ。


 毎月一日や二十三日、二十五日あたりは雑誌の発売が多くて忙しかった。一日はわかるとして二十三日や二十五日の発売が多いのは、給料日をあてこんでのことだろう。ぼくは幸いにして「給料日まで買いたいものを我慢する」という生活をしたことがないのでこのへんの感覚はわからないが、世の中には給料日にふりまわされる人が多いことを本屋で働いて実感した。雑誌に限らずすべての賞品で月末は売上が伸びて二十日頃は低迷するのだ。

 入荷した本をすべて並べおわるのが、早くて開店の十時ぐらい。つまり最短でも三時間かかる。
 なんでそんなにかかるのかとおもうかもしれないが、数百冊の本を所定の位置に並べるのはかなり大変なのだ。郊外型の大型店舗だったし。
 特に時間がかかるのが雑誌とコミック。雑誌は付録がついているので、ひとつひとつに輪ゴムで止めなくてはならない。コミックはシュリンク袋(透明袋)をかけないといけない。あの袋ははじめからついているとおもうかもしれないが、あれはひとつひとつ書店でかけているのだよ。そして返品するときには破って捨てる。返品した商品は別の店に行き、そこでまたシュリンク袋をかけられる。うーん、無駄だ。
 あれはなんとかならんもんかねえ。客の質が良ければあんな袋かけなくてもいいのだが。そうはいっても立ち読みで済ませちゃう客はいっぱいいるわけで。ううむ。元も子もないことをいうと、コミックというもの自体が店舗で売るのに向いていないのかもしれない。
「短時間見てしまえばもう用済みになるもの」を売るのは難しい。効率だけを考えるなら、タバコ屋みたいに客が「『ONE PIECE』の15巻ください」と言って店員が奥から取ってくる……みたいにするのがいいのかもしれない。よくないな。


 それから、定期購読や注文品があるので、これは売場に出さずに取り置かなくてはいけない。新刊雑誌は発売日がわかるからいいとして、注文品はいつ入荷するかわからない。
「今注文されているのは何か」を頭に入れておいて、売場に出さないように気を付けなくてはならない。

 本の注文というのはほんとゴミ制度で、いつ入荷するかもわからないし、へたすれば注文後一週間ぐらいしてから「やっぱ無理でした」と言われることもある。
 それを客に伝えると、当然ながら怒られる。「無理なら無理って注文したときに言ってよ!」と。
 しごくもっともだ。ぼくでもそうおもう。
 でも書店の注文制度って、今はどうだか知らないけど、当時はほんとにひどかったのだ。そりゃAmazonに客とられるわ。


 あと本を並べるだけならいいのだが、売場の面積は有限なので、新たに何かを並べるならその分何かを減らさないといけない。「売れる量=新たに入ってくる量」であれば返品がゼロになるので理想だが、現実はそううまくはいかず新たに入ってくる量が圧倒的に多い。

 雑誌は鮮度が短いので、「発売から二十日経ったものを返品する」とかでなんとかなるのだが(しかし雑誌の発売日はばらばらではなく同じ日に集中しているのでそう単純な話でもないのだが)、問題はコミックや書籍、文庫だ。
 鮮度が長いので「どれを残してどれを返品するか」を判断しなくてはならない。これは店の売れ筋傾向や担当者の好みによって変わるのでなかなかむずかしい。本を読まないバイトに任せると「出版日の新しさだけで残すかどうか決める」とかになってしまうので任せられない。

 まだコミックや文庫は最終的には担当者が「おもしろそう」とおもうかどうかで決められるのだが、どうしようもないのが実用書だ。
「はじめての料理」みたいな本が各出版社から出ているのだが、どれも同じに見える。じっさい内容は大差ないにちがいない。
 これを、どっちを残してどっちを返品するかなんて決められない。最後は「出版社の担当がいい人か嫌なやつか」で決める。
 だいたい料理とか手芸とか家庭菜園なんて次々に新しい本出さなくていいんだよ。十年前とやることはほとんど変わらないんだから! ……と書店員はおもうのだが、出版社には出版社の事情があるのだろう。


 本の荷出しは力仕事だ。
 ファッション誌なんかめちゃくちゃ重い。それを何十冊と運ぶのだ。
 ぼくがいちばん嫌いだった雑誌は『ゼクシィ』だ。めちゃくちゃ重い上に、毎号かさばる付録がつく。その割に値段が三百円しかなかった(広告だらけなので安いのだ)ので、利益にならない。
 大嫌いだったので、自分が結婚するときも『ゼクシィ』は買わなかった。

 荷出しをしていると汗をかく。夏なんかクーラーをつけていても汗びっしょりだ。冬でもあたたかくなる。とにかくハードな仕事だ。


 本を並べおわると銀行に行く。
 ぼくが働いていたのはまあまあの大型店舗だったので、一日の売上が百万円ぐらい(本だけでなくDVDレンタルやCD販売もやっていた)。その売上を午前中のうちに入金しないといけないのだ。

 ATMではなく窓口で入金していた。なのでけっこう待たされた。
 ただ、待たされている間は本を読めるので好きな時間だった。

 日によっては銀行の後、配達に行く。喫茶店や美容室で定期購読をしている店に雑誌を届けにいくのだ。
 ぼくはこれが大嫌いだった。
 まあ配達については以前にも書いたけど割愛。

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』


 十二時ぐらいに店に戻る。十二時~十四時ぐらいはバイトが交代で休憩をとるので、その間ぼくはレジに立たなくてはならない。

 平日の昼間は暇なので、レジ内で返品作業や発注作業をする。
 返品もまた力仕事だ。本がぎっしり詰まった段ボールを運ばなくてはならない。

 十四時頃、バイトの休憩が終わってやっと休憩をとれる。
 六時半から働いて十四時まで休憩なし。すごく疲れている。

 が、休憩は三十分しかない。今おもうと完全に労基法違反なのだが、当時はそういうものとおもっていた。
 十五分ぐらいであわただしく飯を食い、寝る。十分ぐらいなのに熟睡する。
 休憩の途中でもバイトから内線で呼びだされることがあり(クレーム対応とか)、心底いらついた。この時間に訪問してくる出版社の営業は嫌いになった。

 そうそう、出版社の営業がやってくるのだ。アポなしで。

 で、「こんな本出るんで入荷してください」と言ってくる。
 最初のほうは言われるがままに注文していたら(本は返品可能なので売れなくても懐が痛むわけではない)、営業が調子に乗って勝手に送ってきたりするようになったので、厳しく接するようになった。

 で、営業が来る頻度がどんどん減っていき、仕事が楽になった。営業が来なくてもいっこうに困らないのだ。本はどんどん出版されてどんどん取次から送られてくるので。

 出版社の営業ってのはほんとに質が悪くて、たとえば「売場の整理していいですか」とか言ってきて、「ありがとうございます」なんて言ってると、自分の出版社の本をどんどん前に持ってきて、他の出版社の本を奥に押しやったりする。ひどいやつになると、勝手に返品用の場所に他の出版社の本を押しこんだりする。ほとんど犯罪だ。
 もちろん人によるけど、ひどい営業が多かったので、どの営業に対しても冷たくあたるようになった。
 今でも覚えてるぞ。特にひどかったのはSと生活社のジジイだ。なれなれしくため口で話してくるからこっちもため口で返してやったら、あからさまにムッとしていた。へへん。


 十四時半に休憩が終わって、発注業務をしていたら十五時。退勤時刻だ。六時半+八時間+休憩三十分。

 あたりまえだが、定時に帰ることなどできない。なにしろ交代の社員がやってくるのが十七時なのだ。社員不在になってしまう。
 二交代制なのだが、早番(六時半~十五時)と遅番(十七時~二十五時半)というシフトはどう考えてもおかしい。二交代制といいつつ空白の時間があるのだから。

 しかも、早番は最低二時間は残業しないといけないのに、遅番が二時間早く出勤するということは絶対にない。ちくしょう、遅番め!
 ……と当時は遅番社員を憎らしくおもっていたのだが、悪いのは遅番ではなくこの制度をつくった会社である。恨むのなら会社を恨まなくてはならない。でも現場にいると、身近な人間に怒りの矛先を向けてしまうんだよね。


 夕方ぐらいになると店が忙しくなってくるのでレジに立ったり売場に出たり。
 書店だけならそこまで売場は忙しくならないんだけど、レンタルDVDやCDも扱ってたからね。学生や仕事終わりの人が来て忙しくなる。

 十八時過ぎにミーティングをして、本格的に遅番の社員と交代。ここでやっと「レジが忙しいので来てください」と呼ばれることがなくなる。
 溜まっていた発注作業やメールの返信をする。話好きの店長(遅番)につかまってどうでもいい話につきあわされることも。

 早ければ十八時半ぐらいに退勤。遅ければ二十時半ぐらい。

 出勤時は道がすいているので家から店まで四十分だが、帰宅時は混んでいるので一時間かかる。

 勤務時間+通勤時間で十四時間から十六時間ぐらい。ぼくは最低でも七時間ぐらいは寝ないと頭が働かない人間なので、余暇時間などゼロだった。寝る時間ほしさに夕食を食べないこともよくあった。
 もちろん本を読む時間なんかぜんぜんなかった。本屋なのに。


 年間休日は八十日ぐらい。給料は薄給(時給換算したら最低賃金の半分ぐらいだった)。

 よう続けていたわ、とおもう。

 転職を二回おこない、総労働時間は当時の半分近くになった。そして給料は当時の倍以上。ってことは労働生産性が四倍になっていることになる。

 あの頃必死にがんばってたけど、今おもうと「あの努力はほとんど無駄だったな」とおもう。もっと早く転職していればよかった。
 環境が悪ければ努力をしても先がない。環境を変えるほうがいい。


 社会全体の労働生産性を上げるには、ブラック企業を廃絶することですよ。

 労働基準監督署に予算をまわしてちゃんと仕事をさせること。それがすべてじゃないですかね。