2021年9月29日水曜日

栄光時代

 「オヤジの栄光時代はいつだよ…全日本の時か? 俺は……俺は今なんだよ!!」
(『SLAM DUNK』より)


 ぼくの栄光時代がいつかと訊かれたら、高校時代と答える。
 とにかく毎日が楽しかった。気の合う友人に囲まれ、毎日遅くまで遊び、勉強は学年で一番で、女子ともそれなりに仲良くし、明るい未来が広がっていた。童貞だったけど。

 そこからいろいろあって今に至る。
 今が不幸だとはおもわないけれど、高校時代以上に楽しい日々はもう来ないだろうなとおもう(高校時代から「きっと今がいちばん楽しいだろう」とおもっていた)。


 だがぼく個人の栄光時代は終わったが、それ以上の楽しみがなくなったわけではない。

 なぜなら、我が子の栄光時代はまだまだこれからだから。
 朝から晩までめいっぱい遊んだり、全エネルギーを使いはたすまで走りまわったり、くだらないことでばかみたいに笑ったり、はじめての場所でテンションが上がったり、おいしいものを食べて驚いたり、寝るのも忘れてひとつのことに打ちこんだり、本気で喧嘩をしたり、仲直りをしたり、そういった「ぼくがこの先ほとんど経験しないこと」を、彼女たちはこれから経験していくだろうから。

 ぼくはもう経験できないだろうけど、娘たちが経験するのを近くで見ることはできるだろうし、手助けしてやることもできる。
 もう現役選手として第一線で活躍することはないだろうけど、コーチや監督としてはまだまだ戦える。

 若いころは己の人生の主役はずっと自分だとおもっていたけど、プレイヤーを降りてからもまだまだ楽しいことはあるんだな。


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2021年9月28日火曜日

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万葉集

2021年9月27日月曜日

【読書感想文】プレイワーク研究会『子どもの放課後にかかわる人のQ&A50』

子どもの放課後にかかわる人のQ&A50

遊ぶ・暮らす 子どもの力になるプレイワーク実践

プレイワーク研究会/編

内容(e-honより)
放課後児童クラブ(学童保育)、児童館、冒険遊び場等のスタッフや、教員・保育士等、子どもにかかわるすべての人へリアルな困った!にこたえる待望のQ&A集。悩みや課題をどうとらえ、どう対応するかのヒントや知恵が満載。

 まず書いておくと、ぼくは〝子どもの放課後にかかわる人〟ではない。
 会社員で、平日は18時まで仕事をしている。まったくかかわりがない。

 じゃあなぜこの本を買ったのかというと、土日は大いに子どもとかかわっているからだ。

 ぼくは子どもと遊ぶのが好きだ。ほんとは、ずっと前から子どもと遊びたかった。でも親でもない大人が子どもと遊ぶのはむずかしい。世の中には「子どもと遊ぶサークル」みたいなものもあるが、そういうのには入りたくない。なぜなら他の大人ともかかわらなきゃいけないから。大人とはべつにかかわりたくない。あと「子どもと遊ぶサークル」にいるのはたいてい明るく元気ですぐ他人にあだ名をつけて呼ぶ人種なので(勝手なイメージ)とりわけかかわりたくない。

 だが自分に子どもが生まれて、大手を振って子どもと遊べるようになった。土日はたいてい朝から晩まで公園で遊んでいる。娘の友だち、そのきょうだい、その友だち、よく会う子。子ども交友関係はどんどん広がってゆく。
 子ども十人ぐらいと大人はぼくひとりでおにごっこやドッジボールをしている、ということもよくある。

 ぼくの場合、子どもと遊ぶのが好きなのもあるが、「大人と話すのが苦手」というのもある。だから保護者の集まりなんかに行くと輪に入れなくて肩身が狭い。そのとき、子どもと遊んでいると場が持つ。ぼくも楽しい。他の保護者から「面倒見てもらってありがとうございます」と言ってもらえる。いいことづくめだ。

 あとぼくが子どもと遊ぶのは「人目があまり気にならない」ということもある。
 たぶん人より「恥ずかしい」という気持ちが薄いのだ。だからいいおっさんが子どもと本気でおにごっこをしていても、子どもを笑わすためにヘンテコダンスを踊っても、ちっとも恥ずかしくない。他の大人は「変な人」とおもっているだろうが、ぼくにとってはどうってことない。だって「変な人」とおもわれて実害ないもん。警戒されて距離をとられるなら、むしろ喜ばしい。だってなるべくなら他の大人とかかわりたくないもん。


 というわけでぼくは多くの子どもとかかわっている。子どもたちを笑わせたり、教えたり、注意したり、逃げ回ったり、おしりをたたかれたり、ときには子どもから怒られたりもする。子どもの扱いに手を焼くこともある。

 嘘ばかり付く子(そしてその嘘を自分で信じこんでしまう子)、ふたりっきりで遊ぼうとする子、ルールを守らない子。

 そんなときの参考になれば、ということでこの本を手に取った。前置きが長くなった。




 結論からいうと、ほとんど参考にならなかった。

 だって書いてあることが小学校の学級目標ぐらい抽象的なんだもん。

「その子の気持ちを理解しましょう」

「子どもの気持ちに寄り添いましょう」

「その子のために何ができるか考えましょう」

とか。何も言ってないに等しい。
(執筆陣の名誉のために書いておくと、複数いる執筆者のうち特にひとりがひどかっただけだ)

 いやわかるけど。ケースバイケースだからあらゆる状況に通用するアドバイスがないことぐらい。
 でも、だったらこの本いらんやん。

 せめて「私が経験したケースでは○○したら□□という結果になりました」ぐらいのことは書いてほしい。

「子どもの気持ちに寄り添いましょう」ってあなた。それで「なるほど、参考になった!」と納得する人がいるとおもってるんですか。




 子どもと遊んでいると、どこまで「危険」を許容するか悩むことがよくある。

 危険は、「リスク」と「ハザード」という考え方で整理することができます。「リスク」は、自分から挑戦する危険のこと。これは、子どもの成長には欠かせないといわれる危険です。一方の「ハザード」は、目に見えない危険で、それ自体が目的にはなっていない危険です。強風で鉄扉が閉まったり、腐食した柱が折れたり、突起物が突き出ていたりするなど、子どもにとっては想定外の危険なため、突発的な事故が起きる可能性があります。私たちの役割では、いかに重大な「ハザード」を取り除きつつ、育ちにつながる「リスク」を残せるようにするかが大切になります。
 また、「子どもがやることは、一通りスタッフもやってみる」を実践してはどうでしょうか。そうすることで、子どもの動きが想定できるだけでなく、そこからの風景なども見えてきます。

 この考えは参考になった。

 なるほどね。「高いところから飛びおりた着地に失敗するかも」「木登りしたら落ちるかも」なんてのは、小学生にもなれば一応想定しているだろう(可能性をだいぶ低く見積もってはいるだろうが)。

 そんなふうに本人が(一応)予期している「リスク」については、許容してもいい。
 ただし子ども自身が気づいていない「ハザード」については事前に制止しなければならない。台風が来ているときに川に近づくとかね。子どもの人生経験からは想定できない危険だからね。

 ちなみにぼくは「全治一週間ぐらいのケガで済むようならだまって見とく」というスタンスをとっている。すりむくとか、ばんそうこうで抑えられる血が程度の怪我なら、身をもって体験するのも悪くないという考えだ。
 でも骨折とか死ぬとかになるようなことなら、「体験」に対して代償がでかすぎるので止めている。

 しかしうちの子は女の子だからかすごく慎重で、すり傷をつくるようなチャレンジすらほとんどしないんだよね。えらいなあ。ぼくが子どもの頃はもっとバカだったのに。




 この本を読んでおもったけど、「子どもに手を焼かされる」なんてぜんぜん大した問題じゃないんだよね。ぼくのように趣味でかかわっている人間からすると特に。

 子どもをおだてたり叱ったりするのなんてそこまでむずかしいことじゃない(自分が子どものときのことを思いだせば操縦しやすい)。

 たいへんなのは、他の親との関わりだ。
 子育てに関する考えは親によってちがうからね。
 ぼくは「軽い怪我なんてどんどんしたらいい」って考えだけど、他の親が同じ考えとはかぎらないし。大人の考えを変えさせるのなんてほとんど不可能だし。

 友人が保育士をやめたとき「子どもといる時間はぜんぜん苦じゃなかったけど、園長や保護者にあれこれ言われるのがつらかった」と言っていたし。そうでっしゃろなあ。


 保育士や学童保育の職員の苦労はたいへんなもんだろう。

 嫌ならいつでも逃げられる立場で子どもと遊んでいるだけで「子どもの面倒をみている」とえらそうにしているぼくはただただ頭を下げるばかりだ。


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2021年9月24日金曜日

【読書感想文】小谷野 敦『本当に偉いのか』

本当に偉いのか

あまのじゃく偉人伝

小谷野 敦

内容(e-honより)
上げ底評価の明治の偉人、今読んでも全然面白くない文豪、宗教の“教祖”まがいの学者…「裸の王様」をブッタ斬る、目からウロコの新・偉人伝!


 不当に高く評価されすぎてるんじゃない? という偉人を挙げていって、大したことないぜとあげつらう本。

 試みはおもしろかったが、内容はひどいものだった。


 序盤はまだよかったんだけどね。

 夏目漱石の項とか。

 漱石が持ち上げられていったのには、消去法のようなところがあって、まず性的なことを書かないということ、ついで、政治的左翼ではない、私小説作家ではないということがある。戦前はもちろん、戦後でも、保守的な中産階級にとって、左翼作家というのは文豪扱いしづらい。宮本百合子や大江健三郎ではダメなのである。また私小説も、赤裸々に自身の生活を暴露するといったものは、穏健な市民にとっては受け入れがたい。

 たしかになあ。
 漱石って国内では一、二を争うぐらい有名な作家だけど、文学的にすぐれているかというとそこまでありがたがるほどのものではない気がする。研究者が読むのは好きにすればいいけど、少なくとも百年後の中学生が読むに値するものとはおもえない。

「明治時代の小説にしては読みやすくてわかりやすい」以外にこれといった良さがあるわけじゃないもんね。『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』なんてただおもしろいだけ、って感じだもん。

 読みやすいのがいいんだったら現代小説のほうがずっとわかりやすいし。

 ただ、毒にも薬にもならないのがいいんだろうね。太宰や三島はやっぱり思想と切り離せないから、国民的作家にはなれない。鴻上尚史さんが「大スターの条件はからっぽであること」と書いていたけど、漱石作品って代表的なものだけ見ればそこまで思想はないもんな(全部読んだわけじゃないのであったらごめん)。

 芥川も「ただおもしろいだけ」の小説をたくさん書いてるけど、あっちは言葉遣いが少々難しいからな。

 というわけで国民的作家にふさわしいのは夏目漱石ということになるんだろうけど、それって文学者としては不名誉なことかもしれんな。




 ただ、共感できたのは漱石のくだりぐらいだった。

 著者が日本文学の研究者ということで、文学者を批評してるうちはまだいい。好き嫌いはあっても、個人の意見だからな。

 だが途中からアレクサンドロス大王とか石田三成とかナポレオンとかまで手を出しはじめると、もう擁護の仕様がない。

 根拠が伝聞なんだもん。
「おれはあいつの本を読んだけどくそつまらなかった」はまだ批評といえるけど、
「あいつは大したことないやつだという話を聞いた。だからあいつは嫌いだ」というのは単なる偏見にもとづく悪口だ。批評精神のかけらもない。

 中でも最悪なのは、歴史上の人物を語るのに、大河ドラマにもとづいてああだこうだ言ってるとこ。
 いやいや大河ドラマはフィクションだから。ドラマと現実の区別がついてないのか?

 しかも、攻撃の材料が下品なんだよね。
 誰々は身長が○○センチしかなかったとか(この人はやたらと身長を気にしている。よほどコンプレックスでもあるのか)、誰々は男色家だとか、誰々は処女だったとおもうとか、とにかくゲスい。

「私自身が茶の湯をやったことも、観たこともない」から茶道を優れた文化と思わないとか、「ぎょろりとした目つきも何か好きではなかった」から南方熊楠を好きじゃないとか、よくもまあ個人的な好悪をここまでえらそうに文章にして発表できるわとおもう。

 おもしろい悪口は好きだけど、この人のはユーモアのセンスもなくてただただ不快なだけ。


 少なくとも新書ではなくエッセイとして出すべきだったよな。新潮社は内容読んだのかね。


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2021年9月22日水曜日

臨時休校てんやわんや

 平日の昼頃、娘の通う小学校から保護者宛てのメールが来た。

「新型コロナウイルス陽性者が出たので給食を食べた後は一斉休校にします。学童保育も休みです。
 15時までに迎えに来てください。
 15時になっても迎えがなければ児童はそのまま下校させます」

 いやいやいや。バカなの?

 仕事中にいきなりメールしてきて、2時間ちょっとで迎えに来いって。
 来なければ強制的に下校させるって。

 だいたいさあ。
 仕事中にメール見られない人もいっぱいいるやん(ぼくは見たけど)。親である教師も多いよね。あんたたちは授業中に携帯チェックしてんの? ちょっと考えればわかるやん。
 すぐに迎えに行けない人だっていっぱいいるよね。
 学童保育に行かせずに下校させるって何? 放課後児童だけにさせとくのは不安だから学童保育に預けてるわけやん。突然下校したって家に入れませんよ。
 全家庭専業主婦がパートもしないで家にいるとおもってんの? 学童保育が何のためにあるのかわかってないの?


 幸いぼくはリモートワークに切り替えることができたので、仕事を中断して子どもを迎えに行くことに。

 他の保護者も困ってるだろうとおもい、同じ保育園の保護者が集うLINEグループに
「迎えにいけなさそうならいっしょに迎えにいってうちで預かりますよ」
と投稿する(保育園出身者なので当然みんな共働きだ)。

 すると「学校からメール来てたんですね。今知りました!」という返事が。ほらやっぱり。メールなんてすぐ気づくとはかぎりませんよ。
(四時間たってから「今メールに気づきました!」という人もいた。そりゃそうなるってば。みんな仕事してるんだから)

 だいたい保護者がいっせいに同時間帯に迎えに行っていいわけ? ふだんより密集してかえって危険じゃないの?
 給食後の下校ってのもむちゃくちゃだ。給食は用意したから残したくないんだろうけど、いちばんリスクの大きい給食を強行するんだったら、よりリスクの小さい学童保育もやってくれよ。


 ……なんて悪態をつきながら学校に向かっていたら、またメールが来た。
「迎えにこられない場合は、迎えがあるまで学校で児童をあずかります」

 ほらね。どう考えてもそれが正しい。はじめっからそうせえよ。
 どうせ苦情がたくさん寄せられたんだろう。あまりに思慮に欠ける方針だったから。

 感染者が出て学校側もあわてているのはわかるが、それにしても対応が良くない。
(っていうかこれだけ感染拡大してるんだから陽性者が出ることを想定してシミュレーションしとけや。強制下校させられることがあるなんてまったく事前通達がなかったぞ)

「感染者が出たら登校させない」が目的になって、「なぜ登校させないのか」を忘れているんだよね。
「さらなる感染拡大を防ぐため」という意識があれば、「一斉に迎えに来てください」なんてバカな指示になるはずがない。学校に入ってくる人を増やしてどうするんだ。




 そんなわけで翌日も休校。

 ぼくはリモートワークに変更。
 娘は学校から貸与されたノートPCを持ち帰っていたので、それで自宅学習。

 娘にPCを触らせたことはなかったのだが、学校で教わったらしく、いっちょ前に使えるようになっている。
 学習アプリを使って勉強したり、休み時間にはNHKの教育動画(学校から観てもいいと言われたらしい)を見て楽しんでいる。
 こちらが「ずっとパソコンに向かってると疲れるから休憩しいや」と声をかけるぐらい熱心にオンライン学習に取り組んでいる。まあ最初は楽しいだろうな。


 娘はPCをひととおり使えるようになっている(さすがにタイピングはできないが)。さすが子どもは適応力が早い。
 ぼくがPCにはじめて触れたのは中学生になってからだったなあ(そしてその前にワープロで遊んでいた時期があった)。

 娘は急に「小さくなった!!」とか「どうしよう、青くなっちゃった!!」とか叫ぶ。
 見ると、ブラウザの大きさが最大化→縮小になっただけだったり、テキストが選択されて色が反転したりしているだけだったりする。日頃PCを触っている人間からするとなんでもないことでも、初心者からすると大騒ぎする出来事なのだ。

 算数や国語の学習自体は昨年の復習なのでむずかしくなさそう。どちらかというとパソコン操作の勉強になっている。たまには自宅学習もいいものだ。