2021年8月10日火曜日

【読書感想文】「新潮45」編集部 (編)『凶悪 ~ある死刑囚の告発~』

凶悪

ある死刑囚の告発

「新潮45」編集部 (編)

内容(e-honより)
人を殺し、その死を巧みに金に換える“先生”と呼ばれる男がいる―雑誌記者が聞いた驚愕の証言。だが、告発者は元ヤクザで、しかも拘置所に収監中の殺人犯だった。信じていいのか?記者は逡巡しながらも、現場を徹底的に歩き、関係者を訪ね、そして確信する。告発は本物だ!やがて、元ヤクザと記者の追及は警察を動かし、真の“凶悪”を追い詰めてゆく。白熱の犯罪ドキュメント。

 映画『凶悪』はすごい映画だった。
 とにかくピエール瀧とリリー・フランキーの怪演が光った。このふたりが「老人を拷問して殺しながら心底楽しそうに大笑いするシーン」が頭に残って離れない。

『凶悪』は、実際にあった事件(上申書殺人事件)が明らかになるまでを『新潮45』の記者が追ったルポルタージュだ。
(しかしこの「上申書殺人事件」というネーミング、違和感がある。殺人事件の段階では上申書は何の関係もなく、「被告人の上申書によって明るみに出た」というだけだからなあ)

 殺人などの罪で死刑を求刑され上告中だった後藤という元暴力団組長。後藤が記者に対して、「自分は他にも複数の殺人事件をおこなった。いずれの事件も〝先生〟が共犯である」と述べたことからそれまで闇に葬られていた殺人事件が明るみに出た……というのが「上申書殺人事件」だ。




 さて。
 映画と原作の両方を見ることになったのはぼくのうっかりがきっかけだ(数年前に原作を買って読まずに放置していた。それを忘れて映画を鑑賞し、後で本を読もうとして「これこないだ映画で観たやつだ」とようやく気付いた)。だが、結果的には両方見てよかった。
 映画では迫力や狂気性はよく伝わってきたが、ストーリーはいまいちよくわからなかったからだ。

 いくつもの事件が時系列もばらばらに語られるので、観ていて「これはいつの何だ?」となってしまうのだ。

 本を読むと、それぞれの事件がどういう順序で起こったのかがわかる。わかるが、その上で改めておもう。なんてややこしいんだ。

 それにしても、この時期、後藤の心理状況は異常なものだったにちがいない。
 余罪事件がすべて事実とすれば、彼は平成十一年十一月頃、大塚某の死体遺棄を手伝い、さらに同月中に倉浪篤二さんを生き埋めにして、翌年には〝カーテン屋〟をアルコール漬けにして殺害。そのかたわら、〝先生〟の知らないところで、暴力団関係者を殺し、さらには四人を監禁したうえ、ひとりを死に至らしめたのである。

 ごくごく短期間のうちに次々に殺人、死体遺棄、監禁、暴行などの凶悪犯罪をくりかえしている。しかもそのほとんどは金銭目的。恨みもない相手を次々に殺しているのだ。
 当然、事件の全貌を理解するのはむずかしい。それぞれの事件の間には「後藤と〝先生〟が関与した」という以外にほとんどつながりはないのだから。


 そしておそろしいのは、これらの事件のように
「悪いやつが」「はじめから隠蔽する目的で」「身寄りのないターゲット、または既に家族をまるめこんでいるターゲットを狙う」
という条件がそろった場合、殺人事件であってもなかなか明るみに出ることがないということだ。
 実際、上申書にあった三つの殺人事件は当初すべて警察にスルーされていて、事件として捜査されていない。
 読むかぎりでは、彼らが施した隠蔽工作などずさんなものだ。ミステリ小説のように複雑なトリックなどしかけていない。殺す直前に殴ったりスタンガンを押しあてたりしているから調べたらぜったいにわかっただろうし、被害者が暴行をふるわれる目撃者もいる。

 ちょっと調べればわかる殺人でも、事件の解明を望む遺族がいなければあっさり事故として処理されてしまうのだ。

 日本の殺人検挙率は80%以上なんて話を聞くが、そもそも殺人事件として認識されていない事件がその背後に多数存在するのだろう。
 うまくやれば意外と完全犯罪も達成できるのかも。やる予定ないけど。


 そして〝先生〟は、そういうターゲットを見つけるのに長けていたらしい。

 ――〝先生〟は、整理屋の嗅覚を活かし、金の匂いのする人生の破綻者を見つけ出す。
 狙いは、処分が可能な状態であれば不動産であり、それが残されていなければ、保険金だ。周辺を精査し、親族とも話をして安心させる。そして、破綻者を金に換える環境を整える。
 しかし、〝先生〟自身には、実際に人を殺すだけの腕力も度胸もない。安全な場所に安閑として居られるよう、自分のために汚れ仕事に手を染めてくれる、〝道具〟が必要だ。卑劣で狡猾な首謀者が、常にそうであるように。
 そこに後藤が登場した。人を殺すことなど何とも思っていない、格好のアウトローだ。しかも、殺人の経験者である。
 このふたりの邂逅は、犯罪を醸成するうえで、画期的な核融合を遂げた。これだけ強烈で危険な化学反応はあるまい。被害者にすれば、数少ない確率で生じてしまった禍である。
 実行力と非情さをあわせもつ後藤という男を得た〝先生〟。異種の凶悪性を持つふたりはベスト・パートナーとなり、暴走機関車の両輪のように激しく回転し、次々と大胆で凶悪な事件を遂行した。後藤は殺人マシーンと化して、〝先生〟に忠誠を尽くし、〝先生〟のために働いた。

 人づきあいがないと警察も本腰を入れて捜査してくれない。

 家族や友人がいないと孤独死のリスクだけでなく殺人被害者になるリスクも増えるのか……。




 映画版でも描かれていたことだが、おそろしいのは後藤や〝先生〟のような極悪非道な人間が、人間らしい一面も持ち合わせていること。

「そういえば、A先生は、私の子供が小学校に入学したとき、ランドセルや机まで買ってくれました。良ちゃんではなく、愛人である私のためでもなく、私の子供のために、そこまでしてくれたんですよ。普通、よほどじゃなければ、そこまでしないでしょう。それだけ、良ちゃんのことを大事に扱っていたということですよね。ランドセルは六年間使うんだから、革のいいのを買うように、と十五万か二十万円くらいくれたんです」
 〝先生〟は後藤のみならず、愛人、また愛人の娘のためにも金を惜しまず、気配りを見せていたのである。

 金のために会ったこともない人間を残忍な方法で殺せる一方、舎弟や家族に対しては情の厚い一面を見せたりもする。これが余計におそろしい。
 わかりやすいように、四六時中凶悪なモンスターとして生きていてほしい。

 文庫版『凶悪』には、後藤と〝先生〟の写真も載っている。
 暴力団組長だった後藤は、パンチパーマ、口ひげ、びっしりとはいった刺青、凶悪な人相とヤクザ丸出しの風貌である。
 だが〝先生〟のほうはというと、ごくふつうのおじさんだ。街ですれちがっても何もおもわない、どこにでもいそうな出で立ちをしている。隣近所にこの人が住んでいてもなんともおもわないだろう。

 だが、どこにでもいるようなごくふつうのおじさんが、次々に人を殺し、保険金や土地を手に入れ、警察に捕まることもなく、妻や娘といっしょにのうのうと生きていたのだ。
 この「ごくふつうに生きているごくふつうのおじさんが殺人鬼」という事実こそがなによりおそろしい。


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【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』



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2021年8月6日金曜日

【読書感想文】湊 かなえ『夜行観覧車』

夜行観覧車

湊 かなえ

内容(e-honより)
高級住宅地に住むエリート一家で起きたセンセーショナルな事件。遺されたこどもたちは、どのように生きていくのか。その家族と向かいに住む家族の視点から、事件の動機と真相が明らかになる。『告白』の著者が描く、衝撃の「家族」小説。


 高級住宅地に建つ二軒の家。
 一軒は以前から住んでいる豪邸。医師の父親、家庭的な母親、名門私立学校に通う姉と弟。
 もう最近越してきた家族で、高級住宅地に不釣り合いなほど小さな家。無責任な父親、見栄っ張りな母親、勉強ができず始終母親に怒りくるっている娘。
 ある日、妻が夫を殺すという事件が起きる。事件が起こったのは、何の問題もないように見える豪邸一家のほうだった――。




 設定としてはおもしろそうだったけど、残念ながらぼくにはあまり刺さらなかった。
 理由のひとつは登場人物が単純だったこと、もうひとつは説明されすぎていたこと。


 人物が単純というのは、一言で語れるような人物ばかり出てくるからだ。「嫌味」とか「おせっかい」とか「高慢ちき」とか「見栄っ張り」とか「事なかれ主義」とか。類型的なキャラクター。物語を進めるため、主人公の感情を揺さぶるためだけに作られたキャラクターという感じ。
「わかりやすい嫌なやつ」なのだ。

 世の中には嫌なやつはいっぱいいるけど、嫌なやつには嫌なやつの論理がある。「嫌なやつになろう」とおもって嫌なやつになってる人はいない。大義名分とか被害者意識があるし、世間に向けてとりつくろう意識もある。
 だから現実の嫌なやつって、たいていは「一見人当たりがいいけど深く付き合うと嫌な面が見えてくるやつ」とか「八割の人にはいい顔をしているのに二割に対してはすっごく嫌なやつ」とか「嫌なやつなんだけど深く付き合うと情け深いところもあるやつ」とかなんだよね。純度百パーセントの嫌なやつもいるけど、そういう人ははなから誰にも相手にされないからかえって厄介じゃない。

 この小説に出てくるのは、そういうグラデーションがなくて嫌なやつは徹頭徹尾嫌なやつ。主人公に嫌がらせをするためだけに生きている、「嫌なやつ」という名札を貼られた人物なのだ。
「嫌なやつかとおもったら意外と優しい面もあった」という人物も出てくるが、それも急に百八十度変わる。

 そして、殺人事件の理由がまるで三面記事のようにシンプルな解釈に帰結されるのも好みじゃない。

 ふだん口論なんてしたこともないような夫婦間で殺人が起こった。その背景にはすごく複雑な感情の動きがあるはずだ。当事者以外にはぜったいわからない、いや当事者ですら理解できないような感情があったはず。
 三面記事やワイドショーでは犯行動機が一行で語られるけど、じっさいにはどれだけ言葉を尽くしても語れないほどの葛藤があったはず。
 なのに語ってしまう。短い言葉で。実はこうだったのです、と。
 裁判所や新聞記事はこれでいいけど、それは小説の仕事じゃない。推理小説ならそれでもいいけどさ。


 吉田修一の『怒り』『悪人』といった小説は、殺人事件が軸になっているが、最後まで読んでも当事者たちの心の動きはわからない。事実はわかっても、内面は想像するしかない。

『夜行観覧車』は内面までわかってしまう。たったひとつの解釈が明示されてしまう。

 そっちのほうが好きという人もいるだろうが、ぼく個人としては殺人当事者の内面を描くのであれば「謎が謎のまま残される」ほうが好きだな。
 理解できないことを理解できないままにするってのは、じつはいちばんむずかしいことだとおもうぜ。


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2021年8月5日木曜日

よくて現状維持

 健康診断の結果が悪かった。

 どこか一箇所が悪くなったというより、ありとあらゆる数値がちょっとずつ悪くなっていた。

 体重も増えた。元々がやせ型なので今も標準体重を下回ってはいるが、問題は体重そのものよりも増加ペース。二年で七キロぐらい増えているので非常に良くない。

 原因として考えられるのは、やっぱり新型コロナウイルスの影響。
 リモートワークだとほとんど外出しない日もある。せいぜい子どもを保育園に送るぐらいで、歩数計を見たら1000歩/日ぐらいの日もあった。通勤するだけでもけっこう運動になっていたのだと気づく。
 またリモートでの打ち合わせが増え、客先に行く機会も減った。
 さらに休みの日も遠出をしなくなった。外出自粛もあるし、コロナが怖いのでちょっと体調が良くない日は「家でおとなしく寝てよう」となる。
 ありとあらゆる面で運動量が減った。

 でもコロナはきっかけにすぎない。本当の原因は〝油断〟だとおもう。
 油断していた。ぼくはタバコを吸わないし酒もほとんど飲まない。月にビール一本ぐらい。同年代の男と比べて脂っこいものも好きではない。野菜やフルーツも摂っている。毎日たっぷり八時間ぐらい寝ている。

 だから大丈夫だとおもっていた。そこそこ健康的な生活を送っているから健康でいられるとおもっていた。甘いものは好きだけど、酒もタバコもやらないから大丈夫だとおもっていた。
 だが年齢は見逃してくれない。

 若いころの不健康には原因があった。
 暴飲暴食をするとか、睡眠時間が足りないとか、喫煙量が多いとか、ちょっと体調が悪いときに無理したとか。
 ところが中年は、これといった原因がなくても不健康になる。運動して食事制限をしてやっと現状維持になる。ぼくもそういう年齢になったのだ。衰えるのがデフォルトなのだ。

 気づけば、一流の野球選手でも引退するぐらいの年齢だ。日常的に厳しいトレーニングをしているアスリートですら若い人についていけなくなる年齢なのだから、何もしていないぼくが不健康になるのは当然だ。

 よくて現状維持、何もしなければ衰退。
 人生の下り坂にさしかかったことを自覚しないとなあ。


2021年8月4日水曜日

【読書感想文】長谷川 町子『サザエさんうちあけ話』

サザエさんうちあけ話

長谷川 町子

内容(e-honより)
高校生で田河水泡へ弟子入りし、西日本新聞社勤務時代、そして『サザエさん』誕生…を著者自らが漫画で綴る。

『サザエさん』を知らない人はまずいないだろうが、若い人で原作を読んだことのある人はそう多くないだろう。『サザエさん』が朝日新聞に連載されていたのは1974年まで。連載終了してから五十年もアニメが放映されているってすごいなあ。

 ぼくは実家に『サザエさん』が全巻あったので読んだことがあるが、はっきり言って漫画の『サザエさん』とテレビアニメの『サザエさん』は登場人物の名前が同じなだけの、まったくべつの作品だ。

 過激なギャグや痛切な政治批判などがちりばめられ、アニメで描かれるような「一家団欒」シーンなどはほとんど登場しない。もちろん日常のほほえましい笑いもあるが、基本的には「異常な一家がもたらすギャグ漫画」だ。なぜか今では「典型的な昭和の家族」みたいなまったく逆の扱いになっているが。
 時代が変われば記憶は改変される。もしかしたらあと何十年かしたら「『こち亀』は平成時代の典型的な交番を描いている」なんて修正された歴史がまかりとおっているかもしれない。



『サザエさんうちあけ話』は1979年に刊行されたコミックエッセイ(ぼくが読んだのは再販版だが)。
 長谷川町子氏およびその家族の生活をつづった自伝的漫画だ。どっちかというと自分の話よりも母親や姉妹の話のほうが多い。
 コミックエッセイは2000年代ぐらいに大流行したが、その先駆けのような作品だ。


 読んでつくづく感じるのは、漫画家・長谷川町子誕生の背景にはお母さんの存在が大きかったということ。

 長谷川町子さんを半ば強引に田河水泡(『のらくろ』の作者で当時の国民的漫画家)に弟子入りさせたり、町子さんのお姉さんを洋画の大家に弟子入れさせたり。

 犯人は、いや母は同じ手口で、油絵の好きな姉を洋画の大家、藤島武二先生に弟子入りさせ、かたわら芸大の「とうりゅう門」であった川端画塾に通わせました。
 そんならば、母は教育ママかといいますと、ちょっとばかり毛色が変わっていて、家の改造で大工さんと植木屋さんがはいった時のこと、お茶のみ話から、二人ともまだ、京都を見たことがないと知ると、「費用は、わたしが出す。連れていってあげよう」と、たちまち相談がまとまりました。
 国宝級の建物、名庭園を見ずして、なんでひとかどの腕になれようか、というのがその理由です。娘どもの、白い視線をしりめに、引率していきました。
「八つ橋」をおみやげに帰ってきた、二人が言うには、「京都は、何といってもご婦人が一番よかった」そうです。わが子、他人の区別なく、才能をひき出すことに、快感を覚えるタチなのですね

 こうと決めたら他人の人生をも強引に牽引してしまう豪傑だったらしい。
 夫を早くに亡くして三人の娘を育てないといけないわけだからパワフルな女性でないと生きていけなかったのだろう。シングルマザーに対する風当たりも今より強かっただろうし。とにかくたくましい。

 東京に行くために家や家財道具を売って金をつくったのに「これで『サザエさん』を出版なさい」とその金をポンと出したとか、敬虔なクリスチャンだったため貯金せずに喜捨していたとか、出てくるエピソードがとにかく豪快。
 将来のため、人のためであればお金をじゃんじゃん使う。あればあるだけ使う。江戸っ子気質だ。

 しかし自費出版で出したおかげで『サザエさん』が人気になったわけで、このお母さんの豪気がなければ今頃日曜の夕方に『サザエさん』はやっていなかったにちがいない。


 そしてその男気は三姉妹にも確実に受け継がれている。
 町子氏は生涯独身。姉は戦中に結婚するも夫は戦死。妹も夫を亡くし、母親、姉妹三人、姪たちという女ばかりの家族で暮らしていたという。
 三姉妹で子育てをしていたが「お宅は母親が三人ではなく父親が三人いるようだ」と言われた、というエピソードが語られる。こんな境遇でみんな自営業で働いていたら強くなるわなあ。『フルハウス』(男三人で女の子たちを育てるアメリカのコメディドラマ)みたいな家庭だったんだろうなあ。



 戦中戦後を女四人で(お母さんと三姉妹)生きてきたのだから、相当な苦労があったはず。
 この漫画に描かれるエピソードも疎開して食うために菜園をやっていたとか、スパイ容疑で逮捕されたとか、焼夷弾が自宅に落ちたとか、敗戦直後の夜中にアメリカ兵が自宅を訪れてきて生きた心地がしなかったとか(なにしろ鬼畜米英と言われていた時代だ)、強烈なエピソードだらけ。しかしそれをおもしろおかしく描いているが見事。ユーモアセンスのある人が語ればどんなことでも笑い話になるのだと改めておもう。
 長谷川町子さんのすごいのは、こういう経験をしているのに作品に〝思想〟が表れていないこと。『サザエさん』も『サザエさんうちあけ話』も、風刺や皮肉はあっても特定の思想はまったくといっていいほど見られない。おもうところはいろいろあっただろうに、新聞連載だから自分の色を出さなかったのだろう。

 社会や政治に深い洞察を持っている人もすごいけど、それを一切出さない表現者というのもすごい。


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2021年8月2日月曜日

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