2021年6月30日水曜日

四刑

 子どもの頃、「四刑(しけい)」という遊びをよくやっていた。物騒な名前の遊びだ。
 検索してみたのだけれど、見当たらない。Wikipediaにしけいという項目があったが、ぼくらがやっていた「四刑」とはけっこうルールが違う。


 ぼくらがやっていた四刑は、こんなルールだ。

  1. まずじゃんけんで順番を決める。
  2. 1人目が壁に向かってボールを蹴る。
  3. 壁に当たってはねかえってきたボールを、2人目がまた壁に向かって蹴る。蹴れるのは一度だけ。
  4. 蹴っても壁に当たらなければ「一刑」となる。また、順番でない人がボールに触れた場合も「一刑」となる。
  5. 「四刑」になれば負け。罰として、壁にくっつくようにして立つ(壁を向く場合と壁に背を向ける場合がある。壁を向く方が怖い)。他の人が執行人として、負けたものに向かってボールを蹴る。当たる痛さよりも「ボールが当たるかも」という恐怖のほうが大きい。

 だいたいこんなルールだった。
 スポーツのスカッシュにちょっと似ている(もちろん小学生のときはスカッシュなんて知らなかった)。
 壁とボールさえあれば何人でもできるので、休み時間のたびにやっていた。


 確実に壁に当てるためには、ボールが壁に近いうちに蹴ったほうがいい。しかし壁にはねかえった直後はボールの勢いがあるので蹴りづらい。といってボールの勢いがなくなるのを待っていたら壁から遠ざかって当てづらくなる。なかなかむずかしい。

 駆け引きも生まれる。たとえば3番の人が3刑になっているとする。すると1番の人はわざと弱く蹴って、ぎりぎり壁に当たるようにする。すると2番の人は壁のすぐ近くからおもいっきり蹴ることができる。3番は不利になる。3番を殺すために1番と2番が協力するわけだ。

「順番でない人がボールに触れた場合も一刑となる」というルールも、ゲームをよりおもしろくしてくれる。
「壁を狙わずに他の人を狙って蹴る」という戦略も生まれる。他人に当てることができれば、一刑となるのは当てられた人だ。
 自分の順番はまだまだだからと油断していると、不意にボールを当てられてしまうこともある。常に緊張感を持っていなくてはならない。


 壁とボールさえあればできる上に、さまざまな戦略が立てられて奥が深い。

 もっと流行ってもいいのになあ。大人になった今やってもおもしろいかもしれない。


2021年6月28日月曜日

古いマンガばかり買い与えている

  七歳の娘に、古いマンガばかり買い与えている。

 ドラえもん、ちびまる子ちゃん、21エモン、パーマン……。ぼくが子どものころに読んでいたマンガばかりだ。
 おっさんになると古いマンガが読みたくなる。新しいマンガもおもしろいけど、手を出すのに気力がいる。『鬼滅の刃』とか「あれだけ流行ってるんだからまちがいなくおもしろいんだろうなあ」とおもうけど、新たに読みはじめるのがなんとなく億劫だ。
「流行ってるから手を出す」って恥ずかしいし。

 そんなわけで、娘といっしょに21エモンやパーマンを読んでいる。パーマンってもう五十年以上前のマンガなんだなあ。でも娘は楽しんで読んでいる。令和の子どもでも楽しめるのだ。
 こないだAmazon Primeで『パーマン』の昔のアニメを娘に見せてやったら大喜びで観ていた。ギャグシーンでは笑いころげていた。

 ぼくが昔読んでいたマンガやほしかったけど持っていなかったマンガを、娘のためと言いながら買い集めている。




 そういやぼくも小学生の頃、母親から昔のマンガを買い与えられた。
 べつにお願いしたおぼえもないのに、手塚治虫の『ブッダ』『三つ目がとおる』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『鉄腕アトム』といったメジャーどころから『プライム・ローズ』『紙の砦』『日本発狂』『ルードヴィッヒ・B』などのマイナー作品までどっさり買ってくれた。『シュマリ』『奇子』『きりひと讃歌』など、性描写も多くてどう考えても子ども向けじゃないマンガもうちにあった(『火の鳥』や『シュマリ』は母が昔買ったものだった)。

 家に遊びに来る友人からは「おまえんちめずらしいマンガあるな」と言われた。
 手塚治虫が亡くなった数年後だった。ふつうの小学生の部屋には手塚治虫作品はなかった。

 あと中学生のときに『サザエさん』全集が刊行されて、それも母からプレゼントされた。
 正直『サザエさん』はマンガ自体がおもしろかったわけでもなかったが(新聞四コマなので時事ネタが多く後で読むとわかりづらい)、昔の世相が知れるおもしろさはあった。


 どうせなら当時人気のあった『ドラゴンボール』などを買ってもらえるほうが当時のぼくはうれしかったが、それでもマンガをたくさん読めるのはうれしく、手塚治虫作品を何度もくりかえし読んだ。




 当時は気づかなかったが、最近になってあの頃の母の気持ちがわかった。
 我が子に、自分が読んだものを読んでほしいという気持ち。
 特にぼくの姉は本を読まない人だったから(マンガもあまり読まなかった)、ぼくはいろいろな本を買い与えられた。
 マンガだけではない。東海林さだおや群ようこのエッセイ、北杜夫のユーモア小説、椎名誠の私小説。母がぼくに買ってくれたものもあるし、母の本棚からぼくが勝手に手に取ったものもある。ジェフリー・アーチャーの短篇集とか。


 母の少女時代のことはよく知らないけど、きっとサブカル少女だったのだろう(もちろん母が少女だった頃にそんな言葉はないが)。
 だから母のふとした気まぐれで、ぼくは手塚治虫マンガを買い与えられたり、平日の昼間に落語会に連れていかれたりした(学校をサボって)。

 こういう姿勢はちゃんと受け継いでいかないとな。
 だからこれからもぼくは娘に昔のマンガを買い与えようとおもう。妻からの「部屋が散らかるから、マンガ買うんだったら片付けして」という言葉を聞き流しながら。


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2021年6月25日金曜日

【読書感想文】ちょっと嘘っぽくてちょっとだけ嫌な展開 / 新津 きよみ『星の見える家』

星の見える家

新津 きよみ

内容(e-honより)
安曇野で一人暮らしをする佳代子。病気がちの弟のため、家族で引っ越し、ペンションを始めたのだが、体調が回復した弟が東京の高校に進学したことを機に、家族はゆるやかに崩壊していく。一人になった佳代子は、ペンションをやめベーカリーを始めるのだが、そこにはある秘密が…(表題作)。再び生きることを目指す女性の恐怖と感動を描く、オリジナル短編集。


 短篇集。内容も登場人物はバラバラだが、主人公はみんな四十代ぐらいの女性。

『危険なペア』には三人の女性が出てくるが、全員「均等法一期生」。そんな言葉があるなんてぼくもこの本で知ったのだが、男女雇用機会均等法が施行された1986年4月に社会人となった世代を指す言葉らしい。
 この本の刊行が2009年なので、主人公たちは45歳ぐらい。今だと60手前か。団塊の世代と団塊ジュニアの間ぐらいだね。


 均等法一期生である主人公たちは、みなあまりいい境遇に置かれていない。
 離婚してシングルマザーになっていたり、失業していたり、機会に恵まれずいまだ独身だったり。

 今もそうだけど、均等法一期生の女性ってとりわけたいへんだっただろうなあ。タテマエとしては男女平等になってるけど、実態はぜんぜんそうなってない。上の人たちはみんな古い考えのまま。

 いつだって楽な時代なんてなかったとはおもうけど、何がつらいって「理想と現実の違いが大きい」ことがいちばんつらい。
 ぼくは80年代生まれなんだけど、この世代はそもそも世の中に対してあまり期待していない人が多い。生まれたときからずっと不況で、羽振りが良かった時代をほとんど見ていない。子どものころからリストラだ経営破綻だというニュースを観てきた。
 だからそもそも「がんばれば必ずいい暮らしができるようになる」とか「ふつうに就職してふつうに結婚してふつうにサラリーマンと専業主婦になって……」とかの価値観を持っていない。

 でも、均等法一期生世代とか団塊ジュニア世代はきっとそうじゃない。子どものころにはまだ「ふつうにがんばればいい暮らしができる」幻想が生きていたんじゃないかな。
 上の世代を見ているとおもうもん。「幸せは努力すれば勝ち取れるものとおもってるんだろうなー」って。

 そういう「理想とはほど遠い生活を送っている中年女性」をうまく描いている。まあ理想通りの人生を送っている人なんてどこにいるんだって話だけど。




 サスペンスやミステリっぽい短篇が並ぶが、どれもいまひとつ。
 どうも切れ味が鈍いんだよね。
 軒並み期待を下回ってくる。
 あっと驚く展開はない。かといってほんとにありそうかというと、そこまでのリアリティはない。
 ちょっと嘘っぽくてちょっとだけ嫌な展開が続く。


 一篇選ぶとしたら『再来』。

「主人公の娘が、前世の記憶を持っているらしい」と
「主人公の友人がかつて誘拐軟禁事件の被害者だった」というまったく別の話が同時進行で語られる。

 これがどうつながるのか……という謎の張り方はおもしろかった。

 だが結末は、うーん……悪くはないけど……。
 ほとんどつながらないのか……。


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2021年6月24日木曜日

『一周だけバイキング』に感動した

『テレビ千鳥』というテレビ番組の『一周だけバイキング』という企画がすばらしかった。

 おもしろいのはもちろんだが、ただおもしろいだけでなくぼくはちょっと感動してしまった。テレビにはこんなこともできるのか。もう三十年以上テレビを観てきて「テレビってこんなもん」というイメージがあったけど、いやいやまだまだテレビの可能性はあるんだな。こんなことでおもしろいテレビ番組が作れるなんて知らなかった。
 それぐらいすごい企画だった。




『一周だけバイキング』はこんな内容だ。

 ホテルのバイキングが用意されている。
 内容はかなり豪華。ステーキとか揚げ物とかが並んでいるので、朝食バイキングではなく夕食だ。和洋中、いろんな料理が並んでいる。シェフが立っていて、注文を受けてから目の前で調理してくれるコーナーもある。

 そこに芸人がやってきて、料理を取る。トレイを持ち、皿を何枚か載せ、そこに自分が食べたい料理を載せていく。ごくごくふつうのバイキングだ。
 ふつうのバイキングとちがうのは一点だけ。料理を運べるのは一度だけということ。ふつうのバイキングであれば「料理をテーブルに持っていき、食べたらもう一度料理を取りにいく」ができるが、『一周だけバイキング』ではそれができない。
 あとはふつうのバイキング。もちろん、一度皿に取った料理を戻すことはできない。

 それだけ。




 これに、何人かの芸人が挑戦する。
 芸人だからといってボケたりしない(ボケる人もいるがたしなめられる)。奇をてらわずに、真剣に自分が食べたい料理だけを皿に取る。
 つまり、ぼくらがホテルの夕食バイキングに参加したときと同じことをするだけだ。
 で、それを他の芸人がモニターで見ながら、料理のチョイスについてあれこれ言う(その音声はバイキング参加者には聞こえない)。

 ごくふつうの場所で、ごくふつうのことをする。それだけ。
 観たことない人はそれのどこがおもしろいんだとおもうかもしれないが、これがめちゃくちゃおもしろかった。

 もちろん芸人がコメントを入れるので、ワードの選定とかツッコミのタイミングとか比喩とか、そういうのはおもしろい。
 それもおもしろいが、でも『一周だけバイキング』のいちばんのおもしろさは芸人のトークよりもバイキングそれ自体にある。


 大人であれば、人生において何度もバイキングに参加したことがあるだろう。ホテルの朝食はバイキング形式のことが多い。結婚式の二次会などちょっとしたパーティーでもビュッフェスタイルのことがよくある。
 バイキングを食べ終わって、「ああすればよかった」と後悔したことはあるだろうか。ぼくは毎回後悔する。

 まちがいなく取りすぎる。
「取り放題」「どれだけ取っても同じ値段」「準備も後片付けもしなくていい」という甘い誘惑が理性を狂わせる。
 おまけにホテルの料理はどれも見栄えがいいしおいしそうだ。
 あれもこれもと皿に載せ、気づけばパン三個とベーコンエッグとウインナーと海苔とチーズとコーンフレークとヨーグルトとゼリーとスクランブルエッグと生卵を取っている。朝からこんなに食えないのに。でも無理して食う。苦しくなる。

 何度取りにいっていいのだからちょっとずつ取ればいいのに、大量の食べ物を目の前にするとそんな理性はどこかへ行ってしまう。
 人類がバイキングをするようになったのはたかだかここ百年ぐらいの話。常に飢餓の恐怖と隣り合わせだった人類が数万年かけて身につけた「食えるときに食っとけ」という本能の前に、理性など太刀打ちできるはずがないのだ。


『一周だけバイキング』でも、やはり芸人たちは失敗する。
 わざと失敗を狙っているわけではない。食べたいものを取るだけなのに失敗する。

 エビフライを取ったら、その後にシェフがその場で天ぷらを揚げてくれるコーナーがあって、「揚げたてのエビ天があるんならエビフライいらなかった」と後悔する。

 だし巻き玉子を取って、スクランブルエッグがあるのでそれも取って、そしたらその後にふわふわのオムレツ(これもシェフがその場で焼いてくれる)があって「玉子ばかりになってしまった!」と後悔する。

 前半に揚げ物をごっそり取ったら、後半に上等のステーキが待っていて「こんなに揚げ物取るんじゃなかった!」と後悔する。

 匂いに誘われてカレーライスをとってしまい、すべての料理がカレーの匂いに包まれてしまう。

 あれもこれもと取っているうちに皿がトレイに載りきらなくなる。

 全部よくある失敗だ。ぼくもよく玉子だらけにしてしまう。

 テレビに出ている芸人だから、きっと収入も多いだろう。一流レストランで食事をする機会も多いだろう。自腹でなく料理をごちそうしてもらえることも多いだろう。
 それでも失敗する。
 目の前に並んだごちそうを見て、理性はあっという間に雲散霧消する。

 その様子がおもしろい。
 人間、どれだけ立派になっても結局は食欲のままに生きる動物なのだということをバイキングは知らしめてくれる。




 何がすごいって、ぜんぜん特別なことはしてないわけよ。
 ごくふつうのバイキング。ただ「一周だけ」というルールがあるだけ。それだって無茶を言ってるわけじゃない。実際、チェックアウトの時刻が迫っていて一周で決めなければならない状況もある。

 ごくふつうの場所で、ごくふつうのことをする。それだけですごくおもしろい。
 画期的だ。テレビってこれでいいんだ。

 この手法、バイキング以外にも使えそうだ。
 荷造りをするとか、保護者会で自己紹介をするとか、10人でバーベキューをするためにスーパーで買い物をするとか、家具を選ぶとか。そういう「みんなやったことあるけど数年に一回ぐらいしかやらないから失敗しがちなイベント」を真面目にやる。

 それをそのまま撮るだけで十分おもしろくなりそうだ。




 ところで『一周だけバイキング』だが、芸人以外の唯一の参加者が長嶋一茂さんだった。
 この人のバイキングは見事だった。皿を贅沢に使い、いろどりも良く、肉に野菜にスープに果物と栄養バランスもばっちり。取りすぎることもなく、ほぼ完璧といってもいい出来。しかもそれを自然にやってのけていた。
 育ちの良さはこういうところに出るのかと感心した。


 ところで、以前テレビで元プロ野球選手が語っていた。
 昔、ジャイアンツの宿舎には選手のための食べ物がどんと置いてあった。夏になるとスイカが切って並べてある。
 三角形に並んだスイカを次々に取り、てっぺんの甘いところだけを食べて他は全部残す選手がいた。それが長嶋茂雄だった、と。

 親子でこんなにもちがうものなのか。


2021年6月23日水曜日

【読書感想文】理想の女友達 / 角田 光代『対岸の彼女』

対岸の彼女

角田 光代

内容(e-honより)
専業主婦の小夜子は、ベンチャー企業の女社長、葵にスカウトされ、ハウスクリーニングの仕事を始めるが…。結婚する女、しない女、子供を持つ女、持たない女、それだけのことで、なぜ女どうし、わかりあえなくなるんだろう。多様化した現代を生きる女性の、友情と亀裂を描く傑作長編。第132回直木賞受賞作。

 この小説には、二組の〝女の友情〟が描かれる。

 ひとつは、専業主婦・小夜子と女社長・葵。
 もうひとつは、高校生時代の葵と同級生のナナコ。

 どちらも構図は似ている。
 いろんなしがらみに縛られて生きている小夜子は自由闊達に生きているように見える葵にあこがれ、人間関係のわずらわしさに苦悩していた高校生時代の葵もまたしがらみとは無縁のナナコにあこがれる。

「ねえ、アオちん、あんな場所でなんにもこわがることなんかないよ。もしアオちんの言うとおり、順番にだれかがハブられてったとして、その順番がアオちんになったとしても、あたしだけは絶対にアオちんの味方だし、できるかぎり守ってあげる。ね、みんなが無視したって、たったひとりでも話してくれたらなんにもこわいことなんかないでしょ?」
 葵は何も言わなかった。ただドーナツの輪から空を見続けていた。
「でもこれは、協定でも交換条件でもなんでもない。もしあたしが無視とかされても、アオちんはべつになんにもしないでいいよ。みんなと一緒に無視しててほしいくらいだよ、そのほうが安全だもん。だってあたしさ、ぜんぜんこわくないんだ、そんなの。無視もスカート切りも、悪口も上履き隠しも、ほんと、ぜーんぜんこわくないの。そんなとこにあたしの大切なものはないし」
 葵は頭上にかざしたドーナツを顔に近づけて、一口囓った。それをまた空にかざす。アルファベットのC形ドーナツから空を見る。輪のなかの青色が、空に溶けだしていくようだと葵は思った。

 誰しもこんなふうに生きていたいと願うだろう。だけどたいていの人はそうはできない。周囲の顔色をうかがいながら、嫌われないように、目立たないように生きる。


 ……と書いたものの、じつはぼくはそういう窮屈な生き方はあまりしてこなかった。
 学生時代は目立つことが大好きで、生徒会長になってふざけたスピーチをしたり、浴衣を着てうろうろしたり、学ランなのにネクタイをしたり、授業中に大きな声を出したりしていた。
 とはいえぼくの場合は「自由気ままに生きていた」というよりは「自由気ままに生きている人のふりをしていた」というほうが近かった。浴衣を着たかったというより、〝浴衣を着る変なやつ〟とおもわれたかったのだ。

 それでも、平均的な高校生に比べればずっと人目を気にせず生きていたとはおもう。
 周りの人たちのほとんどはおもしろがってくれたが、一部の心ない人から「きもい」「調子乗ってる」なんて言葉をぶつけられたこともある。もちろん心は痛んだけど、ぼくにとってはおもしろがられることのほうが大事だったから「変なやつ」として生きていくことを選んだ。

 でもそういう生き方ができたのは環境のおかげだったとおもう。
 高度経済成長期に開拓された新しい町だったとか、校則の厳しい学校ではなかったとか、学校にヤンキーが少なかったとか、ぼくの母親も「変な息子」に困りながらちょっとおもしろがっていたとか、そういう環境があったからこその話だ。

 そしてなにより、ぼくが男だったというのが大きいとおもう。


 特に十代ぐらいの頃は女子の友情を見ていると「窮屈な関係だなあ」とおもっていた。
 どこへ行くにも何をするにも決まったグループ。誰かがトイレに行くときはついていく。別のグループに出入りすることは、元のグループとの決別を意味する。同じようなファッションをして同じマンガを読み同じ音楽を聴いて同じテレビ番組を観る。
 耐えられん。

 ぼくにも仲のいいグループはあったけどメンバーは固定ではなかった。
 サッカーをするときはこのメンバー、野球をするときはこのメンバー、漫画の貸し借りをするのはこいつ、こいつとはちょっと真面目な話をすることもある。そんな感じだった。

 女子のグループは何をするにも一緒のくせに、クラス替えとか進学のタイミングであっさりつながりが切れる。あんなにずっと一緒だったくせに、嘘のようにつながりが切れる。
 なんなんだあの関係は。

 もちろん女子のグループにもいろんな関係性があるんだろうけどさ。


 小田扉『そっと好かれる』という、ぼくの大好きなマンガがある。短篇集だが、このマンガに出てくる女性はみんな他人の目から自由だ。
 自分のやりたいことだけをやっている。他人からどうおもわれようと一切気にしない。

 すごいなあとおもうと同時に、でも現実にはこんな女性いないよなとおもう。だからこそギャグマンガになるのだ。
(現実にもいるけどたいていアブない人だ)

『対岸の彼女』に出てくる葵(大人時代)とナナコも、〝理想の女友達〟を体現している。
 フィクションの世界にしかいない、人の評価から自由な女性だ。




 とはいえ、〝理想の女友達〟に見えた葵とナナコも、いろいろな事情を抱えていることが中盤以降明らかになる。決して悩みのない順風満帆な日々を送っているわけではないことがわかる。

 彼女たちの暗い過去を読んで、ぼくは逆に安心した。
 ああ、やっぱりふつうの人だったんだ。

 特に若い頃は人目を気にせずに生きていくのはむずかしいよね。歳をとるといろんなことがどうでもよくなってくるんだけどね。




 ぼくは「自分は社交的な人間ではないし、今後もそうだろう。友人はいるけど、今後新たに友だちができることは期待していない。歳をとったら寂しいジジイになるんだろう」とおもって生きている。
 自分自身についてはもう覚悟もできているし、諦めも持っている。

 だからそれはいいんだけど、自分の娘のこととなるとそうはおもえない。

「だけど、友達、たくさんできたほうがやっぱりいいじゃない?」耳に届く自分の声は、みっともないくらい切実だった。けれど小夜子は知りたかった。あかりの未来か、自分の選択の正否か、葵の話の行き着く先か、何を知りたいのかは判然としなかったが、しかし知りたかった。
「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」
 小夜子は正面に座る葵をじっと見つめた。目の前でぱちんと手をたたかれたみたいに思えた。そうだ、あかりに教えなければならないこと、それは今葵が言ったようなことなんじゃないか、泣きわめくあかりを保育士さんに預け、まだ友達ができないのかとじりじり焦り、迎えにいったあかりから友達の名がひとりも出ないことにまた落胆するのは、何か間違っているのではないか……葵を見つめたまま、小夜子は考えた。

 下の子は二歳なのでまだ性格はわからないけど、上の子はだいぶ性格が見えてきた。人見知り、頑固、他人に厳しい。おせじにもみんなから好かれるタイプではない。我が子を見ていて心配になる。
 なんとかして、周囲とうまく付き合っていってほしいなあとおもう。
 少々自分を押し殺してでも、周りと合わせて生きていってほしい。休み時間に一緒にトイレに行く友だちができてくれたらいいとおもう。

 自分は「親しくない人には好かれなくてもいいや」と生きてるのに、娘のことだと「無難に、ふつうに生きていってほしい」とおもう。
 我ながら、勝手な願いだけど。


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