2020年12月4日金曜日

【映画感想】『凶悪』

 

『凶悪』

(2013)

内容(Amazonより)
史上最悪の凶悪事件。その真相とは?
ある日、雑誌『明朝24』の編集部に一通の手紙が届いた。それは獄中の死刑囚(ピエール瀧)から届いた、まだ白日のもとにさら されていない殺人事件についての告発だった。彼は判決を受けた事件とはまた別に3件の殺人事件に関与しており、その事件の 首謀者は“先生”と呼ばれる人物(リリー・フランキー)であること、“先生”はまだ捕まっていないことを訴える死刑囚。 闇に隠れている凶悪事件の告発に慄いた『明朝24』の記者・藤井(山田孝之)は、彼の証言の裏付けを取るうちに事件に のめり込んでいく……。

 実際にあった事件(上申書殺人事件)を元にした映画。

 ピエール瀧演じる須藤という男は、なんとも凶悪。暴力団組長であり、死体を切り刻んで焼却したり、土地欲しさに生き埋めにして殺したり、保険金目当てに大量の酒をむりやり飲ませて殺したり、殺人、死体遺棄、レイプ、覚醒剤、放火、ありとあらゆる犯罪をおこなう。一切のためらいもなく。

 そしてもうひとりの「凶悪」が、リリー・フランキー演じる〝先生〟と呼ばれる人物だ。
 先生は自分で手を下すことこそ多くないが、殺人や保険金詐欺を計画して須藤に実行させる。

 このふたりの怪演が光る。電気グルーヴの映像作品を何度も観て、『東京タワー』や『おでんくん』の作品に触れたぼくでも、ピエール瀧とリリー・フランキーを大嫌いになりそうになる。それぐらい悪人の演技が見事。

 しかしピエール瀧が大麻所持で逮捕されたときでも、ピエール瀧が覚醒剤を取り扱うこの映画の配信を止めなかったAmazon Primeの判断はすごい。
「役者のプライベートと作品の価値は無関係だろ」とおもっているぼくですら、「これ公開しても大丈夫なの?」と心配するレベルだ。


 ストーリーとしては、須藤が捕まり、週刊誌記者の執念深い取材の結果〝先生〟も逮捕されて懲役刑を下されるのだが、わかりやすい「悪 VS それを追いつめる正義の記者」でないのがいい。

 記者はたしかに使命感に燃えて事件取材にあたるのだが、彼の行動も決して褒められたものではない。
 認知症である実母の介護を妻に押しつけ、家庭のことは一切顧みない。妻は追いつめられ、記者の家庭は崩壊する。
 家庭人として見たら、この記者もまたクズ野郎だ。

 そして、凶悪犯である須藤や〝先生〟も、大笑いしながら見ず知らずの人間を殺す一方で、子どもと楽しくクリスマスパーティーをしたり、弟分をかわいがったり、近しい人物から「情に厚い」と評されたりする。

 こういう描写があるからこそ、余計に彼らの凶悪さが際立つ。
 決して彼らは別世界の住人ではなく、我々の隣人で愛想よくしている人間なのかもしれない。いやそれどころか、我々の中にも「凶悪」は眠っているのかもしれない。


 いちばん凄惨だったシーンが「老人にむりやり大量の酒を飲ませ、スタンガンで危害を加えるシーン」だ。
 このシーンで、須藤と〝先生〟はめちゃくちゃ楽しそうに笑うのだ。電気ショックを受けて苦痛に身をよじらせる老人の真似をして、息ができなくなるぐらい笑う。ほんとに心の底から爆笑しているという感じ。

 まるで、バラエティ番組で身体を張っている芸人を見る我々のような顔で。


2020年12月3日木曜日

重箱の隅

コンビーフの缶は台形ではなく四角錐台だ(角が丸くなっているので正確には四角錐台でもないが。



「逆三角形」はおかしい。
頂点が上を向いていようが下を向いていようが三角形は三角形だ。

あえていうなら、下の図の黒い部分のような図形(三角形をくりぬいた形)は「逆三角形」と呼べるかもしれない。



「棒を垂直に立てる」という言い方がいやだ。

垂直は対象に対して90度の角度を差す言葉なので、
「棒を地面に対して垂直に立てる」または「棒を鉛直に立てる」と言うべきだ。
〝水平〟はよく使われるのに、〝鉛直〟は日常的には使われない。



万里の長城。

たいていの人はチョー↑ジョー↑と「頂上」のイントネーションで発音している。
だが〝長い城〟なので、入城とか荒城とかと同じく「→ →」と平坦に発音するのが正しいのではないか。



最近知った「地方によって呼び名が変わるもの」。
ぜんざい。

ぼくは関西で生まれ育った人間なので、ぜんざいといえば小豆汁なのだが、関東のぜんざいは汁なしなのだそうだ。
関西人にとってのぜんざいは、関東では「しるこ」だそうだ(関西ではぜんざいがつぶあん、しるこがこしあんだとWikipediaには書いてある)。

ぼくが関西人だからかもしれないが、濁音の多いぜんざいがつぶあん、清音のしるこがこしあん、という関西風の呼び名がしっくりくる。

「地方によって呼び名が変わるもの」はいろいろある。
スコップとシャベルとか、ワイシャツとカッターシャツとか、豚まんと肉まんとか、ぶた汁ととん汁とか。

日本語はひとつのようで、案外統一されていないのだ。


北を「上」と呼ぶことについて。
細かいことを気にする性質なのに、「北を上と呼ぶこと」は気にならない(自分が呼ぶことはないが)。

なぜならそっちのほうがわかりやすいから。

東と西の感覚ってむずかしくない?
頭ではわかっているが、いまだに肌感覚としては身についてない。

「東が右、西が左」とおぼえてはいるが、東が上の地図を見たりすると「ええと、南はどっちだったっけ」と当惑する。
英語のEASTとWESTも毎回迷う。
いつも「ええと、極東がFAR EASTだから……EASTが東か」とおもう。

東西って人間の身体になじまない概念なんじゃないだろうか。
「西を向いたとき、右斜め後ろの方角は?」と訊かれて、考えずに即答できる人はどのぐらいいるのだろうか。


2020年12月2日水曜日

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

喪失の国、日本

インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」

M.K.シャルマ(著) 山田 和(訳)

内容(e-honより)
インド人エリートビジネスマンが日本での赴任経験を語った体験記。90年代に日本が喪ったものを、鋭い観察力で描いた出色の日本人論

 これはおもしろい!! 今年いちばんおもしろかった。

 たまたま古本屋で見つけた本なのだがもう絶版になっているらしい。もったいない。今読んでもめちゃくちゃおもしろいのに。

 この本が日本語に訳されることになったきっかけがもうおもしろい。

 訳者がインド・ニューデリーの書店で元本を購入。だがデーヴァナーガリー文字・ヒンズー語で書かれていたので読むことはできなかった。
 その後、ニューデリーから遠く離れた町を旅していると、インド人から家に来ないかと誘われた。危険を感じながらも男の家に行き会話をしていると、なんとその男が件の本の著者であることがわかった……!

 というなんともできすぎた話。インドには約10億の人がいるのに、たまたま著者に出会うなんて。
 そして著者に英訳してもらい、英文を和訳する形で日本語版刊行の運びとなったのだとか。
 神も仏も信じないぼくでも、このエピソードには神秘的なものを感じずにはいられない。神秘の国・インドだから余計に。




 日本語版刊行に至った経緯もおもしろいが、中身はもっとおもしろい。
 インドの会社員である著者シャルマ氏が、業務で来日。会社から与えられた使命は「日本のことを知ること」。遊んでいてもいいから日本の暮らしを見聞きするように、というなんともうらやましい使命を帯びて1992年に来日している。

 1992年といえばバブル崩壊期とはいえまだまだ日本は世界トップクラスの経済大国。かたやインドは1991年に社会主義計画経済から自由主義経済になったところなので、まだまだ経済的には後進国。その差は大きかった。
 当然ながらインドから日本にやってきた著者にとっては見るものすべてが驚きだったらしく、その衝撃をみずみずしく伝えている。

「空港の係員が誰もワイロを要求しないし誰もが真面目に働いている」とか「バスの運転席に神棚も仏陀の聖絵も線香もない」といったことで驚いている。そんなことで驚いていることに驚く。
 インドってほんとに「我々が安易にイメージするインド」なんだなあ。三十年前の話だから今はどうだか知らないけど。


 以前、コリン ジョイス『「ニッポン社会」入門』という本を読んだ。日本在住のイギリス人記者によるエッセイ。プールに国民性が表れる、「猿も木から落ちる」「ずんぐりむっくり」「おニュー」といった表現の秀逸さ、日本的な行動とは何か……。どのコラムもおもしろかった。
 その本に書かれていたが、日本人は特に「外国人から日本がどう見られているか」を気にする民族らしい。ぼくもご多分に漏れず、「外国人から見た日本」の話が大好きだ。
 ふだんは意識しないことに気づかされる。

 たとえば『喪失の国、日本』のこんな文章。

 客を迎える部屋である「座敷」は、紙を張った障子戸で仕切られていた。その紙は、私が予想していたよりずっと薄いものだった。紙を透かして光が入ってくる。
 障子戸は、壁と窓(明取)と扉という三つの機能を兼ね備えていた。それは引き戸という、希有な、じつに知的な構造によって、壁になり、出入口にもなり、そこから人が現れたり吸い込まれたりするのだった。開閉のためのスペースがまったく要らない発想には感心した。

 障子なんて何度も見てるけど、こんなに深く考察したことなかった。たしかに、壁と窓と扉の三つの機能を兼ね備えてるな。言われてみると、すごくよくできたシステムだ。もしガラスが発明されていなかったら、障子が世界中で使われていたかもしれない。


 高野秀行さんの『異国トーキョー漂流記』 という本に、
「日本人がインド旅行に行くとただの乞食にまで深淵なるインド哲学を感じてしまうように、多くの外国人も日本に『東洋の神秘』を求めてやってきて、何の変哲もないものに勝手に『東洋の神秘』を感じて帰っていく」
みたいなことが書かれていた(十数年前に読んだ本なのでうろ覚えだが)。

 シャルマ氏も、日本のあれこれに「東洋の神秘」を見出す。

 日本では「学ぶ」ことは教えを乞う行為なのではなく、手伝いをすることであり、ひたすら自我(アートマン)を滅して師に尽くしつつ、その間に師の技術を「盗む」ことなのである。したがって師はただ弟子を酷使し、場合によっては打擲する。
 カウンターの向こうで客と接する板前とその弟子は、下駄と呼ばれる木製の伝統的な靴を履いており、弟子が粗相をしたり仕事が遅いときは、下駄で弟子を密かに蹴飛ばす。それで弟子の足は、いつも生傷の絶え間がないという。師は蹴飛ばすときも客とにこにこ話をしていて、他の人間にはそのことを気づかせないということだ。
 それが師の愛の形で、日本では「しごき」という独特の愛の概念をもって理解されているそうである。これは、バラモン教以後に栄えた仏教の空(スーンニヤ)の思想の実践のように私には思える。日本の伝統料理文化の継承は、このような一種の宗教的「修行」にも似た形でなされる。これは「トレーニング」や「ラーニング」という概念ではなく、「アセティック」すなわち「苦行」という訳語が適当だろう。店内には小さな白木の神殿が祀られていたが、それを見て私はインドの道場(アカーラー)を思い出した。

 板前の大将が弟子を蹴飛ばしている姿に、シャルマ氏は仏教の〝空〟や〝苦行〟を見出す。
 おもしろい考察だけど、残念ながら考えすぎだよ。虫の居所が悪いから蹴飛ばすのを「愛によるしごき」って言ってごまかしてるだけだよ。残念ながらそこには哲学も宗教もない。あるのは身勝手さだけだ。




 シャルマ氏は知性的な人物の例に漏れず、ユーモアのセンスも一級品だ。

 二回目の西洋トイレの試みはさらに難解で、意表を突いたディズニーランドだった。便器の後部に機械がついていて、さまざまな押しボタンがあったが、それはトイレット・ペーパーを使用せずに用が足せる装置だった。
 正直いって私は恐れた。トイレ一つにもさまざまな操作知識が要求される。日本はインドのように、石器時代の名残をどこにも残していない。
 すべてがデジタル化されていて、私はコンピュータの技術訓練校に行かないまま本番に臨んだ生徒のように、やけっぱちな気分を味わった。それも、最も自由で最も個人的な空間であるはずのトイレで。
 私は慎重に、注意深く、ボタンの上に書かれた英語や絵文字の意味を読んだ。ボタンを押すと、便器の内部から尻を目がけて温水が出、そのあとに温風が吹き出した。おどろいて腰を上げたとき水が飛び散ったが、瞬時に止まったのは機械が自動検知したのにちがいない。何といってもおどろいたのは、「ここを押せ(プッシュ・ヒア・アフター・ユーズ)」と書かれたボタンを押したときだった。水が流れるとどうじに、便座を覆っていた紙がモーター音とともにするすると回りはじめたのである。
 梯子というのは、さらに一軒二軒と酒場を飲み歩くことである。そして多くの場合、次第に風紀の乱れた店に行くことである。
 稲田氏が最初の店で「私はピンク・サロンの常連でね」と言い出したとき、私はその意味を「共産主義的な会合にしょっちゅう出席している」という意味に受け取った。
 それで「これからピンク・サロンに行こう」と言い出したとき、何と真面目な人かと感心した。「呼称」がもつ差別について語るに値する人であると思ったのである。
 稲田氏の誘いに、皆が「よし行こう行こう」と言いはじめた。で、われわれはそこに向かった。が、そこは共産主義者の会合の場ではなく、おどろいたことに「ハーレム」だった。

 まるでコントだ。ユーモアあふれる描写が随所に光る。

 日本人が海外旅行して失敗した話もおもしろいが、外国人が日本で衝撃を受けた話はもっとおもしろい。




 シャルマ氏は生粋のインド人なので、宗教やカーストを常に心に持っている。
 それでいながら、日本という異文化に対する敬意を忘れず、なんとか溶け込もうとしている。異文化コミュニケーションのお手本のような姿勢だ。

 たとえば彼は豚肉を口にしないが、豚肉を食べる日本人のことを責めたり蔑んだりしない。日本には「お気持ちだけいただきます」という言葉があることを知るとなんとすばらしい姿勢かと感心し、自分も「お気持ちだけいただきます」といって豚肉を食べる相手と席を共にする。

 豊かな好奇心、克己心、理性、洞察力を兼ね備えている。なんとすごい人かとおもう。
 彼の異文化に飛びこむ姿勢に感心する。

 たとえば日本では知人の家に招待されたとき玄関で靴をそろえるのがマナーだが、インドでは「靴を触るのは低いカーストの人間だけ」という規律があるそうだ。

 だからシャルマ氏が日本の家に招待されたとき、彼は逡巡する。靴を触るなんてまるで召使じゃないかと。カーストのない国で育った我々には想像するしかないが、我々が外国で「家に招待されたときは主人の靴をなめるのがマナーです」と言われるようなものだろう。

 だがシャルマ氏はどれだけ抵抗を感じる行為でも、実害がないかぎりは極力日本式に従って行動する。そこに日本に対する深い敬意を感じずにはいられない。


 シャルマ氏は日本のテクノロジーに感心し、日本人の優しさや気配りの細やかさに最上級の賛辞を贈る。

 だが、日本に長く滞在し、日本のことや日本人のことを深く知るにつれ、彼は日本人の浅薄さ、傲慢さ、狭量さに次第に気づくようになる。
 後半は鋭い指摘が続くが、日本人としては耳が痛い。なぜならことごとく図星をついているからだ。

 表面上は反戦主義だが本当に過去の戦争に向き合ってない、押しつけられた反省を受け入れているだけ、グローバリゼーションなどと言いつつも見ているのは欧米だけ、欧米のやりかたは合わせるのに他のアジアの国は軽視して日本のやりかたを押しつけようとする、行く先の宗教や文化を調べようとしない、非効率な仕事ばかりしている、インドを安い労働力確保と市場拡大の場としかとらえておらずインドへの敬意も理解も持っていない……。

 これらの指摘はことごとく当たっている。日本に対する敬意を持ち深い理解をしようという姿勢を持っているシャルマ氏が言うから余計に突き刺さる。
 そして日本の欠点は二十年以上たった今でもほとんど改善されていない。90年代前半は日本をお手本にしようとしていたインドはその後完全に日本に見切りをつけ、アメリカに視線を定めたことがすべてを物語っている。
 そしてこれはインドだけではないだろう。技能実習生などといって海外の若者を食いつぶしている日本に向けられる目はどんどん厳しくなり、能力ある若者は日本よりもアメリカや中国を選ぶようになるだろう。

 タイトルにある『喪失の国』は、その後の日本の運命を見事に言い当てていた。




 引用したい部分が何十箇所もあったが、あんまりやると引用の範囲を超えてしまうのでやめておく。

 とにかくおもしろい本だった。
 くりかえしになるけど、絶版になっているのがつくづく惜しい。電子書籍にして残してほしい本だ。


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2020年12月1日火曜日

かー坊のこと

小学校一年生のとき、近所に「かー坊」という五年生のおにいちゃんがいた。

本名は川口とか川崎とかだったとおもうが、みんなからかー坊と呼ばれていた。
ぼくたち一年生も「かー坊」と呼んでいた。

かー坊はぼくたち一年生とよく遊んでくれた。
集団登校のときも、放課後も、休みの日も。
公園で、かー坊 VS ぼくたち一年生三人組 でラグビーをしたのをおぼえている。
マツナガくんがかー坊の上半身にしがみつき、ぼくがかー坊の下半身にしがみつき、その隙にエビハラくんがボールを抱えてトライを決めた。

かー坊がうちに来ていっしょにドンジャラをしたこともある。
かー坊が鼻くそをほじった手で「のび太のママの7」のパイをさわったので、ぼくらの中では「ママの7」は引くと嫌がられるハズレパイになった。

うちの母は「あの子はちっちゃい子と遊んでくれてやさしいねえ」と言っていた。

かー坊はぼくが二年生になるぐらいでどこかに引っ越していった。
すぐにぼくらはかー坊のことを忘れた。




高校生ぐらいのときに部屋の片づけをしていて、ドンジャラが出てきた。
そういやのび太のママがババ抜きのババみたいな扱いを受けていたなあ。
ひさしぶりにかー坊のことをおもいだした。

そして、不意にわかった。
ああ、そうか。
かー坊は「ちっちゃい子と遊んでくれるやさしいおにいちゃん」とおもっていたけど、ほんとは「ちっちゃい子しか遊び相手がいないおにいちゃん」だったんだと。

一年生のときはわからなかったが、自分が大きくなればわかる。
ふつう、五年生は一年生と遊ばない。
ごくたまに遊んだとしても、毎日のように遊んだりしない。
一年生の家に遊びに行ったりもしない。

だっておもしろくないもの。
同級生と遊ぶほうがずっと楽しいもの。

かー坊は、当時の言葉でいう〝知恵おくれ〟だったんだとおもう(当時は知的障害も発達障害もみんなひっくるめてそう呼ばれていた)。
だから同級生の遊び相手がいなかった。一年生と遊ぶほうが楽しかった。


当時はなんともおもわなかったことが線でつながった。
集団登校のとき、かー坊が一年生といっしょに歩いていて、他の五年生は話しながら歩いていたこと。
人前で鼻くそをほじることからもわかるように、異様にだらしなかったこと。
五年生になっても「かー坊」と若干見下したようなあだ名で呼ばれていたこと。
母の「あの子は優しいねえ」という言葉も、たぶん素直な称賛ではなかったのだろう。


でも、当時のぼくらにとってはまちがいなくかー坊は「優しいおにいちゃん」だった。
一年生三人がかりで五年生にラグビーで勝ったことからは、いろんなことを学んだ。

でもママの7に鼻くそつけたことはまだ恨んでるからな、かー坊!



2020年11月30日月曜日

【読書感想文】タイトル負け / 塩田 武士『騙し絵の牙』

騙し絵の牙

塩田 武士(著)  大泉 洋(写真)

内容(e-honより)
出版大手「薫風社」で、カルチャー誌の編集長を務める速水輝也。笑顔とユーモア、ウィットに富んだ会話で周囲を魅了する男だ。ある夜、上司から廃刊の可能性を匂わされたことを機に組織に翻弄されていく。社内抗争、大物作家の大型連載、企業タイアップ…。飄々とした「笑顔」の裏で、次第に「別の顔」が浮かび上がり―。俳優・大泉洋を小説の主人公に「あてがき」し話題沸騰!2018年本屋大賞ランクイン作。

 俳優である大泉洋さんのキャラクターをイメージして書いた「あてがき小説」なんだそうだ。

 その試みが成功しているかどうかは……残念ながらぼくがドラマも映画もほとんど観ない人間なので(『水曜どうでしょう』も観たことない)、大泉洋さんのキャラクターをよく知らないんだよね。
 観たのは『アフタースクール』ぐらいかな。でもあんまり印象に残ってないな。見た目から「ユーモラスな芝居をする役者さんなんだろうな」と想像するだけで……。




 大泉洋氏のファンでないぼくにとって、残念ながらこの小説は「期待はずれ」だった。

 いや、けっこうおもしろかったんだよ。でも読む前のハードルが上がりすぎて。
「あてがき小説」という変わった趣向、『騙し絵の牙』という挑戦的なタイトル、騙し絵になっている表紙写真。
 いったいどんな仕掛けがあるのかと身構えて読んじゃうじゃない。
『騙し絵の牙』ですよ。
「今から読者であるみなさんを騙します。最後にあっと驚くこと請け合い。さあ、見破ってごらんなさい」
っていうタイトルじゃん。

『騙し絵の牙』では最後に「意外な事実」が語られるんだけど、ものすごくささやかなんだよね。
「意外といえば意外だけど、人間誰にでもそれぐらいの秘密はあるよね」
ってぐらい。ささやかー!

『騙し絵の牙』というタイトルで読者に挑戦状を叩きつけるんなら、もっとすごい仕掛けがなきゃダメでしょ。
 〇〇は二人いたとか、〇〇と□□は同一人物だったとか、1章と2章は別の時代の話だったとか。

 小説の内容は悪くないんだけどタイトルがダメだなー。宿野かほる『ルビンの壺が割れた』もそうだけど。
 読者を欺くんならなんとかの季節にとかなんとかラブみたいなさりげないタイトルをつけなきゃ(ネタバレになるので一応自粛)。




〝仕掛け〟部分は期待はずれだったけど、雑誌編集者の仕事っぷりを書いたお仕事小説としてはおもしろかった。
 綿密に取材してることがうかがえる。

 ぼくは大学時代「なんとなくおもしろそうだから」という適当すぎる理由で出版社数社にエントリーした。結果は全滅。地方の出版社も含めてことごとく不採用だった。
 当時は「ぼくの能力を見抜けないなんて見る目のない採用担当だ」と不満だったけど、今にしておもうと「ちゃんと見抜いていたんだな」と感じる。
 ぼくにはできない仕事だわ。編集って。
 まず人と話すのが苦痛だもん。一日中パソコンに向き合ってるほうがずっといい。そんな人間に編集ができるはずがない。

『騙し絵の牙』の主人公・速水は雑誌の編集長。
 あっちに頭を下げ、こっちを笑わせ、そっちを励まし、あっちを持ちあげ、こっちを売りこみ、そっちから夜中に呼びだされ……。
 とんでもない仕事量とその幅の広さだ。おまけに速水はコミュニケーション能力の塊のような男で、プライベートを犠牲にする仕事の鬼。部下からの人望も厚く、上からもむずかしい仕事をこなせると期待されている。
 そんなスーパーマンのような男でも、出版不況には逆らえず、雑誌廃刊一歩手前で東奔西走させられる。

 もう読んでいてつらい。
 速水の仕事はほぼ完璧だといってもいい。それでも結果がついてこないのは「もう出版業界がだめだから」以外にない。
 速水氏もわかっている。それでも必死にもがきつづける。編集が、文芸、紙媒体が好きだから。


 ぼくも書店という出版業界の端くれの端くれにいた人間なのでわかる。紙の出版が今後伸びることはない。個人の努力でどうこうなる問題じゃない。
 毛筆業界やそろばん業界のように趣味のものとして細々と続いていくだろうが、あと二十年もしたら市場規模は今の数分の一になっているだろう。

 だから「そこであがいても無駄だよ」とおもう。局地的に勝つことはできても大勝することはない。さっさと見切りをつけて他の業界で勝負したほうがいい。速水のような優秀な人間ならどこにいってもやっていける。戦い方が悪いんじゃなくて戦う場所をまちがっているんだ。

 でも速水は必死にあがく。柳のように柔軟な人間なのに、根本のところは揺るがない。傍から見ると、その根本がまちがっているのだが。

 終盤、速水たち労働組合と経営陣が団体交渉をする場面がある。
 編集者、イラストレーター、フォトグラファー、印刷業者、作家、読者たちのために出版文化を残そうとする労働組合と、あくまで経営を第一に考え不採算部門を切り捨てようとする経営陣。
 作中では経営陣が悪者側として描かれるが、ぼくは経営側に肩入れしながら読んだ。
 出版文化だなんだのといっても経営者には利益を出す責務がある。文化を守るために会社をつぶすわけにはいかない。
 知恵と努力で苦難を乗り切れる可能性があるならまだしも、今の出版業界が以前の水準に戻る見込みは万に一つもない。良くてほんの少し延命させるだけだ。

 どう考えたって「紙をつぶしてデジタルに舵を切る」方針は正しい。
 いまさらデジタル化したってうまくいくとはおもえないが、それでも紙と心中するよりはまだ可能性がある。

仕事の物差しが「採算」なら、編集者ほど虚しい仕事はない。無駄が作品に生きる感覚は、現場を踏んで初めて得られる。だが、その成果が表れるのは行間であって、目につかないところに潜む特性がある。一目瞭然の数字とは、ほど遠いところに身を置く。

 これは速水の心中を吐露した文章だが、なんと青くさい感傷か。気持ちはわかるが、作家ならともかく、編集長ともあろう立場にあってこの青くささはどうだ。


 会社一筋に生きてきた人なら速水に共感できるのかもしれない。
 だが幾度かの転職をしてきて、これから先も「今の仕事があぶなくなったら別の業界に移ろう」とおもっているぼくとしてはまったく同情できない。
 こっちは一労働者だ。業界や会社と心中する義理なんかねえぜ。

 まあ速水の場合は、単なる「業界への愛着」以外にも雑誌や文芸に執着する理由があるのだが、それにしてもこの浪花節に共感できるのは、まだ終身雇用制を信じられた1960年代生まれまでじゃねえのかな。
 こっちはハナからそんなもの信じてないからなー。
(とおもったが著者の塩田武士さんは1979年生まれだった。ぼくとそう変わらないのにずいぶん無邪気に会社を信じている人物を主人公にしたもんだ)


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