2020年5月19日火曜日

座王


『千原ジュニアの座王』という深夜番組がある。
これがおもしろい。毎週欠かさず観ている。
おおさかチャンネルというのにも入って(無料会員だが)過去の放送分も全部見た。

関西ローカルだとおもうけど、おおさかチャンネルだとどこにいても観られるはずなのでぜひ多くの人に観てほしい。

観たことのない人に説明すると、芸人たちが椅子とりゲームをする。
最初は十人、椅子は九つ。ひとつずつ椅子を減らしていき、最後まで座っていた人が優勝。
もちろんテレビでやるわけだからただの椅子とりゲームではない。

誰かひとりが座れないところまではふつうの椅子とりゲームといっしょだが、座れなかった芸人は座っている芸人の中から誰かひとりを指名して対戦する。
何で対戦するかは、椅子に書かれているお題で決まる。
「大喜利」「写真(写真で一言)」「モノマネ」「モノボケ」「ギャグ」「1分トーク」「歌(メロディにあわせて歌う)」などのお題にくわえ、「寝言」「叫び」「中継」「プロポーズ」「キス」などちょっと変わったお題もある。
椅子に座れなかったほうが先攻、指名されたほうが後攻で対戦。
で、大喜利なら大喜利で対戦し、審査員が勝敗を判定。負ければそこで退場。勝てばそのまま椅子とりゲームを続ける。
最後はふたりが対戦し、勝った方が「座王」となる。



このルール、よくできている。
まず、芸人のいろんな一面を引き出せる。ふだんはギャグをしない人がギャグの椅子に座ってしまったために指名されたり、ものすごく音痴な人が「歌」で対戦するはめになったり。

苦手だからといって弱いとはかぎらないのがまたおもしろい。「モノマネなんかやったことない……」と言いながらめちゃくちゃおもしろいモノマネを披露する人がいたり。
「モノマネならまず負けない」という人が大喜利であっさり負けたりするのも勝負の妙だ。

また、通常ネタを披露して審査される場合、後からやったほうが有利になりやすい。
直近で観たネタのほうが印象に残りやすいからだ。

だが『座王』においては、先攻の勝率のほうが高い。
なぜなら自分でお題や対戦相手を選べるから。
先攻のほうが有利、だが先攻になるということは椅子に座れず対戦しなくてはだならないということ。対戦数が多いほど決勝戦まで残れる確率は低くなる。
じゃあ座りつづけたほうがいいかというと、不得意なジャンルの椅子に座ってしまった場合、不得意なお題で勝負しなくてはならない。

だから座るほうがいいのか、座らないほうがいいのかというのは一概にはいえない。
これも駆け引きが生まれる要素になる(じっさいあえて座らない人もいる)。

ほんとによくできたルールだ。
(ところで、これ十年ぐらい前の大晦日か正月にテレビ東京でやってたよね? かすかに記憶にあるのだが。
 それがなぜ最近関西テレビの番組になったのかの経緯は謎だ。
 テレビ東京の番組には千原ジュニアも出演していたのでパクったのではなくフォーマットを持ってきたのだとおもうが)



この番組では笑い飯の西田さんが圧倒的な強さを誇っているが、ロングコートダディ堂前さん、ミサイルマン岩部さん、R藤本さんなど、他の番組ではあまり観ることのない芸人が『座王』では大活躍しているのもおもしろいところだ。
実力があればどんどん起用される。
R藤本さん(常にベジータのモノマネしてる人)なんか、はじめはたぶん「ためしに出してみた」みたいな感じだったとおもうのだが、初登場からいきなり二連覇して意外になんでも器用にこなせるところを見せつけ、今ではほぼレギュラーみたいな扱いになっている。
まさに実力で勝ち取った椅子、という感じだ。

ミサイルマン岩部さんは序盤はあまり強くなかったのだが、対戦以外のところでも武将キャラを押しだしているうちにそのキャラが認知され、座王になくてはならない存在になった(そして対戦でも勝つようになった)。
対戦だけでなく、椅子取り部分や敗退後のコメントで活躍する芸人もいて、見どころが多い。



『座王』、六歳の娘も大好きだ。
はじめはぼくに付き合って観ていたのだが、最近は娘のほうから「座王観よう!」と誘ってくる。

以前、『座王』の中で「この番組は意外にも子どもにも人気だ。たぶん子どもは椅子取りゲームパートだけを楽しんでいるんだろう」と語られていたが、そんなことはない。
うちの娘はちゃんと対戦やコメントを楽しんでいる。
(とはいえ大喜利やモノマネなんかは理解していないことのほうが多いが)

何度も観ているうちに各芸人のキャラをおぼえて
「えー、さいしょから西田さんに挑戦するなんて!」
「ベジータは1分トーク嫌いやから座らんかったわ」
「この人はギャガ―やから先攻が勝つんちゃうかな」
などと言いながら観ている。

ちゃんと駆け引きを楽しんでいるのだ。たぶんテラスハウスとかを観るのと同じ楽しみ方をしている。
テラスハウス観たことないから知らんけど。

2020年5月18日月曜日

【読書感想文】火の鳥と関係なさすぎる火の鳥 / 和田ラヂヲ『和田ラヂヲの火の鳥』

和田ラヂヲの火の鳥

和田 ラヂヲ

内容(e-honより)
手塚治虫の『火の鳥』をテーマにしたギャグ漫画爆誕!和田ラヂヲの世界に火の鳥が舞い降りる!?
驚いた。
これが手塚プロダクション公式のトリビュート作品だというのだ。
いったいどんな汚い手を使ったんだ。
なにしろ手塚治虫の不朽的名作『火の鳥』とはぜんぜん関係もないのだ。

手塚治虫版『火の鳥』といえば、人類誕生から人類滅亡そして新たな文明の誕生までを扱った壮大なスケールのドラマ。原始宗教、仏教、戦争、略奪、宇宙進出、ロボットと人間の境界、クローン技術といったテーマを横軸、そして火の鳥に象徴される永遠の生命を縦軸に織りなされる人間模様を描いた漫画界の金字塔だ。
人はなぜ生きるのか、なぜ苦しまなくてはいけないのか、人間とは何なのか、なぜ争うのか、我々はどう生きるのか。そういった問いを自分自身に投げかけずにはいられない。

ところが『和田ラヂオの火の鳥』のスケールはミクロもミクロ、一冊あわせても手塚治虫『火の鳥』の1コマ分ぐらいの情報量しかない。

たとえば第1話『訪問編』。
サラリーマンが休日に新婚ほやほやの同期社員の新居を訪れるという話だ。そのときに持っている手土産の紙袋に書かれている絵が、火の鳥。
「火の鳥」要素はそれだけだ。

笑った。ぜんぜん関係ねえ。

もう一度書くが、よくこれで手塚プロダクションの許可をとれたものだ。
ぜんぜん関係ないのが逆によかったのか。
それにしても大丈夫か手塚プロダクション。ブランドマネジメントはちゃんとできてるのか。



しかしおもしろかった。
全18編が収録されているが、ほとんどすべておもしろかった。

和田ラヂヲ作品は久々に読んだが、ちっとも衰えていない。
ギャグ漫画って作者が歳を重ねるごとにパターン化したり説明過剰になったりしがちなんだけど、和田ラヂヲ氏に関してはむしろおもしろくなっている気がする。シュールすぎたのが、いい具合に現実よりになってきたのかもしれない。

中でもぼくが好きだったのは
鮨を解体する鮨屋の奮闘を描いた『修行編』
ピラミッド建設の傍ら小説執筆に励む労働者の苦悩を描いた『文明編』
再就職初日に寝坊してしまった男をスリリングなタッチで描く『再就職編』
そして一夜にして弥生時代から縄文時代に変わる時代の変遷を描いた『時代編』だ。

特に『時代編』は良かった。
縄文時代の人間がメガネをかけている、家に表札がある、公民館に集まっている、やけに民主的、次の時代の流行を知っている、とってつけたように火の鳥を出してくるなどツッコミどころしかない。


もしかすると、この情報化社会で密室で不透明な決まり方をした「令和」という元号に対する痛烈な風刺がこの漫画にこめられていたり……はしないね。

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【読書感想文】 つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

1970年頃の人々の不安/手塚 治虫『空気の底』【読書感想】



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2020年5月15日金曜日

おしりたんてい にがしませんよゲーム

『おしりたんてい にがしませんよゲーム』(タカラトミー)を買い、六歳の娘と遊んでいる。


幼児向けのゲームにしてはかなり奥が深く、大人も夢中になってしまう。
レビューを書こうとおもう。
(やったことのない人向けというよりちょっとだけやった人向け)

おしりたんていゲーム第1作『おしりたんてい しつれいこかせていただきますゲーム』もよくできていたが、『にがしませんよゲーム』のほうがルールがシンプルなのに考える要素が多くておもしろい。

ちなみに『にがしませんよゲーム』の1セットで
『にがしませんよゲーム』
『かこみますよゲーム』
『おしりをさがせ』
の3種類のゲームができる。

『かこみますよゲーム』『おしりをさがせ』は駆け引きが発生する要素がほとんどないのでぼくも娘もすぐに飽きてしまった。
ここでは『にがしませんよゲーム』について書く。



詳しい遊び方は以下の公式動画を見てもらえればだいたいわかるとおもう。


だが、公式ルール通りの遊び方だとあまりおもしろくない。
何度かやってみたがほぼ必ず「たんてい」側が勝つ。「かいとう」側は三叉路、四つ角の「いいカード」が連続して出ないと勝てないので、ほぼ運任せのゲームになってしまう。

小さい子ならそれでも楽しめるのだろうが、六歳が遊ぶにはものたりない。中年のおじさんにはもっとものたりない。

そこで、勝手にルールをアレンジすることにした。

プレイヤーは交互に山から1枚ずつカードを引いて出す

となっている部分を

プレイヤーは3枚ずつカードを保有し、その中から1枚ずつ出す。使用したら1枚ずつ山から補充する。

とした。
これだけで、駆け引きの要素が深まってぐっとおもしろくなった。
3枚あることで、先の展開をある程度計算できるようになる。同時に相手もパターンが増えるので、戦略的な思考が必要になる。

たとえば
「弱いカードを序盤に北側に捨てて、強いカードが溜まったら一気に南側に勝負をかける」
とか、
「たんていが妨害するために置いたカードを利用して逃走経路にする」
といった作戦が立てられるようになる。

まちカードには大きく分けて「袋小路」「一本道」「三叉路」「四つ角」の4種類がある。
「たんてい」にとって「四つ角」、「かいとう」にとって「袋小路」はマイナスにしかならないカードだ。
公式ルールの「1枚ずつ引いて出す」だと、このカードが出たらそれだけで致命的(特に「かいとう」が中盤でこのカードを引いたらほぼ負け確定)だが、3枚保有ルールならなんとかなる。
序盤なら重要でないところに捨てればいいし、終盤なら使わずに持っておけばいい。



また3枚保有ルールがいいのは、ハンディキャップをつけやすいところだ。

このゲーム、「かいとう」側で勝つ方がむずかしい。
「たんてい」は相手が作った道を順番にふさいでいくだけで勝てるが、「かいとう」はそれでは勝てない。先の展開を読みながらカードを置いていく必要がある。
初心者は盤面中央から順番に道をつなげていくが、これだとまず勝てない。
「はくぶつかんカード」の隣には「たんてい」側がカードを置けないことを利用して、あえて中央にはカードを置かず、先に端のほうの道をつくっていく必要がある(とはいえ他のカードの隣にしか置けないというルールがあるのでそれも容易ではない)。

だから娘が「かいとう」でぼくが「たんてい」のとき、3枚ずつだとまずぼくが勝つ(手加減はしない)。
しかし娘は3枚、ぼくが2枚というハンデをつけるといい勝負になる。もっと力量の差があるなら4枚対2枚にしてもいい。

ぼくは、子ども相手だからってできるだけ手は抜きたくない。このゲームにかぎらず。
将棋でも、わざと無意味な手を差すとか自分の駒をただでくれてやるとかはしたくない。
かといって全力を尽くすと連勝してしまうので、それはそれでつまらない。
だからハンデをつけられるゲームがいい。



『にがしませんよゲーム』、シンプルなルールながら奥の深いゲームなのだが、ひとつ不満がある。

「まちカード」が36枚しかないことだ。
盤面は7×7、中央の1マスは「はくぶつかんカード」を置くことに決まっているので、「まちカード」を置けるのは48マス。
つまり「まちカード」のほうが少ないのだ。

勝負が白熱してくると、終盤にカード切れを起こす。
「かいとう」は逃げられないし、「たんてい」は捕まえられない。
しょうがないのでこうなったら引き分けということにしているのだが、どうももやもやする。

かいとうはまだ街の中にいるのに捕まえられないのだ。
あと一歩のところまで犯人を追いつめたのに、突然上から「これ以上の捜査はやめろ」と命じられたようなものだ。
もしかして署長の身内が犯人、それとも有力政治家に非常に近い人物が関わっているので圧力が……なんて不穏な想像をしてしまう。
いっそかいとうに逃げられたほうがまだあきらめもつくぜ。

2020年5月14日木曜日

【読書感想文】貧困者との接し方の正解 / 石井 光太『絶対貧困』

絶対貧困

世界リアル貧困学講義

石井 光太

内容(e-honより)
絶対貧困―世界人口約67億人のうち、1日をわずか1ドル以下で暮らす人々が12億人もいるという。だが、「貧しさ」はあまりにも画一的に語られてはいないか。スラムにも、悲惨な生活がある一方で、逞しく稼ぎ、恋愛をし、子供を産み育てる営みがある。アジア、中東からアフリカまで、彼らは如何なる社会に生きて、衣・食・住を得ているのか。貧困への眼差しを一転させる渾身の全14講。
アジア、中東、アフリカなどの貧困地域を歩いてきたノンフィクションライターによる、「貧困層の人々がどうやって生きているか」の講義。

貧困層の人々とすぐ近くで生活した体験をもとに、衣食住、仕事、恋愛、子育て、病気、出産、死、ギャンブル、麻薬、売春などについてミクロな視点から語っている。

当然ながら、日本でそこそこ恵まれた暮らしをしている人間からすると眼をそむけたくなるようなことも書かれているのだが、淡々と描かれているのでそこまで陰惨な感じはしない。
ヒューマニズムたっぷりに「どうですか、かわいそうでしょう、こんなことが許されていいのですか!」みたいな感じは個人的に好きじゃないので、こういうのがいい。
事実を淡々と書く方が読み手の思考が深まるとおもう。



ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランドの著書『FACTFULNESS』によれば、世界の(食うに困るほどの)貧困層の数はどんどん減っていっているのだという。
『絶対貧困』 の単行本刊行は2009年なのでそのときよりも貧しい人は減っているのだろう、たぶん。
とはいえ、戦争、災害、疫病などがなくならない以上、貧しい人もまたいなくならない。
また「犯罪に手を染めて生活している人」や「売春をすれば食っていける人」は、収入の数字だけ見れば深刻な貧困ではないんだろうけど、それを「食うに困らないぐらい豊かな人」に含めるのはやっぱり無理がある。

たとえばこんな話とか。
 そこでアメリカをはじめとした各国の軍隊は、途上国の貧しい人たちをリクルートするのです。先進国の人が月給二十万円で戦場に行くことは少ないでしょうが、途上国の貧しい人なら危険があっても一獲千金の機会だと思って喜んで行きます。ただ、一国の政府がこうしたリクルートを露骨にやると問題になる可能性があります。そこで、政府は専門の人材派遣会社を何社も通して途上国から労働者を集めるのです。
(中略)
 証言によれば、彼はネパールの人材会社(ブローカー)に二十万円から八十万円ぐらいの大金を支払ってイラク行きの契約をしたそうです。そして一度インドの首都ニューデリーに集まり、何ヵ月か人員の空きがでるのを待って、今度はインド人のブローカーとともにヨルダンへ飛びます。そこでまた空きを待ち、順番が来てようやくイラク人ブローカーとイラク国内へ入り、米軍基地内などで仕事を得るのです。労働者たちは数週間待つだけで仕事にありつける場合もあれば、半年待っても欠員が出ずに仕事を得られないこともあるようです。ただ、このようにいくつもの会社を通すことで「先進国が貧しい人々を戦場でリクルートしている」という事実がうやむやにされているのです。
途上国で生きている人からしたら月給二十万円は高給の仕事だろう。
だけど二十万円のために望まない危険な仕事に従事する人を「豊かな生活を送る人」と呼ぶことはできない。

健康とか安全とか尊厳とか道徳とかを切り売りしなければいけない人はたくさんいる。
途上国だけでなく、先進国にも。
堤未果さんの『貧困大国アメリカ』にも奨学金を返せない学生を軍にリクルートする、という話が出てきた。
日本も国家支出から教育費がどんどん削られている。教育費の公費負担額の対GDP比は、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位だそうで、世界有数の「教育に金をかけない国家」なのだ。
学費のために自衛隊や風俗産業や非合法な職場で働く若者は増えてゆくだろう。途上国の貧困問題も他人事ではない。



いちばん胸が痛んだのはこのへんの話。
 まず犯罪組織は病院の新生児や、路上生活者の赤子を誘拐して、一箇所に集めます。生まれたての赤子から三歳児ぐらいまでが一番利用価値があるとされています。
 犯罪組織はその子供たちを町にいる物乞いたちに一日いくらという形で貸し出します。借り手は赤子のいない年老いた物乞いが多いですね。
(中略)
 私はこの商売の存在をインドのムンバイとチェンナイの二都市で確認しましたが、二〇〇二年当時の貸し賃は一日に百~二百円ぐらいでした。物乞いたちによれば、赤子を抱いていれば二百~四百円ぐらい多く喜捨をもらえるのだそうです。そうなると、赤子を借りれば五十円から百円ぐらい多く儲かるのです。
 また、赤子が障害児ですと、通行人が寄せる同情はより大きくなり、多額の喜捨得られるという現実もあります。
たしかに赤ちゃんがいたら同情しちゃうもんなあ。
でも同情してお金を渡せばこういうビジネスや誘拐を助長することになる、だけどお金を渡せばとりあえずそのうちのいくらかは目の前の赤ちゃんに渡すことができる……。

どっちを選んでも正解ではない。
著者の石井さんは「そういうときはむずかしく考えずに自分にできる範囲で目の前の人を救えばいい」と書いている。
個人にできることはそれぐらいだから、それでいいのかもしれない。
 彼らは身体の障害や怪我を見せることによって稼いでいますから、その部分を特に強調しようとします。〔9-13〕と〔9-14〕をご覧下さい。いずれの物乞いも患部を人目につくように見せて、「私は不自由なのだ」ということを強調することで、ことさら多くの同情を集めようとしています。逆に言えば、通行人はパッと見て「うわ、悲惨だ」と思った時にお金を落とすのです。そのような一瞬の駆け引きが、物乞いたちの収入を大きく左右するのです。
(中略)
 ただ、こうしたことが逆に「強制的」に行われることもあるのです。物乞いたちがケンカで負けた仲間を強引にさらしものにしたり、マフィアやチンピラのような人たちがストリートチルドレンに怪我を負わせたりして物乞いをさせるということです。この写真は、殴り飛ばされた後に無理やり物乞いをさせられているものです。
 みなさんはこれをお読みになって「残酷だな」とお思いになるでしょう。ただ、当の本人からすれば、「これで稼げているので結果オーライ」みたいな意識もあるのです。私の知っている物乞いは車に撥ね飛ばされた時、「儲けもん!」みたいな感じで血だらけのまま道路に大の字になって大金を稼いでいました。何をどう捉えるかは、本当に人それぞれなのです。
ぼくは大学生のとき中国を訪れ、北京の繁華街で脚のない物乞いを見て強いショックを受けた。
脚のない下半身を引きずり、台車に乗って移動している男性の姿に。
まるで見えないかのように楽しく談笑しながらその横を歩いている人々の姿に。
ぼくからすると「悲惨」としか言いようのない境遇なのに、笑顔を浮かべながらべつの人と話している物乞いの姿に。

日本でもホームレスを見たことはあったが、身体障碍者のホームレスは見たことがなかった(ぱっと見ただけではわからない障碍を持っていたのかもしれないが)。
もちろん日本のホームレスにもみんなそれぞれ事情はあるのだろうが、多少は自分の責任もあるだろうとおもっていた。
「働けないにしても役所に行けば住居と食べ物ぐらいは提供されるだろうに、それすらしないんだからしょうがないだろう」と。

だけど北京にいた脚のないホームレスの姿は、そんな「自己責任」の考えを打ち砕くものだった。
身体障碍者だったらまともに生きていけない世界なんて狂っている、とおもった。何が共産主義だよ、とおもった。

同時に、彼のことを「まともに生きていない」とおもってしまう自分にもすごく嫌悪感を抱いた。親の金で大学に行って高い金を出して海外旅行にきたぼくに、彼のことを憐れむ資格があるのだろうか。無意識のうちに高みから見下ろしていて「哀れな人」とおもってしまったけど、ぼくなんかよりこの男性のほうがずっと立派に生きている人じゃないか。

なんかもう何もかもが嫌になって、涙が出そうになるのをこらえながらその男性に紙幣を渡して逃げるようにその場を立ち去ったのだが、日本に帰ってからもずっとその光景が頭が離れなかったた。
安っぽい同情で紙幣を渡したのはよかったのだろうか、物乞いの彼は苦労もせずにのうのうと生きている外国人の若者からお金をもらってどう感じたのだろうか、よけいにみじめになったんじゃないだろうか、とずっと考えていた。
十年以上たった今でもときどき思いだすぐらいに。

でもこの文章を読んで、ちょっとほっとした。
ああ、べつに気にしなくてよかったんだろうな。
ぼくが気にしていた百分の一も、向こうは気にしていなかったんだろうな。
かわいそうな人だと憐れむ必要もないし立派な人だと持ちあげる必要もなかったんだろうな。そうおもえた。

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2020年5月13日水曜日

女スパイの成長

五年前のこと。
まだ一歳だった長女を連れて近所の公園に行くと、女の子が木の上から話しかけてきた。
「あかちゃん、かわいいね」
と。

「ありがとう。きみは何歳?」
 「六歳」
「一年生?」
 「そう」
「名前は?」
 「のんちゃん」
「ふうん。のんちゃん、木登り上手だね」
 「スパイだから」
「スパイ?」
 「そう。スパイなの、あたし」

その子はひとりで木に登ってスパイごっこをしていたのだった(なぜスパイが木に登るのかはわからない。目立つことこのうえないとおもうのだが)。
話をしてみると、同じマンションに住む女の子だった。

その後もときどきのんちゃんとは顔を合わせた。
マンションのエレベーターで。公園で。娘を保育園に連れていく途中で。

「おはよう」と話しかけると、ちゃんとあいさつを返してくれる。
「こども大きくなったね」とか「今日からプールやねん」とか「クラブはじまったからたいへんやわ」とか、近況も教えてくれる。

ところがこないだ。
ひさしぶりにのんちゃんに会ったので「おはよう」と言うと「あ、おはようございます」と言われた。

ございます?

「のんちゃんは何年生になった?」
 「あっ、六年生になりました」
「そっか。大きくなったね」
 「そうですね。最高学年なんでいろいろたいへんです」

これは……。
のんちゃんの受け応えにそつがなくなっている……。

丁寧語を使っている。言葉を選んでいる。近所のおじさんに話すのにふさわしい話題と言葉遣いを選んでいる。

成長しているのだからあたりまえなんだけど。いいことなんだけど。

だけどぼくはちょっぴり寂しかった。あの女スパイののんちゃんが丁寧語を使うなんて。もうむじゃきな女スパイじゃないんだなあ。あたりまえだけど。
成長することは、何かを得ることであると同時に、何かを失うことなんだなあ。
ぼくの友だちの女スパイはもういない。