2020年5月15日金曜日

おしりたんてい にがしませんよゲーム

『おしりたんてい にがしませんよゲーム』(タカラトミー)を買い、六歳の娘と遊んでいる。


幼児向けのゲームにしてはかなり奥が深く、大人も夢中になってしまう。
レビューを書こうとおもう。
(やったことのない人向けというよりちょっとだけやった人向け)

おしりたんていゲーム第1作『おしりたんてい しつれいこかせていただきますゲーム』もよくできていたが、『にがしませんよゲーム』のほうがルールがシンプルなのに考える要素が多くておもしろい。

ちなみに『にがしませんよゲーム』の1セットで
『にがしませんよゲーム』
『かこみますよゲーム』
『おしりをさがせ』
の3種類のゲームができる。

『かこみますよゲーム』『おしりをさがせ』は駆け引きが発生する要素がほとんどないのでぼくも娘もすぐに飽きてしまった。
ここでは『にがしませんよゲーム』について書く。



詳しい遊び方は以下の公式動画を見てもらえればだいたいわかるとおもう。


だが、公式ルール通りの遊び方だとあまりおもしろくない。
何度かやってみたがほぼ必ず「たんてい」側が勝つ。「かいとう」側は三叉路、四つ角の「いいカード」が連続して出ないと勝てないので、ほぼ運任せのゲームになってしまう。

小さい子ならそれでも楽しめるのだろうが、六歳が遊ぶにはものたりない。中年のおじさんにはもっとものたりない。

そこで、勝手にルールをアレンジすることにした。

プレイヤーは交互に山から1枚ずつカードを引いて出す

となっている部分を

プレイヤーは3枚ずつカードを保有し、その中から1枚ずつ出す。使用したら1枚ずつ山から補充する。

とした。
これだけで、駆け引きの要素が深まってぐっとおもしろくなった。
3枚あることで、先の展開をある程度計算できるようになる。同時に相手もパターンが増えるので、戦略的な思考が必要になる。

たとえば
「弱いカードを序盤に北側に捨てて、強いカードが溜まったら一気に南側に勝負をかける」
とか、
「たんていが妨害するために置いたカードを利用して逃走経路にする」
といった作戦が立てられるようになる。

まちカードには大きく分けて「袋小路」「一本道」「三叉路」「四つ角」の4種類がある。
「たんてい」にとって「四つ角」、「かいとう」にとって「袋小路」はマイナスにしかならないカードだ。
公式ルールの「1枚ずつ引いて出す」だと、このカードが出たらそれだけで致命的(特に「かいとう」が中盤でこのカードを引いたらほぼ負け確定)だが、3枚保有ルールならなんとかなる。
序盤なら重要でないところに捨てればいいし、終盤なら使わずに持っておけばいい。



また3枚保有ルールがいいのは、ハンディキャップをつけやすいところだ。

このゲーム、「かいとう」側で勝つ方がむずかしい。
「たんてい」は相手が作った道を順番にふさいでいくだけで勝てるが、「かいとう」はそれでは勝てない。先の展開を読みながらカードを置いていく必要がある。
初心者は盤面中央から順番に道をつなげていくが、これだとまず勝てない。
「はくぶつかんカード」の隣には「たんてい」側がカードを置けないことを利用して、あえて中央にはカードを置かず、先に端のほうの道をつくっていく必要がある(とはいえ他のカードの隣にしか置けないというルールがあるのでそれも容易ではない)。

だから娘が「かいとう」でぼくが「たんてい」のとき、3枚ずつだとまずぼくが勝つ(手加減はしない)。
しかし娘は3枚、ぼくが2枚というハンデをつけるといい勝負になる。もっと力量の差があるなら4枚対2枚にしてもいい。

ぼくは、子ども相手だからってできるだけ手は抜きたくない。このゲームにかぎらず。
将棋でも、わざと無意味な手を差すとか自分の駒をただでくれてやるとかはしたくない。
かといって全力を尽くすと連勝してしまうので、それはそれでつまらない。
だからハンデをつけられるゲームがいい。



『にがしませんよゲーム』、シンプルなルールながら奥の深いゲームなのだが、ひとつ不満がある。

「まちカード」が36枚しかないことだ。
盤面は7×7、中央の1マスは「はくぶつかんカード」を置くことに決まっているので、「まちカード」を置けるのは48マス。
つまり「まちカード」のほうが少ないのだ。

勝負が白熱してくると、終盤にカード切れを起こす。
「かいとう」は逃げられないし、「たんてい」は捕まえられない。
しょうがないのでこうなったら引き分けということにしているのだが、どうももやもやする。

かいとうはまだ街の中にいるのに捕まえられないのだ。
あと一歩のところまで犯人を追いつめたのに、突然上から「これ以上の捜査はやめろ」と命じられたようなものだ。
もしかして署長の身内が犯人、それとも有力政治家に非常に近い人物が関わっているので圧力が……なんて不穏な想像をしてしまう。
いっそかいとうに逃げられたほうがまだあきらめもつくぜ。

2020年5月14日木曜日

【読書感想文】貧困者との接し方の正解 / 石井 光太『絶対貧困』

絶対貧困

世界リアル貧困学講義

石井 光太

内容(e-honより)
絶対貧困―世界人口約67億人のうち、1日をわずか1ドル以下で暮らす人々が12億人もいるという。だが、「貧しさ」はあまりにも画一的に語られてはいないか。スラムにも、悲惨な生活がある一方で、逞しく稼ぎ、恋愛をし、子供を産み育てる営みがある。アジア、中東からアフリカまで、彼らは如何なる社会に生きて、衣・食・住を得ているのか。貧困への眼差しを一転させる渾身の全14講。
アジア、中東、アフリカなどの貧困地域を歩いてきたノンフィクションライターによる、「貧困層の人々がどうやって生きているか」の講義。

貧困層の人々とすぐ近くで生活した体験をもとに、衣食住、仕事、恋愛、子育て、病気、出産、死、ギャンブル、麻薬、売春などについてミクロな視点から語っている。

当然ながら、日本でそこそこ恵まれた暮らしをしている人間からすると眼をそむけたくなるようなことも書かれているのだが、淡々と描かれているのでそこまで陰惨な感じはしない。
ヒューマニズムたっぷりに「どうですか、かわいそうでしょう、こんなことが許されていいのですか!」みたいな感じは個人的に好きじゃないので、こういうのがいい。
事実を淡々と書く方が読み手の思考が深まるとおもう。



ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランドの著書『FACTFULNESS』によれば、世界の(食うに困るほどの)貧困層の数はどんどん減っていっているのだという。
『絶対貧困』 の単行本刊行は2009年なのでそのときよりも貧しい人は減っているのだろう、たぶん。
とはいえ、戦争、災害、疫病などがなくならない以上、貧しい人もまたいなくならない。
また「犯罪に手を染めて生活している人」や「売春をすれば食っていける人」は、収入の数字だけ見れば深刻な貧困ではないんだろうけど、それを「食うに困らないぐらい豊かな人」に含めるのはやっぱり無理がある。

たとえばこんな話とか。
 そこでアメリカをはじめとした各国の軍隊は、途上国の貧しい人たちをリクルートするのです。先進国の人が月給二十万円で戦場に行くことは少ないでしょうが、途上国の貧しい人なら危険があっても一獲千金の機会だと思って喜んで行きます。ただ、一国の政府がこうしたリクルートを露骨にやると問題になる可能性があります。そこで、政府は専門の人材派遣会社を何社も通して途上国から労働者を集めるのです。
(中略)
 証言によれば、彼はネパールの人材会社(ブローカー)に二十万円から八十万円ぐらいの大金を支払ってイラク行きの契約をしたそうです。そして一度インドの首都ニューデリーに集まり、何ヵ月か人員の空きがでるのを待って、今度はインド人のブローカーとともにヨルダンへ飛びます。そこでまた空きを待ち、順番が来てようやくイラク人ブローカーとイラク国内へ入り、米軍基地内などで仕事を得るのです。労働者たちは数週間待つだけで仕事にありつける場合もあれば、半年待っても欠員が出ずに仕事を得られないこともあるようです。ただ、このようにいくつもの会社を通すことで「先進国が貧しい人々を戦場でリクルートしている」という事実がうやむやにされているのです。
途上国で生きている人からしたら月給二十万円は高給の仕事だろう。
だけど二十万円のために望まない危険な仕事に従事する人を「豊かな生活を送る人」と呼ぶことはできない。

健康とか安全とか尊厳とか道徳とかを切り売りしなければいけない人はたくさんいる。
途上国だけでなく、先進国にも。
堤未果さんの『貧困大国アメリカ』にも奨学金を返せない学生を軍にリクルートする、という話が出てきた。
日本も国家支出から教育費がどんどん削られている。教育費の公費負担額の対GDP比は、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位だそうで、世界有数の「教育に金をかけない国家」なのだ。
学費のために自衛隊や風俗産業や非合法な職場で働く若者は増えてゆくだろう。途上国の貧困問題も他人事ではない。



いちばん胸が痛んだのはこのへんの話。
 まず犯罪組織は病院の新生児や、路上生活者の赤子を誘拐して、一箇所に集めます。生まれたての赤子から三歳児ぐらいまでが一番利用価値があるとされています。
 犯罪組織はその子供たちを町にいる物乞いたちに一日いくらという形で貸し出します。借り手は赤子のいない年老いた物乞いが多いですね。
(中略)
 私はこの商売の存在をインドのムンバイとチェンナイの二都市で確認しましたが、二〇〇二年当時の貸し賃は一日に百~二百円ぐらいでした。物乞いたちによれば、赤子を抱いていれば二百~四百円ぐらい多く喜捨をもらえるのだそうです。そうなると、赤子を借りれば五十円から百円ぐらい多く儲かるのです。
 また、赤子が障害児ですと、通行人が寄せる同情はより大きくなり、多額の喜捨得られるという現実もあります。
たしかに赤ちゃんがいたら同情しちゃうもんなあ。
でも同情してお金を渡せばこういうビジネスや誘拐を助長することになる、だけどお金を渡せばとりあえずそのうちのいくらかは目の前の赤ちゃんに渡すことができる……。

どっちを選んでも正解ではない。
著者の石井さんは「そういうときはむずかしく考えずに自分にできる範囲で目の前の人を救えばいい」と書いている。
個人にできることはそれぐらいだから、それでいいのかもしれない。
 彼らは身体の障害や怪我を見せることによって稼いでいますから、その部分を特に強調しようとします。〔9-13〕と〔9-14〕をご覧下さい。いずれの物乞いも患部を人目につくように見せて、「私は不自由なのだ」ということを強調することで、ことさら多くの同情を集めようとしています。逆に言えば、通行人はパッと見て「うわ、悲惨だ」と思った時にお金を落とすのです。そのような一瞬の駆け引きが、物乞いたちの収入を大きく左右するのです。
(中略)
 ただ、こうしたことが逆に「強制的」に行われることもあるのです。物乞いたちがケンカで負けた仲間を強引にさらしものにしたり、マフィアやチンピラのような人たちがストリートチルドレンに怪我を負わせたりして物乞いをさせるということです。この写真は、殴り飛ばされた後に無理やり物乞いをさせられているものです。
 みなさんはこれをお読みになって「残酷だな」とお思いになるでしょう。ただ、当の本人からすれば、「これで稼げているので結果オーライ」みたいな意識もあるのです。私の知っている物乞いは車に撥ね飛ばされた時、「儲けもん!」みたいな感じで血だらけのまま道路に大の字になって大金を稼いでいました。何をどう捉えるかは、本当に人それぞれなのです。
ぼくは大学生のとき中国を訪れ、北京の繁華街で脚のない物乞いを見て強いショックを受けた。
脚のない下半身を引きずり、台車に乗って移動している男性の姿に。
まるで見えないかのように楽しく談笑しながらその横を歩いている人々の姿に。
ぼくからすると「悲惨」としか言いようのない境遇なのに、笑顔を浮かべながらべつの人と話している物乞いの姿に。

日本でもホームレスを見たことはあったが、身体障碍者のホームレスは見たことがなかった(ぱっと見ただけではわからない障碍を持っていたのかもしれないが)。
もちろん日本のホームレスにもみんなそれぞれ事情はあるのだろうが、多少は自分の責任もあるだろうとおもっていた。
「働けないにしても役所に行けば住居と食べ物ぐらいは提供されるだろうに、それすらしないんだからしょうがないだろう」と。

だけど北京にいた脚のないホームレスの姿は、そんな「自己責任」の考えを打ち砕くものだった。
身体障碍者だったらまともに生きていけない世界なんて狂っている、とおもった。何が共産主義だよ、とおもった。

同時に、彼のことを「まともに生きていない」とおもってしまう自分にもすごく嫌悪感を抱いた。親の金で大学に行って高い金を出して海外旅行にきたぼくに、彼のことを憐れむ資格があるのだろうか。無意識のうちに高みから見下ろしていて「哀れな人」とおもってしまったけど、ぼくなんかよりこの男性のほうがずっと立派に生きている人じゃないか。

なんかもう何もかもが嫌になって、涙が出そうになるのをこらえながらその男性に紙幣を渡して逃げるようにその場を立ち去ったのだが、日本に帰ってからもずっとその光景が頭が離れなかったた。
安っぽい同情で紙幣を渡したのはよかったのだろうか、物乞いの彼は苦労もせずにのうのうと生きている外国人の若者からお金をもらってどう感じたのだろうか、よけいにみじめになったんじゃないだろうか、とずっと考えていた。
十年以上たった今でもときどき思いだすぐらいに。

でもこの文章を読んで、ちょっとほっとした。
ああ、べつに気にしなくてよかったんだろうな。
ぼくが気にしていた百分の一も、向こうは気にしていなかったんだろうな。
かわいそうな人だと憐れむ必要もないし立派な人だと持ちあげる必要もなかったんだろうな。そうおもえた。

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【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』



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2020年5月13日水曜日

女スパイの成長

五年前のこと。
まだ一歳だった長女を連れて近所の公園に行くと、女の子が木の上から話しかけてきた。
「あかちゃん、かわいいね」
と。

「ありがとう。きみは何歳?」
 「六歳」
「一年生?」
 「そう」
「名前は?」
 「のんちゃん」
「ふうん。のんちゃん、木登り上手だね」
 「スパイだから」
「スパイ?」
 「そう。スパイなの、あたし」

その子はひとりで木に登ってスパイごっこをしていたのだった(なぜスパイが木に登るのかはわからない。目立つことこのうえないとおもうのだが)。
話をしてみると、同じマンションに住む女の子だった。

その後もときどきのんちゃんとは顔を合わせた。
マンションのエレベーターで。公園で。娘を保育園に連れていく途中で。

「おはよう」と話しかけると、ちゃんとあいさつを返してくれる。
「こども大きくなったね」とか「今日からプールやねん」とか「クラブはじまったからたいへんやわ」とか、近況も教えてくれる。

ところがこないだ。
ひさしぶりにのんちゃんに会ったので「おはよう」と言うと「あ、おはようございます」と言われた。

ございます?

「のんちゃんは何年生になった?」
 「あっ、六年生になりました」
「そっか。大きくなったね」
 「そうですね。最高学年なんでいろいろたいへんです」

これは……。
のんちゃんの受け応えにそつがなくなっている……。

丁寧語を使っている。言葉を選んでいる。近所のおじさんに話すのにふさわしい話題と言葉遣いを選んでいる。

成長しているのだからあたりまえなんだけど。いいことなんだけど。

だけどぼくはちょっぴり寂しかった。あの女スパイののんちゃんが丁寧語を使うなんて。もうむじゃきな女スパイじゃないんだなあ。あたりまえだけど。
成長することは、何かを得ることであると同時に、何かを失うことなんだなあ。
ぼくの友だちの女スパイはもういない。


2020年5月12日火曜日

将軍様はおれたちの気持ちなんかわかりゃしない


嫌いな言い回しがある。
政治家を批判するときに使う
「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」的な言い回しだ。

べつに政治家をかばいたいわけではない。
国民主権を理解していないやつが政治を語るなよ、とおもうからだ。



「私たち」は英語で「we」だが、中国語では二種類ある。
「我們」と「咱們」だ。

「我們」は聞き手を含めた「私たち」。
「おれたち親友だよな」のときは「我們」を使う。

「咱們」は聞き手を含めない「私たち」。
「おれたちは銀行強盗だ! 金を出せ!」のときは「咱們」だ。

中国語では、このふたつを明確に区別する。
これは理にかなっているとおもう。だってぜんぜん別のものを指すもん。


で、さっきの話に戻るけど
「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」
の「我々」を中国語で表すなら「咱們」だ。
政治家と庶民の間に線を引いて、彼我を別のものとしている。

江戸時代の町人が「将軍様はおれたち町人の気持ちなんかわかりゃしない」と言うのならそれでいい。
将軍と町人は生まれながらにして別世界の住人で、それぞれ行き来することはないのだから。

でも中学校で公民を学んだ人なら知っているとおり、現代日本の政治家は「向こう側にいる人」ではない。
「我々の代表者」だ。
「選挙で落ちればただの人」という言葉が表すとおり、政治家はただの人だし、ただの人が政治家になることもできる。

って考えを持っていれば
「我々庶民の感覚はわからないんでしょうね」
なんて言葉が出てくるはずがない。政治家もまた一市民なのだから。

だから「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」っていう人間こそ、自分が主権者だということをわかっていないのだ。
おまえのそういうマインドこそが政治家の勘違いを助長させるんだよ!


2020年5月11日月曜日

【読書感想文】「自分」のことで悩めるのは若者の特権 / 朝井リョウ『何様』


何様

朝井 リョウ

内容(e-honより)
生きるとは、何者かになったつもりの自分に裏切られ続けることだ。直木賞受賞作『何者』に潜む謎がいま明かされる―。光太郎の初恋の相手とは誰なのか。理香と隆良の出会いは。社会人になったサワ先輩。烏丸ギンジの現在。瑞月の父親に起こった出来事。拓人とともにネット通販会社の面接を受けた学生のその後。就活の先にある人生の発見と考察を描く6編!

直木賞受賞作である『何者』のスピンオフというかアナザーストーリーというか。

『水曜日の南階段はきれい』は光太郎の高校生時代の話、『それでは二人組を作ってください』は理香と隆良のなれそめ、『逆算』はサワ先輩の就職後、『きみだけの絶対』は烏丸ギンジの甥っ子の話、『むしゃくしてやった、と言ってみたかった』は瑞月の父親が出てくる話……とどんどん『何者』から遠ざかってゆく。そして最後の『何様』は『何者』の端役の一年後。ほとんど関係がない。
『何者』がおもしろかったので続編的なものかとおもって読みはじめたので、その点はちょっと期待はずれだった。
だからといっておもしろくないわけじゃないけど。



『何者』は昔の傷口を容赦なくえぐってくるような小説だった。
いちばん触れられたくないところをぐりぐりとさわってくるような小説だった。特に就活の時期のことをおもいだしたくもないとおもっているぼくのような人間には深く刺さった。ひりひりしたなあ。

『何様』のほうはそこまででもない。
十代後半から二十代中旬までの、青春時代が終わろうとして大人として生きていかなければならない人たちのちょっとした苦悩。
ありきたりなんだけど、でも当人にとってはやはり深刻な悩みにぶつかって、スパッと解決するでもなく打ちひしがれるでもなく、なんとなく折り合いをつけてどうにかやっていく人たちの物語。

こういう小説を読んでわがことのように深く共感するには、ぼくは少し歳をとりすぎたのかもしれない。
結婚して九年、父親になって七年、転職しながらも仕事もそこそこ順調。自分のことよりも娘のことを心配することのほうが増えた中年。
そんな境遇のぼくにとっては、もうさほど「自分」というものは重要じゃなくなったんだよね。「自分」よりも「家族」だとか「社会」だとかの重要性が増したかもしれない。
この小説に書かれている悩みは「自分」の悩みだからね。それってもちろん若い読者にはリアルに感じられるものだろうし、若い著者だからこそ書けた小説なんだとおもう。ただぼくが読むには歳をとりすぎたというだけで。



いちばん好きだった短篇は『それでは二人組を作ってください』。
どうもぼくは後味の悪い小説が好きみたいだ。

周囲を見下し、相手に自分をあわせることもできず、知らないわからないと言えず、自分は特別だとおもっている。つまりプライドの高い女性が主人公。
『何者』でもやはりお高く留まっていて感じの悪い女性として主人公からは嘲笑気味に見られていた。いわゆる「意識高い系」だ。
こういう人が近くにいたら、やはりぼくもひそかに嗤うとおもう。

……が、ぼくが嗤っている対象とぼくはそっくりなのではないだろうか。
ぼくもプライドの高い人間だ。今でこそそれなりに角がとれてきた(と自分ではおもっている)が、二十歳ぐらいなんてそりゃあもうひどいもんだった。周囲の人間を全方位的に見下していた。根拠のない選民意識を持っていた。能力に恵まれた自分は当然成功するものとおもっていた。

自分でもうすうす気づいている。周囲にとけこめない。ほんとはとけこみたい。でもとけこみたくないともおもっている。だってとけこんだら、いつも見下している「あんなやつら」と一緒になってしまうんだもん。自分はもっと高いステージにいるべき人間なのに。
そんな考えをきっと周囲から見透かされているんだろう。だから距離を置かれる。よけい意固地になって「あんなやつら」と見下す。かくしてプライドだけどんどん高くなってゆく。

二十歳ぐらいのときはほんとに苦しかった。自分が悪いんだけどさ。
でも今ではちょっと楽になった。
プライドが削りとられていったというより、自分そのものに対する興味が薄れてきたのだ。
おもうに、昔のぼくは自分が好きすぎたんだろうな。