2020年4月30日木曜日

【読書感想文】電通はなぜダサくなったのか / 本間 龍『電通巨大利権』

電通巨大利権

東京五輪で搾取される国民

本間 龍

内容(e-honより)
五輪エンブレム盗作騒動、ネット広告費不正請求、東大卒女性社員の過労自殺。不祥事続出のブラック広告代理店・電通は、それでも巨大利権を掌握し、肥大化が止まらない…。洗脳広告支配から脱出せよ!巨大イベントで大儲けの仕組み。東京五輪ボランティアに参加してはいけない理由がわかる。

広告界のガリバーと呼ばれる株式会社電通。
(ちなみに前にも書いたけど、ガリバーは巨人じゃなくてふつうのサイズの人間だからね。ガリバーは巨人じゃない
 つまり14年度当時は「電通は売上高2兆3千億円」と発表していたのに、現在は「14年の国内売上高は1兆8千億円」となっているのだ。これなどは、敢えて国内売上高を少なく見せるためのギミックのようにも見える。というのも、あまりにも巨大になりすぎた電通は、独占禁止法に抵触する可能性があるからだ。
 独占禁止法は必ずしもその業界におけるシェアが50%を超えたら適用される訳ではないが、公正取引委員会は過去にも広告業界の寡占化を問題にしてきた(第6章)。電通は自社発表で「国内総広告費におけるシェアは25%」としているが、第三者が検証した数字ではない。
 要するに、あまりに巨大になりすぎた電通は、国内では売り上げの伸びよりも、独禁法抵触回避を最優先にしなければならなくなっているのではないか。なぜなら、企業の宿命である売り上げを追求していけば、電通の売り上げは早晩日本の総広告費の5割を超えてしまう可能性があるからだ。
ふつうの企業は売上を伸ばすことに全力を傾けるものだが、電通の場合は既に売上が大きすぎて独禁法に引っかかるスレスレ(見方によっちゃあもうアウト)なので、売上が増えすぎないように注意しなければならないのだ。すげえ。



と、日本のメディアに対してとんでもなく大きな影響を持っている企業でありながら、電通そのものが話題になることはそう多くない。
電通の商売相手はメディアであり広告出稿したい企業なので、一般消費者と直接かかわることはほとんどない。だから電通を宣伝するテレビCMもやらないし電通の社員も基本的に表に出てこない。

ところがここ数年、電通が話題になることが増えてきた。
女性社員の過労自殺に代表される不祥事が相次いだためでもあるが、それ以上にネットが普及して誰でも情報を発信できるようになったことがある。

インターネットがあたりまえになる前は、情報を発信できる人はかぎられていた。
テレビやラジオの出演者、新聞や雑誌の記者など。
だがテレビもラジオも新聞も雑誌も、そのほとんどが広告の収益によって成り立っている。そしてその広告を出稿するのが電通なのだ。つまりメディアにとっては、直接のお客様なのだ(もちろんその先にはスポンサーがいるわけだけど、直接取引をするのは広告代理店)。

だから昔なら電通にとって都合の悪いニュースがあっても、新聞もテレビも大きく報じなかった。それは電通が圧力をかけるというより、むしろメディア側が勝手に忖度した部分が大きかっただろう。
誰だって、自分たちにお金を払ってくれる人の悪口は大声で言いにくい。

だがインターネットの普及によって潮目が変わってきた。
電通の客でない人が情報を発信できるようになったのだ。
女性社員の自殺もそうだが、最近特にその傾向が強くなったのはオリンピックについてだ。

かつて、オリンピックについてネガティブなことを言う人はメディアにはいなかった。
テレビも雑誌も新聞もオリンピックに利益を得ていたし、なによりオリンピックは電通様が仕切っている興行だったのだ。悪く言えるはずがない。
昔は芝居や相撲などのイベントは地元のヤクザが仕切っていたという。興行主はヤクザに金を渡し、その代わりにトラブルを未然に防いでもらう。トラブルがあったらヤクザに出てきてもらって解決してもらう。そんな持ちつ持たれつの関係があった。
オリンピックと電通の関係もそれに似ている。

だがインターネット、SNSの普及で電通をおそれずにものを言える人が増えた。おかしいことはおかしいと言える人が。
オリンピックなんてしょせんスポーツのイベントなのにどうして巨額の税金をつぎこまなきゃいけないの、招致のときに言ってた話が嘘ばっかりなのにどうして許されるの、当初の予算を大幅にオーバーしてもどうして誰も責任を取らずに税金で補填してもらえるの、東京開催なのにどうして国のお金でやるの、復興五輪とか言ってたけど具体的にどう復興につながるの、どうして役員は高給もらってるのにボランティアはタダ働きなの、ボランティアが熱中症で死んでも誰も責任とらなさそうだけど自己責任になるの、ていうか承知のときに集まって浮かれてたメンバー森喜朗以外いったいどこ行ったの。

こういう声が広がりやすくなった。
この本の著者である本間龍氏も積極的に問題を発信している。
というか言えなかった今までが異常だったんだけど(そしてテレビや新聞は今もまだその異常な世界に浸ってるんだけど)。

ぼくはオリンピックは好きじゃないけど、やる分には勝手にやったらいい。
「日本がひとつに」みたいな気持ち悪いスローガンや、税金を湯水のように使うことさえやめてくれればどうぞご自由に、という感じだ。
でもその「嫌なところ」がまさに電通的なところなのだ。



この本では電通が大きくなりすぎたことの問題点を、メディアとの関係性、政党や政府との癒着、スポーツイベントの商業化など様々な点から論じている。

ただ誤解してはいけないのは、決して電通が邪悪な企業ではないということだ。
もちろん過労死事件やネット広告費不正請求問題に関してはめちゃくちゃ悪いことをしていたわけだが、似たようなことをやっている会社はごまんとある(だからって電通が許されるわけではないけど)。
電通で働いている人だって、大半はいい人なんだろう。ぼくもひとり知り合いにいるけどいい人だし。
みんな一生懸命に仕事をしているだけだ。

過労死事件も不正請求事件も、誰かひとりの責任に押しつけられる問題ではないだろうし、数人が防ごうとしても止められなかった問題だろう。

最大の問題は、電通という会社が大きくなりすぎたこと、力を持ちすぎたことなのだとおもう。
もう誰にもコントロールできない巨大な組織になってしまい、暴走しても誰も止められなくなっているのだ。東京オリンピックだってもう完全に暴走して誰にも手が付けられなくなってるし。


だが、電通の力は今後弱くなってくるんじゃないかとおもう。
あくまで今と比べると、の話だけど。
 インターネットはテレビを中心とした4媒体以外でここ数十年、唯一売り上げが拡大してきた(16年度広告費は1兆3100億円)新興メディアで、電通の統制が同じく唯一及ばない領域である。統制云々というよりも管理者がいないというべきで、新規参入が容易で、日々新しい技術が生まれている。
 だがこの領域は他メディアに比べて収益率が低く、4媒体からの高収益に慣れた電通にとって「労多くして旨みの少ない領域」に映った。そのため電通社内では、ネット領域への出資を拡大すべきか否かで激論が交わされていた。亡くなった高橋さんの所属していたデジタル担当部署の人員が15年になって半分に削減されたのも、収益が低いと判断されたからである。
 この「管理者なき新興メディア」への中途半端な対応が16年9月末に露見したネット業務不正請求事件を発生させ、さらにその悪影響が高橋さんの自殺を生んだ。そしてその事実が1年後にSNSによって拡散し、電通のブランドまで破壊するに至った。電通は自社が軽視してきたインターネットメディアによって、とてつもなく大きな傷を負ったのだ。
ぼくはWeb広告の仕事をしているが、たしかに電通にとってうまみは少ないだろうなとおもう。
理由のひとつはGoogle、Yahoo!、Facebook、Twitter、Amazon、楽天などのプラットフォーム企業が広告のルールを決める支配者になっていること。テレビCMや雑誌広告のように電通がゲームマスターになることができない。

そしてWeb広告は電通のような巨大代理店であろうとぼくがいるような小さな代理店だろうとまったく同じ条件で広告出稿できること。
たとえばリスティング広告と呼ばれるGoogle、Yahoo!の検索結果に表示される広告であれば、電通が1クリック100円で出した広告よりも無名の個人が101円で出した広告のほうが上位に表示されるのだ(実際は価格以外の条件もいろいろあるけど)。
テレビCMのような「お得意さんだから」「電通さんだから」といった融通が利かないのだ。

さらにWeb広告はテレビCMや新聞広告よりも明確に成果が数字で出る。いくら予算をかけたら何人が広告を見て何人が行動を起こしたかが計測できてしまう。
イメージとノリでやってきた会社は(電通がみんなそうとは言わないけれど)苦しいだろう。

また、Web広告を出稿したところでWebに出回る情報をコントロールすることはできない。
なぜならWeb上では既存メディアと違い、広告費をもらわなくても情報発信ができるからだ。
もちろんインフルエンサーに広告費を渡せばその人の発言をある程度コントロールできるだろうが、すべてを抑えることはいくら電通でも現実的に不可能だ。数社を抑えればほぼ全部網羅できるテレビ局や新聞社とはわけがちがう。


……というわけで電通という会社がWeb広告全体に占める影響は(他メディアと比べて)すごく小さい。
Web広告は今後もまだまだ拡大する。新聞やテレビが衰退していくのと対照的に。
ということは、電通の影響力は今後どんどん弱まっていくだろう。

それに。
電通って「かっこいい」から「ダサい」会社になりつつあるんじゃないかな。ダークなイメージがつきすぎて。
皮肉なことに、旧来のメディアで力を発揮すればするほど古臭いイメージが濃くなる。

広告会社にとって、「ダサい」イメージがつくのって致命的だとおもうんだよね。
この本の中で著者は独占禁止法を根拠に「電通解体」を掲げているけど、もしかしたらそんなことしなくても衰退していくんじゃないかとぼくはおもっている。それも急激に。


とはいえ、テレビCMを発注するような役職にいる人はおじいちゃんが多いだろうから、高齢者向けメディアに高齢者向け広告を出稿する高齢者向け代理店としての地位は確固たるものを保つかもしれないけど。


【関連記事】

【読書感想文】わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ / 本間 龍・南部 義典『広告が憲法を殺す日』

オリンピックは大会丸ごと広告/「選択」編集部『日本の聖域 ザ・タブー』【読書感想】


 その他の読書感想文はこちら


2020年4月28日火曜日

【読書感想文】上のおもいつきで死ぬのは下っ端 / 新田 次郎『八甲田山死の彷徨』

八甲田山死の彷徨

新田 次郎

内容(e-honより)
愚かだ。断罪するのはたやすい。だが、男たちは懸命に自然と闘ったのだ。 日露戦争前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が強いられた。神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき、大隊長が突然”前進”の命令を下し、指揮系統の混乱から、ついには199名の死者を出す。小数精鋭の徳島大尉が率いる弘前31聯隊は210余キロ、11日にわたる全行程を完全に踏破する。2隊を対比して、自然との戦いを迫真の筆で描いた人間ドラマ。

1902年にじっさいにあった 八甲田雪中行軍遭難事件(Wikipedia)を題材にした小説。
小説なので登場人物は仮名だし随所に創作も混じっているが、大まかな話は史実通り。

しかし「八甲田山死の行軍」という言葉は聞いたことがあったが、そこから想像されるものよりずっとひどい出来事だった。
二つの聯隊が真冬の八甲田山(青森県)を行軍。うちひとつの聯隊はなんとか助かったが(とはいえ隊員の多くが凍傷を負っている)が、もうひとつの聯隊は遭難して210名中199名が死亡というとんでもない大事故になっているのだ。

天災と交通事故以外で200人が一度に死ぬなんて日本で他に例のない事故なんじゃないか?

しかもこれ、どうしても雪山を歩く必要があったわけではないのだ。
訓練、それも事前によく計画されたものではなく上官のおもいつきではじまったものなのだ。
「八甲田山は、青森と弘前の中間にある、青森の歩兵第五聯隊にしても、弘前の歩兵第三十一聯隊にしても、雪中行軍をやるとすれば、まことに手頃の山である」
 友田少将は二人の隊長に向って厳粛な面持で言ってから、突然末席に坐っている徳島大尉と神田大尉の方に向き直り、やや語気をやわらげて言った。
「徳島大尉も、神田大尉も雪中行軍についてはなかなかの権威者だそうだな」
 聯隊長と大隊長を飛び越えて、旅団長からの直接の言葉であったから、徳島大尉と神田大尉は椅子をうしろにはねとばすような勢いで立上ると、まず徳島大尉が、
「はっ、雪のことも、寒さのことも知っているといえるほど詳しくは知りません、権威などとはとんでもないことであります」
 と答え、続いて神田大尉は、
「平地における雪中行軍はやったことがございますが、山岳雪中行軍の経験はございません」
 と答えた。
「冬の八甲田山を歩いて見たいと思わないかな」
 旅団長友田少将が二人に向けたその再度の質問はいささか、度を外れたものであった。だいたい、旅団長が、聯隊長、大隊長をさし置いて中隊長に話しかけたのが異例だったのに、八甲田山を歩いて見たいかと問うたのは、旅団長自らが、二人の大尉に直接命令したのも同然であった。
「はっ、歩いて見たいと思います」
 二人は同時に答えた。答えた瞬間、二人はその責任の重大さに硬直した。
上官のおもいつき、おまけに命令ではなく忖度からはじまっている。

「冬の八甲田山を歩いて見たいと思わないかな」
なんちゅうひどい質問だ。
そんなもん、歩きたくないに決まってる。
しかし軍隊でずっと階級が上の上官から「やりたいか」と言われて、「危険なのでやめておきます」と言えるだろうか(言える人間はたぶん隊長になれない)。

この忖度が空前絶後の大惨事を生んだのだ。
軍隊や官僚組織で部下を殺すには、上司の命令すらいらない。
「あの人はおれの友だちだから国有地を安く売却してもらえたら助かるそうだ」だけで十分なのだ。



記録的な悪天候、準備不足、物資不足、経験不足、情報不足、指揮官の判断ミスなど悪条件の重なった青森5聯隊の姿はただただ悲惨だ。
 下士卒の眉毛には水がついていた。手に凍傷を受けた者はもっとも悲惨であった。尿をしたくともズボンの釦をはずすことができないし、またそのあとで釦をかけることができなかった。尿意を催すと、手の利く者を頼んで釦の着脱をして貰わねばならなかった。下士卒の多くは手足に凍傷を負っていた。
 尿意に負けて、釦をひき千切るようにして用を果したあとで、その部分から寒気が入りこんで死を急ぐ原因を作った者もいた。
 釦をはずすことができずに、そのまま尿を洩らした者もいた。尿はたちまち凍り、下腹部を冷やし、行進不能になった。
 下士卒の多くは夢遊病者のように歩いていた。無意識に前の者に従って行き、前の者が立止るとその者も立止った。疲労と睡眠不足と寒気とが彼等を睡魔の俘虜にしたのであった。彼等は歩きながら眠っていて、突然枯木のように雪の中に倒れた。二度と起き上れなかった。落伍者ではなく、疲労凍死であった。前を歩いて行く兵がばったり倒れると、その次を歩いている兵がそれに誘われたように倒れた。
 突然奇声を発して、雪の中をあばれ廻った末に雪の中に頭を突込んで、そのまま永遠の眠りに入る者もいた。
 雪の中に坐りこんで、げらげら笑い出す者もいた。なんともわけのわからぬ奇声を発しながら、軍服を脱いで裸になる者もいた。
この部分は創作ではなく、生存者の談話に基づくものらしい。地獄だ。
じっさいの戦争でもここまで悲惨な体験をしたものはほとんどいなかったんじゃないだろうか。

これは完全に人災だ。
「お話し中でありますが……」
 将校の作戦会議の輪を更に取巻くようにできていた下士官の輪の中から長身の下士官が進み出て、山田少佐に向って挙手の礼をすると、
「ただいま永野医官殿は進軍は不可能だと言われましたが、不可能を可能とするのが日本の軍隊ではないでしょうか、われわれ下士官は予定どおり田代へ向って進軍することを望んでおります」
 その発言と同時に下士官の輪がざわめいた。そうだ、そのとおりだという声がした。更に、二、三名の下士官が進み出る気配を示した。
 山田少佐は、容易ならぬ状態と見て取ると、突然軍刀を抜き、吹雪に向って、
「前進!」
 と怒鳴った。
 それはまことに異様な風景であった。作戦会議を開きながら、会議を途中で投げ出して、独断で前進を宣言したようなものであった。紛糾をおそれて先手を取ったといえばそのようにも見えるけれども、なにか、一部の下士官に突き上げられて、指揮官としての責任を見失ってしまったような光景であった。前進という号令もおかしいし、軍刀を抜いたあたりもこけおどかしに見えた。神田大尉は顔色を変えた。永野軍医は、はっきりと怒りを顔に現わした。だがすべては終った。結論が出たのである。前進の命令が発せられたのであった。
精神主義が幅を利かせ、経験のある地元民間人の声を軽視し、乏しい情報に基づいて判断を下す。そしてなにより、過去の失敗を認めない。
日本的な悪いところが全部出ている。

こうしてバカなトップのせいで未曽有の被害が起こったわけだが、なんともやるせないことに、この5聯隊、上官の生存率は20%近くだったのに対し、その下の階級である下士官の生存率は約8%、さらにいちばん下の兵卒は約3%に過ぎなかったそうだ。

無謀な作戦のせいで下っ端は命を落とし、現場責任者は責任を感じて自決を選んだ。だが現場に行かなかった上官は誰ひとり責任をとっていない。

これが現実なのだ。

新型コロナウイルスの感染拡大という世界の危機に陥っている今、また同じことがくりかえされようとしている(もしくはもう起こっている)。
はあ。やりきれない。

【関連記事】

【読書感想文】「絶対に負けられない戦い」が大失敗を招く/『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』

【読書感想文】生産性を下げる方法 / 米国戦略諜報局『サボタージュ・マニュアル』



 その他の読書感想文はこちら


2020年4月27日月曜日

それは愛ではない

子育てをしていていちばんおもしろいのは、子どもの成長を見ることよりも親の気持ちを追体験できることだ。

たとえば真夜中に子どもが目を覚まして泣いている。
どうしたのと訊くと「こわいゆめをみた」と云う。

正直「知らんがな」とおもう。「きにすな。はよねえや」とおもう。だってこっちも夜中にたたき起こされて眠いからね。
でもそうは言わない。
なぜなら、ぼくも子どものころに同じようなことを経験し、そのときに母親が「そう、じゃあおかあさんのおふとんでいっしょにねよう。そしたらだいじょうぶだから」と優しく言ってくれたからだ。その言葉に幼い日のぼくは心から安心することができたからだ。

だからぼくもめんどくせえなあとおもいながらも「そっか、じゃあおとうちゃんと手をつないで寝よっか。こわいゆめをみないように念じながら手をにぎっといてあげる」と言って、いっしょに寝る。
そしておもう。「ああ、あのときおかあさんも心の中では『めんどくせえなあ。しょうもないことで起こすな』とおもいながらも優しい声で接してくれたんだなあ」とおもう。


母親というのは無条件で子どもに尽くすものだとおもっていた。子への奉仕こそが母の喜びなのだと。
でも自分が人の親になり、とんでもないまちがいだったことを思い知る。

めんどくさい、うっとうしい、憎い、生意気で腹が立つ、やかましい、つまんない、くだらない、かわいくない……。
子どもに対していろんな負の感情を抱く(もちろんポジティブな気持ちになることのほうが多いよ)。

自分の母や父も、同じように感じていたんだろうな。
本気で憎んだりしてたんだろうな。
あのとき厳しく叱ったのは愛しているからこそではなく、ただ単純に心の底からいらだってたからだったんだな。
我が子だからって全面的に愛していたわけではないんだな。ときには我が子だからこそ本気で嫌ったりしていたんだろうな。

それがわかったからといって両親に対してに失望したりしない。むしろ余計にすごいとおもう。余計に感謝する。
だって愛する者を育てるより憎らしい者を育てるほうがはるかにたいへんだもん。

ぼくが子育てをする動機は愛じゃない。そんな気楽なもんじゃない。
使命感というか本能というか、あるいはもっとシンプルな物理法則(慣性の法則)によるものか。


2020年4月24日金曜日

診断されたし


娘の同級生、Tくん(六歳)。

元気な男の子だ。元気すぎるぐらい。
じっとしていられない、人の話を聞かない、怒ると手が付けられなくなる。無鉄砲で損ばかりしている。
まるで子どもの頃のぼくを見ているようだ。ぼくもあんな子だった。教師や親の話なんかぜんぜん聞いてなかったし、しょっちゅう喧嘩してたし、いろんな子を叩いてたし、そのくせ攻撃されると弱くてよく泣いて暴れていた。

だからちょっと自分と重ね合わせてTくんをかわいがっていた。
Tくんはこちらから追いかけると逃げる。でも放っておくと近づいてくる。かまってほしそうにボールをぶつけてきたりする。
素直じゃないところがかわいい。うちの娘は「いっしょにあそぼう」「今はひとりで本を読みたいから」とはっきり口にするタイプなので、余計に。


そんなTくんのおかあさんと話していたら、
「こないだ病院で診てもらったら、Tは発達障害なんですって」
と云われた。

えっ、と驚いた。
「え? たしかにちょっと落ち着きないところはありますけど、でも男の子ってそんなもんじゃないですか。他の子も似たようなもんだとおもいますけど。ていうかぼくが子どものころもあんな感じでしたし」

「まあ外だとちょっとマシなんですけどね。でも家の中だとほんとに手が付けられないんですよ。気に入らないことがあったらぜったいに譲らないですし、何時間でも抗議しつづけますし、大暴れすることもありますし」

「そうなんですね……。保育園とか公園で見るかぎりではそこまででもないですけどね……」

「まあ保育園とか公園ならね。でも小学校でじっと座ってるのはむずかしいから、小学生になったらもっと他の子と差がつくだろうって言われました」

「そうですか……」

ぼくはそれ以上何も言わなかった。

ぼくは専門家ではないから。家の中でのTくんの様子を知らないから。
そしてなにより、Tくんのおかあさんが決して悲嘆にくれているわけではなくむしろ晴れ晴れとした顔をしているように見えたから。

ここからはぼくの想像でしかないんだけど、Tくんのおかあさんは息子が発達障害と診断されて、もちろんショックを受けただろうけどそれ以上に安堵したんじゃないだろうか。



昨年、ぼくは熱を出した。全身がぐったりとだるく、食欲もなくなった。
風邪にしちゃあ症状が重い。インフルエンザだろうか。咳も出るし肺炎とかになってたらどうしよう。それとももっとめずらしい病気だったりして。
あれこれ考えていたが、病院に行って「ウイルス性の胃腸炎ですね」と診断されて薬を出されたとたん、ふっと症状が軽くなった気がした。
病院に行くときはふらふらと這うようにしながら向かったのに、帰りは足取りも軽かった。
まだ薬を飲んだわけではない。病気の身体を引きずって病院まで歩いていっただけなので、本当なら具合が悪くなることはあっても良くなることはないはずだ。
でも、ぐっと楽になった。自分の不調に病名がついて対処法が示されただけで、まだ何も手を打っていないのに楽になった。



Tくんのおかあさんも同じ気持ちだったんじゃないだろうか。

どうもうちの子は落ち着きがなさすぎる。他の子はもっと落ち着いているように見える。話も聞いてくれない。
何が悪いのだろう。これまでの育て方に問題があったのか。自分の対応が悪いのか。他の親ならもっとうまく対応しているのだろうか。それともこの子に重大な疾患があるのだろうか。回復の見込みのないような病気だったらどうしよう……。
あれこれと結論のない思いをめぐらせていたんじゃないだろうか。

で、病院に行って発達障害と診断された。
何が変わったわけではないけれど、余計な不安はなくなった。
生まれついての脳の問題だ。育て方が悪かったわけではない。誰が悪いわけでもない。どんな親だって手を焼いていたはず。
発達障害はとりたててめずらしいものではない。同じ問題を抱える親も多いし、対処方法もある程度確立されている。薬物療法で一定程度は症状を抑えこむこともできる。

原因とやるべきことが明確になるだけで、事態がまったく動いていなくてもずっと楽になった!

……ってことがTくんのおかあさんに起こったんじゃないだろうか。勝手な憶測だけど。

わかんないって何よりもつらいもん。



ぼくらがちょっと体調が悪くて病院に行くのは、治してもらうためじゃない。診断されるためだ。
町医者の仕事の九割は「診断」にあるんじゃないかな。治療は一割で。


医者があれこれ検査した結果、病名不明だったとする。
それでも「あーこれはホゲホゲ病ですね。大丈夫ですよ、薬出しとくんで」と言ってプラシーボ(偽薬)を出しておけば、患者の病状が良くなるとおもう。
「いろいろ検査しましたが結局わかりませんでした」と正直に言うよりも(だからって嘘をついたほうがいいとは言わないが)。

もしかしたら「発達障害」自体が、そういうニーズに応えるためにつくられた言葉なのかも。
「発達障害と言ってもらうことで助かる」という親を安心させるためにつくられた言葉。
じっさい、多くの親が「発達障害」という診断に救われているはず(ぼくが子どものころにも「発達障害」があればきっとぼくの親もいくらか楽になっただろう)。

だからどんどん病名を増やしていったらいいとおもうんだよね。
「勤労障害」とか「難熟考症」とか「起床不適応症」とか。
救われる人はたくさんいるはず。


2020年4月22日水曜日

ツイートまとめ 2019年8月


道案内

ギャンブル

ポイントカード

八割

本屋大賞

空気

チコちゃん

ヘウレーカ

一杯

次何食おう

社長

青春

犬じゃない

ヒッチハイク

NHKニュース

長寿

売人

ネット大喜利

ナイススティック

オーナー

毒島

高温注意情報

白いカーペット

神々

たいそうのおじさん

15巻

自由研究

韋駄天の韋

天照



トマソン

シュール

読書感想文

偏食

殺処分

ラッキーアイテム

ノコノコ