2019年12月11日水曜日

【読書感想文】昭和の少年が思いえがいた未来 / 初見 健一『昭和ちびっこ未来画報 』

昭和ちびっこ未来画報 

初見 健一

内容(e-honより)
本書には1950~70年代の間に、さまざまな子供向けのメディアに掲載された“未来予想図”が収録されています。小松崎茂、石原豪人をはじめとする空想科学イラストの巨匠たちが描いた未来画を暮らし、交通、ロボット、コンピューター、宇宙、終末の六項目に分けて紹介。

未来予想が好きだ。
このブログでも、真鍋 博『超発明 創造力への挑戦』、ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』、エド・レジス 『不死テクノロジー 科学がSFを超える日』といった硬軟さまざまな未来予想本を紹介してきた(ページ下の【関連記事】参照)。

未来の世の中(21世紀後半~22世紀ぐらい)はこうなる、という予想もおもしろい。
わくわくして長生きしたくなる(20世紀生まれのぼくが22世紀まで生きるのはまず不可能だろうが。少なくとも肉体は滅びるはず)。

それもおもしろいが、過去の未来予想もおもしろい。
50年前、100年前の人たちが予想した未来を、21世紀を生きるぼくが答え合わせをすることになる。
これがたまらなくおもしろい。
優越感をくすぐられる。なにしろこっちは未来人だ。20世紀人の「未来」については圧倒的にこっちのほうが知識がある。
「ははーん。こんなことを予想してたのかー。しょせんは20世紀人、ばかだねー」
とか
「おっ、まあまあいいセンいってんじゃん。とはいえここまでの予想しかできないのが20世紀人の限界だよなー」
とか上から目線で語れる。
べつにぼくの力で科学が進歩したわけではないのだが(むしろ過去の人のおかげなのだが)、しかし「新しい知識を持っている」というのはそれだけで優位に立てる条件なのだ。未来人でよかったー(20世紀生まれだけど)。



『昭和ちびっこ未来画報』は過去の未来予想を集めた本だ。

1950~1980年ぐらいの少年誌に掲載されていた「未来はこうなる!」というイラストがたっぷり載っている。全ページカラー。
すごくおもしろい。
イラスト(小松崎茂氏のものが圧倒的に多い。未来予想イラスト界の大家だ)もいいし、著者のツッコミも笑える。

雑誌だけでなく大阪万博の「未来生活」の写真なんかもあって、昭和の少年(あるいは大人も)がどんな未来を思いえがいていたかがよくわかる。もちろん全面的に信じていたわけではないだろうけど。


都市の未来予想はけっこうあたっている。

立体交差道路、動く歩道、モノレール、屋上ヘリポート、室内野球場、街頭テレビ。
どれも2019年現在あたりまえのように存在しているものばかりだ(モノレールはあまり一般的にならなかったけど)。

とはいえ「そりゃないだろ」というアイデアもあふれている。


高速道路で事故が起こらないように、巨大ロボットが違反車を(物理的に)つまみあげるという仕組み。
こえー。
こんなにすごいロボットが動いているのに「速度おとせ」という看板で注意を呼びかけているのが笑える。看板は進歩しないのかよ。

っていうかこんなロボットを動かす技術があるならとっくに自動運転車が実用化されてるだろ……。そもそも自動車が必要なくなってるんじゃないか。

あと「空港が空を飛ぶ」とか、脱線した機関車を持ち上げる飛行艇とか、いろいろツッコミどころの多いアイデアもおもしろい。
そんなすごい飛行艇が飛んでるのにまだ機関車使ってるのかよ。

すごいスピードで郵便物を運ぶ「ゆうびんロケット」は、ああ昔の人のアイデアだなあという気がする。
そうだよね。「いかに速く手紙を届けるか」という発想になっちゃうよね。「電子メールが一般化して紙の手紙を出す必要はほとんどなくなる」というパラダイムシフトにたどりつくのはむずかしい。

 今だっていろんな学者が「どうやって健康を維持するか」とか「安全でエコな自動運転車を作るにはどうしたらいいか」とか頭を悩ませているけど、将来的には肉体が不要になっている可能性もあるもんなあ。そうなったらとうぜん自動車なんて不要になるわけで。



コンピュータ、通信などの分野に関しては現在の状況は昔の想像をはるかに超えているかもしれない。
誰もが手のひらサイズの高性能コンピュータを持ち歩いている時代なんてほとんど誰も予想しなかっただろうなあ。

しかし、宇宙開発、海底開発、気象操作などは残念ながら「未来予想」にとうてい及ばない。
宇宙や海底は、今のところ「そこまでする必要がない」から開発してないだけで、「もうすぐ陸上に人類が住めなくなる」などのせっぱつまった状況になればちょっとはマシになるんだろうけど。
天気を操るとか台風を鎮めるなんてアイデアが紹介されてるけど、制御するどころか2019年になっても予想すらまともにできてない状態だもんな。
地球は手ごわいな。

ロボットに関しては、昔の少年が思いえがいていたヒト型ロボットが活躍する時代は当分こないんじゃないかな。ヒト型であるメリットがあんまりないもんな。



登山サポートロボットやおかあさんロボットの想像画が描かれているが「キモいし無駄」という感想以外は出てこない。
特におかあさんロボットの不気味さといったら……。ぜったいこの触手で絞め殺されるだろ。



終末予想も数多く紹介されている。

核戦争、温暖化、隕石の衝突、大洪水などで地球が滅ぶという暗黒未来予想だ(寒冷化がしきりに唱えられているのが20世紀らしい)。

放射能により動物や植物が巨大化・凶暴化、なんてのも昭和のSFって感じだなあ。ゴジラとかウルトラマンとかでも「放射能により凶暴化」ってのはけっこう扱われてるもんなあ。

今だったらアウトだよね。原発事故地域の風評被害がーってなってしまう。
けどそれはそれで臭い物に蓋って感じでイヤな感じなんだよなあ。
「風評被害はやめろー」って言う人の大半が被害者を慮ってるわけじゃなくただ単に遠ざけてるだけに見える。



著者も書いているけど、少年誌の定番だった未来予想は最近ではすっかり鳴りを潜めてしまった。
ぼくが子どもの頃読んでいた雑誌でも見た記憶がない。

ノストラダムスだ終末論だのオカルトが流行るのは歓迎しないけど、長生きしたいとおもわせてくれるような未来予想がもっとあってもいいのになあ。
未来に期待が持てない時代になってしまった。さびしいな。まあ人口も経済も衰退していく一方の今の日本じゃあなあ。


【関連記事】

【読書感想】真鍋 博『超発明: 創造力への挑戦』

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

【読書感想文】 エド・レジス 『不死テクノロジー―科学がSFを超える日』



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2019年12月9日月曜日

【読書感想文】靴下のにおいを嗅いでしまうように / たかたけし『契れないひと』

契れないひと(1)

たかたけし

内容(yanmaga.jpより)
わたしのしごとは、わたしになにをさせるのでしょう‥‥。子供向け英会話教室の体験を勧誘する訪問販売員ノグチマイコ♪ 今日も顔も知らないお客様のお宅の玄関の前に立ち、一生懸命お仕事をしています。されど毎回、契約が獲れなくて、上司に怒鳴られ、泣いています。苦笑と悲哀に満ちた幸薄ガールの営業GAG日誌♪『契れないひと』、そこはかとなく連載スタートです♪

たかたけしさんのデビュー作。
……だけどぼくはもう十年来のたかさんのファンだ。

とある趣味を通して(ネット上で)たかさんと知り合い、たかさんのブログ に魅了された。
ぼくは文章を読んでおもしろいとおもうことはあっても笑うことはないのだが、たかさんの文章だけは別だ。文章だけでこんなに笑わせられる人がいるのかと大いに感心し、こんなすごい文章をタダで読むことができるなんてブログっていいなあとおもいつつも、この人が世に出ないのはおかしい、『SPA!』あたりですぐに連載させるべきだろうと勝手に憤っていた。

そんなたかさんがついにデビュー。それもヤングマガジンで……ヤングマガジン?
そう、文章ではなく漫画でのデビューだというのだ。お、おめでとう……。

もちろんそれはそれでたいへん喜ばしいことなんだけど、いつかエッセイ集も出してくれることをぼくは今も願いつづけている。
東海林さだお氏のような『漫画以上にエッセイに定評のある漫画家』になってくれたらいいなあ。



前置きが長くなったけど、『契れないひと』について。

なんというか、見ちゃいられない。なのに見ちゃう。
やはりヤンマガで連載されていた 蓮古田二郎『しあわせ団地』という漫画を思いだした。


『しあわせ団地』の主人公・はじめは、仕事をしようとせず、家事もせず、妻に対しては暴言をぶつけるというどうしようもないクズ人間だ。
一応ギャグではあるのだが、はじめのせいで妻がひどい目に遭うことが多く、読んでいていたたまれない気持ちになる。ギャグなのに痛々しいだけでぜんぜん笑えない。
……なのになぜか気になる。ついつい読みたくなる。
イヤな気持ちになるのがわかっているのだから読まなきゃいいのに、読んでしまう。そして胸糞悪さを感じる……。


『契れないひと』も似た印象の漫画だ。
主人公・野口は英会話教室の飛び込み営業。子どものいる家庭をまわり、体験レッスンに勧誘する。結果が出なければ猛烈なパワハラを受けるブラック職場。レッスンもおそらく質の悪いものだと野口自身もうすうす気づいている。
気の弱い野口は契約をとれない。上司に罵声を浴びる。言われるがままに法律ギリギリ(ギリギリアウト)なやりかたで営業をかける……。

上司や会社はもちろん、野口にも共感できない。
自分のやっていることが顧客を幸せにしないことだとうすうすわかっている。
だけど言われるから、怒られるのがイヤだから、英会話教室を勧める。
会社内では立場の弱い野口も、客からしたら立派な加害者だ。
うじうじして身の不幸を嘆いているように見えるけど、あんたも悪人なんだよと言いたくなる。

……でもそれは高みの見物だから言えることであって、ぼくも同じ立場に置かれたらやっぱり野口と同じような行動をとってしまうかもしれない。少なくとも「この会社のやり方は間違っています!」と抗議することなんてできない。せいぜいがさっさと逃げだすぐらい。

だいたいの人は同じようなもんだろう。
数々の腐敗した軍隊や企業や政府の暴走も、ほとんどが「一握りの頭のおかしいトップ」+「その他大勢のうすうすヤバいと感じながら流れに身を任せた部下」によってなされてきた。

不善に立ち向かうのはエネルギーがいる。思考停止するほうがずっと楽だ。
考えることを止めて上司の言われるがままに行動する野口の姿は、まさに自分含めた「弱い人間」の姿だ。

己の弱さを見せつけられるから不愉快だ。でもここに描かれているのはまちがいなく自分の姿。だから読んでしまう。自分の靴下のにおいをついつい嗅いでしまうように。

『契れない人』はそんな漫画だ。



職業に貴賤はないというが、そんなのは嘘だ。
貴いだけの職業はないかもしれないが、賤しいだけの職業はある。振り込め詐欺やってる連中とか。

まあだいたいは「かなり貴い」から「かなり賤しい」のどこかに位置しているわけだが、やっぱり達成感とか社会貢献度とかを感じにくい仕事はある。

ぼくも広告の仕事をしているが、その中でもやってて意義を感じる仕事とそうでない仕事がある。
風俗やギャンブル関係の依頼は断るようにしているが、うさんくさい育毛剤とか不動産投資セミナーとかの広告をつくっているときは
「うーん……あんまり胸を張って勧められるものじゃないけど……」
とおもいながらも金になるからしょうがないと自分を半ば騙しながらやっている(またうさんくさい商売ほど金銭的条件がいいんだよね)。
残念ながら清廉潔白だけで食っていけるほどの技能を持っていないので。


ぼくもそれなりに悪い大人になったので「明らかな違法じゃなければ目をつぶろう」ぐらいにおもえるんだけど、そんなふうに感じられない人もいる。
「悪いことはやめましょう!」って人。
ほんとうならそっちのほうが正しいんだけど、悲しいかな今の世の中は正しい人が住みやすいようにはできていない。
「だったらおまえこの仕事やめろよ」となってしまう。

ついこないだ『ルポひきこもり未満』という本を読んだけど、そこに出てくる「社会でうまくやっていけない」人たちは、まさにそんな感じだった。
ふつうの人が「まあそんな真剣に考えなくていいじゃない」「ちょっとぐらいの悪いことだったらみんなやってるんだからさ」と思えることを、許せない人。

おかしいのはその人たちなんだろうか。それともこの狂った社会に順応できているぼくだちなんだろうか。



『契れない人』の世界の住人はみんな狂っているんだけど(人だけじゃなく犬も)、回を重ねるごとにどんどん狂気が増している。
この先どうなるのか。たぶん不快な展開が待っているんだろう。わかっている。わかっているけど、でも読んでしまうんだろうなあ……。


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【読書感想文】失業率低下の犠牲者 / 池上 正樹『ルポ ひきこもり未満』

ルポ ひきこもり未満

レールから外れた人たち

池上 正樹

内容(e-honより)
派遣業務の雇い止め、両親の多重債務、高学歴が仇となった就職活動、親の支配欲…。年齢も立場も、きっかけも様々な彼らに共通するのは、社会から隔絶されて行き場を失ってしまった現状である。たまたま不幸だったから?性格がそうさせているから?否。決して他人事ではない「社会的孤立者」たちの状況を、寄り添いながら詳細にリポート。現代社会の宿痾を暴き出し、解決の道筋を探る。制度と人間関係のはざまで苦しむ彼らの切実な声に、私たちはどう向き合うことができるのか…。

ひきこもり、あるいはそれに近い状態の人たちの事例が紹介されている。
この本で紹介されている人たちのケースは様々だ。うまく問題を克服して社会に出られた人、今ももがき苦しんでいる人、そしてひきこもりの末に自殺した人……。

以前、久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』という本の感想でこんなことを書いた。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

「ひきこもり」の問題も同じだ。
外に出られないことには原因がある。「出てきなさい」というだけで解決するような問題ではない。ただ仕事を与えて外に出すだけではだめだ。

ぼく自身、いっとき半ひきこもり状態だった。
気心の知れた友人とであれば出かけるが、それ以外の人とは会いたくない。一週間のうち五日か六日は終日実家にいるなんてこともあった。

あれはつらいものだ。「出たくない」とおもっているわけではない。
常に「出たくない」と「でも出なきゃだめだ」が闘っている状態だ。外に出なきゃいけないことは自分がいちばんわかっている。けど動けない。
そんな状態の人に「まず一歩外に出てみよう」と言ったって無駄だ。羽が折れた鳥に対して「さあ外に出ておいでよ。襲いかかってくる犬も猫もいるけど怖がらなくていいよ」と言うようなものだ。まずは身を守る方法を身につけさせなくては。

ぼくの場合は一年ぐらい半ひきこもりを続けた後、「バイトぐらいはしなくちゃな」ということでバイトをするようになり、そのまま正社員登用されてひきこもりを脱することができた。
でもこれはたまたま運が良かっただけだとおもっている。
実家に経済的余裕があったから一年の休息をとることができたけど、その余裕がなく無理して外に出ていたら心を壊していたかもしれない。
一念発起して受けたバイトの面接に落ちていたら意欲をなくしていたかもしれない。
正社員登用されていなかったらそのまま中年フリーターになっていたかもしれない。

いろんな「ラッキー」が重なっただけで今はそこそこ落ち着いた暮らしをできているけど、ほんの少し歯車がずれていたらぼくも『ルポ ひきこもり未満』に載る側だったかもしれない。



ひきこもりに対しては行政も対策を立てている。
が、あまり機能していない。

ひとつには、年齢制限を課していることがある。
これまでの公的支援が上手くいかなかった理由は、このように支援対象者を年齢や状態などで線引きしてきたことにある。勇気を出して、藁にもすがるような思いでたどり着いた最初の相談窓口の担当者から「あなたは支援の対象ではない」「あなたはここではない」などと冷たく突き放され、あるいは一方的な関係性の支援によって、社会に出ることを諦めてしまう――そんな経験をしてきた当事者たちは少なくない。
 こうした支援のあり方は、話題になっている「8050問題」のひきこもり長期高齢化や、地域で家族ごと潜在化していく大きな要因にもなっていて、当事者たちから「排除の暴力」と批判されてきた。
 柴田さんとやりとりしていた当時、ひきこもり支援の国の施策は、内閣府の「子ども・若者育成支援推進法」が法的根拠とされてきた。そのため、現場の自治体でも、「ひきこもり支援」のゴールは「就労」とされ、「三九歳以下の若者就労支援」に重きが置かれた。その支援の対象から弾かれた本人や家族は、せっかく相談にたどり着いても、せいぜい精神医療へと誘導されるのが実態だった。
せっかく支援制度があっても「二十代・三十代のひきこもりの人が対象」などと制限を設けてしまう。

まあ救いやすいほうから救うという考えもわからんでもないが、しかしより深刻なのは中高年のひきこもりのほうだ。
若ければ本人の意志次第でなんとかなることも多いが(その意志を奮いおこすのがたいへんなんだけど)、中高年の場合は本人の意志だけではどうにもならないことも多い。
正社員はもちろんアルバイトや派遣の職すらなかなか見つからない。周囲の目は厳しくなるどころか認知すらされなくなる。

ほんとはここにこそ行政が手を伸ばすべきなんだろうけど、成果が上がりづらいからか、放置されてしまう。
本人だけでなく、社会にとっても大きな損失なのだが。


『ルポ ひきこもり未満』に出てくる人の経歴を見ると、「たまたま運が悪かっただけ」の人も多いようにおもう。
たまたま最初に入った会社がブラック企業だった、たまたま直属の上司がパワハラ体質だった、たまたま会社の経営が傾いた。
本人の意思でどうにもならない事情が大きい。
もちろんどんな逆境でも乗りこえられるスキルや精神力を持った人もいるが、そんなのは少数派だ。
些細なきっかけでひきこもり生活に転落してしまう。そして一度道を外れると復帰するのはすごくむずかしい。

役所で非正規雇用をされている人の話。
 さらに、濱口さんが何よりも苦痛だったのは、仕事がないのに採用され続けていたことだという。何もすることがないのに職場にいることは、とても耐えがたかった。
 何をしていればいいのかわからないまま、時間が過ぎるのを待つ。指示も何もない。指示があっても、「何もしなくていいよ」と言われる。濱口さんは、生きている価値を否定されているような感覚に襲われた。
 そんなひどい状況であっても、「政治的な約束」を実行するために、その後も非正規は、採用され続けた。
 そもそも濱口さんは、失業対策のために雇われているから仕事がない。仕事を与えられないけど、自分も何かしなければと思っていた。雇わなければいけないことになっているから、給料も支払われる。
 同僚の中には、「仕事しないなら、私、行かない」と言って辞めてしまった人たちもいた。とにかく仕事がなかった。
 一方で、残業するほど忙しくしている部署もあった。しかし、職場側は、同一賃金を払わなければならなくなるため、非正規には仕事をさせようとしない。「働き方改革」が言葉の響きだけで骨抜きになるのではないかと懸念されるのは、まさにこの点である。当初、もらっていた仕事も、途中から来なくなることもあった。
 失業率の数字を下げるといっても、構造的な面での「からくり」に過ぎない。仕事がないために、スキルを付けないまま歳を取っていく。すると、求人欄で足を切られて応募ができなくなるという、負のループにハマっていく。
非正規雇用を増やし、一人でやっていた仕事を二人で分ければ数字上の失業率は低下する。
だけど出せる金は限られているから一人あたりの給料は減る。
「ギリギリ生活できる人」を増やしたにすぎない。

公務員はどんどん非正規化されていっている。
政府が「失業率が下がった!」と喧伝するためだけに弱い立場の人が犠牲になっているのだ。

一億総活躍時代の実態は「みんなで貧しくなろう」だ。


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【読書感想文】お金がないのは原因じゃない / 久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』



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2019年12月6日金曜日

保育士の薄着至上主義と闘う


六歳の娘が熱を出した。
一日休ませたら元気になったので保育園に行くことに。
さすがに今日はあったかくしときなさい、長袖長ズボンで行きなさい(これまで半袖半ズボンだった。どうかしてる)というと、娘は泣いて抵抗する。
イヤだイヤだ、半袖半ズボンじゃないとイヤだ、と。

で、どうしてそんなに長袖長ズボンを嫌がるんだとくりかえし訊くと、娘が口を開いた。
「だって先生が長袖長ズボンはダメって言ってた……」


娘の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
保育士が「長袖長ズボンはダメ」とはっきり言うとはちょっと考えられない。
だが、それに近い保育士からのメッセージはぼくも受信していた。

保育士たちがやたらと薄着を礼賛すること。

おたよりでも「冬でもなるべく薄着で過ごすよう指導しています」などと書いていること。

他の保護者が「うちの子はおなかこわしやすいんで長袖を着せていったら『なるべく半袖にしてくださいねー』と言われた」と語っていたこと。

少し前に子どもたちがみんな半袖半ズボンだったので「みんな寒くないん?」と訊いたら、子どもたちが口をそろえて「長袖なんか着るわけないやん!」と言ったこと。


矯正まではしなくても、園の方針として「なるべく薄着で過ごさせる」というスタンスでいるらしいこと、そしてその方針を子どもたちがまるで金科玉条のように絶対視していることを前々から感じとっていた。



くだらない。ほんとくだらない。

そのくだらなさがぼくにはよくわかる。
なぜならぼく自身、「一年中半袖半ズボンで過ごした子ども」だったから

「半袖半ズボンは元気の証」と信じていたぼくは、小学二年生のとき、親からどんなに言われても長袖長ズボンを着なかった。
もちろん寒かった。がたがた震えていた。家に帰ったらストーブの前に直行した。風邪もひいた。
他の大人たちから言われる「こんなに寒いのに半袖半ズボンなんてすごいねー」という言葉を、文字通りの褒め言葉として受け取っていた。本音は「ようやるわ。あきれた」なのだと理解していなかった。

そんな経験のあるぼくだからこそわかる。
無理して薄着でいることのメリットなんて何もないということが。



しかし多くの保育士が「薄着でいると元気になる」と信じているように見える。
保育士は、自分の経験から「薄着で遊んでいる子は元気な子が多い」とおもってしまうのかもしれない。

あほらしい。
典型的な[前後即因果の誤謬]だ。
薄着でいるから元気になるんじゃない、元気だから薄着で外で遊べるのだ。

その理屈で言うなら、「病院にいる子は公園にいる子より不健康な子が多い。ということは病院に行くと不健康になる」ということになってしまう。

ぼくが子どもの頃は「おひさまの下でいっぱい遊んで真っ黒になるまで日焼けした子は元気になる」と言われていた。
これも同じだ。元気だから外で遊べるだけの話だ。
現代において「紫外線をたっぷり浴びると元気になる」なんていう人はまさかいないだろう。
なのにまた同じ失敗をくりかえそうとしている。


いや知りませんよ。
もしかしたら、ほんとうに薄着で過ごすことが免疫力を高めるのかもしれませんよ。

でもそれを科学的に検証しようとしたら、多数の子どもを集め、ランダムに二つのグループに振り分けて、片方のグループには防寒具を着せ、片方のグループの子どもたちはどんなに寒がっても半袖半ズボンしか着せず、その二つのグループの数年後、数十年後の健康状態にどれだけ差が出たかを検証しないといけない。
そんな非人道的な実験が今の日本で認められるとは到底おもえないから、たぶん検証不可能だろう(仮に他の国で実験したとしてもそれはその国の気候でしかあてはまらない話だ)。

だから薄着で過ごすことが健康にいいかどうかを議論するのがそもそも無駄だ。
だったら「快適なほうを選ぶ」でいい。



仮に、子ども数百人を用いた非人道的実験がおこなわれて「半袖半ズボンだと元気になる」という結果が得られたとする。

それでもぼくは真冬に薄着で過ごさせることには賛成しない。

健康がすべてに優先するわけではない。

もしも「パンツ一丁で過ごすと元気になる」というデータが出たら、どうだろう。
男も女もパンツ一丁で過ごすか。パンツ一丁で往来を歩くか。
そんなバカなことはしない、と誰もがおもうだろう。
なぜならパンツ一丁で歩くことは健康云々に関係なく、非常識だからだ。

社会常識を教えるのも教育の役割だ。

「冬でも半袖半ズボン」は社会常識からは外れている。
たまにいるけどね、真冬でも半袖のおじさん。
あれを見て、たいていの人は「ああアレな人なのね」とおもう。
そりゃ冬でも半袖半ズボンのおじさんから「私の恰好見てどうおもいますか」と訊かれたら、面と向かって「ばかじゃないかとおもいます」とは言えないから「あ……えー……健康的ですごいなーと……おもいます……」と答えるだろうけど、それは本心ではない。

「冬には冬にふさわしい恰好があります。寒い中で半袖半ズボンで過ごすのはおかしなことです」と教えてやるのが保育士の仕事だろう。

子どもは「少し肌寒いからもう一枚着ていこう」などと判断する力がないからこそ、大人が先回りして防寒対策をしてやらねばならない。
(中学校などで衣替えの時期が決まっているのも同じ理由だとおもう)



いくら「あったかい恰好をしなさい」と言っても娘が「でも長袖長ズボン着てる子は弱いって言われるから……」と渋っていたので、洗脳を解くためにかなりきつい言葉で言い聞かせた。

「いい? 長袖長ズボンをダメってのは先生のウソなんだよ。ウソ! だから信じちゃダメ! その証拠に先生たちは長袖長ズボン着てるでしょ! 先生も適当に言ってるだけ!」

「寒いときに我慢して半袖半ズボンにする人はバカなだけ! バカなの! 先生が言ってることはバカなこと!」

娘が持っている保育士への信頼感を壊すようなことはできればしたくなかったが、強固に「薄着至上主義」を信じこまされていたので仕方がない。

何度も言うことで、ようやく娘も長袖長ズボン+コートを着てくれた。
洗脳が解けたかどうかはわからないが、まずは呪縛を解く行動をとることが必要だ。



……みたいなことを、二十分の一ぐらいに希釈して保育士への連絡ノートに書いた。

「いつもお世話になっております。ふざけたことをぬかさないでいただくようお願いいたします」みたいな感じで。

そしたらすぐ連絡があって、すんませんまちがってましたすぐ改めます、とめちゃくちゃ丁重に詫びられた。

……なんだかなあ。
それはそれで腑に落ちないというか。

「いやあなたはそういいますけどやはり薄着で過ごすことが大事だと私たちは考えるんですよ!」みたいな気概はないのかよ。
おまえら確固たる信念もなしに、他人に薄着で寒い中過ごすことを半ば強要してたのかよ。それただの虐待じゃん。

プロの保育士として信念があるんだったらちゃんとそれを主張しろよ、と。
信念がないんだったらはじめっから他人に自分の価値観を押しつけんなよ、と。

そんなふうにおもうわけです。
我ながらめんどくせえ保護者だなあ。



2019年12月5日木曜日

ニュートンのなりそこない


うちの次女。
こないだ一歳になった。
よちよちと歩くようになり、すれちがう人みんなに笑顔をふりまき、パーとかアイーとかの音を発するようになり、どこをとってもいとをかし。百パーセント癒しだけの存在だ。ウンコすらかわいい。

そんな彼女、近ごろは物理法則に興味を持ちだした。
机の上にあるものをひきずりおろしたり、箱を逆さにして中身をぶちまけたり、コップをひっくりかえしてお茶をこぼしたり、飽きもせずにそんなことをくりかえしている。
エントロピーが増大する一方なのでやめてほしいのだが、まあこれも彼女の正常な発達のために必要なんだろうとおもって基本的にはあたたかく見守っている(液体をこぼそうとするのは止めるが)。

こういう作業を何十回、何百回とくりかえすことによって
「これぐらい力を弱めると手からものが落ちる」
「ものを持っている手を離すととこれぐらいの速さで下に落ちる」
「液体は低い方に向かって流れる」
といった物理法則を経験的に学んでゆくのだろう。



ここでぼくはニュートンにおもいを馳せる。


ニュートンが「なぜものは下に落ちるのだろう」と疑問を持ったとき、周囲の人たちはどんな反応をしただろう。

「なるほど。言われてみればふしぎだ。何か大きな力がはたらいているのかもしれない。その力がなんなのか、どれぐらいの大きさなのか、気になるところだ」
……とはならなかっただろう。まちがいなく。

「は? 上から落としたら下に落ちるにきまってるだろ。わけのわからないこと言ってないで働け」

「なに赤ん坊みたいなこといってるんだ。落ちるから落ちる、それが答えだよ」

「だったらおれが教えてやるよ。おまえがクズだからそんなことを疑問におもうんだよ! わかったら働け!」

みたいなことを言われていたはずだ、ぜったい。
かわいそうなニュートン。

いや、ニュートンはまだいい。
そんな反応を受けながらも彼は研究に打ちこみニュートン力学を確立して後世に名を残したのだから。

ほんとうにかわいそうなのは、「なぜものは下に落ちるのだろう?」という疑問を持ちながらも「そんなこと考えるひまあったら働け」という声に負けて、研究の道をあきらめた数多くの、そして無名のニュートン予備軍たちだ。
もしも「たしかにふしぎだね。その理由をつきつめてみたらすごい発見につながるかもしれないよ」と言って背中を押してくれる理解者がいれば、彼らのうちの誰かがニュートンになっていたかもしれないのに。

そんな気の毒なニュートンのなりそこない。彼らと同じ道を我が子に歩ませないために、我が子がわざと食卓にお茶をこぼしてぬりひろげているのをぼくは今日もあたたかく見守る。
……でも液体はやめてくれって言ってるだろ!