2019年11月15日金曜日

早く行くのは三文の徳


中学三年生のとき。
部活を引退して、朝練がなくなった。
せっかく早起きする習慣がついたのにそれを捨てるのももったいないとおもい、早朝から学校に行くようにした。
本を読んだり、当時はまっていた漢字能力検定の勉強をしたりしていた。

ぼくが早く来るのを知って、友人Sも早く登校してくるようになった。
まだ誰もいない教室で、くだらない話をしたり、漢字クイズを出しあったりして過ごすようになった。

あるとき、早朝の教室に男性体育教師が怒鳴りこんできた。
「おいおまえらなにしとんねん!」

突然のことにぼくらはびっくりした。
そのときは漢検の問題集を広げていたので戸惑いながらも「えっ、漢字の勉強してるんですけど……」というと、体育教師はきょとんとした顔をした。

「ほんまか……? そっか、まぎらわしいことすんなよ……」
といって、職員室へ帰っていった。
残されたぼくらは顔を見合わせた。なにがまぎらわしいことなんだ?
どうやら体育教師は、ぼくらが早朝の教室で何か悪いことをしているとおもったらしい。
男子中学生というのは非行に走りやすい年頃だ。同級生には隠れて校舎の裏でタバコを吸ったりしている連中がいたので、ぼくらもその手合いだとおもわれたようだ。

その後も体育教師は何度かそっと教室をのぞきにきた。
よほど「誰にも言われないのに早朝から学校にきて勉強する生徒がいる」ということが信じられなかったらしい。



高校に進学してからも早朝に登校する習慣は続いた。
ぼくは野外観察同好会に入った。もちろん朝練はない。けれど朝練をしている野球部やサッカー部よりもずっと早く登校した。早く着きすぎて校門が開いていないこともあった。

早く行ったからといって何をするわけでもない。
まずは机につっぷして少し寝る。
学校に行って寝るのなら家で寝ればいいじゃないかとおもうかもしれないが、誰もいない教室で寝るのが楽しいのだ。おまけに遅刻の心配もないからストレスなく寝られる。
起きたら、本を読んだり、ときどき宿題をしたり、ぼくほどではないが早く登校してくる友人たちとしゃべったり。

そんなふうに朝の時間をのんびり過ごしていただけなのに、ふしぎと教師からは褒められるのだ。
朝、顔を合わせると「今日も早いな。えらいなー」と言われる。早く来て寝ているだけなのに、えらいと言われる。家でやらなかった宿題を学校でやっているだけなのにえらいと言われる。

これが放課後に教室に残っている場合だとこうはいかない。見回りに来た教師から「いつまで残ってんねん。はよ帰れよ」と注意されたりする。
ふしぎなことに、同じことをやっていても、朝だと「感心な生徒」になり、放課後だと「だらしない生徒」の扱いになるのだ。


そのとき学んだことは、社会人になってからも役に立った。
人は、早く来る人のことを「まじめなやつ」と評価するらしい。

三十分残業しても「がんばってるな」とは言われないが(まあぼくがいた会社は長時間が労働があたりまえだったってこともあるけど)、始業時間よりも三十分早く出社すると「まじめだな」と言ってもらえる。
逆に、始業時間一分前に来る社員は「だらしないやつ」というレッテルを貼られたりする。
毎朝一分前に来る人は、いつも同じ時刻に家を出て、少しでも電車が遅れたら走って遅れを取り戻したりして、すごくがんばっているように見える。毎朝ぎりぎりの人のほうがスケジュール管理をきっちりしているのに、だらしないと思われるのだから気の毒だ。

ぼくはだらしないから早めに家を出る。
ぼくからすると「毎朝一分前に来る」よりも「だいたい三十分前に着く」ほうがずっとかんたんだ。何も考えなくていいのだから。

だらしない人は早めに家を出るほうがいいぜ。
時間を気にしながらあわてるぐらいなら、早起きするほうがずっと楽だぜ。


2019年11月14日木曜日

【読書感想文】壊れた蛇口の消滅 / リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』

東京タワー

オカンとボクと、時々、オトン

リリー・フランキー

内容(e-honより)
オカン。ボクの一番大切な人。ボクのために自分の人生を生きた人―。四歳のときにオトンと別居、筑豊の小さな炭鉱町で、ボクとオカンは一緒に暮らした。やがてボクは上京し、東京でボロボロの日々。還暦を過ぎたオカンは、ひとりガンと闘っていた。「東京でまた一緒に住もうか?」。ボクが一番恐れていたことが、ぐるぐる近づいて来る―。大切な人との記憶、喪失の悲しみを綴った傑作。
私小説。
読みながら、けっこう早い段階で「ああこれはオカンの死を描いた小説だな」と気づいた。ぜったい泣かせにくるやつだ、と警戒しながら読む。
はたしてそのとおりの展開になるわけだが(まあ世のオカンはだいたいいつか死ぬ)、わかっていても悲しい。他人のオカンでもオカンの死は悲しい。

考えてみれば、「母親が死ぬ」なんてごくごくあたりまえの話だ。
たいていの人は母親より後に死ぬから、人生において一度は母親の死を経験することになる(二度経験する人はほとんどいない)。
だから「母親が死ぬ」というのは「小学校を卒業する」とか「仕事を辞める」とかと同じように普遍的な出来事だ……なのにどうしてこんなに悲しいんだろう。

いや、ぼくの母親はまだぴんぴんしているから母を亡くした悲しみは味わったことはないんだけど、それでもそのつらさは容易に想像がつく。
「父親が死ぬ」とはまた別格の悲しさだ。
ぼくの父も、父親を亡くしたときは泣いていなかったが母親を亡くしたときは号泣していた。
ぼくからしたら祖母が死んだわけだが、あまり悲しくなかった。まあ順番的にいっておばあちゃんは先に死ぬからな、という気持ちだった。
でも父親に感情移入して「この人はおかあさんを亡くしたのか」と考えていたら泣いてしまった。
「自分の祖母の死」よりも「父親のおかあさんの死」と考えるほうが悲しいのだ。


穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』という本の中で、穂村弘氏がこう書いている。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。

(中略)

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この文章、すごく的確に「母への気持ち」を表しているとおもう。
もちろんすべての母子関係にあてはまるわけはないが、少なくともぼくは、この気持ちに全面的に同意する。

「世界中を敵に回してもぼくは君の味方だよ」という安っぽい言葉があるが、母親の子への愛情に関してはこの安っぽい言葉がぴったりとあてはまる。そして子のほうでもそれを知っている。この人はなにがあっても自分の味方なのだ、と。
リリー・フランキーさんの母親も、まさに「壊れた蛇口」のような人だったのだろう。我が子のためなら自分の人生を犠牲にしてもよい。おそろしいほどの愛情。
しかも信じられないことに、そんなふうに考えている母親がめずらしくないようなのだ(ぼくの母親もそれに近い)。おお怖い。


ぼくには娘がいる。
なにがあっても味方でいたい、とおもっている。娘に命の危険が迫っていたら自分の命を投げだすこともやぶさかではない。たぶん。
でも、娘が殺人犯になったらどうだろうか。それでもぼくは娘の味方でいられるだろうか、と考えると自信がない。糾弾する社会の側につくんじゃないかという気がする。

やはりぼくは母にはなれない。



リリー・フランキー氏のオカンのエピソードを読んでいると、なんとも男前な人だなあと感じる。
 小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。家に帰ってから早速、注意を受けた。
「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
「なんで?」
「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。失礼なんよ、それは」
(中略)
「うちではいいけど。よそではいけん」
「きゅうりのキューちゃんやったんよ」
「なおのこといけん」
ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせないようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカンはあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。
 別府のアパートに来て、オカンは勘づいたらしく、こたつにいるボクの前に座って言った。
「あんた、煙草喫いよるやろ」
「うん.........」。なんでバレたんだろうかと、顔を上げられないでいると、オカンは自分の煙草とライターをボクの目の前に差し出した。
「喫いなさい」
「えっ......?」
「喫うていいけん、喫いなさい」
「オレ、マイルドセブンやないんよ......」
 どぎまぎして席を立ち、机の引き出しに隠したハイライトを出して来て、オカンの前で火をつけて喫った。オカンも煙草を喫いながらボクに話した。
「隠れてコソコソ喫いなさんな。隠れて喫ったら火事を出すばい。火は絶対に出したらいけん。人に迷惑がかかる。男やったら堂々と喫いなさい」
 次の日。オカンは別府の商店街で、会社の重役室に置くようなカットガラスの大きな灰皿を買って来て、こたつの上にどかんと置いた。
このエピソードだけで、ああ、“オカン”は立派な人だったんだなあとおもう。
箸の持ち方が変だったり、高校生が煙草を吸っていたりは気にしない。だけど他人に恥をかかせることや火事を出して他人に迷惑をかけることはぜったいに許さない。
自分を守るためではなく他人を守るためのマナーを徹底して教える。
マナーってそうあるべきだよね。
他人を攻撃するためにマナーをふりかざす人が多いけど、他人を守るためだけにマナーを使うオカン。かっこいいなあ。


オカンもオカンなら、オトンのほうも肝の据わったオヤジだ。
「おう。お母さんから聞いたぞ。就職せんて言いよるらしいやないか」
「うん。せん」
「どうするつもりか?」
「バイトはするけど、とりあえずまだ、なんにもしたくない」
「そうか。それで決めたならええやないか。オマエが決めたようにせえ。そやけどのお。絵を描くにしても、なんにもせんにしても、どんなことも最低五年はかかるんや。いったん始めたら五年はやめたらいかんのや。なんもせんならそれでもええけと、五年はなんもせんようにみい。その間にいろんなことを考えてみい。それも大変なことよ。途中でからやっぱりあん時、就職しとったらよかったねえとか思うようやったら、オマエはプータローの才能さえないっちゅうことやからな」
これ、よその子になら言える男は多いとおもうんだよね。
ぼくだって甥が「仕事したくない」と言いだしたら「そっか。じゃあしばらく遊んで暮らしたらいい」って言える。どっか他人事だから。
しかし自分の子にこれを言えるかというと、ぼくには自信がない。

大した肝っ玉だとはおもうが、このオトンの場合、単に父親としての自覚があんまりなかっただけかもしれんな……。ほとんど息子といっしょに住んでないから……。

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【読書感想文】痛々しいユーモア/ ツチヤ タカユキ『オカンといっしょ』

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』

げに恐ろしきは親の愛情



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2019年11月13日水曜日

【読書感想文】凪小説 / 石井 睦美『ひぐまのキッチン』

ひぐまのキッチン

石井 睦美

内容(e-honより)
「ひぐま」こと樋口まりあは、人見知りの性格が災いし、就活をことごとく失敗した二十三歳。ある日、祖母の紹介で「コメヘン」という食品商社の面接を受ける。大学で学んだ応用化学を生かせる、と意気込むまりあだったが、採用はよもやの社長秘書。そして、初出勤の日に目にしたのはなぜか、山盛りのキャベツだった。

六歳の娘と毎週のように図書館に行って本を借り、毎晩のように読みきかせている。
年間三百冊以上の児童書を読んでいることになるが、それだけの絵本を読んでいるぼくの一押しが、石井睦美『すみれちゃん』シリーズだ。


「これはおもしろい! なんてみずみずしく少女の感覚を表現しているんだ!」と感動して『すみれちゃんは一年生』『すみれちゃんのあついなつ』『すみれちゃんのすてきなプレゼント 』と立て続けに読んだ。どれもおもしろかった。図書館で読んだ本だが、これは買っておいておかねばとおもい購入もした。

妹の誕生、妹との喧嘩、母親に対する不満、友だちとの関係。さまざまな出来事を通して、すみれちゃんの五歳から八歳までの成長を描いている。
同じ年頃の娘や姪がいるのだが、まさにこの時期の女の子ってこんなこと言ってこんな歌つくってこんなことで悩んでるよなあと共感することばかり。
自分が五歳の女の子だったときのことを思いだすようだ。五歳の女の子だったことないけど。



ということで期待しながら、同じ作者の大人向け小説を読んでみたのだが……。

あれ。あれあれあれ。ぜんぜんおもしろくない。
何も起こらない。謎もない。失敗もない。誤解も生じない。裏切りもない。悪意もない。差別もない。不幸もない。
ほんとうに何もない小説なのだ。ただ女性が就職してちょっとずつ仕事に慣れながらときどき料理を作るだけ。なんじゃそりゃ。
めちゃくちゃ文章がうまいとかユーモアがあるとかなら、平凡な日常もおもしろおかしく描けるのかもしれないが、それもない。
「それであの立派なオープンキッチン! すごいですね、吉沢さん」
 と、まりあは言った。
(そしてそれをすんなり聞いちゃう社長って。まるで妻の言いなりになる夫のようではないですか。)
 という部分は、こころのなかで思うだけだ。
「すごいだろ? 奥さんだって言わないようなことをサラッと言っちゃうんだから。でも、同時にそれができたら、いいなと思ったんだよ。なあ樋口くん、人間っていうのはなんでできていると思う?」
(えっ。いきなりなんですか?)
「水と、タンパク質?」
 おそるおそるまりあは答えた。答えながら、ここは食品商社なのだから、食べたものでできていると答えればよかったと後悔し始めていた。
「なるほど。そうきたか。僕はね、記憶でできていると思っているんだ。そう、人間っていうのは記憶なんだよ」
 予想外の答えにまりあは目を白黒させた。もちろん、ほんとうに白黒させたわけではなく、それは比喩だ。実際には、あきらかに大きなまばたきを二度して、米田を見た。
どうよこの説明過剰な文章。
「あ、安藤部長!」
「部長はなしだよ。倉庫番の安藤さん」
「いえ、そんな……」
「じゃあ、ただの安藤さん」
「ただの安藤さんていうのも、ちょっと」
 まりあがそう言うと、一瞬、安藤はキョトンとした。
「そうじゃないよ。呼ぶときはただのはつけないよ」
 安藤に言われて、今度はまりあがキョトンとする番だった。やや遅れて、
「あっ」
 まりあが小さな悲鳴のような声をあげた。
どうよこのそよ風のようなユーモア。

このつまんなさ、どこかで読んだことあるなと考えておもいだした。
『和菓子のアン』だ……。
「どんなクソつまらない本でも一度手にとったら流し読みでいいから最後までは読む」を信条にしているぼくが、「これはアカン……」と途中で原子炉に放りなげてしまった『和菓子のアン』だ(あぶないからマネしないでね)。
上すべりしている毒気のないユーモア、食に関する半端な蘊蓄、どうでもいい話が延々と続く退屈な展開。どれをとっても『和菓子のアン』だ。

しかし『和菓子のアン』もそこそこ売れていたから、こういうのを好きな人もいるんだろうね。朝ドラが好きな人とか。

ぼくの心には波風ひとつ立たなかったなあ。凪。

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娘の知ったかぶり



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2019年11月12日火曜日

「桜を見る会」問題は、民主主義国家と軍事独裁国家の分岐点


なるべく直接的な政治の話をするのは避けていたのだが、さすがにこれは黙っておけん。
というかこれは政治の話じゃない。民主主義が崩壊するって話だ。

桜を見る会問題。
「桜を見る会」を口実に、与党議員の選挙支援者を「功労者」として招待し、税金で飲み食いさせていたという問題。

これまでも現政権はいろんな問題でさんざん非難されていたわけだが、結局なんだかんだと見逃されていた。

その理由はたったひとつ。
「そうはいってもそういう政権を有権者が選ぶから」だ。

どれだけブラックに近いグレーでも、どれだけ自制心がないように見えても、どれだけ身内に甘いように見えても、「選挙になれば勝つ」ことが現政権が延命している理由だった。
「国民に支持された」を唯一の後ろ盾にして、この世の春を謳歌してきたわけだ。

いいかわるいかはべつにして、民主主義的ではある。
ぼくは大阪維新の会を好きじゃないが、大阪府民の多数が維新の会を支持している以上、彼らの政策は甘んじて受け入れるしかないとおもっている。それが民主主義国家に生きるものの責務だから。



ところが「選挙に有利になるよう税金で支援者を接待した」はこれまでとは次元の異なる話だ。

サッカーでいうなら、モリカケは足をひっかけたり服をひっぱったりするプレー。悪質ではあるが審判(有権者)が笛を吹かなければ続行だ。

でも支援者を接待するのは審判に金を渡す行為
ルールに定められた反則じゃない。ルールをぶっ壊す反則だ。
退場どころか永久追放にしないといけない。

審判が買収されてたってことになれば
これまでの「そうはいってもそういう政権を有権者が選ぶのだからしゃあない」も全部ひっくりかえる。
「有権者が選んだ」が不正だったのだから。

だから選挙における不正は、政治の不正とは問題の次元がぜんぜんちがうのだ。


議員は「有権者から選ばれた」というただ一点を根拠に権力が与えられている。
選出方法が不正であれば、当然すべての権力を剥奪しなければならない。
選挙が公正でなかったのだから、政権の正統性を担保するものがひとつもない

内閣総辞職以外の選択肢はありえない。



報道を見ていると、論点があちこちに散らばっているように見える。

金額の多寡や招待客数の話をしてる。
そんなことはまったくもってどうでもいい。
「税金の無駄遣い」の問題じゃないぞ。
選挙支援者に1円でも渡したらアウトなんだよ。額なんか問題じゃない。
「次から改めます」で済ませていい問題じゃない。

政党間の争いの話でもない。
民主主義が崩壊するかどうかって話なんだから政党なんか関係ない。不正選挙があったのであれば与党議員だろうが野党議員だろうが全員追放しなきゃいけない。



疑獄だらけの政権だからみんな麻痺してるけど、これだけは「またか」で済ませたらいけない。

これで内閣総辞職しないなら「選挙で政権交代はぜったいに起こらない国」になる。
なにしろ税金を好きなだけ選挙につぎこめるんだもん。買収し放題なんだもん。負けるわけないじゃん。

「選挙で政権交代が起こらない国」はどうなるか。
「政権交代のためにクーデターを起こす国」になる。
選挙が無効化されるんだもん。政治に不満があるなら軍事行動に訴えるしかなくなる。

ぼくはイヤだよ、クーデターやテロが起こる国に住みたくないよ。

支持政党も関係ない。引き続き自公が政権とったっていい。
でも現政権だけは引きずり降ろさないと「クーデター → クーデターを防ぐために軍事独裁」の国になるんだよ。

このままだと「数ある政治スキャンダルのひとつ」としてフェードアウトしていきそうで、ほんとにこわい。
民主主義が終わるかどうかの瀬戸際なんだよ。みんなわかってる?

2019年11月11日月曜日

【読書感想文】収穫がないことが収穫 / 村上 敦伺・四方 健太郎『世界一蹴の旅』

世界一蹴の旅

サッカーワールドカップ出場32カ国周遊記

村上 敦伺  四方 健太郎

内容(Amazonより)
現地観戦やサッカー協会訪問、選手に突撃取材……南アW杯に出場する32カ国を1年かけて廻ったアシシとヨモケンから成るユニット・Libero。その活動を記した人気ブログ「世界一蹴の旅」が、大幅な加筆修正を経てW杯直前に書籍化!1年に渡る感動と笑撃のサッカーバカによるサッカー外交で、W杯を32倍楽しもう!

某氏との本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

ぼくはサッカーワールドカップだけはちょっと観る。ただしほとんどダイジェストで。
……という程度のにわかですらないサッカーファンだ。

しかしワールドカップはおもしろい。サッカーが好きというより「世界各国が集うお祭り」が好きなのだとおもう。
最先端の中継技術を楽しめることや、喜びかたにそれぞれの国民性があらわれることや、チーム事情に各国の背負っている政治背景が感じられることなどピッチ以外の見どころも多い。

2014年のワールドカップの時期にNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』という番組を放送していた。
ぼくはその番組でボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてユーゴスラヴィアの歴史を知った。その後に見たボスニア・ヘルツェゴビナ代表の試合はすごく楽しめた。
べつにサッカーのことじゃなくても、その国の歴史だとか地理とかがわかるだけでぐっとおもしろくなるのだ。


『世界一蹴の旅』は、サッカーファンの二人が、2010年ワールドカップ出場国32国(日本含む)をめぐった旅行記だ。
短い期間に32ヶ国をまわるということでかなりの駆け足になっているので旅行記としてはものたりないが、これを読んでいるとほんとにそれぞれの国の代表チームに興味が湧いてくるからふしぎだ。2019年の今となっては、とっくに終わった大会なのに。

テレビ局は、いまだに「駅前やパブで浮かれているにわかサッカーファンの声」を垂れながすことが自分たちの仕事だとおもっているが、ちょっと視点を変えるだけでこんなにおもしろいレポートができあがるのだ。

とはいえ、これはこの二人が勝手にやっているからこそおもしろいのであって、テレビとかが入ってきちんとしたレポートになるとつまらなくなりそうな気もする。

「オランダの道路はすごくややこしいからそこで生活しているオランダ人プレイヤーは視野の広いプレーができる」
とか
「アルゼンチン人は遊ぶときはしっかり遊ぶからマラドーナやメッシのように攻守で力の入れ具合の極端に異なるプレースタイルになる」
とか、現地を訪れた一ファンの感想として読む分にはおもしろいけど、公式レポートにしちゃうと「根拠のないいいかげんなことを言うな!」って怒られちゃいそうだもんなあ。



中国から北朝鮮に向かう電車の中で、たまたま乗り合わせた「日本語を専攻していた北朝鮮人」との会話。
対する僕も、北朝鮮人の日常生活や仕事、趣味に関する話などを聞いた。一緒にお酒を飲みながら語り合った中で感じ取れた彼らの考え方や価値観は、元々描いていた北朝鮮の閉鎖的なイメージとはかけ離れており、至極真っ当なものだった。この印象を決定付けた会話がこれだ。「なぜあなたは大学の専攻で日本語を選択したのですか?」と問うと、こんな答えが返ってきたのだ。「隣の国の人と会話できるというのは、人生の財産だと思うんですょ」と。
 彼自身、中国に行き来ができるほどの立場なので、北朝鮮人の中でも比較的グローバルな視点を持った人であることは確かだが、それにしても「日本語は人生の財産」という言葉が北朝鮮人の口から聞けるとは思いもしなかった。
 旅の醍醐味のひとつに、現地にて肌で感じ取った体験を通して、事前に張っていたレッテルを自分自身の手ではがしていくことが挙げられるであろう。今回もまた北朝鮮に対する先入観を自らの手で粉砕することができた。これだから旅は面白い。
へえ。北朝鮮でも日本語を専攻できるんだ。知らなかった。
それってもしかして日本に潜入して諜報活動をする工作員を養成しているのでは……と考えてしまったのはぼくの心が汚れているからですね、そうですね。すみません、魂のふれあいに水をさしてしまって。



いちばんおもしろかったのは、皮肉なことにニュージーランドのレポート。
皮肉というのは、ニュージーランドのレポートにはサッカーの話がまったく出てこないのだ。
ニュージーランドといえば、オールブラックスに代表されるラグビーの国。サッカーがまったく根付いていないのだ。
サッカーコートもサッカーボールを蹴っている人もいなくて、挙句に知り合った人から「サッカーワールドカップじゃなくてラグビーワールドカップの出場国をまわりなさい」と言われる始末……。

サッカーファン的には収穫のない話かもしれないけど、こういうのこそ実際に行ってみないとなかなか感じられない話なのでおもしろい。収穫がないことが収穫だね。


あとアメリカで「サッカーをどうマネタイズするか」みたいな話が出てくるのも、さすがはアメリカという感じでおもしろい。
ヨーロッパの国だったら「フットボールはスピリットを楽しむものだ。金儲けの話ばかりするな!」みたいなことを言われそうなものだけど、アメリカにおけるサッカーは「数あるスポーツのうちのひとつ」なのでドライにビジネスとしての現状を分析している。
プロである以上は金を稼がないといけないわけだし、金を稼げればいい選手が多く集まってくるわけだから、強くするためにもアメリカ的な視点が大事なんだろうね。

日本だと「子どもの野球離れが進んでいる」「この競技をどうやって盛りあげるか」と議論しても「どうやって金を稼ぐか」という話にはなりにくいよね。
「どう魅力を発信していくか」「もっとボランティアの活用を」みたいな声が多数を占めそう。そして衰退してゆく。
やっぱりスポーツは金儲けをしなきゃだめだよね。
ゴルフとかテニスなんかは(一部のプロは)すごく儲かるから、子どものときからやらせるわけだもんね。



「サッカー」という切り口であちこちまわるのはおもしろいね。
こういうワンテーマで掘り下げた旅行記があったらもっと読みたいな。

しかしこの本が物足りないのは、2010年ワールドカップ本選の話がまったく出てこないこと。
ワールドカップ直前に刊行された本なのでしょうがないんだけど、「事前情報では〇〇だったけど本選では××だった」みたいな後日談とあわせて読みたかったなあ……と2019年のぼくとしてはおもってしまう。
わがままな要望だけど。


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2018年FIFAワールドカップの感想



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