2019年11月12日火曜日

「桜を見る会」問題は、民主主義国家と軍事独裁国家の分岐点


なるべく直接的な政治の話をするのは避けていたのだが、さすがにこれは黙っておけん。
というかこれは政治の話じゃない。民主主義が崩壊するって話だ。

桜を見る会問題。
「桜を見る会」を口実に、与党議員の選挙支援者を「功労者」として招待し、税金で飲み食いさせていたという問題。

これまでも現政権はいろんな問題でさんざん非難されていたわけだが、結局なんだかんだと見逃されていた。

その理由はたったひとつ。
「そうはいってもそういう政権を有権者が選ぶから」だ。

どれだけブラックに近いグレーでも、どれだけ自制心がないように見えても、どれだけ身内に甘いように見えても、「選挙になれば勝つ」ことが現政権が延命している理由だった。
「国民に支持された」を唯一の後ろ盾にして、この世の春を謳歌してきたわけだ。

いいかわるいかはべつにして、民主主義的ではある。
ぼくは大阪維新の会を好きじゃないが、大阪府民の多数が維新の会を支持している以上、彼らの政策は甘んじて受け入れるしかないとおもっている。それが民主主義国家に生きるものの責務だから。



ところが「選挙に有利になるよう税金で支援者を接待した」はこれまでとは次元の異なる話だ。

サッカーでいうなら、モリカケは足をひっかけたり服をひっぱったりするプレー。悪質ではあるが審判(有権者)が笛を吹かなければ続行だ。

でも支援者を接待するのは審判に金を渡す行為
ルールに定められた反則じゃない。ルールをぶっ壊す反則だ。
退場どころか永久追放にしないといけない。

審判が買収されてたってことになれば
これまでの「そうはいってもそういう政権を有権者が選ぶのだからしゃあない」も全部ひっくりかえる。
「有権者が選んだ」が不正だったのだから。

だから選挙における不正は、政治の不正とは問題の次元がぜんぜんちがうのだ。


議員は「有権者から選ばれた」というただ一点を根拠に権力が与えられている。
選出方法が不正であれば、当然すべての権力を剥奪しなければならない。
選挙が公正でなかったのだから、政権の正統性を担保するものがひとつもない

内閣総辞職以外の選択肢はありえない。



報道を見ていると、論点があちこちに散らばっているように見える。

金額の多寡や招待客数の話をしてる。
そんなことはまったくもってどうでもいい。
「税金の無駄遣い」の問題じゃないぞ。
選挙支援者に1円でも渡したらアウトなんだよ。額なんか問題じゃない。
「次から改めます」で済ませていい問題じゃない。

政党間の争いの話でもない。
民主主義が崩壊するかどうかって話なんだから政党なんか関係ない。不正選挙があったのであれば与党議員だろうが野党議員だろうが全員追放しなきゃいけない。



疑獄だらけの政権だからみんな麻痺してるけど、これだけは「またか」で済ませたらいけない。

これで内閣総辞職しないなら「選挙で政権交代はぜったいに起こらない国」になる。
なにしろ税金を好きなだけ選挙につぎこめるんだもん。買収し放題なんだもん。負けるわけないじゃん。

「選挙で政権交代が起こらない国」はどうなるか。
「政権交代のためにクーデターを起こす国」になる。
選挙が無効化されるんだもん。政治に不満があるなら軍事行動に訴えるしかなくなる。

ぼくはイヤだよ、クーデターやテロが起こる国に住みたくないよ。

支持政党も関係ない。引き続き自公が政権とったっていい。
でも現政権だけは引きずり降ろさないと「クーデター → クーデターを防ぐために軍事独裁」の国になるんだよ。

このままだと「数ある政治スキャンダルのひとつ」としてフェードアウトしていきそうで、ほんとにこわい。
民主主義が終わるかどうかの瀬戸際なんだよ。みんなわかってる?

2019年11月11日月曜日

【読書感想文】収穫がないことが収穫 / 村上 敦伺・四方 健太郎『世界一蹴の旅』

世界一蹴の旅

サッカーワールドカップ出場32カ国周遊記

村上 敦伺  四方 健太郎

内容(Amazonより)
現地観戦やサッカー協会訪問、選手に突撃取材……南アW杯に出場する32カ国を1年かけて廻ったアシシとヨモケンから成るユニット・Libero。その活動を記した人気ブログ「世界一蹴の旅」が、大幅な加筆修正を経てW杯直前に書籍化!1年に渡る感動と笑撃のサッカーバカによるサッカー外交で、W杯を32倍楽しもう!

某氏との本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

ぼくはサッカーワールドカップだけはちょっと観る。ただしほとんどダイジェストで。
……という程度のにわかですらないサッカーファンだ。

しかしワールドカップはおもしろい。サッカーが好きというより「世界各国が集うお祭り」が好きなのだとおもう。
最先端の中継技術を楽しめることや、喜びかたにそれぞれの国民性があらわれることや、チーム事情に各国の背負っている政治背景が感じられることなどピッチ以外の見どころも多い。

2014年のワールドカップの時期にNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』という番組を放送していた。
ぼくはその番組でボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてユーゴスラヴィアの歴史を知った。その後に見たボスニア・ヘルツェゴビナ代表の試合はすごく楽しめた。
べつにサッカーのことじゃなくても、その国の歴史だとか地理とかがわかるだけでぐっとおもしろくなるのだ。


『世界一蹴の旅』は、サッカーファンの二人が、2010年ワールドカップ出場国32国(日本含む)をめぐった旅行記だ。
短い期間に32ヶ国をまわるということでかなりの駆け足になっているので旅行記としてはものたりないが、これを読んでいるとほんとにそれぞれの国の代表チームに興味が湧いてくるからふしぎだ。2019年の今となっては、とっくに終わった大会なのに。

テレビ局は、いまだに「駅前やパブで浮かれているにわかサッカーファンの声」を垂れながすことが自分たちの仕事だとおもっているが、ちょっと視点を変えるだけでこんなにおもしろいレポートができあがるのだ。

とはいえ、これはこの二人が勝手にやっているからこそおもしろいのであって、テレビとかが入ってきちんとしたレポートになるとつまらなくなりそうな気もする。

「オランダの道路はすごくややこしいからそこで生活しているオランダ人プレイヤーは視野の広いプレーができる」
とか
「アルゼンチン人は遊ぶときはしっかり遊ぶからマラドーナやメッシのように攻守で力の入れ具合の極端に異なるプレースタイルになる」
とか、現地を訪れた一ファンの感想として読む分にはおもしろいけど、公式レポートにしちゃうと「根拠のないいいかげんなことを言うな!」って怒られちゃいそうだもんなあ。



中国から北朝鮮に向かう電車の中で、たまたま乗り合わせた「日本語を専攻していた北朝鮮人」との会話。
対する僕も、北朝鮮人の日常生活や仕事、趣味に関する話などを聞いた。一緒にお酒を飲みながら語り合った中で感じ取れた彼らの考え方や価値観は、元々描いていた北朝鮮の閉鎖的なイメージとはかけ離れており、至極真っ当なものだった。この印象を決定付けた会話がこれだ。「なぜあなたは大学の専攻で日本語を選択したのですか?」と問うと、こんな答えが返ってきたのだ。「隣の国の人と会話できるというのは、人生の財産だと思うんですょ」と。
 彼自身、中国に行き来ができるほどの立場なので、北朝鮮人の中でも比較的グローバルな視点を持った人であることは確かだが、それにしても「日本語は人生の財産」という言葉が北朝鮮人の口から聞けるとは思いもしなかった。
 旅の醍醐味のひとつに、現地にて肌で感じ取った体験を通して、事前に張っていたレッテルを自分自身の手ではがしていくことが挙げられるであろう。今回もまた北朝鮮に対する先入観を自らの手で粉砕することができた。これだから旅は面白い。
へえ。北朝鮮でも日本語を専攻できるんだ。知らなかった。
それってもしかして日本に潜入して諜報活動をする工作員を養成しているのでは……と考えてしまったのはぼくの心が汚れているからですね、そうですね。すみません、魂のふれあいに水をさしてしまって。



いちばんおもしろかったのは、皮肉なことにニュージーランドのレポート。
皮肉というのは、ニュージーランドのレポートにはサッカーの話がまったく出てこないのだ。
ニュージーランドといえば、オールブラックスに代表されるラグビーの国。サッカーがまったく根付いていないのだ。
サッカーコートもサッカーボールを蹴っている人もいなくて、挙句に知り合った人から「サッカーワールドカップじゃなくてラグビーワールドカップの出場国をまわりなさい」と言われる始末……。

サッカーファン的には収穫のない話かもしれないけど、こういうのこそ実際に行ってみないとなかなか感じられない話なのでおもしろい。収穫がないことが収穫だね。


あとアメリカで「サッカーをどうマネタイズするか」みたいな話が出てくるのも、さすがはアメリカという感じでおもしろい。
ヨーロッパの国だったら「フットボールはスピリットを楽しむものだ。金儲けの話ばかりするな!」みたいなことを言われそうなものだけど、アメリカにおけるサッカーは「数あるスポーツのうちのひとつ」なのでドライにビジネスとしての現状を分析している。
プロである以上は金を稼がないといけないわけだし、金を稼げればいい選手が多く集まってくるわけだから、強くするためにもアメリカ的な視点が大事なんだろうね。

日本だと「子どもの野球離れが進んでいる」「この競技をどうやって盛りあげるか」と議論しても「どうやって金を稼ぐか」という話にはなりにくいよね。
「どう魅力を発信していくか」「もっとボランティアの活用を」みたいな声が多数を占めそう。そして衰退してゆく。
やっぱりスポーツは金儲けをしなきゃだめだよね。
ゴルフとかテニスなんかは(一部のプロは)すごく儲かるから、子どものときからやらせるわけだもんね。



「サッカー」という切り口であちこちまわるのはおもしろいね。
こういうワンテーマで掘り下げた旅行記があったらもっと読みたいな。

しかしこの本が物足りないのは、2010年ワールドカップ本選の話がまったく出てこないこと。
ワールドカップ直前に刊行された本なのでしょうがないんだけど、「事前情報では〇〇だったけど本選では××だった」みたいな後日談とあわせて読みたかったなあ……と2019年のぼくとしてはおもってしまう。
わがままな要望だけど。


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【読書感想エッセイ】 木村 元彦 『オシムの言葉』

2018年FIFAワールドカップの感想



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2019年11月8日金曜日

強盗と痴女


以前、こんな話を聞いた。

道で強盗や不審者に遭遇したとき「強盗だ!」と叫んでも誰も出てきてくれない。身の危険を感じるから。
だから「火事だ!」と叫ぶとよい。火事なら、家にいると危険なのでみんな出てきてくれるから。

と。
それを聞いたときはなるほどいい方法だと感心したのだが、改めて考えるとそれってほんとにいい方法なんだろうか。


「火事だ!」という声を聞いた母親が、あわてて3歳の娘と0歳の息子を連れて外に飛びだしてくる。
だがそこには刃物を持った強盗。あわれ罪のない親子は、動転した強盗の凶刃に倒れ……。

という可能性もある。

その場合、もちろんいちばん悪いのは刺した強盗だが、「火事だ!」と嘘をついて無関係な市民を巻き添えにした人間は「いやぼくも被害者なんで」で済まされるだろうか。

刑法には「緊急避難(第37条)」という条項があり、
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
とある。

この考えでいくと、"避けようとした害"は「強盗に金品を奪われる」であり、"生じた害"は「母子が刺される」なので明らかに後者のほうが程度が大きい。
なので罰の対象にはなるがある程度は軽減される、ということになる(だよね? 法律の専門家じゃないので責任は負いません)。

まあ軽減されるとはいえやっぱり罪にはなるみたいなので、やっぱり嘘はよくないよね。
自分の嘘のせいで罪のない人が殺されたら寝覚めが悪いし。

だから強盗に遭遇したときは
「火事だ!」じゃなくて
「痴女が出た!」と叫んで、下心丸出しで外に飛びでてきた男の人に助けてもらうのがいいんじゃないでしょうかね。
それなら万が一その人が刺されてもそれほど心が痛まないし。

2019年11月7日木曜日

のび太が心配


のび太が心配だ。

最近、娘がドラえもんの漫画やアニメを観るようになったので、ぼくもまた『ドラえもん』を読むようになった。

のび太はテストでたびたび0点をとる。
名前を書き忘れたから0点にされた、とか、学校教育のあり方に対して抗議をするためにあえて白紙で提出した、とかではなく一応問題にまじめに取り組んだ結果として0点をとる。
先日見たアニメでも2点をとっていた。

小学四年生のテストだから「直前に習ったこと」が出題されているはずだ。
そこそこ授業を聞いてそこそこ理解していれば70点ぐらいはとれるはず。
だからのび太が0点とか2点とかをとるのは、計算ミスをするとか、暗記が苦手とかが原因ではなく、そもそも「授業で先生が言っていることや教科書に書かれていることがなにひとつ理解できていない」のだ。

たぶんのび太にとって学校の授業は、まったく知らない外国語を聞かされているのと変わらないぐらいちんぷんかんぷんなのだろうと想像する。


まっさきに疑うのは知的障害や発達障害だが、ふだんの言動を見るかぎりでは重大な障害を抱えていなさそうだ(さして夜更かしをしているようにも見えないのに居眠りしすぎなので睡眠障害の可能性はある)。

ドラえもんや出木杉くんの難解な話にもついていけるし、漫画をよく読んでいるから読解力が極端に低いわけでもなさそう。

ではのび太はなぜ勉強ができないのだろうか。
それは「勉強のしかたを知らない」からだとおもう。

のび太は四年生よりずっと前の段階で授業についていけなくなっている。
たぶん一年生。
基礎がまったくできていない。漢字が読めない、四則計算ができない、かんたんな文章の意味がわからない。
だから四年生のテストで0点をとる。まちがえるとか難しくて解けないとかではなく、「何が問われているのかさっぱりわからない」のだ。

たぶんのび太にとって四年生のテストの問題文は
「sin θ + cos θ =1/2のとき、sin θ cos θの値を求めよ」
と訊かれているのと同じぐらい、意味がわからないはずだ。


問題の原因が数年前にあることにのび太自身が気づけるわけがない。九九の重要性に気づけるのは、九九を理解できる人間だけだ。

だから大人がちゃんと指導してやる必要がある。問題はどこにあるのか、何から手を付ければいいのか。

なのにのび太の周りにはちゃんとした大人がいない。
先生もママも「勉強しなさい」「宿題はやったの?」としか言わない。
未来から来たロボットはえらそうに講釈は垂れるくせに、肝心の勉強の方法は教えてくれない。

のび太は勉強したくても何をやったらいいのかわからないのだ。
ときどきのび太が一念発起して「勉強するぞ!」と机に向かうシーンがある。
でもすぐにあきらめる。そりゃそうだろう、九九ができない人間がいくらやる気になったところで分数の問題が解けるはずがない。やる気の問題じゃない。

70点をとる子は勉強時間を増やせば90点をとれるようになるだろうが、0点をとる子が自分ひとりでどれだけ勉強しても70点をとれるようにはならない。


のび太がかわいそうだ。
勉強できないのはのび太のせいじゃない。たしかにのび太はなまけものだ。だがなまけものでない小学生がどこにいるだろうか。なまけるのはあたりまえだ。
それにのび太は、興味のあることに対してはたいへんな熱意を見せる。正しい勉強の方法、勉強のおもしろさを教えてやればめきめき伸びる可能性が高い。

のび太が勉強できないのは100%指導者の責任だ。ママやパパや先生が悪い。セワシはドラえもんよりもまともな家庭教師を未来から派遣したほうがよかった。

『ドラえもん』には「テストで悪い点をとったのび太にママがお説教をする」というシーンがよく登場する。
ママとのび太が正座して向かいあっているシーンだ。

ぼくから言わせると、あれがもうまちがいだ。
あれはただ感情的に怒っているだけで指導ではない。
ほんとうに指導しようとおもったら、ママとのび太が向かいあうわけがない。隣に並んで机に向かい、答案用紙を広げながら「なぜ間違えたのか」「この問題を解くためには何を身につけなければならないのか」を確認する必要がある。

なのにママはテストの点数しか見ていない。
取り組む姿勢も、どういう問題を間違えたのかも、のび太がどうして間違えたのかも、まるで見ようとしていない。たぶんママもまた勉強のやりかたがわからない子どもだったのだろう。
のび太が「テストの答案を隠そう」という方向に向かうのも当然だ。結果だけを問われるのであれば、答案を隠して結果をなかったことにするのが最善の方法なのだから。

のび太が0点の答案を隠すのはのび太からママに向けたメッセージなのだ。
結果だけを求めないで、ぼくは勉強のしかたがわからないだけなんだよ、というメッセージ。
そのメッセージに早く気づいてあげてほしい。

それかドラえもんがタイムマシンで向かう先を「小学一年生ののび太の机の引き出し」にしてあげてほしい。


2019年11月6日水曜日

三手の読み


娘(六歳)とどうぶつしょうぎ。

娘はとにかく弱い。そりゃ子どもだから弱いのはあたりまえなんだけど、それにしたってひどい。
どんどん駒を献上してくれる。

ぼくはライオン(王将)のみ、娘はライオンとキリン2枚とゾウ2枚とヒヨコ2枚、なんてハンデ戦でやってもぼくが勝つ。

娘の指し方は、「ここに進める! 進もう!」みたいなやりかたなのだ。
「複数ある可能性の中から最善手を選択するゲーム」だと理解していない。
じゃんけんのように「やってみなきゃわからない」タイプのゲームだとおもっている。

ということで、一言だけアドバイスをした。
娘が悪手を指したときに「そうしたら次におとうさんがどうするとおもう?」と訊いてみることにした。

この一言で、娘の指し方は大きく変わった。
「えっと……、あっ、とられる。やめとこ」
と気づいて、べつの手を指す。
これを何度かやっているうちに「次におとうさんがどうするとおもう?」と訊かなくても、じっくり考えてから指すようになった。

キリンゾウ落ち、ぐらいのハンデ戦だと三回に一回ぐらいは娘がぼくに勝つようになってきた。
娘が先を読めるようになったのは、ニコリのパズルをやって論理的思考力がついたおかげもあるとおもう。
ぐんぐん強くなった。

そして、ときどき勝てるようになると目の色が変わった。
勝つと「どうぶつしょうぎおもしろい!」と言って、何度も勝負を挑んでくる。
今までは負けても「まいりましたー」とへらへらしていたのに、「……………………まいりました(小声)」と悔しさをにじませるようになった。
負けるのが悔しくなるぐらい真剣に向き合うようになったんだなあ、と感動してしまった。


将棋の世界に「三手の読み」という言葉がある。
一流のプロ棋士でも、三手の読みが重要だと語る人は多い。
ずぶの素人と中級者を分けるのは「三手の読み」だ。三手読めなければ勝つかどうかは運任せになってしまう。三手先が読めれば自然に五手、七手を読めるようになる。

将棋にかぎらず、三手先が読めるだけでいろんなゲームが強くなる。
ゲームだけではない。対人交渉でも「これを提案して、Aと返されたらA'と答えよう。Bと言われたらB'と返そう」と想定しておくだけで、優位に話を進められるようになる。


どうぶつしょうぎが「三手の読み」を学ばせてくれた。
すごいぞどうぶつしょうぎ。

「よっしゃ、じゃあふつうの将棋もやってみよう!」ということで将棋盤を買ってきたのだが、さすがに「むずかしい……」と言われてしまった。

駒の種類が多いので動かし方をおぼえるのに時間がかかるかな? とおもっていたのだが、そのへんはさすがこどもの吸収力、あっさりおぼえた。
むずかしいのは駒の見分け方らしい。漢字が読めないので、金と銀、桂馬と香車とかの区別がつきにくいのだ。

ま、そこは慣れて形で覚えるしかないよね。
大人でも龍とか馬とか読めないしな。



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