2019年10月7日月曜日

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

超予測力

不確実な時代の先を読む10カ条

フィリップ・E・テトロック (著) ダン・ガードナー (著)
土方 奈美 (訳)

内容(e-honより)
「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果で注目を浴びた本書の著者テトロックは、一方で実際に卓越した成績をおさめる「超予測者」が存在することも知り、その力の源泉を探るプロジェクトを開始した。その結果見えてきた鉄壁の10カ条とは…政治からビジネスまであらゆる局面で鍵を握る予測スキルの実態と、高い未来予測力の秘密を、米国防総省の情報機関も注目するリサーチプログラムの主催者自らが、行動経済学などを援用して説く。“ウォール・ストリート・ジャーナル”“エコノミスト”“ハーバードビジネスレビュー”がこぞって絶賛し、「人間の意思決定に関する、『ファスト&スロー』以来最良の解説書」とも評される全米ベストセラー。

おもしろかった!
仕事、投資、政治、軍事、趣味その他いろんなことに使えそうな知見がぎっしり。

この本のテーマは「予測」だ。
著者は多くのボランティアを集め、大規模な予測実験をした。
「北朝鮮は三年以内に韓国に軍事攻撃をしかけるか?」といった近未来に関する問いをいくつも用意し、回答者たちは「その可能性は30%」などと予測する(途中で変更してもよい)。

「Yes/No」で答えられる質問ばかりなので、チンパンジーがやっても50%は正解する。
大半の予測者の成績はサルと大差なかった。
だが、その中に明らかに高い正解率を出した人たちがいた。研究機関の専門家よりも正解率が高かったのだ。
著者は彼らを「超予測者」と呼び、重ねて実験をした。すると超予測者の多くは続いてのテストでも高い成績を出した。

超予測者とはどういう人たちなのか?
彼らにはどんなやりかたで高いスコアをたたきだしているのだろうか?
そして我々が彼らのような高い予測力を身につけることは可能なのだろうか?

……という本。
わくわくする内容だった。



「超予測者」というと百発百中で未来の出来事を言い当てる超能力者みたいな人を予想するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
彼らもまちがえる。ふつうの人が50%まちがえる問題を、彼らは30%とか40%とかまちがえる。

なーんだそんなもんかとおもうかもしれないが、このちがいが大きい。
ルーレットで赤と黒が出るかを60%の確率で的中させることができれば確実に大金持ちになる。

超予測者自身も、重要なのはわずかな違いであることをを知っている。
100%は不可能。50%を60%にする、60%を61%にする。そのために学び続けられる人が超予測者になる資格を持っている。

つまり、予測の精度を上げるためには「自分はまちがっているのでは?」という反省を常にしつづけることが重要だということだ。

「おれは正しい! まちがってるはずがない!」って人はまちがえる。「私は誤っているかもしれない」という人が正解に近づける。皮肉にも。
 ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメートに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。「自分自身によるフィードバックとでも言おうか。『自分はこれに賛成するのか』『論理に穴はないか』『別の追加情報を探すべきか』『これが他人の意見だったら説得されるか』といった具合に」
 これは非常に賢明なやり方だ。研究では、被験者に「最初の予測が誤っていたと思ってほしい、その理由を真剣に考えてほしい、それからもう一度予測を立ててほしい」と要求するだけで、一度めの予測を踏まえた二度めの予測は他の人の意見を参考にしたときと同じくらい改善することがわかっている。一度めの予測を立てたあと、数週間経ってからもう一度予測を立ててもらうだけでも同じ効果がある。この方法は「群衆の英知」を参考にしていることから「内なる英知」と呼ばれる。大富豪の投資家ジョージ・ソロスはまさにその実例だ。自分が成功した大きな理由は、自らの判断と距離を置いて再検討し、別の見方を考える習慣があるためだと語っている。

知的謙虚さのほかに、超予測力のためには思考の柔軟さも必要であるとしている。

 ではなぜ二つめのグループは一つめのグループより良い結果を出せたのか。博士号を持っていたとか、機密情報を利用できたといったことではない。「何を考えたか」、つまりリベラルか保守派か、楽観主義者か悲観主義者かといったことも関係ない。決定的な要因は彼らが「どう考えたか」だ。
 一つめのグループは自らの「思想信条」を中心にモノを考える傾向があった。ただ、どのような思想信条が正しいか、正しくないかについて、彼らのあいだに意見の一致はなかった。環境悲観論者(「ありとあらゆる資源が枯渇しつつある」)もいれば、資源はふんだんにあると主張する者(「ありとあらゆるものにはコストの低い代替品が見つかるはずだ」)もいた。社会主義者(国家による経済統制を支持する者)もいれば、自由市場原理主義者(規制は最小限にとどめるべきだと主張する者)もいた。思想的にはバラバラであったが、モノの考え方が思想本位であるという点において彼らは一致していた。
 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

なんていうか、世間で大きな声で何かを叫んでいるのって柔軟とは真逆な人たちだよね。

政治家や評論家やアナリストとかが「これからこうなる!」って叫んでるけど、この人たちのありかたは「謙虚」「柔軟」とは正反対に見える。
自分の正しさを疑うことなく、思想信条に基づいて、新たな情報の価値を低く見る。

当然彼らの予測はあまり当たらない。チンパンジー並みの成績しか出せない(逆にいうとどんなバカの予想でもチンパンジー程度には当たってしまう)。
予測が外れてもろくに検証されずに「私は元々こうなるとおもっていた」という後出しじゃんけんの一言で済ませてしまう。
あるいは「こんな悪いことになったのは私の言うとおりにしなかったからだ!」「おもっていた以上に良い結果になったのは私ががんばったからだ!」と己の手柄に持っていくか。

これは、チンパンジー並みの正答率しか出せない政治家や評論家が悪いというよりも、そういう人の発言に耳を傾けてしまう我々が悪いよね。
だってみんなはっきりものをいう人が好きなんだもん。
「Aの可能性もあるしBが起こる可能性も捨てがたい。もちろんCが起こる可能性もゼロではないので備えを欠いてはいけない……」
という人より
「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」
って人の発言のほうをおもしろがってしまう。

だけどおもしろいからってチンパンジー並みの政治家を持てはやしちゃだめだ。それだったらまだタコにワールドカップの勝敗予想をさせるほうがマシだ(古い話だな)。



予測精度を上げるためには、検証が欠かせない。
 コクランが例に挙げたのは、サッチャー政権が実施した若年犯罪者に対する「短期の激しいショック療法」、すなわち短期間、厳格なルールの支配するスパルタ的な刑務所に収容するという手法である。それは効果的だったのか。政府がこの政策を一気に司法制度全体に広げたため、この問いに答えるのは不可能になってしまった。この政策が実施されて犯罪率が下がったら、それは政策が有効だったためかもしれないが、他にも考えられる理由は何百通りもある。反対に犯罪率が上昇した場合、それは政策が無益あるいはむしろ有害だったためかもしれないし、逆にこの政策が実施されなければ犯罪率はさらに高くなっていたかもしれない。当然政治家はどちらの立場もとる。与党は政策は有効だったと言い、野党は失敗だったと言うだろう。だが本当のところは誰にもわからない。政治家も暗闇で虹の色を議論しているようなものだ。
「政府がこの政策について無作為化比較試験を実施していれば、今頃はその真価がわかり、われわれの理解も深まっていたはずだ」とコクランは指摘する。だが政府はそうしなかった。政策は期待どおりの成果を発揮すると思い込んでいたのだ。医学界の暗黒時代が何千年も続く原因となった無知と過信の弊害がここにも見られる。
これはイギリスの話だが、日本の政治もほとんどが検証されていないようにおもう。

本来なら、政策導入前に「これを実施することによって〇〇の効果が見込めます。□□年までに××、□□年までに××の効果が得られなければ効果はなかったものとして中止します」といった検証プロセスを設定するべきだ。
(ちなみにぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、Webマーケティングの世界ではこれはやってあたりまえのことで、やっているからといって誇るようなことではない)

残念ながらぼくは寡聞にして、政治の世界においてこのようなプロセスが公表されているのを聞いたことがない(仮にやっていたとしても公表しなければ意味がない。なんとでもごまかせてしまうのだから)。

もちろん政治においては数値で検証不可能なことも多い。人々の幸福度を上げるのが目的であればどうやったって恣意的になるし、結果が出るまでに十年以上かかるような政策もざらだ。
でも、仮目標として指標を定めるなり、スモールゴールを設定するなり、やろうとおもえばできることはいくらでもある。
それをしないのは、「失敗を認めたくない人間」ばかりが政策立案をしているせいなのだろう。

さっきの例でいうと「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」っていうタイプ。言い換えると、チンパンジータイプ。


これはもう根本的に制度が誤っているんだろうね。
まちがえた人間を失脚させて、まちがえなかった人間を引き上げる制度にしていると、まちがいが減るかというとそんなことはない。
「まちがいを認めない人間」「まちがいをごまかす人間」ばかりになってしまう。そして予測精度は0.1%も改善しない。

改めるには、「まちがいを発見した人間(己のまちがいも含む)」に褒章を与えるような制度にしないといけないんだけどなあ。



この他にも、かつてドイツ軍が強かったのは「予測がはずれる前提で作戦を立てていた」からだとか、おもしろいエピソードがたくさん。

重要な意思決定に携わる人間は全員読むべき本だね。チンパンジーのままでいいならべつだけど。


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2019年10月4日金曜日

【読書感想文】設定の奇抜さ重視なのかな / 田丸 雅智『ショートショート 千夜一夜』

ショートショート 千夜一夜

田丸 雅智

内容(e-honより)
多魔坂神社のお祭りの夜、集うのは妖しの屋台と奇妙な人々…。欲しいと念じたものが出てくるヒモくじ屋。現れたゴロツキどもが引いたヒモの先には(「ヒモくじ屋」)、夜店ですくった人魚がみるみるうちに成長して(「人魚すくい」)、モデルにスカウトされたエリカが突然行方不明に(「ラムネーゼ」)、降り注ぐ優しい雨を、自分のものにする方法(「雨ドーム」)他、珠玉のショートショート全20編。いちどページを開いたら止まらない!わずか5分間の物語が、あなたを魅惑と幻想の世界へと誘います。巻末には、しりあがり寿さん描き下ろし「あとがきの夜」も特別収録。

神社のお祭りの夜をテーマにしたショートショート集。
全篇が「多魔坂神社のお祭り」に関係するという設定はおもしろい。神社のお祭りってあちこちでふしぎなことが起こってそうな気がするもんなあ。

ショートショートというと、どうしても星新一と比べてしまう。
死後二十年たってるのにまだ星新一とか言ってるのかよとかおもうかもしれないけど、ぼくにとっては神様みたいな人で物語の楽しみを教えてくれた人だから、どうしたって「星新一と比べてどうか」という目で読んでしまう。

ショートショートとは何かという質問に対しては、ぼくは短さ以上に「切れ味の鋭いオチ」が重要だと答える。
以下に意外性を見せるか、読者をだますか、余韻を残すかがショートショートに欠かせないものだと。

その基準でいくと、この『ショートショート 千夜一夜』はものたりなかった。
奇抜な設定はおもしろくて、起承転結の起承までは申し分ないのに、最後の最後で期待を下まわってくる。ハードルを上げて上げて、最後にハードルの下をくぐってくるというか。えっ、なにそのおもってたよりしょぼいオチ。悪い意味でだまされた気分。

まあショートショートに求めるものがちがうんだろうね。
この作者は、たぶん設定の奇抜さを重視しているんだろう。
大喜利のお題にいかに切れ味よく回答するかより、いかに独創的ないいお題を出すかに力を入れているというか。


しかしそんな中で『ストライプ』は設定もオチも秀逸だった。
ストライプのシャツの中から男の声がする、まるでストライプ模様が檻のようになって出られないようだ……という導入から、丁寧な話運びに「シャツ」「檻」を活かした鮮やかなオチ。
そうそう、ぼくがショートショートに求めるのはこれなんだよね!


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2019年10月3日木曜日

【読書感想文】計画殺人に向かない都市は? / 上野 正彦『死体は知っている』

死体は知っている

上野 正彦

内容(e-honより)
ゲーテの臨終の言葉を法医学的に検証し、死因追究のためとはいえ葬式を途中で止め、乾いた田んぼでの溺死事件に頭を悩ませ、バラバラ殺人やめった刺し殺人の加害者心理に迫る…。監察医経験三十年、検死した変死体が二万という著者が、声なき死者の声を聞き取り、その人権を護り続けた貴重な記録。

元監察医によるエッセイ集。あと小説もちょっと(たぶん実話をそのまま書くのはプライバシー的にまずいので事実に若干手をくわえて小説にしたんだろう)。

監察医とは、変死があったときに解剖をして不審な点がないかを調べる医師のことだそうだ。
「変死」と聞くとついつい「奇妙な恰好をした死体が姿を現した」という横溝正史世界的な死に方を想像してしまうが、医師が病死であると明確に判断したもの以外の死は法律的にはすべて「変死」という扱いになるそうだ。
だから交通事故死も自殺も変死になるし、自宅で心臓発作を起こして死んだなんて場合も変死扱いになるそうだ。
日本で死ぬ人の10~20%ぐらいは「変死」だそうで、だからそんなにめずらしいものではない。

「朝起こしに行ったら死んでいた」とか「風呂場で心臓発作を起こしたらしく死んでいた」なんてのはよく聞く話だ。
もちろんその大多数は病死なんだけど、ごくまれに「家族が殺して病死に見せかけた」というケースもあるそうだ。

で、解剖をしてそれを暴くのが監察医の仕事。
検死のプロである監察医が「病死にしては不自然な点がある」と判断すれば、そこから警察が捜査を開始するわけだ。

そういやこの前、テレビで「死体農場」というものを見た。
アメリカにある実験施設で、死体を様々な環境に放置して、死後どんな変化が起こるのかを観察するための施設だそうだ。
温度や湿度などを変えて死体の腐敗進行度合いを見ることで、犯罪事件の捜査に役立てるのだという。


日本ではそこまでのことはできないだろうが、監察医は死体に関する知識を多く持っているから、殺人事件の捜査には大いに貢献してくれる。
 臨死体著者の話を聞いたことがあるが、その人の場合は、かなり以前に死んだおじいさんが現われて、遠くの方からこっちへ来いと手招いていたが、行かなかった。もしもその通りにしていたら、自分は死んでしまったのかもしれないといっていた。
 私には臨死体験はないが、そのような現象があるならば、死に近づいたために心不全や血圧の低下の状態が起き、脳の血液循環不全のために幻想が出現したのではないかなどと、私は考えてしまう。その意味では、ゲーテが死ぬ前に残した有名な言葉「もっと光を!」は納得のいく言葉だと思っている。
 いまわの際の一言が、こうして現代までいい伝えられているのは、ゲーテという偉大な詩人の言葉であったからであろうし、とらえる側も言葉の中にゲーテを意識し、すばらしくふくらんだイメージを抱いて味わっているためでもあろう。
 だが、解剖生理学的に考察してみると、死が近づくと少なからず心不全、呼吸不全、脳機能不全などが生じ、神経系統の反応は鈍くなり、思考力も視力も衰える。体温も低下し、筋肉の緊張もゆるんでくる。
 バレーボールのような球形をしている眼球も、神経が麻痺すると緊張がゆるみ、たとえばラグビーのボールのような形に歪みが生じてくるのではないだろうか。そうなると正常時の焦点はズレて正しい像を網膜に結ばなくなる。
 脳機能の低下と焦点のズレなどから、明るさを感ずる力も弱くなるため、死期が近づくと、目の前が暗くなり、ものが見えにくくなる。

ふつうの医師は生きている人たちの病気を診るのが仕事だけど、監察医は死体を調べるのが仕事。同じ医師の資格を持っていても、相手はまったくちがう。

犯罪を見逃さないためには欠かせないポジションだね。

……とおもったら、この監察医制度があるのは全国で五都市だけ(東京23区・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)だそうだ。
じゃあその他の地域はどうしているのかというと、監察医ではなく、そのへんのお医者さんが呼ばれて調べるのだそうだ。近所の内科クリニックのお医者さんが検死をしたりするのだとか。

専門医が見れば「死後この時間でこうなっているのはおかしい」とか「自殺でこんな痕がつくはずがない」とか気づくようなことでも、一般の医師なら見逃してしまうこともよくあるだろう。

たぶん、「自殺や事故に見せかけた殺人」が見過ごされることもよくあるんだろうな。

ということで、もしも計画殺人をするなら監察医制度のある五都市以外でやるのがオススメだぜ!


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2019年10月2日水曜日

燃える金属バット


「猿としたらエイズ」「黒人とかな」 吉本芸人のネタにHIV陽性者ら批判「差別を強化」
「猿とエッチしたらエイズになるわ」「黒人とかな」――。
吉本興業所属のお笑いコンビ「金属バット」のこんな発言を収めたネタ動画が、YouTube上で84万回以上、再生されている。
HIV陽性者の団体や支援団体は「ショックというよりも呆れた」「差別や誤解を強化するのはやめてほしい」などと批判している。
金属バットという漫才コンビのネタが炎上しているらしい。

少し前にAマッソというコンビのネタ中の発言が差別的だとして炎上し、それが飛び火してきたようだ。
きっと「どっか他にも差別的な発言してる芸人がいるんじゃねえか」と血眼になって探してきたやつがいたんだろう。ごくろうなこった。

(ちなみにAマッソの発言についてはここでは触れない。なぜならぼくがそのネタを観ていないから。ネタ全部を観ずに、ある発言がどういう意図で発せられたものかを判断できるわけがない)


この記事を読んだぼくの感想は、
あーあ、ばかに見つかっちゃったな。
だ。

まず、ぼくは金属バットが好きなのでどうしても彼らに肩入れしてしまうことをあらかじめ断っておく。
このネタも何年か前にYouTubeで観て、爆笑した。
(もっぱらYouTubeで観るだけなのでぜんぜんお金落としてないのよ。ごめんね。でもDVD出してくれたら買うよ)


でもまあ、たしかにいろいろとまずい発言の多いネタだ。
こうやって一部を切り取られたら勝ち目はないだろうなとおもう。

彼らの最大の落ち度は「(誰がYouTubeにアップロードしたのか知らないが)削除申請をしなかった」ことだとおもう。
(しかしYouTubeにアップしていなければぼくは観られなかったので感謝している)

しかしなあ。
わざわざ動画を観にいって、あるいは動画を観ることもせずに非難している人を見ると、そりゃあ世界から差別はなくならないな、とおもう。
差別大好きすぎるだろ。


いきなりで申し訳ないが、ぼくは男同士の性的な接触を気持ち悪いとおもう。
なにかの拍子にその手の画像や映像を観てしまったことがあるが、とっさに「気持ちわるっ!」とおもった。それはもう反射的に。ごめんね。

でも、そういうのを求めている人がいることも理解している。ゲイの人たちがプライベートな空間でそういう行為をすることまで否定しない。
もしも、ふつうの銭湯に行って男同士でいちゃついているのを見たら「おい公共の場でなにやっとんねん。やめろや」とおもう(男と女でもおもう)。
でもゲイバーとかでいちゃつくのはどうぞご勝手に、だ(そういう場なのか知らないが)。ぼくには関係のない場所だからね。

わざわざ非難するために漫才動画を観る(あるいはその書き起こし記事を読む)人は、ゲイバーに乗りこんでいって「おい! 不愉快だからやめろ!」というようなもんだ。おまえが不愉快なんだよ。


上にリンクを貼った記事の中にNPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」の代表が出てくるが、まあこの人が当事者として憤りを感じるのは仕方ないとおもう。つくづく同情する。
もしこの人がたまたまおもしろい漫才を探してこの漫才を目にしたのであれば、金属バットに怒りをおぼえるのは無理がない。

でも
こんなことを言ってる輩がいますぜ! ねえ、当事者としてどうおもいます? イヤな気持ちになったでしょ? それを記事にしたいんでコメントくださいよゲヘヘ
とわざわざ教えに来たやつがいたのだとしたら、怒りはそいつに向けたほうがいい。金属バットが俗悪でないとは言わないが、そのゲヘヘのほうが百倍俗悪だからだ(しかも己の邪悪さに気づいていない可能性が高い)。



ところで、批判コメントを読んでいると、どうも漫才の構造を理解できていない人が多いんじゃないかとおもった。

漫才の古典ギャグとしてこういうやりとりがある。
「今日のお客さんはべっぴんさんはべっぴんさんぞろいやねえ。端からべっぴんさん、べっぴんさん、ひとつ飛ばしてべっぴんさん」
「失礼やないか!」

もはや人口に膾炙されすぎてパロディ元にしかならないギャグだが、漫才をはじめて見る小学六年生の前でやったら今でもそこそこウケるだろう。

でも、これを小学一年生の前でやったらウケないとおもう。
「君かわいいね、隣の君もかわいいね、ひとり飛ばして、その隣の君もかわいいね」
と言ったら、一年生たちは当惑してしまうんじゃないだろうか。このおじさんたちはどうしていきなりひとりだけばかにするんだろう、と。

でも六年生にはわかる。
おかしいのは「飛ばされたひとり」ではなく「飛ばした漫才師」のほうであると。
その構造が理解できる。だから笑う。
「あの漫才師は客の容姿が悪いことをばかにして嘲笑した!」とはおもわない。


金属バットの漫才も同じだ。
金属バットの漫才で笑う観客は、三倉佳奈やHIV患者をバカにして笑っているのではない。
「偏見に満ちてむちゃくちゃなことを言う小林(坊主のほう)」を笑っているのだ。

もしも「三倉佳奈はエイズ患者だ」「HIV患者は獣姦や黒人とのセックスをしたせいだ」と信じている人がいたら、その人は金属バットの漫才では笑えないだろう。だってその人にとっては小林の言っていることは至極まっとうなことなのだから。

「私はお2人のネタの露悪的手法よりも、それを聴いて観客が笑っているということに、より絶望を覚えます。いまだに、エイズに対して、蔑んだりバカにされて当然のものだと内心思っている人がいるんだなと」
上記のNPO法人代表はこう発言しているが、ぼくは賛成できない。
当然のものと思っていないからこそ笑えるのではないか、と。
(ただし差別意識があるのは間違いない。「先天性の白血病」だったらちっとも笑えないだろうから)

ちなみにそのあとに続く「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という発言には全面的に同意する。ネットに流さなければバカに見つからずに済んだだろうから。


漫才師は、その芸の性質上、ひとりが極端なことを言う、ピントの外れたことを言うことが多い。

エッセイで「〇〇という考えはどうだろう。私はこれが正しいとはおもわない」と書くべきことを漫才にすると、「〇〇だよ」「そんなわけあるかい!」になる。
もちろん「そんなわけあるかい」までがセットで漫才師からのメッセージなのだが、それを理解できない人がいる。
前半の発言だけを切り取って、「あいつは『〇〇だよ』と言っていた! 問題発言だ」と騒ぎたてる。
そりゃ問題発言だろう。わざと問題になるような切り取り方をしているんだから。
漫才師は、漫才中はふたりでひとりなのに。

漫才師の会話を切り離してあれこれ言うのはフェアではない(上記NPO法人の代表はちゃんと全体の文脈を踏まえて話しているが)。
それって、俳句の上の句だけを詠んで全体を論じるようなもんでしょ。



なんだかずいぶん擁護したけど、金属バットのあのネタはやっぱりまずいとおもう。

使っている言葉がよくなさすぎるし、ネタ全体を通して観ても、演者と観客の間に差別意識の共有がないといえば嘘になる(どっちかというと差別意識をまきちらすというより差別意識に気づかせるネタだとはおもうが)。

不愉快におもう人がいるのは当然だ。

だが「私は不愉快におもう」と「だからそんなことをしてはいけない」はまったくべつの話だ
さっきの同性愛者の話でいうと「ぼくは男性同士の性的関係を不愉快におもう」が「そんなことするな」とはおもわない。

その間には大きな隔たりがあるはずで、それこそが社会性だとおもうのだが、いい歳をしても社会性が身についてなくて「快/不快」と「善/悪」が隣り合わせになっている人がいる。少なからず。

(ちなみに前述の記事のNPO法人代表の人はそこをちゃんと区別している。
「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という言葉にはそれが表れている。とても立派な考えの人だとおもう)


だからぼくが金属バットに言いたいことは、
こら! そんなこと言ったらだめだぞ! でももっとやれ!
ってこと。


2019年10月1日火曜日

夢のような道具、夢が叶った時代


子どもの頃、カメラがほしかった。

ぼくだけではないとおもう。
子どもはみんな写真が好きだ。なにかというと撮りたがる。
今でも、大人がカメラを構えると子どもたちは「撮らせて!」と寄ってくる。

今だったらスマホを貸して「ここを押すんだよ」と言えば済む話だが、ぼくがこどものときはそうかんたんにカメラを貸してもらえなかった。

カメラがいまより高価だったこともあるが、それよりもフィルム代がもったいなかったことのほうが大きい。

若い人でも知っているとおもうが、昔のカメラは撮影にフィルムが必要だった。
フィルムは27枚撮りとか36枚撮りとかあって、正確にはおぼえていないが500円以上はしたとおもう。
で、写真を撮った後に現像して写真としてプリントするのにもお金がかかった。お店や枚数によって料金はちがったが、1,000円近くはした。
つまり1枚の写真を撮影してプリントするのに、50円ぐらいかかっていたわけだ。

今だったらスマホで10枚ぐらいあっという間に連写してしまうが、当時なら10枚撮れば500円がふっとぶことになる。
当然、子どもに気軽に「撮っていいよ」なんて言ってくれる大人はいなかった。



中学生ぐらいのとき、カメラを買おうとおもって調べたことがある。
カメラ本体なら、お年玉とかで十分買えるものがあった。
けれど断念した。
上記のように、ランニングコストがかかるからだ。

写ルンです(使い捨てカメラ)をかばんに入れて持ち歩いていたが、めったに撮らなかった。ここぞというときにしか撮らないので、36枚を撮りおわるのに半年とか一年とかかかった。

現像して写真を目にする頃にははじめのほうに撮った写真のことなんか忘れているので、はじめて見るのに「あーこんなこともあったなー」と古いアルバムをめくるような(この表現も伝わらないかも)感覚を味わえた。

高校生になって自由に使えるお金が多少増えたことで写真を撮るペースは増えたが、それでもフィルムを使い切るのに一ヶ月はかかった。

大学生になってはじめてちゃんとしたカメラを買った。
中国に行ったときに買った「長城」という謎のブランドのカメラだ。中国で買ったのは、もちろん安かったからだ。日本円にして1,500円くらいだった。

けれど長城はあまり使わなかった。
もうそのころにはデジカメが世に出ていたし、携帯でも(粗いとはいえ)写真を撮れるようになっていたからだ。
ほどなくしてぼくも30,000円ぐらい出してコンパクトデジカメを買い、フィルムカメラとはおさらばした。



こないだ親戚が集まったとき、娘、姪、甥にデジカメをプレゼントした。
トイカメラというやつで、まるっこくてかわいいデザインのおもちゃのカメラだ。
おもちゃといってもMicroSDカードを差しこめば写真を何千枚も撮れるし、USBで充電もできる。モニターもあるから、PCがなくても撮った写真を見ることができる。
フラッシュとかズームとかはついていないが、子どもが撮って遊ぶだけなら十分すぎる機能だ。

これが1台3,000円で買えた。
ぼくが15年前にはじめて買ったデジカメの10分の1の値段。でも画素数は同じぐらい。メモリは進化しているので保存できる枚数はずっと多い。

子どもたちは大喜びして写真をばしゃばしゃと撮っていた。
ぼくのおしりを撮ってきゃっきゃと笑っている。

ぼくが子どもの頃だったら、くだらないことに使うなと叱られたことだろう。
けれど誰も叱らない。どれだけ撮ってもフィルム代も現像代も電池代もかからないのだから。
くだらないことに使ってもいい時代になったのだ。
いい時代になったものだ。



ちなみにぼくが子どもの頃にずっとほしかったものは、カメラのほかにもうひとつある。

トランシーバーだ。
あの当時、トランシーバーにあこがれなかった子どもはたぶん一人もいなかっただろう。でも今は誰もほしがらないんだろうなあ。
え? トランシーバーとは何かって?

昔の少年がみんな憧れた、夢のような道具だよ。
残念ながら、その夢はもう叶っちゃったんだけどね……。