2019年7月22日月曜日

ニッポンの踏切係


ルートポート『会計が動かす世界の歴史』に、なぜ産業革命は18世紀のイギリスで起こったのか、という話が載っていた。
 こうして産業革命前夜の18世紀までに、イギリスでは高賃金と格安の燃料という状況が生まれたのです。
 産業革命がイギリスで始まった理由を考えると、やはり賃金の高さがもっとも重要なポイントです。
 たとえばジェニー紡績機は石炭を利用しません。燃料費の安さとは関係がないのです。しかし、それでもこの紡績機が発明されたのは、人件費を節約することで利益を出せたからです。
 人材を安価に利用することは、経済成長に繋がるとは限りません。むしろ労働を機械に置き換える(生産を効率化する)インセンティブを奪い、技術革新を鈍化させ、経済の発展を阻害する恐れさえあります。
 産業革命を起こしたイギリスの歴史には、現代の私たちにとっても学ぶところが多いでしょう。
なるほどなあ。

たとえば「今まで一ヶ月かかっていた作業がたった一分になります!」というツールがあったとする。
そのツールの利用料が百万円/月であれば、今までどおり手作業で一日かけてやったほうがいい。ほとんどの従業員は一ヶ月雇うのに百万円もかからないのだから。

しかし従業員に百万円以上の給料を出している国の会社は、そのツールを導入するだろう。
すると作業時間を短縮することができ、余った時間でより創造的な仕事をすることができる。彼らが生みだした質の高い製品やサービスは世界を席巻し、より人件費は上がる。そして人件費を抑制するために効率化を進めるツールが開発される。

人件費が高いのは、経営者からみると悪いことだ。でも短期的なマイナス点も、長期的にはプラスになりうる。


IT革命がアメリカを中心に花開いたのも必然だったのだ。
べつにアメリカ人が特別にイノベーティブだったわけではない(それも多少はあるだろうが)。
アメリカ人の給与が世界トップクラスに高かったからIT化が進んだのだ。
人件費よりもコンピュータを使うほうが安い。だからIT化する。技術が高まるので世界的な競争力がつく。さらに賃金が上がる。それがより生産性を高める原動力になる……というサイクルだ。

これの逆をやっていたのが日本だ。
世界がIT化を進めている間、日本では
「従業員増やして電卓たたかせたほうが安いよ」
「残業させればいいじゃん」
「派遣を使って人件費を抑えよう」
とやっていた。
タダで残業する従業員がいるなら、設備投資をして作業をスピードアップさせる必要などない。残業させるだけでいい。
これで新しい技術が根付くはずがない。




「合成の誤謬」という言葉がある。
ひとりひとりが正しい行動をとることで、全体で見るとかえって悪い結果を生んでしまうことを指す。
たとえば無駄遣いを抑えて貯蓄に回すのは家計にとってはいいことだが、みんながそれをやると国全体の景気が悪くなるように。

人件費カットもまた合成の誤謬をうみだす。
個々の経営者レベルで見ると、人件費を抑えて利益を出すほうがよい。
だがすべての経営者がそれをやると経済は成長しなくなる。また人件費カットをする会社は短期的には利益を出せても長期的に見れば必ず失速する。技術革新を進める動機が薄れるし、そもそも能力を持った社員がいなくなるのだから。

人件費カットという合成の誤謬を止めるにはマクロな政策が必要になる。個々の経営者に任せてもうまくいくわけがない。
長時間労働の厳罰化、最低賃金のアップ、賃金アップした企業に対する補助金などの対策を国を挙げてしなければならないのだが、どうもこの国にはそういうことをやる気は一切ないらしい。




こないだ北朝鮮に行った人から、北朝鮮には今でも「踏切係」という仕事があると聞いた。

線路の脇に立って、列車が来る前に「危ないから入っちゃいかん」という仕事だ。
なんてアナクロなんだ、と逆に感心した。

北朝鮮に電動の踏切を作る技術がないわけではない(ロケットを飛ばしたり核実験をしたりできる国だ)。
それでも「踏切係」が2019年に生き残っているのは、電動にするより人間にやらせたほうが安いからだろう。


今いろんな自動車メーカーが自動運転カーの研究をしているそうだが、世界で最初に実用化されるのは日本ではないだろう。
法律面の事情もあるが、それ以上に日本人の人件費は安いから。
「高い自動運転カーを買うぐらいなら運転手を雇ったほうが安い」という国では自動運転カーは売れない。


今のぼくらが「北朝鮮は人間が踏切係をやっているのか」とおもうように、
20XX年には「日本ではまだ人間が車を運転したりレジ打ちをやったりしているのか」と驚かれる時代になっているかもしれない。


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【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』


2019年7月19日金曜日

【読書感想文】中学生のちょっとエッチなサスペンス / 多島 斗志之『少年たちのおだやかな日々』

少年たちのおだやかな日々

多島 斗志之

内容(e-honより)
人間の一生にも禍いの起きやすい時がある。その最初はたぶん思春期だろう。性に目覚めるだけの年頃ではなく、人間界の様々な”魔”にも出逢いはじめる時期だ。本書は十四歳の少年たちが”魔”に出逢う珠玉の恐怖サスペンス短編集。

七作の短篇からなる作品集。
それぞれべつの話だが、どれも主人公は十四歳の少年。

ある出来事をきっかけに日常が少しずつ壊れてゆく……というサスペンス。
「友人のお母さんの浮気現場を見てしまう」「友達のお姉さんにゲームをしようと誘われる」「教師から泥棒の疑いをかけられる」
といった、どこにでもありそうな出来事が引き金となり、少年たちが恐ろしい目に遭う。
すごく鮮やかなオチはないが、それぞれテイストが異なる怖さを描いていて楽しめた。


十四歳男子を主人公に据えるという設定がいい。
自分が十四歳のころを思いだしても、火遊びをしたり、高いところに登ったり、入っちゃいけない場所に入ったり、言っちゃいけないことをいったり、詳しくは書けないようなことをたくさんした。
あの頃SNSがなくてほんとうによかった(インターネットはかろうじてあったが子どもが遊べるようなものではなかった)。

十四歳って、身体は大人になりつつあって、性的な好奇心は大人以上に高まって、けど社会的にはぜんぜん子どもで、でも自分の中では全能感があって、周囲に対して攻撃的になって、大人が嫌いで、世間のことをわかったような気になって……というなんともあやういお年頃だ(「中二病」はおもしろい言葉だけど、その一語だけでひとまとめにしてしまうのはもったいない)。

そんなあやうい十四歳だから、危険をかえりみずに未知の世界に足を踏み入れてしまう気持ちはよくわかる。


読んでいていちばんドキドキしたのは『罰ゲーム』という短篇。

友だちの家に行ったら、きれいだけどちょっとイジワルなお姉さんが「ゲームをしよう」と持ちかけてくる。
エッチな展開に持ちこめそうとおもった主人公はそのゲームに乗ることにする……という、なんともドキドキする導入。
ところがお姉さんが決めた罰ゲームはとんでもないもので……。

こわい。でもエロい。
エロの可能性が待っているのに退くわけにはいかない。エロの前では恐怖すらも絶妙なスパイスになってしまう。
このお姉さん、明らかに頭イカれてるんだけど、"エロくてイカれてるお姉さん"って最高じゃないですか。


小学五年生のとき、ジェフリー・アーチャーの『チェックメイト』という短篇小説(『十二の意外な結末』収録)を読んで、すごく昂奮した。

今思うとエロスとしても小説としても大した話じゃないんだけど、エッチなお姉さん+この先どうなるかわからない展開 というのは、思春期男子にとっては居ても立ってもいられないぐらいのドキドキシチュエーションなのだ。

中学生だったときの気持ちをちょっと思いだしたぜ。あっ、そういう青春小説じゃなくてサスペンス? 失礼しました。


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【読書感想文】半分蛇足のサイコ小説 / 多島 斗志之『症例A』



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2019年7月18日木曜日

【コント】驚きのラスト! もう一度読み返したくなる! あなたも必ず騙される


「先生、たいへん申しあげづらいんですけどね」

「なんだい」

「これじゃ売れませんよ」

「えっ……。今作はわりと自信があったんだけどな」

「いや、いい作品ですよ。いい作品なんです。でも売れないんです」

「というと」

「先生のお書きになるミステリはよくできているんですよ。たぶん読んだらおもしろかったと言ってくれるとおもいます。でもそれだけなんです」

「それだけでいいじゃないか」

「それだけじゃだめなんです。売れないんです。なんていったらいいのかな……」

「つまりぼくの作品にはケレン味がないってことか」

「ケレン味?」

「つまり派手さとか奇抜さとか」

「そうです! それなんです! そのケレン味とやらがないと売れないんです。実力派作家の安定のクオリティ、これじゃミステリファンにしか買ってもらえません。広告費を投じて派手な宣伝を打つこともできないんです」

「なるほど。たしかに君の言うことももっともだ。ぼくも子どもじゃないからね。おもしろい作品と売れる作品がちがうことも理解している」

「でしょ」

「しかし、だったらどうしたらいいとおもう」

「ずばり叙述トリックです! ほら、あるでしょ。実は語り手が男だったことが最後に明らかになるやつとか、実は時系列が逆だったとか、実は前半と後半の語り手は別人だったとか」

「ああ、叙述トリックね……。あれあんまり好きじゃないんだよな……。もうやりつくされた感があるでしょ。今さら叙述トリックやるのってなんかダサくない?」

「それはミステリファンの感覚です。ふだん小説を読まない連中は叙述トリックが大好きなんです。というか叙述トリックしか求めていないんです」

「まあ売れるよね。本屋で平積みされてるのはそんなのばっかりだもんね」

「でしょ。『最後の一行であっと驚く!』とか」

『必ずもう一度読み返したくなる!とか」

「で、映画になるんですよ。『映像不可能と言われた原作がまさかの映画化!』っていって」

「『あなたは二度騙される!』とかのキャッチコピーつけられて

「でしょ。よくあるでしょ」

「なんかげんなりしてきた。そういう映画がおもしろかったためしないんだよね……」

「でも、おもしろくないのにその手のキャッチコピーの作品がなくならないのは、客を呼べるからなんですよ」

「まあそういうことになるかな……」

「ですから先生の作品にも叙述トリックの要素を取り入れてください。そしたら帯に『衝撃のラスト! 必ず二度読みたくなる作品』ってキャッチコピーつけて売りだせるんで」

「安易だなあ……」

「安易なのがいいんですって」

「とはいえもう作品は完成しちゃったからな。今さら叙述トリックにはできないよ

「なんでもいいんですよ。叙述トリック要素があれば」

「しかし……」

「こういうのはどうです。主人公がペットを飼ってることにするんです。で、ペットの名前が『ポチ』なんですけど、実はそれが猫だったことが最後の一行で明かされる」

「だからなんだよ」

「キャッチコピーは『ラスト一行のどんでん返し。ネタバレ禁止』でいきましょう」

「だめだって。犬かとおもったら猫だった、じゃどんでん返ってない」

「じゃあ犯人が双子だったってのはどうです」

「双子トリック? それこそ手垢にまみれたやつじゃん。だいた叙述トリックじゃないし

「いいんですよ。騙されてくれればなんだって」

「もうストーリーは完成してるんだよ。どこで双子が入れ替わるの」

「いや、入れ替わりません」

「え?」

「犯人には双子の弟がいるんです。でも弟は遠くに暮らしているので今回の話には登場しない」

「意味ないじゃん」

「でも犯人が捕まるときに言うんです。『弟が知ったら悲しむだろうな……。あ、私双子の弟がいるんですけどね』って。で、刑事が『一卵性? 二卵性?』って訊いて、『一卵性です』『へー意外』っていうやりとりがくりひろげられる、と。これでいきましょう。キャッチコピーは『衝撃のラスト!』で」

「衝撃が軽すぎる。ガードレールにこすったときぐらいの衝撃じゃん」

「でもなんか意外な感じがしません? 知り合いが双子だと知ったときって。子どもの頃は同級生に双子がいても意外とはおもわないじゃないですか。両方知ってるから。でも大人になってから知り合った人が、付き合って何年かしてからなにかの拍子に『私は双子の妹がいるんですけど』って言ったらちょっとびっくりするでしょ」

「ちょっとびっくりするけど。『この人にそっくりな人がどこかにいるんだー』とおもったらなんかふしぎな気持ちになるけど。『あたりまえだけど一卵性双生児でも大人になったら別々の人生を歩むんだよなあ』とか考えてしまうけど」

「でしょ。『ラスト一行で明かされる意外な真実&奇妙な味わいの物語』これでいきましょう」

「それ小説の味わいじゃなくて単に双子ってなんとなくミステリアスだよねってだけじゃん」

「だめですかね」

「だめだめ。やっぱりそんな小手先の騙しはよくないよ。ちゃんとミステリの質で勝負しよう。このままいこう」

「じゃあこうしましょう。作品自体はこのままいきます。でも帯には『驚きのラスト! 必ずもう一度読み返したくなる!』というコピーをつけましょう」

「えっ、だって王道のミステリだよ。殺人事件が起こって刑事が推理をして犯人を捕まえる話だけど。そんなに意外性ないでしょ」

「だからこそですよ。『驚きのラスト! もう一度読み返したくなる! あなたも必ず騙される』って触れ込みだから、読者は身構えながら読みますよね。どんな意外な事実があるんだろうとおもいながら。ところが最後の一行まで読んでも何も起こらない。読者は驚く。えっ、何もないじゃん。そしておもう。自分が何か見落としていたのかも。で、もう一度読み返したくなる」

「ひでえ」

「そして気づくわけですよ。あっ、騙された! と」

「出版社にね」


2019年7月17日水曜日

【映画感想】『トイ・ストーリー 4』

『トイ・ストーリー 4』

内容(ディズニー公式より)
“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?

≪公開中の映画に関するネタバレを含みます≫

ぼくは『トイ・ストーリー』シリーズの大ファンだ。
これまでの3作、および短篇作品もくりかえし観た。『4』の公開は何年も楽しみにしてきた。
ほかのファンと同じようにぼくも「あんなに完璧な『3』の後に続編を作れるのか?」とおもったが、同時に「でもピクサーならその不安をふっとばしてくれるすばらしい作品を生みだしてくれるはず」と信じていた。

で、『4』を観賞。
結論からいうと、不満がたくさん残る作品だった。
ぼくが大ファンじゃなかったら素直に楽しめたんだろうけど、思い入れが強い分、わだかまりも多く残った。

1~3までの作品とはずいぶん毛色がちがうなあとおもって調べてみたら、やはり『トイ・ストーリー』の生みの親であるジョン・ラセターが制作から離れたということで(離れた理由については自分で調べてください))、どうりでまったく別物になっているわけだ。
換骨奪胎。
変わったところが、ことごとく好きじゃなかった。




変えることが悪いとはおもわない。
同じようなことをくりかえすだけではマンネリを生む。『トイ・ストーリー3』ではウッディたちをアンディの元から去らせるという大転換をおこなって見事に成功を収めた。

今回の『4』では最終的にウッディがボニーやバズ・ライトイヤーたちと別れて新しい世界へと旅立つが、その決断自体は否定しない。

置かれた境遇が変われば心境も変わるし、「おもちゃは子どもに愛されるためにある」というウッディの自我は前三作で常に危機にさらされてきた。結果的にウッディたちは「子どもと一緒にいる」を選んできたが、唯一無二の選択だったわけではなく「悪いこともあるけどまあしょうがないよね」という妥協を内に含む決断だった。
だから今さらウッディの信念が揺らいだとしても驚かない。

ただ、これまでのウッディたちの決断を否定するのであればそれなりの理由が必要だ。『4』には「なるほど、それならウッディの信念が変わるのもしょうがないよね」と観客に思わせるだけの説得力がまったくなかった。

ひとことでいうと「」。
ストーリー展開、心理描写、リアリティ、整合性。ひたすらに雑。
いや『4』がほかの映画にくらべて悪いわけではない。『3』までがきめ細やかすぎただけ。『4』ではそれが受け継がれていないだけ。

もう少し具体的にいうと、前作までは「課題があって、おもちゃたちが100点ではないけど一応納得できる解決を導きだす」というストーリーだった。
だが『4』では「まず解決があって、そのために課題を設ける」という作り方をしている。

まず「ウッディがボニーやバズたちと離れる」というゴールがあり、そのために
  • ウッディがボニーやその親からないがしろにされる
  • ボニーの心の支えになるフォーキーというおもちゃを登場させる
  • 子どものおもちゃから離れて自由闊達に生きている、ボー・ピープというキャラクターと出会わせる
など、着々と「ウッディ引退のための花道」が準備されてゆく。いや、花道というより追い出し部屋か。
以前のウッディならフォーキーに対して嫉妬ぐらいは抱いていたはずなのに、まるで自分の引退を悟っているかのように己の持てるものをフォーキーに譲りわたしてゆく。

そして、自分自身が不要になったことを(それなりの葛藤があるとはいえ)あっさり受け入れて新天地へと旅立つ。

まるで、社内に居場所がなくなってきたと感じているベテラン社員が、会社が用意した早期退職制度に応募して「おれの実力なら独立してもやっていけるっしょ」と起業するみたいに。
アンディ社でエースを張り、子会社のボニー社で不遇を強いられてきたウッディが、脱サラして喫茶店のマスターに。どう考えてもこの先うまくやっていけるとはおもえない。
独立するのであれば、追い立てられるような逃避的独立ではなく、前向きな理由でのリスタートであってほしかった。




制作者の敷いたレールを最短距離で走らせるために、前作までで丁寧に描いてきた
  • 常に自分が主役でいたいというウッディの人間くさい欲
  • アンディとボニーが交わした、おもちゃを大切にするという約束
  • ボー・ピープは陶器のおもちゃだからアクションができないという制約
  • 直情的なウッディに比べて思慮深いバズのキャラクター
  • ウッディとバズの深い友情
といった設定はあっさり無視されている。

そしてなにより、「子どもの友だちでいることがおもちゃにとってなによりの幸せ」というウッディの信念、ときにはそのせいでバズに嫉妬心を燃やし、プロスペクターやジェシーとの約束を反故にし、居心地の良い保育園やおもちゃの仲間たちに別れを告げたほどの頑固な信念は、「あっちのほうがなんとなく良さそう」ぐらいの軽いノリであっさり捨てられてしまう。


ほぼ称賛一色だった前作とはちがい今作は賛否両論だそうだが、その"否"はほとんどここに向けられているのだろう。
過去三作に対する思い入れの強い観客ほど、ウッディやボニーの豹変っぷりには戸惑いを感じるはずだ。

主役の座から降ろされることも、子どもが成長すればいずれ遊んでもらえなくなることも、子ども部屋の外にはいつまでも子どもと遊んでもらえる場所があることも、ウッディはこれまでの三作で味わってきた。
それでも愚直なまでに信念を曲げなかったウッディが『4』ではさしたるきっかけもなくあっさり考えを転向させてしまう。

よほど現状がつらいとか、よほど移動遊園地が魅力的な場所であるとかの「これまでの決断を覆すほどの根拠」は描かれない。これこそぼくが「雑」と思うゆえんだ。

ボニーの元を離れて生きていくという決断を見せられても、「だったらあのときサニーサイド保育園に行ってたらよかったじゃない」としかおもえない。
強権的政治を敷いていたロッツォが退場したサニーサイド保育園はおもちゃの楽園だ。しかもボニーの家からおもちゃでも移動できる距離にあるから今からでも行ける。
「他のおもちゃといっしょにサニーサイド保育園」に背を向けたウッディが、なぜ「単身で移動遊園地」は受けいれるのか?

移動遊園地がサニーサイド保育園に勝っているところはただひとつ。
「ボー・ピープがいる」という点だけ。
それだけでウッディがあっさりボニーやバズを捨てちゃうの? 子どもと遊んでもらえなくなってもかまわないの?
まさか「恋愛はすべてに勝る」ということをトイ・ストーリーを通して伝えたいわけじゃないよね?

トイ・ストーリーの世界観において、おもちゃは単なる子どもの友だちではない。制作者たちも語っているように、彼らの役割は「保護者」だ。
おもちゃたちは子どもを守るために行動している。第一作でウッディが憎いバズを助けにいくのも、『2』でさらわれたウッディを他のおもちゃたちが連れ戻しにいくのも、理由は「アンディが悲しまないように」だ。
だからこそ『3』ではアンディが家を出ていくときにアンディのママが感じる我が身を引き裂かれるようなつらさがおもちゃの視点を通して描かれる。あのシーンは時間にすればわずかだったが、強烈な印象を放っていた。
『4』でも、ボニーがはじめて幼稚園に行くときに寂しがらないようにウッディがついていったり、モリー(アンディの妹)が寝るときに怖がらないようにボーがついていたことが語られたり、おもちゃは子どもたちの保護者としてふるまっていた。
なのに、ボーと出会ったウッディはあっさり保護者であることをやめてしまう。


「新しい生活のほうがなんとなく良さそう」とボニーのもとを離れるウッディの姿は、まるで新しい男を見つけて子どもを置いて去ってゆく母親だ。
母親には母親の人生があるからそういう選択を否定する気はないけど、でもピクサー映画で見せる必要はあるか?
ぼくは、自分が母親に見捨てられたような気分になった




『3』までと『4』の制作者の「おもちゃへの愛」は、アンディの母親とボニーの両親のちがいにはっきりと描かれている。
アンディがおもちゃを大切にする気持ちをよく理解しているアンディの母親。一作目では最後の最後までウッディを捜すアンディに寄り添うし、『2』では高値を付けてウッディを買い取ろうとするアルに対していくら積まれても売らないと言い切る。

だがボニーの両親はアンディのママとはちがう。
ボニーのおもちゃを平気で踏んづけるし、旅行先でボニーのお気に入りのおもちゃがあるかどうかも確認せずに車を出そうとする。おもちゃがなくなっても「まあそのうち出てくるだろう」ぐらいで済ませる。
「おもちゃなんてなくなればまた買えばいい」ぐらいの気持ちなんだろうな。それは制作者の気持ちがそのまま表れたものだ。
ボニーの父親のもとにアルが現れて「あなたのお子さんのおもちゃを300ドルで売ってください」と言ってきたら喜んで手放すだろうな。『トイ・ストーリー4』の監督も。




不満を書きだしたら止まらなくなってきた。
いいところも書こうとおもっていたのに。ファンにはうれしい、ティン・トイのさりげない登場シーンやコンバット・カールの再登場とか。

ティン・トイ
迷子のシーンを通して「自分より弱いものを守る立場に置かれることで強くなる」ことを表現していたこととか。

それでも思いかえすほどに、納得のいかないところが次々に出てくる。

ボー・ピープのキャラクター変化とか。
内面が変化するのはぜんぜんかまわない。環境が大きく変わったのに同じ性格でいるほうが不自然だ。
でも、物理的な制約を飛びこえてしまうことはいただけない。
さっきも書いたけど、ボー・ピープは陶器の人形だ。激しいアクションには耐えられない。服は着色されているから着替えられない。折れたらかんたんに修復できない。
だから『2』では留守番を強いられたし、『3』では姿すら見せない。『4』ではそういった設定をぜんぶ無視している。
「おもちゃの材質や形状に応じた動きをする」ってのがトイ・ストーリーの魅力なのに、それがかんたんに捨てられている。

『4』におけるボー・ピープのキャラクターは、いかにもここ数年のディズニーヒロインという感じだ。
『シュガーラッシュ』シリーズのヴァネロペに代表される、旧習に縛られずに自分がもっとも輝くフィールドで戦うかっこいいヒロイン。
いっしょに観ていたうちの六歳の娘も「ボーがかっこよかった! ボーがいちばん好き!」と言っていた。そりゃそうだろうな。かわいくてかっこいいお姉さん。女の子は大好きだろう。
そういうキャラクターが出てくることには大賛成だ。
でもその役目を担うのはボー・ピープじゃないでしょ。陶器製の電気スタンドじゃないでしょ。ウッディを役立たず呼ばわりするのは、ウッディが誰よりも仲間思いなのを間近で見てきたボーじゃないでしょ。




『4』が雑な印象を与えるのは、キャラクターたちのその後の描かれ方が投げやりだからでもある。

これまでの作品では、キャラクターたちにしかるべき居場所が与えられていた。
たとえば『3』では、序盤に家を出た軍曹やグリーンアーミーメンたちはラストでサニーサイド保育園にたどりつき、そこではケンやバービーを中心におもちゃにとって居心地のいいコミュニティがつくられている。
ロッツォの手下として強権的支配に手を貸していたおもちゃたちも心を入れ替えて仲良くやっている。
最後まで無慈悲だったロッツォにすら居場所が与えられていた(ひどい目には遭うが彼を拾うのはおもちゃを愛している人物だ)。『2』でウッディを傷つけたプロスペクターも同じだった。

だが『4』はすべてがなげっぱなしだ。
移動遊園地に残ったウッディたちのその後が描かれるが、ダッキーとバニーは子どもにもらわれたいと願っていたのに叶わなかった。おもちゃを大切にしない家に残されたバズたちに明るい未来が待っているのだろうか? ベンソンは最後まで感情のないロボットとして描かれていて、ギャビーギャビーとはぐれた後にどうなったのかはわからない。不気味な存在から一転してかわいらしい赤ちゃんの心を取り戻した『3』のビッグベビーとは対照的だ。

おもちゃだけではない。ボニーというキャラクターの造形もひどかった。
ボニーがウッディを気にするシーンあった?
ウッディに話しかけたり、ウッディをさがしたりするシーンあった? ウッディから保安官バッジを引きちぎるシーンだけじゃない?
あれが、アンディが信頼しておもちゃを託した子?




愚痴はまだ続く。
ギャグシーンがうわすべりしていたこと。

デューク・カブーンが笑い担当だったんだろうけど、百人が百人ともケンを思いうかべるだろう(あと『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』のコンバット・カールと)。つまり既視感しかない。

あとはダッキーとバニーの妄想コント。
ありえない展開がくりひろげられた後に「実はこれ、ダッキーとバニーの妄想でした!という流れが何度かある。
これ、おもしろくないとか以前に、完全に話の流れを妨げていた。
せっかく物語の世界に没入してるのに、「はいこれはぜんぶ作り物ですからね」といちいち現実に引き戻される。
しかも『2』のスターウォーズパロディや『3』のバズのスパニッシュモードのようなストーリーの流れにからんだギャグではなく、このシーンがあってもなくても本筋にはまったく影響を与えないようなとってつけたギャグパート。
「さあ、ここは笑うとこでっせ!」という制作者の声が聞こえるようで、完全に鼻白んでしまう。いかりや長介の「だめだこりゃ。次いってみよう!」という声が聞こえてくるようだった。
劇場でもほとんどウケていなかった。

おもしろかったのも鍵を手に入れるとこぐらい。でもあれも場面を区切って回想にしないでほしかった。
前作までは、ほぼすべて時系列にそって描かれていた。
回想が入るのは、ジェシーがエミリーとの思い出を語るシーンとロッツォが持ち主と離別するところぐらいかな。それでも単純な回想にはせずに「今語っている」という形をとっていた。
あれも、観客が物語の世界から現実に引き戻されないための工夫だったのだろう。時系列順に描かれることで、「この物語はまさに今目の前で起こっている」かのような気持ちで見ることができる。
『4』ではその約束も壊されてしまった。観客は(数分前の)回想シーンを通して「これはしょせん作り物ですよ」という野暮な事実をつきつけられる。


そう、ありていにいえば「野暮」なのだ。すべてにおいて。
永遠の友情なんてありえない、おもちゃなんてしょせん替えの利くモノにすぎない、このお話はつくりもの。この映画は、いちいち現実を突きつけてくる。
そんなことはわかっている。わかってるけど、なんで金を払ってつまらない現実を見せられなきゃならんのか。こっちは夢を観にきてるのに。




不満ばかりになってしまった。
書く前は「『昔は良かった』ばかりだと老害くさくなるから、良かった点と悪かったとこを半々ぐらいで書こう」とおもっていたのに。

でも、そうなんだよ。観ているときはおもしろかったんだよ。観終わったときの感想も、少なくとも半分は「良かった」が占めていたんだよ。これはほんと。
ピクサー作品の中でも平均以上の出来だとおもうよ。

ただ、高級イタリアンの店に入ったら出されたのがサイゼリヤの料理だった、みたいな気持ちにはなるよね。
ええ、おいしいですよ。サイゼリヤ。ぼくは大好きですよ。
でも高級イタリアンで出されたら「サイゼリヤはおいしいからまいっかー!」とはならない。味の問題じゃない。

要するにまったくべつの物語を作りたいならトイ・ストーリーの看板掲げて商売すんじゃねえよ、ってことなんですよ。
『トイ・ストーリー4』という名前の映画をつくる以上は、壊しちゃいけない部分がある。なのにこの映画では深い考えもなくそこを踏みにじっている。


「おもちゃが動いてしゃべるけどトイ・ストーリーじゃない」物語を作ればよかったんだよ。それならなんの不満もない。
ジョジョとスティールボールランとジョジョリオンみたいに、設定だけ活かしてまったく別のキャラの物語にすればよかったのに。


願わくば、『5』をつくってウッディに「あの決断は失敗だった」と語らせてほしい。
それが、おもちゃを愛する少年だったぼくの願いだ。


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【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』


2019年7月16日火曜日

【読書感想文】ミニオンアイスみたいなことをやられても / 湊 かなえ『少女』

少女

湊 かなえ

内容(e-honより)
親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

ううむ。
よくできている。が、よくできているがゆえにおもしろくない。
とにかく偶然がすぎる。
「たまたま〇〇が□□の親だった」「あのときの××がなんと△△につながっていた」みたいなのがひたすら続く。
天文学的確率の20乗。いくら宇宙が広いからってこれはやりすぎ。


リアリティのない小説が嫌いなわけじゃない。
「ありえねーよ!」って設定も、それはそれでいい。

ただ。
ありえない展開の小説にするには、それなりのテイストが必要なわけ。

『ホーム・アローン』はコメディだからおもしろいわけじゃん。ケヴィン少年の策略がことごとくうまくいくのはご都合主義だけど、それも含めて楽しいわけじゃん。コメディだから。
でもサスペンス映画のラストで、主人公が敵を撃退するために『ホーム・アローン』みたいな仕掛けをやったら興醒めするよね。

べつのたとえをするとさ。
サーティワンアイスクリームに「“ミニオン” フラッフィワールド」って味があるのね。
映画のミニオンとコラボした商品で、公式サイトによると「ストロベリー風味、マシュマロ風味、コットンキャンディが織りなすフワかわいい美味しさ!」って書いてある。

“ミニオン” フラッフィワールド

まあばかみたいなアイスクリームだよね。
でもアイスクリームだからこれでいいわけじゃん。
だってみんながサーティワンアイスクリームに求めるのは「楽しさ」「おもしろさ」「はじけとんだ感じ」であって、「素材にこだわったおいしさ」とか「プロの料理人の熟練した技術」とか「栄養」とかじゃないから。
だからミニオンのハチャメチャな味でもぜんぜんオッケー。

でも老舗の天ぷら屋が「“ミニオン” フラッフィワールド味はじめました!」ってやったらげんなりするでしょ。いや天ぷら屋にそういうの求めてないから、ってなるじゃん。


そういうことなんだよね。
だから『少女』もかる~いタッチで書いてくれたらおもしろかったはず。よくできてるなーって素直に感心できたとおもう。
映画『キサラギ』なんかやはり死を扱った作品だったけど、とことんポップに描いていたから、ストーリーのありえなさも含めて楽しめた。

かといって湊かなえさんがポップで底抜けに明るい小説を書いたら、それはそれでなんかイヤだな……。


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