2018年11月27日火曜日

【読書感想文】ぼくらの時間はどこにいった / ミヒャエル・エンデ『モモ』


モモ

~時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語~

ミヒャエル・エンデ(著) 大島 かおり(訳)

内容(e-honより)
町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。
『はてしない物語』でも知られるミヒャエル・エンデの代表作。

この話、中学校の国語の教科書に載っていたなあ。
しかし教科書の悪いところで、物語の中盤しか載っていなかったので「なんとなくおもしろそうだな」とは思いつつもぜんぜん意味がわからなかった。

いやほんと教科書ってひどいよね。ばかが作ってんのかな。
前半部分がばっさりカットされて
「時間どろぼうから逃れたモモはカメのカシオペイアとともに”どこにもない家”にやってきます」
みたいなあらすじしか書いてないんだもの。
それだけ読んで「あーなるほどそういう話ね」ってなるわけないだろ!



『モモ』は子ども向けのお話だけど、つくづくよくできた寓話だと思う。

物語の中であつかわれている時間の感覚に関しては、大人のほうがずっと共感できるんじゃないかな。
 仕事がたのしいかとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました――むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間にできるだけたくさんの仕事をすることです。
 大きな工場や会社の職場という職場には、おなじような標語がかかげられました。
  時間は貴重だ──むだにするな!
  時は金なり──節約せよ!
これと似たような標語は、課長の事務づくえの上にも、重役のいすのうしろの壁にも、お医者の診察室にも、商店やレストランやデパートにも、さらには学校や幼稚園にまで、はり出されました。だれひとりこの標語からのがれられません。
 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
人間はずっと忙しくなりつづけている。

昔は一日がかりだった東京ー大阪間の移動が、新幹線や飛行機によって二時間ちょっとで移動できるようになった。
じゃあその分人々の暮らしには余裕が生まれたのかというと逆で、みんなせわしなくなっった。
昔だったら長い時間をかけて遠くに行って、ちょっと仕事をして、その土地のうまいものを食って、夜は酒を呑んで宿に泊まって翌日またたっぷり時間をかけて鉄道に乗って帰る、なんてスケジュールだったのが、今では東京ー大阪でも余裕で日帰りで行ける。朝早く出て、二時間ちょっとで目的地についてあわただしく仕事を済ませて、夕方の新幹線に乗ってその日のうちに帰ってくる。なんてあわただしさだ。
(昔のサラリーマン生活に関しては経験したことないから想像だけど。)

コンピュータの登場で計算は以前とくらべられないぐらい早くなった。昔なら一日がかりだった計算も、数秒で終わる。
じゃあその浮いた時間は余暇に使えるようになったのかというと、そんなことはない。業務の量はぜんぜん変わらない。むしろ昔より増えてるんじゃなかろうか。

あれおかしいな。
時間を短縮すればするほど余裕がなくなっていくぞ。時間が余るはずじゃないのか。

ぼくの時間も、時間どろぼうにかすめとられてるんじゃないのか。



AI(人工知能)の精度はどんどんよくなっている。AIに関するニュースを耳にしない日はない。
しかし「AIによって人間は苦役的な労働から解放される。思索や芸術など、真に生産的な活動に打ちこむことができる!」なんてハッピーな未来を提示する人は誰もいない。
みんな知っているのだ。便利になればなるほどぼくらの自由がなくなっていくことを。

ぼくらの時間はどこにいっちゃったんだろうね。この先どれぐらい残ってんのかな。

最後に、ミヒャエル・エンデのあとがきを引用。
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

【関連記事】

【読書感想】ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』

政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2018年11月26日月曜日

【読書感想文】てんでばらばらヒョーゴスラビア / 鈴木 ユータ『これでいいのか兵庫県』


『これでいいのか兵庫県』

鈴木 ユータ

内容(e-honより)
連帯感なし!県ではくくれないジコチュー愛―メジャーなのになぜマイナーなの?兵庫県!
第1章 時代に翻弄されてきた兵庫県の歴史
第2章 バラバラの気質が生んだ兵庫県のカオスな実態
第3章 神戸ブランド失墜!五大都市復活の目はあるのか!?
第4章 統一感がまったくない 阪神地域の悲喜こもごも
第5章 存在感がなくてマイペースな東・北播磨
第6章 西・中播磨の反撃は盟主の姫路次第
第7章 オリジナリティ全開で突っ走る但馬・丹波地域
第8章 開発のピントがずれている豊かな淡路島
第9章 過去の神戸モデルから脱却して兵庫統一を目指せ!

下品な表紙のわりに、意外とちゃんとした内容だった。歴史や地理的なことをちゃんと調べていて、著者が県内各地に足を運んで取材していることもわかる。

しかし学術書ではないので、土地や人から感じた印象など「あやふやなこと」も書かれている。これがいい。「どんな土地か」なんてことはどれだけデータを並べたってわからない。「おれはこう思うぜ」が大事なのだ。
この「ちゃんと調べて書かれていること」と「著者の個人的な印象」のバランスがいい。

さらに著者は関東の出身者らしいので、特別にどこかの地域に肩入れすることもなく、わりとフラットな視点で地域の特色が書かれている。
兵庫県出身者のぼくから見てもかなり的確だと思う。これは住人には書けない。個人的な思い入れがじゃまをしてしまって。



ぼくは五歳から十八歳まで兵庫県で育ったので、今は兵庫に住んでいなくても「自分は兵庫県民だ」という意識は持っている。

とはいえその意識は「どこ出身ですか」と訊かれたときに「兵庫県の東の端です」と答えるのと、高校野球で兵庫県代表校を応援するぐらいのもので、ふるさとのために何かをすることは特にない。
生まれ育った町には愛着を感じているけど、兵庫県まるごとに愛を感じることはほとんどない。

この本によると、兵庫県民はとりわけ「県民意識」が希薄なのだという。
まあそうだろうな。
ぼくなんか阪神地域の出身で神戸に行くよりも大阪に行くほうが近かったので、ちょっとした買い物なら大阪・梅田に出ていた。だから兵庫県への帰属意識はぜんぜんない。父の職場も大阪だった。

兵庫県はもともと五つの藩がなかばむりやりくっついたところなので、まとまりがないのも無理はない。
むかし「県民性」の本をぱらぱらとめくったときには「兵庫県は地域によって気質がちがいすぎるので一口に語るのはほぼ不可能」と書かれていた。
県内に瀬戸内海も日本海も盆地も島も港町も工業地帯も農業地域もあり、大阪・京都・和歌山・鳥取・岡山・香川・徳島と隣接しているわけで、そりゃあひとまとめにはできないだろうなあ。
多民族国家だったユーゴスラビアになぞらえて「ヒョーゴスラビア」という人もいる。

兵庫県内にあるスポーツチームをみても、
  • 阪神タイガース(野球)
  • ヴィッセル神戸(サッカー)
  • 西宮ストークス(バスケットボール)
  • ヴィクトリーナ姫路(バレーボール)
  • 西宮ブルーインズ(アメリカンフットボール)
みんな県名は名乗らない。「兵庫県のチーム」ではないのだ。

Google検索結果を見ても、
「大阪人」は3,680,000件、
「京都人」は1,150,000件、
「兵庫人」は   13,700件と圧倒的に少ない。だれも「兵庫人」という自覚を持っていない。

大阪や京都はキャラクターが強すぎるせいでしょ、と思うかもしれない。だが
「岡山人」の  133,000件や
「鳥取人」の   28,300件にも負けている。兵庫県の人口は鳥取の10倍ぐらいいるのに。



兵庫県出身者としては、「もっとみんな兵庫県に来てよ!」と思う。

世界遺産の姫路城。甲子園球場、宝塚大劇場といった唯一無二の大舞台。食べ物がおいしい明石や淡路島。日本最古の温泉という説もある有馬温泉。ファンにはたまらない手塚治虫記念館。平家や源氏ゆかりの地や赤穂、竹田城址など、歴史ファンに魅力の場所も多い。

でも兵庫県は全国的にはいまいち地味。観光客も大阪や京都にくらべるとぜんぜん増えていないそうだ。
著者は「神戸頼み」の状況がその原因なのではと指摘している。
 であれば、神戸は仮に人口が今後減少し続けても、阪神地域や東・北播磨地域としっかりと連携し、それぞれの強みを活かした「広域都市」のようになれればいいのではないか。今も神戸が考える「神戸大都市圏」はあるけれど、「それはあくまでも神戸のひとりよがり、わが身中心のジコチューな都市圏である。そんな独善的なプライドは取り払い、神戸が周囲の都市を引き立てつつ、密な連携を図るべきときを迎えているのではないだろうか?
「神奈川県といえば横浜」「石川県といえば金沢」「宮城県といえば仙台」と同じで、兵庫県もやはり神戸の存在感がすごく強い。
ぼくも「出身は兵庫県です」というとまずは「神戸?」と訊かれる。そんなわけないに決まってるだろ。神戸出身者ははじめから「出身は神戸です」っていうんだよ。
なんだかんだいって、兵庫県といえば神戸だ。

しかし神戸は没落の一途をたどっている。
阪神大震災から復興を果たしたものの人口は減りつづけているし、外国人観光客もあまり増えていない。そりゃそうだ。神戸のウリは「異国情緒」なんだもの。そんなものを外国人が味わいたいわけない。かといって異人館も中華街も横浜のコンパクト版なので、日本人を呼ぶには弱い。
山と海にはさまれた風光明媚な場所ではあるが、それはイコール坂が多い、ということで高齢者が住むのには向いていない。
再開発できれいな街になっているが、それは歴史を感じさせるものがなくなっているということでもある。
こないだ三宮(神戸の中心部)の地下街を歩いたとき「梅田(大阪の中心部)にくらべてあんまり人がいなくて歩きやすい」と思った。町全体がコンパクトにまとまっている。
歩きやすいが、それは裏返せば歩いていて楽しくないということでもある。京都や大阪の中心部はもっとごちゃごちゃしていて、それが観光客にとっての楽しさにもつながっている。

たしかに著者のいうとおり、「うちの市が」といった主張を捨てて県全体で人を呼ぶ施策をしていけば、居住者にとっても観光客にとってもいい土地になるんだろう。
けどまあむりだろうな……。
特に神戸は嫌がるだろうな……。

【関連記事】

西方浄土

阪神大震災の記憶



 その他の読書感想文はこちら


2018年11月24日土曜日

お金を出さなくてもいい生活


そりゃお金はほしいけど、もっとほしいのは「お金を出さなくてもいい生活」なんだ。

懐を痛めたくないんだ。ほんのわずかでも。
小学生のとき、百円は大金だった。でも今ははした金だ。だから百円を出すことに躊躇しない。
とはいえ百円が惜しくないわけじゃない。百円を落として転がっていったら走って追いかける。排水溝に落ちちゃったら「あぁ……」と思う。拾えそうなら拾う。拾えなかったら悲しむ。涙は流さないけど心では泣く。号泣。

もしぼくが一兆円の資産を持っていたとしても、二千円のひるめしを食うときは「ひるめしに二千円か……」という気持ちがよぎるだろう。
いくら持っていたって、出ていくお金は少しでも少ないほうがいい。


大阪にスパワールドという施設がある。
ぼくはスパワールドが大好きで、しょっちゅう行く。
プールや風呂や岩盤浴を楽しめるのももちろんいいんだけど、中でお金を使わなくていいというのがすごくいい。
入場時にリストバンドみたいなのを渡される。中で買い物をするときはそれをかざすだけでいい。ご飯を食べるときもビールを買うときもマッサージをされるときも、リストバンドを見せるだけでいい。これがすごく快適なのだ。お金を払わなくていいのがこんなにストレスフリーだなんて。
とはいえ、あたりまえだけど帰るときには使った分を精算しないといけない。それがなくなればもっといいのに。


だからお金をくれるんじゃなくて、代わりにお金を出してくれる人がほしい。
とはいえ、お金を払ってもらうたびにいちいち「あれ買ってもらってもいいですか」とか「ありがとうございます」とか気を使いたくない。

だから何でも買ってくれるおとうさんがほしい。当然のようにぼくの分も払ってくれて、ぼくがお礼を言わなくても嫌な顔ひとつしないおとうさん。
ぼくは一円も持たずに出かける。レストランに入って、値段も見ずに注文をする。食べおわった後、おとうさんがレジでお金を払っているのに「ねえ、早く行こうよ!」とわがままを言う。そういう生活がしたい。

今ぼくが娘にされているように。
いいなあ、娘は。代わりにお金を出してくれるおとうさんがいて。


2018年11月23日金曜日

ツイートまとめ 2018年9月


民主主義

仮面

バリウム

眉毛

サブ機能

フィルム

いっせい

株式会社

カメムシ


無神経

質問

うしろまえ

スポンサー

スラムダンク


ゾンビ

保存用

娘語

重さ

信者

KWANSEI

ジャニーズ

Eテレ

デモ

2018年11月22日木曜日

【読書感想文】「今だけ、カネだけ、自分だけ」の国家戦略 / 堤 未果『日本が売られる』


『日本が売られる』

堤 未果

内容(e-honより)
水と安全はタダ同然、医療と介護は世界トップ。そんな日本に今、とんでもない魔の手が伸びているのを知っているだろうか?法律が次々と変えられ、米国や中国、EUなどのハゲタカどもが、我々の資産を買い漁っている。水や米、海や森や農地、国民皆保険に公教育に食の安全に個人情報など、日本が誇る貴重な資産に値札がつけられ、叩き売りされているのだ。マスコミが報道しない衝撃の舞台裏と反撃の戦略を、気鋭の国際ジャーナリストが、緻密な現場取材と膨大な資料をもとに暴き出す!
他の国に住んだことがないので断言はできないけれども、なんだかんだで日本は住みやすい国だと思う。少なくとも日本人にとっては。
治安はいいし、教育水準も高いし、水道水は飲めるし、高度な医療を安いお金で受けられるし、そこそこ仕事もあるし、おいしいものも食べられるし。

しかし、今後そういったものはどんどん失われていく。
『日本が売られる』で書かれていることは警鐘ではない、なかば決定事項だ。
潤沢な水、高い教育、おいしくて安全な食べ物、高度な医療介護制度、そういったものが外国の資本家にどんどん売られている。ほかでもない、日本政府によって。

水、種子、農地、漁業権のような命にかかわるものから、教育や福祉といった豊かな生活に欠かせないものまで、次々に「規制緩和」の名のもとに大企業にとって有利な法律がつくられてゆく。生産者も消費者も得をしない、ただ株主だけが得をする法律。
そして先人たちが築いてきた金銭には換えられない財産がどんどん外国資本に売られてゆく。
読んでいるとだんだん背筋が冷たくなってくる。腹が立つ。なにもできない自分にむなしさをおぼえる。そして悲しくなる。国民の生活のことなど歯牙にもかけない政府を戴いていることに対して。

『日本が売られる』では「今だけ、カネだけ、自分だけ」というキーワードがくりかえし出てくる。
これはまさに投資家の論理だ。ほとんどの投資は儲けるのが目的だし、誰かが損をしないことには自分は得をしない。そして利益をもたらしてくれるのは今だけでいい。いずれダメになっても、その頃にはもう自分は売り抜けているから。

株式市場だけでやる分には「今だけ、カネだけ、自分だけ」でもいいのだろうが、それがわれわれの生活、特に公的インフラや医療や教育や環境のような長期的スパンで安定した結果が求められるものにはまったく向いていない。
「やってみてあかんかったからやめよーっと」というわけにはいかないのだ。投資家からしたら「もう日本はあかんわ。まともに人が住めるとこじゃなくなったわ。手を引こう」で済むだろうが、そこに住みつづけるわれわれは困る。

だからこそ国家というものがあり、国民の暮らしを守るために規制をかけたり富の再配分をおこなったりする。
ところが、その国家が先陣を切って「今だけ、カネだけ、自分だけ」を実践しているのだ。涙が出る。

国土が未曽有の水害に見舞われているときにカジノ法案を通すような政党が与党であるかぎりは、いつまでもこの状態はつづくだろう。



自動車やアニメなんかはどれだけ外国製品が入ってきてもかまわない。だからどんどん自由競争でやったらいい。
しかし教育やインフラは安ければいいというものではない。「消費者が複数を比較して自分にあったものを選択する」ことができないものだから、取返しのつかない事態になるまえに国家が保護しなければいけない。

だが、今の日本は逆のことをやっている。失うわけにはいかないものをどんどん叩き売っている。

その最たるものが水道だ。
2018年、水道民営化を進めるための水道法改正案が衆議院で可決された。
諸外国では、水道事業を公営化する動きが進んでいる。民営化させたら、料金が上がった、災害への復旧が遅くなった、水質が悪化したなどの悪影響が相次いだためだ。
あたりまえだ。
「民営化すれば効率化する」というのは、競争の原理がはたらくためだ。だが水道は民営化しても競争は起こらない。携帯電話会社のように「複数の水道の中から自分にあった一社を選ぶ」ことはできない。
地域内で一社独占になるのだから、利益を追求する民間企業が水道事業をするなら
「料金は払えるかぎりぎりぎりまで高く、水質はぎりぎりまで落とす。料金を払わない家庭に対しては即座に供給を停止する」が最適解となる。

民営化していいことなんてひとつもないと誰だってわかる。おまけに生命維持に直結するものだから「やってみてダメだったら元に戻そう」というわけにはいかない。
 民営化して米資本のベクテル社に運営を委託したボリビアの例を見てみよう。
 採算の取れない貧困地区の水道管工事は一切行われず、月収の4分の1にもなる水道料金を 「払えない住民が井戸を掘ると、「水源が同じだから勝手にとるな」と、ベクテル社が井戸使用料を請求してくる。
 困った住民が水を求めて公園に行くと、先回りしたベクテル社が水飲み場の蛇口を使用禁止にし、最終手段で彼らがバケツに雨水を溜めると、今度は一杯ごとに数セント(数円)徴収するという徹底ぶりだった。
それでも日本は世界の潮流に逆行して、水道の民営化を進めている。
喜ぶのは外国資本と投資家だけ。
「日本人は水と安全はタダだと思っている」といわれているが、そんな幸福な時代はもうすぐ終わりを告げるだろう。



高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』にも書かれていたが、日本人の多くは日本の農産物は安全と思っているが、外国からは「日本の農産物は農薬基準がゆるすぎるので危険」と思われているらしい。
 アグリビジネス業界にとって、頼れる味方はアメリカ政府だけではない。
 助け舟を出したのは、他でもない日本政府だった。
 翌年2017年の6月。農水省はグリホサート農薬の残留基準を再び大きく緩めることを決定し、パブリックコメントを募集し始める。
 今回はトウモロコシ5倍、小麦6倍、甜菜75倍、蕎麦150倍、ひまわりの種400倍という、本家本元アメリカもびっくりの、ダイナミックな引き上げ案だ。
 遺伝子組み換えでない小麦は本来グリホサートを使わないが、収穫直前にグリホサートを直接かけて枯らすと刈り取りやすくなるために、使う農家が増えている。よって小麦の残留基準 も6倍に上げられることになった。これで農家は小麦にも、遺伝子組み換え大豆よりも多い量のグリホサートを、たっぷり使えるようになる。
本来なら食の安全を守る立場にある農水省が、海外の農薬や種子会社が参入しやすいよう、規制をどんどん緩和しているそうだ。

ぼくらが何も知らずに「国産野菜だから安心」なんて思っているうちに、いつのまにか日本産は外国産よりも危険な食べ物になっているのだ。

この本の後半には、ロシアが国家をあげて自然栽培に舵をきりつつある姿が書かれている。
ロシア野菜に安全なイメージなんてまったくなかったけど、今後は変わってくるのだろう。
こういうとき、一党独裁国家は強い。
民主主義国家が目先のカネさえ稼げればいいと思って国土を切り売りしている間に、国家一丸となって長期的なビジョンに向かって突き進めるのだから。

中国やロシアのような一党独裁がいいとはいえないが、もしかしたら資本主義国家も似たり寄ったりなのかもしれない。国家が支配するか資本家が支配するかの違いだけで、一般国民の生活はさほど変わらないのかもしれない。いや、案外一党独裁国家のほうが「なにがなんでも国を守ろうとする」だけマシかもしれない。



この本の最後には、イタリアの五つ星運動など、「国を売らせない」ために行動をはじめた人たちの取り組みが紹介されている。
かすかな希望だ。だが『日本が売られる』に書かれているのは1%の希望と99%の絶望だ。
堤 未果『日本が売られる』より

堤 未果『日本が売られる』より

国の財産を売るための法律がどんどんつくられているのはもちろん国会の責任だが、国会議員以外の国民も無関係ではいられない。
そういう政治家を選んだのはわれわれだし、なにより消費者が目先の安いものをありがたがっているうちは、「日本が売られる」傾向はこれからもつづいていくだろう。
消費者が「高くても安全なものを買う」という意思を表示していれば、企業も質のいい財やサービスを提供せざるをえない。

ぼくは少し前から、生産者からの直販などでなるべく無農薬栽培のコメや野菜を買うようにしている(ときどきだけど)。
些細なことかもしれないけど、こういうことが少しでも「日本が売られる」を防ぐことにつながればいいなと思う。

【関連記事】

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』

アメリカの病、日本の病



 その他の読書感想文はこちら