2018年10月24日水曜日

【読書感想文】わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ / 本間 龍・南部 義典『広告が憲法を殺す日』


『広告が憲法を殺す日
国民投票とプロパガンダCM』

本間 龍  南部 義典

内容(e-honより)
憲法改正には、国会で三分の二以上の賛成と、「国民投票」で過半数の賛成が必要だが、二〇〇七年に制定された国民投票法には致命的な欠陥がある。海外の多くの国では原則禁止となっている「広告の規制」がほとんどなく、CMが流し放題となっているのだ。さらに日本の広告業界は、事実上の電通一社寡占状態にあり、その電通は七〇年にわたって自民党と強固に結びついている。これが意味することは何か―?元博報堂社員で広告業界のウラを知り尽くす本間龍と、政策秘書として国民投票法(民主党案)の起草に携わった南部義典が、巨大資本がもたらす「狂乱」をシミュレートし、制度の改善案を提言する。

近いうちに改憲の是非を問う国民投票がおこなわれるのではないかと言われている。
少なくとも首相は憲法を変えたそうだ(憲法改正、という手段が目的になっているように見えるが)。

個人的には改憲には消極的(というより改憲を目的とした改憲には反対)だけど、正当な憲法に記された手続に従って「国会議員の3分の2の同意」→「国民の過半数の賛成」という手順を踏んで改憲されるのであれば反対する理由はない。

ところが、その国民投票に関する法整備が欠陥だらけだと、本間龍氏(作家、元博報堂社員)、南部義典氏(法学者)は指摘する。
具体的には、広告を制限する仕組みがまるでないこと。このままだと、金を持っている陣営(今だと改憲賛成側)のCMがじゃんじゃん流されて、金にものを言わせた国民投票論争になるんじゃないか、ということだ。



ぼくは仕事で広告の運用をしているので、広告の効果をよく知っている(ネット広告だけだけどね)。

かつて、ぼくはこのブログで「広告の効果は大きいからデモ行進やるよりネット広告でも出したほうがよっぽど効果的だよ」と書いた。そしてその記事を広告配信した(数百円でも広告配信できるのがネット広告のいいところだ)。

すると「わざわざ広告をクリックしてサイトを見にくるやつなんかいない!」というコメントがつけられた。
ところが、そのコメントをつけた人は広告からやってきた人だったのだ!

広告は、多くの人が思っているよりずっと人々の行動に影響を与える。
にもかかわらず影響を受けた人が「自分は広告の影響を受けた」と思わない。
操られていることに気づかずに操られてしまうのが、広告のすごいところであり怖いところだ。

影響を与えないのであれば大企業が多大な金を広告に投じるはずがない。
広告を配信する側から言わせると、「自分は広告に影響されていない」と思っている人こそがいちばんのカモだ。

それに、テレビなどのメディアにCMを出稿するということは、いってみれば番組のスポンサーになるということだ。
ニュース番組や情報番組が、はたしてスポンサー様のご意向に反した報道をできるだろうか?
南部 「番組の提供枠」についてふと思い出したのですが、ドラマやバラエティ番組の出演者を選ぶキャスティングに、「スポンサーの御意向」が大きく影響するという話をよく耳にします。時にはそうした娯楽番組だけでなく、ニュース番組や討論番組などの報道番組でも、キャスターの降板や出演者の人選などについて、その真偽はともかく「スポンサーの御意向が影響している」といった声もありますよね。実際、ニュース番組の報道姿勢を理由に「スポンサーを降板する」と、公然と番組の内容に圧力をかける企業もあるようですし。
本間 僕が一番心配しているのも、実はその点です。賛成派と反対派、それぞれが流すCMは「立場」がハッキリしている。視聴者も「これは賛成派のCMだから」とか「これは反対派のCMだから」という前提で接するわけです。
 しかし、本来は「公平」な立場であるはずのニュース番組や朝のワイドショーなどでも、キャスター、出演者、コメンテーターなどの選び方、番組の構成やカメラワークなどの演出で、視聴者の印象を操作することは簡単にできます。例えば討論番組で、賛成派は若手論客を中心にキャスティングして、反対派は高齢の知識人を多めに呼ぶ、とかね。そうすると当然、賛成派は若々しく活発で、改革者的なイメージに映ります。
 放送法では、放送の「見せ方」や「演出」についての規定がありません。仮にそうした「番組内容」への間接的な影響、圧力があったとしても、それがあからさまなこと――例えば、各派の出演者の人数や、発言時間が明らかに不公平だというレベル――でない限り、基本的には「番組制作上」「演出上」の問題として扱われることになります。
 こうした、広告主に「忖度」して「便宜を図る」のは、放送局が日常的に行っていることです。



イギリスのEU離脱を問う国民投票の際は、離脱賛成派が嘘のデータを用いていたとして問題になった。
しかし、どれだけ嘘を並べたって投票日までにばれなければ問題にならない。
投票した後で嘘が明らかになったところで、投票の結果はひっくりかえらない。
国民投票は「騙したもん勝ち」なのだ。
本間 (中略)あとは、「フェイクニュース」まがいのCMもありうるでしょう。
南部 第1章で述べたように国民投票は人を選ぶ選挙ではないので、公職選挙法のように内容に踏み込んで禁止していません。もちろん明らかなデマや誹謗中傷する内容ならば民事、刑事の事件として司法上の解決を目指したり、JARO(日本広告審査機構)に訴え出ることはできると思いますが、結論が出るころには投票が済んで、その結果が確定している可能性がありますね。
少し前におこなわれた沖縄県知事選でも、候補者を貶めるデマが流出したことが明らかになった。
デマを広めるためだけの立派なサイトまで作られていたので、個人が勘違いで流してしまったようなデマではなく、明らかに組織的なデマの流布だ(そのサイトは選挙終了後すぐ閉鎖されたらしい)。

明確な罰則のある知事選挙でもそういった悪意のある戦術が用いられているのだから、規定のない国民投票であればもっとひどいデマが飛び交うことだろう。

国民投票制度のあるほとんどの国では広告規制があるにもかかわらず、日本ではまったく整備されていない。民放連も自主規制をしないそうだ。

テレビ局も、金になるならそれでいいという考えなんだろう。
経済は大事だが、憲法はもっと大事なんだけどなあ。
本間 やっぱり何度も投票を行っていろいろな経験も経ているから、テレビCMがヤバイということをよく分かっているのでしょう。CMは音と映像で非常に感覚的に人の興味を喚起できる。理屈ではなく、イメージや感覚で「人の心を操る技術」を使って作られるものですからね。
 EU離脱や憲法改正、あるいは脱原発だっていいのですが、そういう国の未来を左右するような、国民一人ひとりが真剣に向き合って考えるべき議論に、テレビCMを使ってイメージで影響を与えようという考え方が、根本的に間違っているのだと思いますよ。
 だから、なぜドイツは国民投票の制度がないのかという話になった時、その理由のひとつが「ナチスドイツ時代の失敗」にあるのだと聞いて、僕はとてもよく分かる気がしたのですね。というのも、ナチスは天才的に、当時のどの国よりも「広告」の力、それも「イメージ広告」の重要性と力を理解していたのだから。
 彼らは映像や音楽やファッションからプロダクトデザインに至るまで、今でいう「マルチメディア的」なアプローチで国民の気持ちを引き付けて独裁体制を確立した。そんなナチス体制下で行われた国民投票で、彼らの提案が有権者の約%%の支持を得て承認されたという事実は、そのまま「国民投票と広告」の問題がはらむ危険性を端的に示していると思いますね。
つくづく「憲法改正が是か非か」を問うより先に、「どういう国民投票制度をつくるべきか」という議論のほうが先だと思う。

頼むから、わかりやすいメッセージで伝えるのはやめてくれ。
憲法について話しあうのに、美しい音楽も容姿端麗なタレントもいらない。
ぼくらはばかなんだから、美しいプロパガンダCMを流されたらころっと騙されちゃうぞ!


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2018年10月23日火曜日

【読書感想文】クルマなしの快適な生活 / 藤井 聡『クルマを捨ててこそ地方は甦る』


『クルマを捨ててこそ地方は甦る』

藤井 聡

内容(e-honより)
日本人のほとんどが、田舎ではクルマなしには生きていけないと考えている。ゆえに、日本の地方都市は「クルマ」が前提になってできあがっている。しかし、今地方が「疲弊」している最大の原因は、まさにこの、地方社会が「クルマに依存しきっている」という点にある、という「真実」は、ほとんど知られていない。本書では、そうした「クルマ依存」がもたらす弊害を理論的に明らかにした上で、富山市のLRT(ライト・レイル・トランジット)導入を中心とした「交通まちづくり」の例や、川越の歩行者天国、京都市の「歩くまち京都」の取り組み事例などを参考に、「脱クルマ」を通して地方を活性化していく驚くべき手法を紹介する。

ぼくは車を持っていない。
以前は仕事で使うために持っていたが、転職したことと、大阪市内に引っ越したことを機に売っぱらってしまった。
なんせうちの近くで駐車場を借りると月三万円もかかるのだ。おまけに市内だと駐車スペースのない店のほうが圧倒的に多い。自動車なんて郊外に出かけるとき以外は無用の長物なのだ。
ちなみに自転車もない。地下鉄・JR・私鉄の駅が徒歩五分圏内にあるし、スーパーもショッピングモールも百貨店も徒歩圏内にあるのだから不便を感じない。
どうしても必要なときはタクシーを利用する。それだって車を保有することに比べたら屁みたいな金額だ。

車を持たない生活はとても快適だ。
車の購入費も駐車場代もガソリン代もオイル交換も定期点検も車検も保険も反則金もタイヤ交換もいらないのだ。
仕事のために車を持っていたときは、給料のかなりの部分が車の購入費と維持費に消えるし、点検やオイル交換で時間もとられてたいへんだった。これでは仕事のために車を持っているのか車を持つために仕事をしているのかわからない。

なにより、ストレスがないのがいい。
ぼくは運転が嫌いだ。というより怖い。運転するときは「事故死したらどうしよう」「人をひいてしまったらどうしよう」と終始びくびくしている。
ドライブが趣味、なんて人の気が知れない。自分や他人の命をかんたんに奪えるものを扱うのが楽しいなんてサイコパスなのか。ぼくにとっては「包丁持って歩くのが好きなんですよね、ひひひ」っていってるのと変わらない。
通勤電車のストレスなんて、運転のストレスに比べたらどうってことない。ほどよい距離を歩くのはむしろストレス解消になる。なにより電車では本を読めるのがいい。

とはいえ郊外の町で生まれ育ったので「車がないと生活できない」人の気持ちもわかる。
ぼくの実家は駅から徒歩四十五分。バス停からでも徒歩十分。駅だって田舎の何もない駅だ。坂だらけだから体力がないと自転車で移動もできない。
ぼくの両親はどこへ行くにも車、駅に行くのも車、週末はより郊外のジャスコ(今はイオン)でお買い物、という生活をしていた(歳をとったので駅から近い家に引っ越したが)。

趣味で車に乗っている人はおいといて、「生活必需品だから車に乗っているけど無くてもすむのなら手放したい」と思っている人も多いはず。
そうはいっても、少し郊外のほうに行くと車なしでは生活できないのが現実だよなあ。
……というのが多くの日本人の認識だと思う。ぼくもそう思っていた。



『クルマを捨ててこそ地方は甦る』では、富山市や京都市でモーダルシフト(輸送方法の転換)に成功した事例を通して、脱・クルマ社会への導入を提言している。

京都市では、四条通(京都市のメイン通り)の車線数を減らし、歩道を拡張したことで観光客数の増加につながった。
京都市の場合、車線を減らしたことの混乱は一時的なもので、付近の他の道が渋滞するようなこともなく(むしろ他の道も交通量が減ったそうだ)、観光客が歩きやすい街になった。

ぼくもこないだ久しぶりに四条通を歩いて、ぐっと歩きやすくなっていたことに驚いた。
以前の四条通は人通りは多いのに道は狭いしタクシーやバスや自転車でごちゃごちゃしていて、とてもショッピングを楽しみながら歩けるような道じゃなかったもんなあ。

自家用車がいかに空間をとるか、ということがよくわかる図。

国土交通省資料『LRT導入の背景と必要性』より
http://www.mlit.go.jp/crd/tosiko/pdf/04section1.pdf
 そしてこの「モーダルシフト」は、街の中心部の渋滞緩和に極めて効果的なのである。
 写真11をご覧いただきたい。これは、「同じ人数を運ぶ場合の、クルマ、バス、LRTの道路占有イメージ」の写真だ。
 この写真を見ればいかにクルマという乗り物が、広大な道路空間を占拠しているのかをおわかりいただけよう。写真左に写された夥しい数のクルマで運んでいる人間は、バスならばたった3台で運ぶことができるのだ。LRT(ライト・レイル・トランジット)という新しいタイプの路面電車の場合には、たった1車両で運ぶことができる。

これを見ると、交通量の多い街で自家用車を走らすことがいかにマイナスか、ということがわかると思う。都市環境にとっても地球環境にとっても。

「歩くのがたいへんだから車」という人は多いだろうが、そもそも車にあわせた街づくりをしているせいで歩くのがたいへんになっているのかもしれない。
街から車を追いだせば、建物と建物の間は近くなり、信号も減り、今よりずっと歩きやすい街になるはずだ。



京都市はほっといても世界中から観光客が訪れる日本有数の観光都市だから同じやりかたが他で通用するかはちょっと怪しいが、富山市の事例は他の都市にも参考になるはずだ。

富山市では、LRT(次世代型路面電車システム)への投資をおこない、街のコンパクト化、公共交通機関の利用者増に成功した。
 さて、こうしたLRT投資の結果、「クルマをやめて公共交通を使う」という行動変化、モーダルシフトを多くの人々において誘発し、公共交通利用者数は着実に増えていった。
 富山港線(ポートラム)についていうなら、この路線はかつてJRが運営しているローカル線だったのだが、これを富山市が譲り受け、一部線路(1.1km区間)を追加投資しつつ、LRTとして甦らせたのであった。結果、LRT化されてから、利用者は平日で約2倍、休日に至っては約4倍に膨れあがった。
 そして、事後調査によれば、「かつてはクルマを使って移動していたが、LRTができたのでクルマをやめてLRTで移動するようになった」という人々は、この新しく増えた利用者たちの2割以上を占めていた。
この背景には北陸新幹線の開業という強い追い風があったわけだが、それだけではこの成功は語れない。

富山市(人口約40万人)のような中核市でも成功しているのだから、各県の県庁所在都市とか、かつて栄えた城下町や港町のようなある程度のインフラ基盤がある都市であればうまくいきそうだ。
タイトルは「地方は甦る」となっているけど、さすがにどんな田舎にでもあてはまる話ではないけどね。



筆者はクルマをなくせ、といっているわけではない。
必要以上のクルマ依存から脱却しよう、という主張だ。人も、街も。

脱クルマ社会の到来は自動車メーカーにとっては困るだろうが、人口減、高齢者の増加、通信機器の発達など、社会は確実に「クルマなしで生活できる社会」を求めている。
ただ残念ながら「クルマに乗ろう!」のほうが「クルマを捨てて歩こう!」より金になるから、「クルマに乗ろう!」の声のほうが世間的には大きくなってしまうけど。

高齢者の中には運転技術に不安を覚えている人も多いだろうし、先述のように車を持つコストは大きい。公共交通機関なら渋滞や駐車場探しで無駄な時間をとられることもないし、アルコールも飲める。

クルマなしで生活できる社会のほうがずっといいに決まっている。
それは、現にクルマなしで生活しているぼくがよく実感している。

この先、自家用車は大型バイクのように「一部の趣味人のもの」になっていくかもしれないね。そうなってほしい。

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2018年10月22日月曜日

国民の皆様にお詫び申しあげます


まず、国民の皆様にお詫び申しあげます。
日本代表に選出していただいて、日の丸を背負ってオリンピックという舞台に立たせてしまったにもかかわらず、このような事態になってしまいなんとお詫びを申しあげてよいのやら……。

いえ、すべて私の責任です。自己管理もマラソン選手として重要な仕事です。それを怠ってしまったのですから弁解のしようもありません。


まず、シューズを忘れてしまったことについてですが……。
現地までは持っていっていたんですね。大事なものだからぜったいに忘れてはいけないと思い、前の晩、枕元に置いていたんです。そしたらそのまま忘れてしまいました。ふだんとちがうことをしないほうがいいですね。
気づいたのは出走十五分前でした。サンダルで現地に行って、さあ軽くウォーミングアップでもしようかと思ったところでシューズがないことに気がつきました。今から宿舎に取りにいってもまにあいません。
仕方なく、コーチのシューズを借りました。いえ、それは大丈夫です、ナイキのやつでしたから。
ただサイズがあわなかったんですね。コーチの足は私より1.0センチ大きいので。
九回もシューズが脱げたのはそのせいです。はい、すべて私の不注意によるものです。


それから公式のユニフォームを着ていなかったことについてですが……。
前の晩、ユニフォームを洗濯したんですね。大事な大会だからきれいなユニフォームで走らなきゃと思って。しかし洗濯機を回して、そのまま寝てしまったのです。
翌朝、洗濯機の中でびしょびしょになっているユニフォームを発見しました。今から干す時間はありません。
そこで練習用のウインドブレーカーを着て出走することにしました。幸い、ルール上はゼッケンさえつけていれば問題ないとのことだったので。
はい、とても暑かったです。通気性最悪なので。ウインドブレーカーですから。しかし早めに洗濯をしておかなかった自分の責任なので甘んじて受け入れるしかないと思ってそのまま走りました。


はあ。走りながら九回吐いてしまったことについてですか。
申し訳ございません、見苦しい姿を見せてしまって。
あれはですね、朝食を食べすぎたのが原因です。宿舎の朝食がビュッフェ形式だったのでついテンションが上がってしまって……。
洋食にするか和食で攻めるか迷ったんですが、どうせ同じ料金なら両方いってしまえと思ってクロワッサンとフレンチトーストとベーコンエッグとごはんと味噌汁と納豆と塩鮭とゆで卵を食べてしまったのです。今考えると、最後のゆで卵は余計でしたね。フレンチトーストとベーコンエッグで卵を摂取してますから。
いえ、トレーナーの責任ではありません。最終的に食べるという判断をしたのは私ですから、すべて私の責任です。


いえ、コーチに責任はありません。
九回道をまちがえてしまったことも、ハーフマラソンのペースで走って後半のペースがガタ落ちしたことも、事前の確認を怠ってしまった私に非があります。大会スタッフの方にもコーチにも落ち度はありません。


国民の皆様の期待に応えられるようなパフォーマンスを発揮できず、ほんとに申し訳ございません。
金メダルを獲得できたとはいえ、このような失態をお見せしてしまい、改めて深くお詫び申しあげます。

2018年10月21日日曜日

どうやったら子どもが本を読まないか


知人から
「犬犬さんとこの娘ちゃんは本が好きでいいですねえ。うちの子はぜんぜん本を読んでくれないんですよねー」
と言われた。

「まあ子どもが何を好きになるかなんてわかりませんよねー」
なんて答えたんだけど、先日その人のお宅におじゃまして、
「ああ、これは本を読まんわ」
と思った。

まず本がぜんぜんなかった。
すくなくともリビングルームにはまったく本がなかった。絵本も、大人の本も。

おもちゃがいっぱいあった。それもぬいぐるみとかおままごとセットとかの非言語的なおもちゃ。

テレビをずっとつけていた。
子どもが喜ぶ番組を常に流しているような状態だという。



ぼくは教育の研究者じゃないので「どうやったら子どもが本を好きになるか」はわからない。
でも、本好きとして「どうやったら子どもが本を読まないか」はわかる。

本よりもずっと手軽に楽しめるものを与えること、そして近くに本を置かないことだ。



娘(五歳)は本好きだ。
毎晩寝る前にぼくが一、二冊の本を読む。ひとりで本を読むこともある。小学生向けの本も読む(といっても全ページに挿絵のある本だけだが)。

本を読んだら賢くなるかどうかは知らないが、読まないよりは読むほうがいいとぼくは思っている。そっちのほうが人生を楽しめるから。

本を好きになるのはおもしろい本と出会えるかどうかで決まる。
おもしろい本と出会えるかどうかはどれだけたくさんの本を読んだかで決まる。
「数撃ちゃ当たる」だ。

一冊読むより五冊読むほうがおもしろい本と出会える可能性は高い。五冊読むより五百冊読むほうがずっと可能性は高い。それだけ。

だから手の届くところに本が山ほどあるという環境はすごく大事だ。



娘は同世代の子と比べるとだいぶ本好きだが、それでも誰かと遊ぶほうがずっと好きだ。
ぼくと遊んでいるときは「本読もう」とは言わない。誰かとレゴやトランプをするほうが好きだ。
ぼくが相手をできないときに、ひとりで本を読んでいる。

ぼくも本好きだが、他の何よりも好きというほどではない。気の合う友人と遊ぶほうがずっと楽しい。本は孤独や退屈を埋めてくれる手段ではあるが、最上の楽しみではない。

本より楽しいものを与えつづけていたら、そりゃあ本は読まないだろう。



本を読まない人は誤解しているようだ。
「読書好きの人は、本を読むことが何よりも楽しい」のだと。

いやいやそうでもないですよ。
読書ってそこまで楽しいものじゃないですよ、と読書好きとして言っておく

あれですよ、コーヒー。
コーヒーを好きな人は多いけど、彼らだって四六時中コーヒーばっかり飲みたいわけじゃない。
ご飯のときはお茶がいいし、和菓子には熱いお茶だし、運動をした後はスポーツドリンクか冷たい麦茶、仕事の後はビール、夜中に目が覚めたときは水。そして日曜日の朝にクロワッサンといっしょに味わうのは、コーヒー。
そんなもんですよ。オールウェイズ一位じゃないですよ。



ぼくがいちばんよく本を読むのは電車での移動時間だ。

「ある程度まとまった時間があるときに」「ひとりで」「特に道具も使わずに」「周囲に迷惑をかけずに」楽しめるものとしては、読書はすばらしい趣味だ。

でも「三十秒しかないとき」や「友人と一緒にいるときや」や「いろんなゲームがあるとき」には、読書はベストな選択肢ではない。

楽しいゲームや、気の置けない友人や、ぼくをちやほやしてくれる美女や、どれだけ使ってもなくならないお金をくれるんなら本なんて読みませんよ。あたりまえじゃないですか。
そういうのを誰もくれないからしょうがなく本読んでるんですよ。読書好きの人はみんなそうですよ!


2018年10月20日土曜日

お天道様は見ている


「お天道様は見ている」という表現はおもしろいな。

偉大なる存在はあなたを見ているからまっとうに生きなさいよ。という表現は世界中にあるだろう。

しかし、お天道様は四六時中出ているわけではない。
お天道様が出ているのは日中、それも好天気の日の夜明けから日没までだ。
つまりそれ以外の時間帯はお天道様は見ていない。

お天道様が見ているから悪さをしてはいけないということは、裏を返せばお天道様の出ていない時間帯なら悪さをしても大丈夫、ということになる。

そういや時代劇でも、人が悪事をはたらくのはたいてい夜だ。
夜に座敷で膝をつきあわせて「越後屋、おぬしもワルよのう」と賄賂のやりとりなんかをしている。
江戸時代、夜に灯りをつけている家はそう多くなかっただろうし、夜は今よりずっと静かだったはず。そんな中で灯りをつけて悪事の相談をしていたら誰かに聞かれる可能性が高かっただろうに。にぎやかな日中にやったほうがかえって気づかれにくかったんじゃなかろうか。
それでも悪代官たちが夜中に密談をしていたのは、やはりお天道様に見られたくなかったからかもしれない。



法律は、あえて厳密に定めずに解釈の余地を残すようにできていると聞く。
「人を殺したら死刑」だったら、快楽のために人を殺した者も、誰かを助けるためにやむなく手を上げたら死んでしまった人も同じく死刑にしなくてはならない。
だから「〇年以下の懲役」ぐらいのざっくりした法文にしておいて裁判官が個々の事情にあわせた刑罰を課せるようにしているのだとか。

人間、三百六十五日二十四時間正しく生きることは難しい。
ときには羽目をはずしたくなることもあるだろう。正義のために悪をはたらかなくてはならないこともあるだろう。

地獄について書かれた本を読むと、嘘をついたら地獄に落ちる、動物や虫を殺したら地獄行き、年寄りを敬わなかったら地獄、みだらなことをしたら地獄、スマホでゲームやりすぎたら地獄……とありとあらゆる地獄行き要件が定められ、これをきちんと適用させていたら誰も天国に行けなくなってしまう。

だからこそ「お天道様が見ている」なのかもしれない。
ちょっとぐらいの悪さをしてしまっても「今のはお天道様も見てなかったかもしれない」と言える。
一度道を誤ってしまっても立て直す余地を残している制度、それが「お天道様が見ている」なのではないだろうか。

だからぼくは風呂から上がって身体をよく拭かずに洗面所をびちょびちょにしてしまってもそれはお天道様に見られてなかったからセーフってことで。妻には見られてるけど。怒られてるけど。