2018年8月27日月曜日
サッカーがへただったサッカー少年
小学生のころ、サッカーチームに所属していた。
二年生のとき自分からサッカーをやりたいと言い、小学校のサッカーチームに入会した。
ぼくらのチームは弱かった。
市内の大会で初戦で負けることのほうが多かった。強いチームと当たると、7点ぐらい取られることもあった。小学校低学年のときは15分ハーフだったから、前後半あわせて30分で7点。5分に1点以上とられていたことになる。キーパーとディフェンスは大忙しで、フォワード陣はキックオフのときだけボールを触ってあとは立ち尽くす、みたいな状態だった。
ぼくらのチームが弱かった最大の原因は、人数が少なかったことだ。
ぼくらの小学校は1学年2クラスしかなかった。全員で80人。男子だけで40人弱。そのうちサッカーチームに所属していたのは3分の1ぐらい。だからメンバーは12人前後だった。多少メンバーが増えたり減ったりはあったが、だいたいそれぐらい。
1人休んだらギリギリ。2人休んだら下の学年から選手を借りてくる。下の学年もそんなに余裕がなかったから、相手チームから借りてくるようなこともあった。敵チームでプレイしないといけない子はやりづらかっただろうな。
ぼくはサッカーがへただった。リフティングが4回しかできなかった。
でも12人しかいないのだ。へたでも試合には出られる。12人のうちでワースト3位に入るぐらいのへたさだったので、ベンチをあたためることもあった。12人しかいないチームで控えになるのはさみしかった。自分以外全員プレーしてるんだもの。
メンバーにヨシダくんという子がいた。彼は上手でディフェンスの要だったが、彼にもひとつ弱点があった。車酔いがひどいのだった。10分でも車に乗ると必ず酔った。
試合のときはたいていコーチの車で移動する。大きい大会なんかだと1時間ぐらいかかることもある。そうするとヨシダくんは車酔いでダウンして、到着してからもしばらくぐったりしていた。
そうすると1試合目はヨシダくんの代わりにへたなぼくらがディフェンスを務めることになる。そんなこともあって、大きな大会ではまず初戦敗退だった。
自分からやりたいといって始めたサッカーだったが、熱心ではなかった。
家では野球中継ばかり見ていた。練習のない日は公園で友人と野球をしていた。野球が好きだった。でも野球チームに入ろうとは思わなかった。子どもってそんなものだ。自分から環境を変えようとしない。
あるとき、ゴールキーパーをやってみるかと言われた。
これが性にあった。ボールを蹴るのはへただったが、キャッチやパンチングは苦手ではなかった。
なによりぼくは向こうみずだった。相手フォワードが走りこんできても、まったく躊躇せずに身体で止めにいくことができた。スパイクで顔面を蹴られたこともある。鼻血が出て鼻にティッシュを詰めながらゴールを守った。12人しかいないのに控えのキーパーがいるはずないのだから。
ただ、キーパーの仕事はゴールを守ることだけではない。味方のディフェンスラインを決定したり、ゴールキックを蹴ったり、前線に指示を送ったり。ぼくはそういうことがまったくできなかった。なにしろオフサイドのルールもなんとなくでしか理解していなかったのだから。
相手シュートをキャッチ → ぼくのミスキックで相手にボールを取られる → シュート → ゴール みたいな点の取られ方が多かった。かくして、ゴールキーパーもクビになった。
ぼくにつきっきりでキーパーのテクニックを教えてくれたコーチは「キャッチングはいいんだけどな……」と残念そうだった。ぼくも残念だった。
ぼくがサッカーチームにいたのは1990年から1994年まで。
人気サッカー漫画『キャプテン翼』の連載が終わったのが1988年、ドーハの悲劇、Jリーグ開幕でサッカーブームが起こったのが1993年。ちょうど谷間の時期だった。
テレビでサッカーを観たことなど一度もなかった。なにしろ放映していなかったのだから。巨人戦が全試合中継され、野球中継延長のためにドラマやバラエティ番組が延長していた時代だ。
世の中がJリーグブームに沸きたち、サッカーチームにも見学者が増えた。相変わらずメンバーは増えなかったが。
そんな中、ぼくのサッカーへの熱は急速に冷めていった。あまのじゃくな性分だから、世間が流行っていると興味をなくしてしまうのだ。
Jリーグが開幕した翌年、ぼくはサッカークラブを辞めた。サッカーのうまい転校生がやってきてチームのメンバーが増えたこともあって「もういいや」という気になった。
ふしぎなもので、サッカーチームを辞めてからサッカーを好きになった。
高校生のときは毎日のように学校帰りに友人たちと公園でサッカーをしていた。制服のままで。
小学生のときはゴロのボールしか蹴れなかったのに、センタリングもいつしかあげられるようになった。フリースローはちゃんと遠くまで飛ばせるようになったし、ボールを持ったら周囲を見渡す余裕も生まれた。
サッカーチームで毎週練習をしていたときはできなかったのに、身体が大きくなったら自然とできるようになっている。ふしぎなものだ。リフティングは今も4回しかできないけど。
うまくなるまで練習をするんじゃなく、楽しめるようサッカーのゲームをする。サッカークラブがそんな方針でやっていたなら、ぼくもサッカーを続けていたかもしれない。
社会人になってからも、何度かフットサルに参加した。元サッカー部にはかなわないけど、それでもそこそこの活躍はできる。
おっさんになってからのサッカーは、技術以上に「どれだけ走れるか」がものをいう。
いろんなプレーができるようになってみると、サッカーは楽しい。
うまい子たちはこんな感覚を味わっていたのか。自分の放ったシュートがゴールの端ぎりぎりに決まったときの感触ったら、魔法でも使ったような気分だ。そりゃ世界中に愛されるスポーツになるわ。
好きこそものの上手なれ。それと同じくらい、上手こそものの好きなれなんだなと思う。
2018年8月26日日曜日
都合の良い夢を見せるんじゃない!
小説を読んでいて、夢のシーンが出てくるとげんなりする。
おもしろい小説でも夢が出てきたとたんに評価はがた落ちだ。
たとえばこんな描写だ。
はい、へたくそ。
はい、安直。
はい、ダメ小説。
心中描写のために都合の良い夢を見せるんじゃない!
夢に主張をさせるんじゃない!
夢は夢だ。ツールとして使わないでほしい。
「悩みがあるときにその状況を暗示するような夢を登場人物に見せる」という使われ方が多い。
だが、はたして悩んでいるときに悪夢を見るだろうか。
ぼくが悪夢を見るときの状況は、たいてい決まっている。
「激しい運動をしてすごく疲れている」「暑くて寝苦しい」「体調が悪い」など、つまり身体的な疲労があるときだ。
身体が疲れている ⇒ レム睡眠で身体を休める ⇒ 頭は活性しているので夢を見る ⇒ 肉体的な不快感と脳の活性により悪夢を見る
という仕組みだと思う。
逆に、悩みや心配事があるときはノンレム睡眠が多いのであまり夢を見ない。見ても覚えていない。
そういう点でも「悩みごとがある登場人物が暗示的な夢を見る」は嘘くさい。
嘘をついているときに追われている夢とか、ピンチのときに深い穴に落っこちてゆく夢とか、人を探しているときに探し物が見つからない夢とか、まったくひねりが利いていない。
小説内で夢の描写をするのであれば、これぐらいリアリティを出してほしい。
実際、夢ってこんな感じでしょ?
2018年8月24日金曜日
寄附したのに満足感がない
最近、二回寄附をした。
ひとつは、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への寄附。世界各国の難民援助に使われるのだという。
駅前で寄附を呼びかけていたので、ちょうどシリア難民の本を読んでいたこともあり、月々2,000円ずつ寄附をする手続きをした。
もうひとつは、娘の通っている保育園。
園舎が老朽化しているが保育料だけでは改修・補強費用を捻出するのが厳しいので5,000円の寄附をお願いします、というお便りが来た。5,000円を支払った。
どちらも自分で意志でしたことだ。お願いはされたが断っても良かった。
でも、少しでも貢献できるなら、という思いで寄附をした。自己満足のためだ。
しかしどうも満足感が得られない。自己満足のためにやったのに。
後悔しているわけではないが、「やった! いいことした! ぼくえらい!」という感触が得られない。
「おかげで難民の家族で二ヶ月分食べていく食糧が手に入りました」
とか
「保育園の階段のこのくずれかけていた部分は〇〇さんの寄附金で修復しました」
みたいな成果がわかりやすく目に見えればいいんだけど。
が、まあそれはむりな話だ。
難民がぼくと会うことはないだろうし、難民だっていちいち寄附した人に感謝なんかしてないだろう。ぼくも道路を歩くたびに納税者に感謝なんかしない。
思うに、何ももらえないのが「満足感のなさ」につながっている気がする。
いや寄附ってそういうもんでしょと言われたらそれまでなんだけど、やっぱり何かほしい。
「寄附してない人と寄附した人が同じ」ってのが嫌なんだろうな。なんか損した気分になる。
市場経済にどっぷり浸かって暮らしているぼくとしては、お金を払った以上は何かもらいたい。品物なりサービスなり。「何ももらえないけど2,000円寄附する」よりも「UNHCR限定ボールペンを3,000円で買う」のほうが心理的抵抗が少ない。100円で売ってるような安いボールペンでもいいから。
ほら、赤い羽根共同募金みたいなの。あんなんでいいのよ。赤い羽根。あんなのべつにいらないでしょ? あんなのつけてるの小学生と代議士だけでしょ。でもあれをもらえることで、寄附への抵抗がぐっと下がる。
海外の映画を観ていると、子どもたちが「恵まれない子どもたちのためにクッキーを買ってください」なんて言いながら家をまわるシーンが出てくる。
あれ、すごくいい。「寄附してくれ」じゃなくて「クッキー買って」というのがいい。あれならお願いする側も卑屈にならなくてすむし、お願いされる側も応えやすい。
ハロウィンのトリックオアトリートとかどうでもいいから、ああいう習慣を日本でも取り入れたらいいと思う。
「いやいや見返りがないからこそ寄附という行為は価値があるのだ」と高邁な精神をお持ちの方はいうかもしれないけど、ぼくみたいな俗物はやっぱり見返りがほしいんだよ。
ああ、小さい人間さ。
2018年8月23日木曜日
【読書感想文】殺し屋.comという名発明/曽根 圭介『暗殺競売』
『暗殺競売』
曽根 圭介
まずどうでもいいことを書くと、表紙が嫌いだ。文字の縦横比率をつぶすのがイヤなんだよね。見ていてすごく気持ち悪い。
それはそうと、本文はおもしろかった。曽根圭介氏らしい「よく作りこまれているけどでもちょっとゆるいサスペンス」という感じ。
曽根圭介作品って粗だらけなんだよね。伏線は回収するけど手つかずのまま残すものもあるし、会話はハードボイルド風で現実離れしてるし、キャラクターはステレオタイプだし。
でもぼくは好きなんだよね。小説としてはうまくないけど、それが逆にストーリー運びの邪魔をしてなくていい。漫画的だから漫画化すればすごくおもしろくなりそう。
乾いた残酷さやブラックユーモアも好み。警察署のマスコットキャラクターが「パクルくん」とか殺し屋向け暗殺道具のオンラインショップが「昇天市場」とか。
"殺し屋.com" というサイトが小道具として登場する。
殺し屋.comにはターゲット・殺し方・期日などを指定した暗殺依頼が掲載されており、会員である殺し屋たちが案件入札をする。逆オークション形式で、いちばん安い値をつけた殺し屋が落札。暗殺に成功すれば入札した報酬がもらえ、失敗すれば運営組織から追われることになる。
これ、なかなかいい仕組みだよね。金を払ってでも殺しを依頼したい人と金のためなら殺人をしてもいい人をマッチングするサービス。運営者は手数料で稼げるし、同時に運営している"昇天市場"で銃やスタンガンを売ることでも利益が出る。いやあ、いい仕組みだ。非合法ということを除けば。
ただ、暗殺に失敗した場合に組織から残虐な殺され方をするってのがいまいち腑に落ちない。そんなことしても組織にはコストがかかるだけでメリットないのに。「失敗したときは報酬を受け取れない」だけでいいんじゃないかな。貴重なお客様をわざわざ減らさなくていいのに。
"殺し屋.com"の運営者の正体は最後まで明らかにならない。裏切者への始末の理由もいまいちよくわからない。いろんな謎が残されたまま物語は終わってしまう。
"殺し屋.com"はいいアイデアだから、もしかしたらこの設定を活かした続編もあるのか……?
その他の読書感想文はこちら
2018年8月22日水曜日
替えどきがわからない
「爪伸びてるね」と人から言われる。
「髪伸びてきたね」と人から言われる。
言われてようやく気づく。自分ではなかなか気がつかない。
切り替えるタイミングが人より遅いようだ。
ぼくの歯ブラシはだいたいボロボロだ。古いのを捨てて新しいのに替えるタイミングがわからず、ヤスデの脚のように左右に広がりきった歯ブラシを使いつづけてしまう。
パンツを買い替えるタイミングもわからない。靴下のように穴が開いてくれたらそれを機に捨てられるのだけれど、靴下とちがってパンツはめったに破れない。粗相をしてしまうことでもないかぎり、「今こそ買い替えどき!」とならない。
靴も履きつづけてしまう。もう皺が寄って変色して、見た目はずいぶんボロくなっているが、足を守るという機能的には問題ないので捨てられない。
以前は「ものもちがいい」という美徳によるものだと思っていたが、「爪を切るのが遅い」「髪を切るのが遅い」と同じく、切り替えるタイミングがわからないだけなのではないかと気づいた。三十歳を過ぎてから気づくのだから、これに気づくのも遅い。
身のまわりのことに、極力脳のリソースを使わないようにしているせいかもしれない。「そろそろ歯ブラシ買い替えたほうがいいかな?」と考えるのは疲れる。昨日と同じ歯ブラシを使っていれば頭を使わなくて済む。
明日も今日と同じ日でありますように。今日と同じ髪の長さ、爪の長さでいられますように。
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