2018年8月26日日曜日

都合の良い夢を見せるんじゃない!


小説を読んでいて、夢のシーンが出てくるとげんなりする。
おもしろい小説でも夢が出てきたとたんに評価はがた落ちだ。

たとえばこんな描写だ。

 何かに追われていた。薄暗い森の中を走っていた。
 出口は見つからず、走っても走っても暗闇の中だった。木々の茂みに身を隠し、ほっと一息ついたときに背中に息がかかるのを感じた。なぜか後ろをふりかえることができなかった。このまま捕まる、という予感だけが強くあった。

 けたたましい携帯のアラーム音で目が覚めた。
 汗でじっとりと濡れたシャツが背中に張りついて不愉快だった。

はい、へたくそ。
はい、安直。
はい、ダメ小説。

心中描写のために都合の良い夢を見せるんじゃない!
夢に主張をさせるんじゃない!
夢は夢だ。ツールとして使わないでほしい。


「悩みがあるときにその状況を暗示するような夢を登場人物に見せる」という使われ方が多い。
だが、はたして悩んでいるときに悪夢を見るだろうか。

ぼくが悪夢を見るときの状況は、たいてい決まっている。
「激しい運動をしてすごく疲れている」「暑くて寝苦しい」「体調が悪い」など、つまり身体的な疲労があるときだ。

身体が疲れている ⇒ レム睡眠で身体を休める ⇒ 頭は活性しているので夢を見る ⇒ 肉体的な不快感と脳の活性により悪夢を見る

という仕組みだと思う。
逆に、悩みや心配事があるときはノンレム睡眠が多いのであまり夢を見ない。見ても覚えていない。

そういう点でも「悩みごとがある登場人物が暗示的な夢を見る」は嘘くさい。

しかも、すごく単純だ。
嘘をついているときに追われている夢とか、ピンチのときに深い穴に落っこちてゆく夢とか、人を探しているときに探し物が見つからない夢とか、まったくひねりが利いていない。
小説内で夢の描写をするのであれば、これぐらいリアリティを出してほしい。

 祥子はもう見つからないかもしれないと思いながら布団に入った。日中の疲れからか、私はすぐ眠りに落ちた。

 横にいるのは中学校のとき陸上部で一緒だった門倉だ。ラグビーをしているらしい。大事な大会に出場している。私は焦っていた。他の人はみんなユニフォームを着ているのに私だけパジャマのままだ。しかもラグビーのルールがわからない。観客席に死んだはずのおじいちゃんとおばあちゃんがいる。見えないけどなぜかそれがわかる。ボールがまわってきてうまくプレーできなかったら恥ずかしい。私は誰にも見つからないようにそっとラグビーコートから抜けだすことにした。ロッカールームに行くと弁当の時間になった。電車が出発するから急いで弁当を食べないといけない。弁当を食べる前に手を洗わないと、と思った。ついでにトイレにも行きたいな、と思ったところで目が覚めた。尿意を感じた。

 トイレから出たとき、警察署から連絡があった。祥子のものらしき遺体が見つかったとので確認しにきてほしいということだった。

実際、夢ってこんな感じでしょ?


2018年8月24日金曜日

寄附したのに満足感がない


最近、二回寄附をした。

ひとつは、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)への寄附。世界各国の難民援助に使われるのだという。
駅前で寄附を呼びかけていたので、ちょうどシリア難民の本を読んでいたこともあり、月々2,000円ずつ寄附をする手続きをした。

もうひとつは、娘の通っている保育園。
園舎が老朽化しているが保育料だけでは改修・補強費用を捻出するのが厳しいので5,000円の寄附をお願いします、というお便りが来た。5,000円を支払った。

どちらも自分で意志でしたことだ。お願いはされたが断っても良かった。
でも、少しでも貢献できるなら、という思いで寄附をした。自己満足のためだ。

しかしどうも満足感が得られない。自己満足のためにやったのに。
後悔しているわけではないが、「やった! いいことした! ぼくえらい!」という感触が得られない。

「おかげで難民の家族で二ヶ月分食べていく食糧が手に入りました」
 とか
「保育園の階段のこのくずれかけていた部分は〇〇さんの寄附金で修復しました」
 みたいな成果がわかりやすく目に見えればいいんだけど。

が、まあそれはむりな話だ。
難民がぼくと会うことはないだろうし、難民だっていちいち寄附した人に感謝なんかしてないだろう。ぼくも道路を歩くたびに納税者に感謝なんかしない。


思うに、何ももらえないのが「満足感のなさ」につながっている気がする。
いや寄附ってそういうもんでしょと言われたらそれまでなんだけど、やっぱり何かほしい。

「寄附してない人と寄附した人が同じ」ってのが嫌なんだろうな。なんか損した気分になる。

市場経済にどっぷり浸かって暮らしているぼくとしては、お金を払った以上は何かもらいたい。品物なりサービスなり。
「何ももらえないけど2,000円寄附する」よりも「UNHCR限定ボールペンを3,000円で買う」のほうが心理的抵抗が少ない。100円で売ってるような安いボールペンでもいいから。
ほら、赤い羽根共同募金みたいなの。あんなんでいいのよ。赤い羽根。あんなのべつにいらないでしょ? あんなのつけてるの小学生と代議士だけでしょ。でもあれをもらえることで、寄附への抵抗がぐっと下がる。

海外の映画を観ていると、子どもたちが「恵まれない子どもたちのためにクッキーを買ってください」なんて言いながら家をまわるシーンが出てくる。
あれ、すごくいい。「寄附してくれ」じゃなくて「クッキー買って」というのがいい。あれならお願いする側も卑屈にならなくてすむし、お願いされる側も応えやすい。
ハロウィンのトリックオアトリートとかどうでもいいから、ああいう習慣を日本でも取り入れたらいいと思う。


「いやいや見返りがないからこそ寄附という行為は価値があるのだ」と高邁な精神をお持ちの方はいうかもしれないけど、ぼくみたいな俗物はやっぱり見返りがほしいんだよ。
ああ、小さい人間さ。


2018年8月23日木曜日

【読書感想文】殺し屋.comという名発明/曽根 圭介『暗殺競売』


暗殺競売

曽根 圭介

内容(e-honより)
副業で殺しを請け負う刑事、佐分利吾郎。認知症の殺し屋のアカウントを乗っ取ったホームヘルパーの女。成功率100%、伝説の凄腕殺し屋ジャッカル。闇の“組織”へと肉迫する探偵、君島。暗殺専門サイト“殺し屋.com”をめぐり、窮地に追い込まれてゆく彼らを待ち受けるのは、希望か、破滅か。日本ホラー小説大賞、江戸川乱歩賞、日本推理作家協会賞、史上初の3冠を達成した異才が放つ、奇想天外の殺し屋エンタテインメント!

まずどうでもいいことを書くと、表紙が嫌いだ。文字の縦横比率をつぶすのがイヤなんだよね。見ていてすごく気持ち悪い。

それはそうと、本文はおもしろかった。曽根圭介氏らしい「よく作りこまれているけどでもちょっとゆるいサスペンス」という感じ。
曽根圭介作品って粗だらけなんだよね。伏線は回収するけど手つかずのまま残すものもあるし、会話はハードボイルド風で現実離れしてるし、キャラクターはステレオタイプだし。

でもぼくは好きなんだよね。小説としてはうまくないけど、それが逆にストーリー運びの邪魔をしてなくていい。漫画的だから漫画化すればすごくおもしろくなりそう。
乾いた残酷さやブラックユーモアも好み。警察署のマスコットキャラクターが「パクルくん」とか殺し屋向け暗殺道具のオンラインショップが「昇天市場」とか。

"殺し屋.com" というサイトが小道具として登場する。
殺し屋.comにはターゲット・殺し方・期日などを指定した暗殺依頼が掲載されており、会員である殺し屋たちが案件入札をする。逆オークション形式で、いちばん安い値をつけた殺し屋が落札。暗殺に成功すれば入札した報酬がもらえ、失敗すれば運営組織から追われることになる。
これ、なかなかいい仕組みだよね。金を払ってでも殺しを依頼したい人と金のためなら殺人をしてもいい人をマッチングするサービス。運営者は手数料で稼げるし、同時に運営している"昇天市場"で銃やスタンガンを売ることでも利益が出る。いやあ、いい仕組みだ。非合法ということを除けば。
ただ、暗殺に失敗した場合に組織から残虐な殺され方をするってのがいまいち腑に落ちない。そんなことしても組織にはコストがかかるだけでメリットないのに。「失敗したときは報酬を受け取れない」だけでいいんじゃないかな。貴重なお客様をわざわざ減らさなくていいのに。

"殺し屋.com"の運営者の正体は最後まで明らかにならない。裏切者への始末の理由もいまいちよくわからない。いろんな謎が残されたまま物語は終わってしまう。
"殺し屋.com"はいいアイデアだから、もしかしたらこの設定を活かした続編もあるのか……?


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2018年8月22日水曜日

替えどきがわからない


「爪伸びてるね」と人から言われる。
「髪伸びてきたね」と人から言われる。

言われてようやく気づく。自分ではなかなか気がつかない。

切り替えるタイミングが人より遅いようだ。
ぼくの歯ブラシはだいたいボロボロだ。古いのを捨てて新しいのに替えるタイミングがわからず、ヤスデの脚のように左右に広がりきった歯ブラシを使いつづけてしまう。

パンツを買い替えるタイミングもわからない。靴下のように穴が開いてくれたらそれを機に捨てられるのだけれど、靴下とちがってパンツはめったに破れない。粗相をしてしまうことでもないかぎり、「今こそ買い替えどき!」とならない。

靴も履きつづけてしまう。もう皺が寄って変色して、見た目はずいぶんボロくなっているが、足を守るという機能的には問題ないので捨てられない。

以前は「ものもちがいい」という美徳によるものだと思っていたが、「爪を切るのが遅い」「髪を切るのが遅い」と同じく、切り替えるタイミングがわからないだけなのではないかと気づいた。三十歳を過ぎてから気づくのだから、これに気づくのも遅い。

身のまわりのことに、極力脳のリソースを使わないようにしているせいかもしれない。「そろそろ歯ブラシ買い替えたほうがいいかな?」と考えるのは疲れる。昨日と同じ歯ブラシを使っていれば頭を使わなくて済む。

明日も今日と同じ日でありますように。今日と同じ髪の長さ、爪の長さでいられますように。


2018年8月21日火曜日

親が子に伝えること


子どもに伝えたいことはたくさんある。

でもそれってだいたいかつて自分の親に言われたことだ。

親から口うるさく言われて、でも聞き流して、大人になってから「ちゃんと聞いときゃよかった」と思う。

背筋を伸ばして座りなさいとか、ちゃんと歯みがきしなさいとか、使い終わったら元あったところに片付けなさいとか、他人の失敗は許してやりなさいとか。

言われるたびに「あー、はいはい」と聞き流していた。


娘に「まっすぐ座ってね」「他人ができてないことは言わなくていいから自分のことをやりなさい」と言うたびに、かつて同じことを言われていたことを思いだし、ぼくが伝えていることもどうせ聞き流されるんだろうなと思う。

無駄だろなーと思いながら、でも一応言う。
せめて、娘が自分の子を持ったときにぼくの言葉をちょっとでも思いだしてくれればいいなと思いながら。