2018年7月5日木曜日

ファイトの軽薄さ


中学生のとき陸上部に所属していた。専門は長距離。
走ることは好きだったが、応援されるのは嫌いだった。
特に大会になると、沿道に同じ学校の生徒(短距離とか幅跳びとかの選手)が並び、「ファイト―!」と声をかけてくる。先輩、同級生、後輩、特に女子が多い。
ぼくはハッハッと息を吐いて走りながら「うるせえ死ね」と思っていた。

長距離走、という種目がよくなかった。
百メートル走だったら声援なんて聴いている余裕はないし、砲丸投げのような投擲競技や走り幅跳びのような跳躍競技であれば選手の集中を妨げないように観客は静かにしている。
だが長距離だと声援がはっきり聞こえる。誰が何を言った、と理解する余裕もある。だから余計に声援を送ってくるのだろう。

女子に応援されるなんてうれしいじゃないか、と思うかもしれない。だがそんなことはない。
野球のバッターボックスに立っているときに女子から声援を送られたらぼくだってうれしい。きりっとした顔をつくる余裕だってあるだろう。
だが長距離走だ。汗はだらだら、息ははぁはぁ、足はよれよれ、はっきりいって気持ち悪い。そんな姿を見られたくない。そっと目を背けてくれ、と思う。

こっちがめちゃくちゃ苦しいのに何もしてないやつが「がんばれー!」と言ってくることに腹が立った。言われんでもがんばっとるわ、この苦しそうな顔を見てわからんのかい、今以上がんばったらせっかくキープしてるペースがくずれるやろがい、と憎悪の念が湧いてくる。

特に「ファイトー!」が嫌いだった。なんと軽い言葉だろう。無責任きわまりない。
自分の子どもが徴兵されてこれから戦地に赴くことになるとする。なんと声をかけるだろう。「しっかりやってこい」だろうか、「生きて帰ってこいよ」だろうか、あるいは無言で手を握るかもしれない。少なくとも「ファイト―!」ではないだろう。うすっぺらすぎる。
「ファイト」には、本気で応援する気持ちはこもっていない。

中島みゆきはちゃんとその嘘くささを見抜いていて、『ファイト!』という絶望感たっぷりの歌を作っている。あの歌を「がんばる人への応援歌」と言っている人がいるが、何もわかっていない。あれは「ファイト!」の軽薄さを唄っているのだ。沿道の人間がマラソン選手に送る「ファイト―!」からもっとも遠いところにある歌だ。

チームメイトから応援されるのなら、わかる。サッカーのPKを蹴る選手にチームメイトが「決めろー!」と応援するのは納得がいく。彼のパフォーマンスが自分にとっても利益になるからだ。
だが陸上競技は、駅伝以外は個人種目だ。応援されても「おまえらには関係ないだろ」と思う。
ぼくがひねくれてただけかな。
でも学校のテストで同級生を応援しないんだから、個人競技に出場している同級生を応援するのも変じゃないか?
今にして思うと、応援が不快だったのは、ぼくに「学校を背負って走ってる」気が微塵もなかったからかもしれないな。


陸上部時代の嫌な思い出があるからか、今でも応援は好きじゃない。応援するのも、されるのも。
といってもこの歳になると人から応援されることなんてそうそうないんだけど。せいぜい保育園の保護者リレーで走ったときぐらい。
でも保護者リレーで走っているときに「がんばれー!」と言われても嫌な気にならない。それは本気でがんばってないからなんだろうな。「そんなに速くないし、がんばれと言われて当然」ぐらいの気持ちで受け止めることができる。

ということで、ほんとにがんばっている人に「がんばれ」と言うのはよくないね。
デブにデブと言ってはいけないのと同じだね。ちがうか。


2018年7月4日水曜日

怒りのすりかえ


娘が二歳のとき、いわゆる「イヤイヤ期」が訪れ、いったん火がつくと何をするのもイヤと言うようになった。

そんなときにぼくが対策としておこなっていたのが「怒りのすりかえ」である。

たとえば、
今からごはんというときに「イヤだ! おでかけする!」と娘が怒りだす
 ↓
「よし、はみがきしよう!」といって歯ブラシを取りにいく
 ↓
娘、「イヤだ! はみがきしたくない!」と暴れる
 ↓
ひとしきり暴れさせた後に「わかったわかった、じゃあはみがきしなくていいよ」と言う
 ↓
娘、少し落ち着く。この時点で「おでかけ」のことは忘れている
 ↓
「じゃあごはん食べよっか。大好きな納豆あるよ」と声をかける
 ↓
娘、機嫌を直して食卓につく


百パーセントではないが、このやりかたでうまくごまかせることがあった。
ただ「イヤ!」といって我を通したいだけなので、べつの話題を持ちだして「イヤ!」が通ったことにしてあげれば納得するのである。



仕事をしていると、ときどきイヤイヤ期の人に出くわす。
ただケチをつけたいだけ、自分の要望を通したいだけ、の人。


そういう人に話を通さなければならないときは、
「わざとわかりやすいミスを作っておく」
「無理めな要求を入れておく」
とするとうまくいく。

「ここが違うから直せ!」とか「こんなの認められん!」とかいうので、
少し逡巡したふりをしてから「わかりました。ご要望通りに対応します」といえば、わりと納得してくれるのだ。

怒りのすりかえ、二歳児以外にも使えるテクニックだ。


2018年7月3日火曜日

新刊のない図書館


よく大阪市立図書館に行く。子どものえほんを借りるのが目的だ。
ぼくは本を買うのが好きなので(読むために買うというより買うために読んでいるというぐらい)ずっと図書館とは無縁の生活を送ってきたのだが、子どもができて図書館を利用するようになった。

えほんはすぐ読みおわるし、かさばるし、値段は高い。
次々に買っていたら財布がもたない。毎週のように図書館に出かけて、肩がもげるぐらいリュックいっぱいにえほんを詰めて帰る。



大人の本はほとんど借りないが、図書館の棚を見るのは好きだ。
図書館の書架は書店とはだいぶ味わいが異なるので、他人の本棚を見るような楽しさがある。

しばらく見ているうちに気づいたことがある。
ある時期を境に新しい本が入っていない。



ぼくは書店で働いていたこともあるので、本の流行りには敏感だ。
図書館の本棚には、十年前のベストセラー、二十年前のベストセラーはあるけど、ここ数年に売れた本がほとんど並んでいない。
たとえば1990年代~2000年代前半にヒットを飛ばしていた宮部みゆきの本は充実している。ほぼ全作品が並んでいる。だが近年の人気作家の本は少ない。あっても古い本しかなかったりする。

はじめは借りられているだけかと思った。だが、注意してチェックしてみると、いつ見てもない。そもそも置いていないらしい。
まあそれはいい。図書館に新刊の文芸書を置くことはぼくも反対だ。趣味の本は買って読んでほしい。図書館に置くのは新刊書店で手に入らなくなった本だけでいいと思っている。

だが、新しい本がないのは文芸書だけではないことにも気づいた。実用書も古い本だらけだ。
たとえばパソコン入門書のコーナーなどを見てみると、十年ぐらい前の本がずらりと並んでいる。『わかる! Excel2007』なんて本が堂々と置かれている。
パソコン書の世界で十年前なんて大昔だ。医学書の棚に『解体新書』が置かれているようなものだ。

生活に困っている人が仕事を探すにあたりパソコンスキルを身につけようと図書館に行く、なんてシチュエーションもあるだろう(なにしろ大阪市の生活保護受給率は政令指定都市の中でナンバーワンだ)。
そんなときにExcel2007の本しかなかったら困るだろう。
図書館ってそういう人のためにあるものだと思うのだが。


どうしたんだろう。
どうして大阪市はここ十年ほど図書館の蔵書を増やすことを放棄してしまっているのだろう、と首をかしげていたのだが、2011年に大阪維新の会の橋下徹氏が大阪市長になったことに気づいて「ああそういうことかな……」と深くため息をついた。


2018年7月2日月曜日

【読書感想文】 橘 玲『朝日ぎらい』


『朝日ぎらい
よりよい世界のためのリベラル進化論』

橘 玲

内容(e-honより)
朝日新聞に代表される戦後民主主義は、なぜ嫌われるのか。今、日本の「リベラル」は、世界基準のリベラリズムから脱落しつつある。再び希望をとり戻すにはどうすればいいのか?現象としての“朝日ぎらい”を読み解いてわかった、未来に夢を与える新しいリベラルの姿とは。

主に「国内外のリベラル派の置かれている状況」について書かれていて、「朝日」はメインテーマではない。どっちかっていうと「リベラル嫌い」について語っている本。
タイトルからは「朝日新聞出版から出している本にこんなタイトルつけても許しちゃうなんて懐が広いっすよね」というリップサービス感が漂ってるけど、内容はすごくおもしろかった。
橘玲氏のべつの著作『言ってはいけない』もそうだったけど、「そんなこと言っちゃまずいんじゃないの」ということを、実験データに基づいてずばずば書いてしまうのがおもしろい。

たとえば、知能が低い人ほど保守派になりやすいとか。
知的好奇心が高く、言語運用能力の高い人ほどリベラルに、そうでない人ほど保守派になりやすい傾向があるそうだ(あくまで傾向)。
知能の高い人ほど社会的に成功しやすい。つまり、成功者ほどリベラルである傾向が強い。
だからといってリベラルの主張通りに世の中が動かないのがおもしろいところだ(リベラルからすると困ったことだが)。アメリカ大統領選でトランプ氏がクリントン氏を破ったことやイギリスがブレグジット(EU離脱)を決定したのがまさにその典型で、賢い人が「立派なこと」を言うと、「えらそうにしやがって」「きれいごと言ってんじゃねえよ」と反発する人が世の中にはたくさんいるのだ。

「朝日」が嫌われるのも同じ理由で、高学歴な社員たちが「誰もが住みよい世の中にしよう」「弱者を守ろう」なんて主張をしても、「上から目線で言いやがって」「おまえらは高収入もらってるからきれいごと言ってられるけどよ」と反発を招く。
本来ならリベラルが守ろうとしている人たち(社会的弱者やその予備軍)までもが、「高学歴で大手企業に勤めてるやつらの言うことなんて」と攻撃している。

イギリスでもアメリカでも、白人・労働者階級・男性というかつては社会的に大きなポジションを占めていた人たちが貧困化していき、「おれたちの待遇が良くならないのは誰かが不当に利益をむさぼっているせいだ」と移民や女性を叩くことに精を出している。日本でも同じことが起こっている。知識社会に取り残された日本人男性がネトウヨ化し、外国人を攻撃している。
そして彼らは自分たちのことを切り捨てようとしている政党を支持して、弱者の権利を拡大しようとしているリベラルを非難している。

この結果、アメリカでも日本でもどんどん金持ち優遇社会になっていく。持たざる人たちがそれを支持している、というのがなんとも悲しい。

……でも、こういう上から目線の憐みの姿勢こそがリベラルが嫌われる原因なんだろうな。誰だって憐憫の目で見られていい気はしないもんな。
憐みを受けるぐらいなら、たとえ幻想でも強者側に立って他人を叩いているほうが幸福なのかもしれない。



世の中がリベラル化したことでリベラル派が力を失った、という指摘にはうならされた。

ぼくはタバコを吸わない。
公共の場のいたるところにタバコの煙が充満している時代だったら「嫌煙家が煙を吸わない権利を守れ!」と主張する政党に魅力を感じていただろう。
でも、ずいぶん分煙が進んだ今、「飲食店は原則禁煙にせよ!」なんて主張を聞いても、「うーん、現時点でさほど迷惑してないし、きっちり分煙してくれるなら全面禁煙じゃなくてもいいんじゃない?」と逆にかばいたくなる。

女性も障害者も共働き世帯もLGBTも病弱な人も、昔の日本に比べればずっと生きやすくなっているわけで、世の中が良くなっている分、「誰もが暮らしやすい世の中にしよう」という主張は力を失っていく。
世の中が良くなればなるほど、「世の中を良くしていこう」派が力を失うというのは逆説的だが興味深い。戦後は反戦主義が主流だったのに、戦争から離れることでその傾向が弱まっていくのにも似ている。

逆に、満ち足りているからこそ「きれいごとばかり言ってんじゃねえよ」という反発が支持を集めてしまう。

「リベラル」の最大の失態は、「雇用破壊」とか「残業代ゼロ」とか叫んでいるうちに、同一労働同一賃金などのリベラルな政策で保守の安倍政権に先を越されたことだ。普遍的な人権を至上の価値とするリベラルこそが、先頭に立って日本社会の前近代的「差別」とたたかわなくてはならなかった。なぜそれができないかというと、大企業の労働組合もマスコミも、正社員の既得権にしがみつく中高年の男性に支配されているからだろう。
 ここに、日本の「リベラル」の欺瞞がある。彼らは差別に反対しながら、自らが「差別」する側にいるのだ。
 日本的雇用は権力によって強制されているわけではない。「非正規社員を雇用しなくてはならない」とか、「女性を管理職や役員にしてはならない」という法律があるわけでもない。彼らがほんもののリベラルなら、まずは自分たちの会社で差別的な雇用制度を廃止し、積極的に女性管理職を登用したうえで、堂々と同一労働同一賃金の実現や「女性が活躍する社会」を主張すればいいのだ。

このリベラルの弱点を、橘玲氏は「ブラックスワン問題」という言葉を使って表現している。たとえ1%でも白くない白鳥がいれば「白鳥は白い」と言えなくなるように、「きれいごと」を唱えるリベラルはわずかな落ち度があるだけで「でもおまえ自身できてないじゃん」という反論を受けてしまう、というものだ。

「朝日」や大手マスコミが叩かれやすいのもこれが理由のひとつだ。「正しい主張」をしているからこそ「えらそうなこと言ってるけどおまえらだって間違えたことあるじゃん」という批判が鳴りやまない。いろんな方向に失礼なことばかり言っている大臣が失言をしても「もう麻生のおじいちゃんがまたバカ言って、しょうがない人ねえ」みたいに受け取られるのに。

「たったひとつの汚点が目立つ大企業」と「ゴミの中にいる批判者」が戦えば、そりゃ後者のほうが失うものがない分強いよね。



リベラルの失敗について。

リベラルが高齢化し、知識社会で力を持ったことで、本来なら社会の変革を唱えるはずのリベラルが既得権益を守ろうとする保守派になってしまった。なんとも倒錯した状況だ。
いくらリベラルが「弱者を守ろう」と言って改革を主張しても、それは「オレたちの既得権益が守られる範囲でね」なのだ。朝日新聞はリベラルな主張をしているが、女性役職者の割合は半数に遠く及ばないし、正社員と派遣社員の待遇は違うし、たぶんサービス残業が常態化している。「おまえらはどうなんだよ」と言われたら返す言葉もないだろう。

今後も高齢化は進み、知識社会化は進み、貧しい若者が這いあがるどんどん若者が貧しくなっていく。ますます「若者のリベラル離れ」は進んでいくのだろう。
リベラルが支持を集めるためには自分たちの既得権益を捨てる覚悟が必要なのだが、ま、それは無理だろうな……。


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2018年6月29日金曜日

鳩に関する常識


高校のとき。
生物の教師がこんな話をしていた。

伝書鳩が巣に戻ってこられるのは、磁気を感知する仕組みがあって、磁力で自分の所在地や巣の位置を把握しているからだと言われている。
ではここで問題。
実験で、鳩にあることをしたらまったく巣に戻ってこられなくなった。何をしたでしょう?

正解は「頭に磁石を乗せた」だったのだが、教師から「鳩に何をしたでしょう?」と訊かれたМさんという女子生徒はこう答えた。

「羽根をもいだ」



この答えを聞いたとき、なんて頭のいい女性だろう、とぼくは心から感心した。

「鳩に何をしたら巣に戻れなくなるでしょう?」という問いに対する回答としては、まごうことなき正解である。

だがふつうの人間は「磁力を使って位置を把握している」という前提や「あまりに明白であることは実験で確かめない」や「高校の授業で教師があまりにエグい話をしてはいけない」という"常識"にとらわれてしまって、「羽根をもぐ」というシンプルな正解を導きだすことはできない。

教師含めクラス全員がMさんの回答にドン引きだったが、ぼくは心の中で彼女の自由すぎる発想にこっそり喝采を送り、自由な発想という翼がもがれてしまわないことを願った。