2025年11月25日火曜日

【読書感想文】朱川 湊人『花まんま』 / 霊は全智全能の神といっしょ

花まんま

朱川 湊人

内容(e-honより)
母と二人で大切にしてきた幼い妹が、ある日突然、大人びた言動を取り始める。それには、信じられないような理由があった…(表題作)。昭和30~40年代の大阪の下町を舞台に、当時子どもだった主人公が体験した不思議な出来事を、ノスタルジックな空気感で情感豊かに描いた全6篇。直木賞受賞の傑作短篇集。

 昭和中期の大阪の下町を舞台にした短篇集。どの作品も超常現象の要素が含まれている。

 近所の人たちから距離を置かれていた朝鮮人の少年が死んだ後に幽霊となって現れる『トカビの夜』、謎のおじさんから買った奇妙な生物を飼う『妖精生物』、幼い妹が自分の前世を事細かに語りだす『花まんま』、部落差別に苦しむ少年が墓地で出会った女性と奇妙な体験をする『凍蝶』など、どれも霊や超常現象が扱われている。

 オカルト系の作品って好きじゃないんだよなあ。中でも後半に霊が出てくるやつ。「ふしぎなことが起こったのは霊が原因でしたー!」って言われても「はあそうですか」としかおもわない。だって霊の仕業ってことにしたら何でもアリじゃない。どんな無茶でもつじつまの合わないことでも「霊だからです」って言われたらこっちはそれを受け入れるしかない。ルール無用になっちゃう。

 子どものとき、おにごっことかボール投げとかで遊んでいたらすぐ「バリアー!」とか「今は無敵!」とか言いだすやつがいて、それを言われたら急速に醒めたのを思いだす。「無敵」を導入したらルールが破綻しちゃうからつまらんのよね。

 霊ってそれと同じ。言ってみれば全智全能の神と同義。



 というわけで上記の作品はあまり好きじゃなかったのだが、『摩訶不思議』『送りん婆』はおもしろかった。


『摩訶不思議』は死んだ叔父さんの葬式中、霊柩車が火葬場に着く直前でぴくりとも動かなくなってしまう……という話。

 叔父さんの未練のせいでふしぎなことが起こっているらしい、というオカルト話ではあるのだが、この話の主軸はオカルト部分ではなく残された人間たちの心模様にある。

 叔父さんには内縁の妻がいて葬列にも参加していたのだが、どうやら叔父さんの霊は浮気相手の女性が葬列にいないことを不満におもって霊柩車を止めているらしい。それを察した甥の主人公が浮気相手を連れてくるのだが、そうするとおもしろくないのは内縁の妻。死んだ叔父さんをめぐって女たちの修羅場がくりひろげられる……というコメディタッチの作品だ。うん、ばかばかしくて楽しい。新喜劇のようだ。


 そして『送りん婆』。こちらはうってかわってぞくぞくするような味わいの小説。

 先祖代々「送りん婆」という役目を果たす一族に生まれ、後継者に指名された主人公。「送りん婆」の役割は、死を前にした病人の枕元である呪文をささやくこと。その呪文を聞いた病人は嘘のように身体が楽になるがほどなくして死んでしまう。心と身体をつなぐものを切る呪文なのだ。

 行く先短い者を苦しみから救う仕事でありながら、ときには人殺しと忌み嫌われることもある「送りん婆」の悩みが描かれる。

「実は霊の仕業でしたー!」タイプの小説は嫌いだが、こんなふうに最初に設定を明かしてその中での行動や葛藤を書く小説は嫌いじゃない。オカルトを謎の答えとして使うのは許せないが、設定に使うのはアリだ。

「送りん婆」が使うのは呪文だが、やっていることは『ブラック・ジャック』のドクター・キリコと同じである。ここを考えることは尊厳死をめぐる議論にも通じる。

 個人的には尊厳死に対して概ね賛成の立場だが、反対派の言うことも理解はできる。だが理解できないのは「尊厳死について議論をするなんて不謹慎だ!」というやつらだ。残念ながら現状この手の議論を避けようとするやつらが非常に多い。耳をふさいで「あーあーあー聞こえなーい!」というやつらだ。

 現代日本においてすでに破綻している年金制度や医療費・介護費の問題をいくらか解決してくれるのが尊厳死制度の導入なのだが、現在その議論すらタブーになってしまっているのは残念だ。反対するにしても国会で議論して堂々と反対意見を述べればいいのに、「そんな話するなんて命の冒涜だ!」みたいなことを言う連中が多くてお話にならない。

 議論から逃げたい人は、せめてフィクションを通して考えをめぐらせてもらいたいものだぜ。


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2025年11月18日火曜日

【読書感想文】逢坂 冬馬『歌われなかった海賊へ』 / あの頃憎んだ大人になった自分へ

歌われなかった海賊へ

逢坂 冬馬

内容(e-honより)
一九四四年、ヒトラーによるナチ体制下のドイツ。密告により父を処刑され、居場所をなくしていた少年ヴェルナーは、エーデルヴァイス海賊団を名乗るエルフリーデとレオンハルトに出会う。彼らは、愛国心を煽り自由を奪う体制に反抗し、ヒトラー・ユーゲントにたびたび戦いを挑んでいた少年少女だった。ヴェルナーらはやがて、市内に敷設されたレールに不審を抱き、線路を辿る。その果てで「究極の悪」を目撃した彼らのとった行動とは。差別や分断が渦巻く世界での生き方を問う、歴史青春小説。

 ナチス政権下のドイツで活動していた“エーデルヴァイス海賊団”を題材にした歴史小説。

 この本を読むまでぼくも知らなかったんだけど、“エーデルヴァイス海賊団”という組織があったらしい。組織といってもきちんと体系化された組織ではなく、あちこちで自然発生的に生まれたものらしい(海賊団を名乗ってはいるが海賊ではない)。

 ナチスが青少年育成組織としてヒトラーユーゲントを作り、それ以外の青少年団体の組織化を許さなかった。ヒトラーユーゲントでは男は強く勇敢な軍人に、女は家庭的な良き母となることを強制された。これに対する反発として、あちこちで誕生したのが“エーデルヴァイス海賊団”なのだそうだ。(禁止されていた)旅行をしたり、ときには過激化して軍の建物を襲撃したり物品を盗んだりすることもあったという。


 ヴァルディはラジオを慎重にチューニングして、拾いかけた電波を探った。ナチスの退屈なプロパガンダ放送と違い、イギリスを始めとする外国の放送局のドイツ人向けラジオ放送を聴くことは、体制に従順ではない人たちにとって特別な行為だった。彼らの報じる番組には、現実の戦況、ナチスが覆い隠す蛮行、さらには禁制文化もあった。ジャズを始めとする禁じられた音楽。それらを聴取することは当然ながら重罪であったが、最大の刺激だった。そしてこれら外国の放送電波は、昼よりも夜間の方が受信しやすく、毎夜各家庭ではラジオの電波を拾い、ヘッドホンを付けたまま毛布を被る人たちがいた。
 その夜が来た。やがてヴァルディの手が止まり、朗々としたドイツ語が聞こえた。
『……エーデルヴァイス海賊団、大胆不敵にもヒトラー・ユーゲントに戦いを挑み、レジスタンスとして戦う彼らは今や、ドイツにおける唯一の民主化勢力といっても過言ではありません。ナチス独裁体制を打倒すべく、自由と民主主義の理想に向けて戦う彼らの徽章は、その名の通りエーデルヴァイス。彼ら若き自由の戦士の存在は、ナチスの独裁者にとっては忌々しいものでありますが、ドイツ人にとっては希望であります。そして彼らは、戦後ドイツの礎を築いていくことでしょう!』
 明朗闊達なドイツ語がそこで終わり、ジャズの音楽が聞こえた。若者たちはニュースが続くのを待っていたが、これでエーデルヴァイス海賊団についての話は終わりらしく、音楽が終わると、ドイツの各地に連合国陸軍が進軍しており、戦況はドイツにとって絶望的であるという、その場の誰もが知る事実を伝え始めた。
 十一人の若者たちは、しばらく呆然としていた。彼らは互いに視線を走らせた。
 皆が、放送のうちに、どうやら自分たちに浴びせられたらしい賛辞を反芻していた。
 ドイツ唯一の民主化勢力。自由と民主主義。若き自由の戦士。
 ……そうだっけ?
 唐突に、リアが吹き出し、そのまま声を上げて笑い始めた。ヴァルディが続き、それを見ていたヴェルナーも笑い出した。やがてその場の全員が笑い出し、口々に先ほどの放送で聞き取った語句を反復した。
「俺たちがレジスタンスだって」
「違う」
「私たちは民主化勢力だっけ」
「まったく違う」
「戦後ドイツの礎になるの?」
「なるわけない」
 口々に笑うことで、彼らが安心していることが、ヴェルナーには分かった。
 俺たちは、そんなものじゃない。
 ひとしきり笑ったあと、リアはヴァルディにラジオ放送を消させた。
 笑い声も途絶えると、また元の静けさに包まれた。
 ベティが、ぽつりと呟いた。
「私たちはそんなんじゃないのに、どうしてみんな、自分の都合で分かろうとするんだろうね」
 うん、とエルフリーデが頷いた。

 ナチスに抵抗した“エーデルヴァイス海賊団”は正義のために戦うヒーローのような扱いを受けることもある。だがそれは「ナチスは良くないもの」とされている社会における都合のいい物の見方だ。彼らの大半は決して社会正義のために戦っていたわけではない。もしかすると「やりたくないことをやらされるなんてかったりーぜ」的な感覚が強かったのかもしれない。いってみれば暴走族とか愚連隊みたいなものか。

 たまたまドイツが戦争で負けてその後ナチスが悪の権化のような扱いを受けたから持ち上げられているけど、もしもドイツが勝っていたら単なる悪ガキの反社会的結社として片付けられていただろう。


「ゲッベルスやリーフェンシュタール、ナチスの連中がつくるプロパガンダの映画って、よくできてるよな」
 沈黙を破ったのは、リアだった。再びギターを鳴らして、彼女は語る。
「まるで、編隊を組んで次々と急降下に入る攻撃機や、装甲師団の戦車連隊のように、一斉に行進するヒトラー・ユーゲント。旗を振ってそれを歓迎する大人たち。彼らが作る映像には、彼らが映したくないものが映ることはない。そして多分、このあとドイツが戦争で負けても、ずっとああいう映像が残るんだ。一国を単一の思想によって統一させることは難しいけれど、それが成功していると見せかけることはとても簡単なんだろう。まるでヒトラーやナチスが目指したドイツが、完成したようなその映像を見て、人々は思う。ナチスは、ヒトラーは、ドイツを思うがままに操った。皆はヒトラーを熱狂的に歓迎したし、ナチスは国民に支えられて戦争を戦った。ラジオが、映画が人々に噓をついた。この国はペンキで塗りつぶされたように、ただひとつの思想に乗っ取られていた。だからあのときは皆が騙されて、誰も逆らえなかったし、逆らわなかった」
「だけど、私たちはここにいる」
 リアの言葉を継いだのはエルフリーデだった。
「私たちは、ドイツを単色のペンキで塗りつぶそうとする連中にそれをさせない。黒も、赤も、紫も黄色も、もちろんピンクの色もぶちまける。私たちは、単色を成立させない、色とりどりの汚れだよ。あいつらが若者に均質な理想像を押しつけるなら、私たちがそこにいることで、そしてそれが組織として成立していること、ただそのことによってあいつらの理想像を阻止することができるんだ。私たちは、バラバラでいることを目指して集団でいる。だから内部が単色になることもなければ、なってはいけないし、調和する必要もないんだ」

 歴史の教科書では「ドイツは戦争に向かって突き進んだ」とあっさり記述されるけど、あたりまえだけどドイツ国民にはいろんな考えの人がいた。ユダヤ人にもいろんな人がいて、たとえばナチス側についた要領のいいユダヤ人だっていただろう。けれど後世の歴史ではそういった人たちは削ぎ落されて、「ドイツ人がユダヤ人を迫害した」と単純化されてしまう。

 人間は物語を作るのが得意で、ストーリーを語ることによって見ず知らずの人とも協力できるわけだけど、物語化することで物事を見誤ることも多々あるんだよね。「気に食わないあいつと敵対しているから、この人は自分の味方だ!」と思っちゃったり。強い言葉で語る政治家ほど(一部の人に)受けがいいのもそういうことなんだろう。



 ナチスドイツ統治下、それも敗戦直前という特殊な状況を舞台にした小説だが、なぜかここで書かれる少年少女たちの不安や怒りはよくわかる。もちろんぼくが育った平和な日本とはまったく違う世界を生きているのだが、それでも彼らの抱える悩みはどの時代、どの社会にも通じる普遍的なものだ。

 生き方を強制されたくない、社会の悪や矛盾が許せない、悪事を働いているやつら以上にそれを知りながら目をつぶっている善良な連中がもっと許せない。

 おもえばぼくもやっぱりそういう気持ちを持っていた。なんで大人たちはもっと闘わないのだと。

 そして中年になった今、ぼくはすっかり闘わない大人になっている。悪いことをしているやつらがのさばっていることも知っている。悪を憎む気持ちは持っているが、それ以上に保身を優先してしまう。闘うことよりも身を守ることを選んでしまう。ひとりの力なんてたかが知れてるよとか、家族を守るためにはしかたないよとか言い訳をして、悪から目を背けてしまう。

 もし今日本がナチスドイツのような世の中になったとして。きっとぼくは政府や軍には立ち向かえないとおもう。心の中では「こんなのおかしいよ」とおもいながら、「命令されたからしかたなかった」「生きるためにはしかたなかった」「知らなかったからしかたなかった」と自分に言い聞かせて力に屈してしまうとおもう。

『歌われなかった海賊へ』には、戦争中はナチスに都合の良いプロパガンダを流すことに協力し、戦後は平和の尊さを説く“優しくて子ども想いの善良な教師”が出てくる。彼女は今のぼくの姿だ。子どもの頃に憎んだ大人の姿だ。


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2025年11月17日月曜日

【読書感想文】エヴァ・ファン・デン・ブルック ティム・デン・ハイヤー『勘違いが人を動かす ~教養としての行動経済学入門~』 / 我々はこんなにアホなのだ

勘違いが人を動かす

教養としての行動経済学入門

エヴァ・ファン・デン・ブルック(著)
ティム・デン・ハイヤー(著) 児島 修(訳)

内容(e-honより)
「論理」よりも「情熱」よりも「認知バイアス」が人を動かす。罰も報酬も、知識も議論も、感動も約束もないのに、なぜ人間の行動は「意識できない些細な仕掛け」に自然と誘導されてしまうのか?

 行動経済学の本を何冊か読んだけど、ほとんどどれも実験結果やエピソードがおもしろい(引用の引用だらけの質の低い本もあるけど)。人間ってこんなバカなことをしちゃうんですよ、という話はどうしてこんなにおもしろいのか。

 古典経済学では、常に合理的な選択をする存在として人間を想定していた。1円でも得なことをするほうを選ぶに決まっている、と。

 だが実際の人間はそうではない。明らかに損をすること、自分でも良くないとわかっていることにお金や時間を使ってしまう。

 その愚かな人間の話を読むのが楽しい。自分の中にも愚かな部分だからこそおもしろい。落語の粗忽物を笑うような感覚だ。



 人は己の能力を高く見積もってしまう。ある分野に知識がない人ほど、自分はわかっていると思いこんでしまう。

「もし自分が金融業界の管理職だったら、もっといい仕事ができる」と信じている建設作業員が、気後れすることなくその考えをソーシャルメディアに投稿する。
 自力で自宅のリノベーションができると思い込んでいる企業幹部が、テレビ番組に出演して下手なDIYを披露してしまう。
 ファッションモデルが、たった数時間の調べものをしただけで、現代の医学の大きな問題点がわかったと確信する。
 この効果が面白いのは、そのテーマを学ぶにしたがって、過信の度合いが下がっていくことだ。知識が増えるにつれ、自分がまだ何も知らなかったことに気づくからだ。その結果、「これは常に当てはまることではないかも」「もっと調べないといけないかな」「そこまで断言はできないだろう」と躊躇し始める。
 以前のような自信に満ちた態度は減り、小さな違いが気になって思考が止まったり、葉に詰まって反論できなくなったりしてしまう。そして、知識を持っている人のほうが、たいした知識もないのに自信満々の人たちに道を譲ってしまうことになる。
 だから、トーク番組に出演したテレビドラマの俳優が、付け焼刃の知識で持続可能エスルギーの問題について突然熱く持論を展開することになるのだ。

 たしかになあ。ちゃんとした政治学者や経済学者のほうが慎重な物言いをしていて、ろくに本も読んでいなさそうな芸人や俳優が強い口調で政治について断言している、なんてのをよく見る。まああれは「自分に自信があるバカのほうが言ってることがわかりやすいと思われるから」ってのもあるけど。

 浅い知識しかなければ「与党はこうだ! 野党はああだ!」って言えるけど、しっかり勉強をして与野党それぞれにいろんな人がいてそれぞれいろんなことをやってきてそのそれぞれに功罪両方あって……ということを知っている人はうかつに「あの政党は○○だ!」って断言できないもんな。

 賢い人ほど不明瞭な物言いをする。でもそれはウケない。人は単純な話が好きだ。




 そう、人は単純な話が好きだ。

「ハラヘッタ、ピンポーン、ピザ(Man hungry ding-dong pizza)」というドミノ・ピザのコマーシャルは、ピザの宅配サービスがどういうものなのかを最低限の言葉で表している。筆者(ティム)は広告業に携わっているので、この見事なキャッチフレーズに嫉妬を覚える。
 しかし、ドミノ・ピザ側には歯がゆい部分もあったはずだ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟といった同社の売りをアピールできなかったのだから。
 ファストフードに当てはまることは、環境問題や経済政策、医学研究の分野にも当てはまる。これらの分野の人たちは、メッセージを(過度に)単純化することに強く抵抗することが多い。その結果、メッセージは長くて回りくどいものになり、単純なキャッチフレーズを用いるライバルに大きく水をあけられることになってしまう。

 正確だけど長いメッセージは伝わらない。伝わるのは不正確だけど短い文章だ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟ですら長すぎる。みんな1秒たりとも頭を使いたくないのだ。

 だからSNSで流れてくる情報の真偽を確かめようとしないのはもちろん、「嘘かもしれない」とすら考えない。そう思う1秒の労力すら惜しい。自分の考えに近ければ「これは真実」、反対の意見であれば「これは嘘に決まってる」。ゼロコンマ数秒しか思考しないSNSでまともな議論などできるはずがない。




「(勘違いによって)人を動かすテクニック」もふんだんに紹介されている。

 20年前に友人(と筆者のエヴァ自身)が学資ローンに申し込む際に入力したフォームは、次のように設定されていた。

借入を希望する額は
[✅]上限額まで
[  ]その他希望額(   )

 あなたならどうするだろうか?
 実に、68%の学生が上限額まで借りた。デフォルトの設定を変えなかったのだ。
 筆者と友人がこの効果に引っかかった少し後、政府が運営する学資ローンの申請サイトはこの小さなチェックマークを外した。これで、デフォルトで「上限額まで」が選択されないようになった。
「この程度のわずかな改善では、大した変化は起こらないだろう」と思うかもしれない。
 だが、この小さなチェックマークが外された後、上限額まで借りた学生の割合は11%に激減したのだ。

「上限額まで」という選択肢にデフォルトでチェックを入れるだけで、上限額いっぱいまでローンを組む人が11%から68%まで増えるのだ。

 いくら借金するかなんてその後十年以上にわたって人生に影響する重大事項なのに、それでもチェックマークひとつでかんたんに選択を曲げられてしまう。重大事項でなければなおさらだ。

 これは学生に限った話ではない。専門家ですら重大な判断をする際に直前に目にした数字に影響されてしまう。

「参照効果は、無意識のうちに素早く判断してもいいような、あまり重要ではない状況でのみ有効なのではないか」とあなたは思ったかもしれない。だが、そうではない。次のケースは、実際の実験に基づいている。
 
 法廷で、検察官が判事に事件の説明をする。
 運転手が人をはねた。被害者は一生車椅子の生活を余儀なくされ、賠償金を請求している。運転手は車の点検を怠っており、ブレーキには不具合があった。
 あなたなら、いくらの損害賠償金を認めますか?
 
 2番目のグループの判事も、まったく同じ説明を受けるが、被告側から「上訴の最低額は1750ユーロです」という追加の情報が1つあった。
 このグループにも「あなたなら、いくらの損害賠償金を認めますか?」と同じ質問をした。
 
 最初のケースの場合、あなたの答えはおそらく100万ユーロを超えるだろう。実際、最初のケースの説明を受けた100人の判事は平均130万ユーロと答えている。だが、上訴の最低額に関する意味のない情報を聞いた100人の判事は、平均で90万ユーロと答えた。
 
 人の人生を左右する決断を下すために高度な訓練を受けた専門家にさえ、参照効果は影響を与えるのだ。

 プロの裁判官の判断ですら動かされてしまうのだから、素人の判断なんかたやすく操作されてしまうだろう。


 選挙なんて、どんなポスターを貼っていたかとか、投票用紙の何番目に政党名が書かれているかとか、直前にSNSで目にした投稿とかでけっこう決まってるんだろうな。選挙慣れしている人たちもそれをわかっているから、目立つポスターにするとか、名前をひらがな表記にするとか、選挙カーでとにかく名前を連呼するとかのアクションを起こすのだろう。「そんなのよりちゃんと政策を訴えろよ」と思ってしまうけど、残念ながら有権者はそんなに賢くないのだ。


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2025年11月14日金曜日

いちぶんがく その24

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



幼児が石川県に触って怪我しないようにというメーカー側の配慮であろう。

 柞刈湯葉『SF作家の地球旅行記』より)




「俺にはやはり恋人がいた!」

(森見 登美彦『四畳半王国見聞録』より)




戻った正気の世界になど、もう何一つ良い事はない。

(吉田 修一『逃亡小説集』より)




いったい誰にあたたかな春の日だまりを批評することができるだろう?

(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』より)




なんと、ここの空気はハエでできていたのだ!

(川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』より)




自殺の方法を一度も調べたことのない人の人生は、どんな季節で溢れているのだろう。

(朝井 リョウ『正欲』より)




改革の推進者は善良ではあるけれど、無知で無能だっただけだろう。

(松岡 亮二『教育格差 ──階層・地域・学歴──より)




ほしいのは自由ではなく、自分で決めているという実感だけだ。

(中野 信子『脳の闇』より)




ゆるキャラやB級グルメやご当地ナンバーが解決策ではない。

高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』より)




戦争の方はいろいろあってまあ、ネタバレをすると神々が勝った。

(小川 哲『ゲームの王国』より)




 その他のいちぶんがく


2025年11月11日火曜日

孫引きの功罪

 引用の引用をすることを「孫引き」といい、原則としてしないほうがよいとされる。

 内容が誤って伝わったり、著作権の侵害とみなされたりするからだ。

 孫引きとはつまり「知り合いの知り合いから聞いたんだけど……」みたいな話だ。そりゃ信憑性は低い。



 が、現実的に孫引きは多くおこなわれている。

 たとえばスタンフォード監獄実験と呼ばれる有名な実験がある。被験者を看守役と囚人役に分けて行動させていると、次第に看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしくふるまうようになり、さらには看守役は囚人役に対して暴力をふるうようになった……みたいな実験だ(ただし実験の信憑性にはいろいろ疑いが持たれている)。

 

 有名な実験なので、いろんな本でお目にかかることができる。お手軽心理学とか安っぽいビジネス書にもよく出てくる。

 だがそれらの本の著者のうち、いったいどれだけの人がオリジナルの文献を読んでいるだろう。きっと1%もいないだろう。

「こんな実験があるらしいよ」と書いてある本を読み、「へーそうなんだ」と引用して、それをまた別の人が引用して……と、孫引きどころか曾孫引き、玄孫(孫の孫)引き、来孫(孫の孫の子)引き、昆孫(孫の孫の孫)引き……という感じだろう。

 もちろんぼくだって原典にあたったことはないので、上で紹介したスタンフォード監獄実験の説明も孫引きだ(めんどくさいので孫引き以下の引用はすべて孫引きと呼ぶことにする)。えらそうに語ってごめんなさい。


 ただ、ちゃんとした論文や著作ならともかく、日常会話なら「テレビで言ってたんだけど……」「友だちから聞いたんだけど……」「新聞に書いてあったんだけど……」で十分だ。

 孫引きは決して悪いものではない。むしろ「知り合いの知り合いの話」を信じる能力があるからこそ人類は進歩してきたといえるだろう。

 三平方の定理の証明方法を知らなくたって「教科書にそう書いてあるから正しいものとして扱う」として定理を使ってもかまわない。ありがとうピタゴラス。

 あらゆるものの原典にあたるなんて不可能だし、そんなことをしてたら原典を読むだけで一生が過ぎてしまい新しいものを生み出すことはできない。



 なので個人的には孫引きには寛容な立場だ。

 ただ「孫引きをするときはちゃんと孫引きであることを記せ」とはおもう。孫のくせに子のふりをするな、ってこと。


 具体的にどういうことかというと、White Berryがジッタリンジンの『夏祭り』をカバーして、それを聴いたまたべつのアーティストが歌うときに「White Berryの『夏祭り』をあのアーティストがカバー!」っていう歌番組は許せない、って話。