2025年1月24日金曜日

【読書感想文】高田 かや『カルト村で生まれました。』 『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』 / 宗教は人権と対立する

『カルト村で生まれました。』

『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』

高田 かや

内容(e-honより)
「平成の話とは思えない!」「こんな村があるなんて!」と、WEB連載時から大反響!! 衝撃的な初投稿作品が単行本に! 「所有のない社会」を目指す「カルト村」で生まれ、19歳のときに自分の意志で村を出た著者が、両親と離され、労働、空腹、体罰が当たり前の暮らしを送っていた少女時代を回想して描いた「実録コミックエッセイ」。

 集団生活をしていた“カルト村”で生まれ育った著者が、当時の思い出をふりかえったコミックエッセイ。

 作中でははっきり書かれていないが、明らかにヤマギシ村のことだとわかる。

 ヤマギシというのは、詳しくはWikipediaでも見てもらえばいいが、私有財産を否定し、農業や養鶏を通して、幸福な世界の実現を目指すという団体のことだ。集団生活をして、そこでは貨幣を使わず、農業などの労働に取り組んでいるそうだ。

 そういえば最近聞かなくなった。ぼくが子どもの頃は、ときどき近所までヤマギシの車が農作物や卵を売りにきていた。ぼくの母が「ヤマギシは、まあちょっとアレだけど、売ってるものはいいからね」と言葉を濁しながら買っていたのを思いだす。きっとその頃にはもう悪い評判が流れていたのだろう。

 そう、ヤマギシ会自体は1950年代から活動していたものの、1990年代からはオウム真理教のニュースもあって「カルト的なもの」に対する風当たりが強くなったことや、子どもに対する体罰などの問題や脱税が明るみに出たことで批判の声が強まったのだ(この本にもそのあたりの変化が描かれている)。



 この本には、ヤマギシ村での子どもたちの生活が赤裸々に描かれている(著者は十代後半で村を出ているので大人の生活はあまり詳しくない)。

 著者自身は、あっけらかんと「まあいろいろ問題もあったけど私にとってはそんなに悪くない村だったよ」というスタンスで描いているのだが……。


 いやあ、これはダメだろ……。

 まあ大人たちはいい。自分自身、ヤマギシ会の理念に共感し、自らの意思で私財を投げうって入村した人たちは、好きにしたらいい。

 ただ、子どもたちの扱いはさすがにかわいそうだ。

  • 親とは別の村で暮らし、会えるのは年に一、二回
  • 朝食はなし
  • 指導係に叱られたら食事なし
  • 指導係による体罰や数時間にわたる説教
  • 学校に行かせてもらえないこともある
  • 子どもも毎日労働。原則、休みはなし
  • ほとんどの子は高校や大学に行かせてもらえない

 これはどう考えたって虐待だよね(今は変わったところもあるようだが)。


 著者はヤマギシ村で生まれてヤマギシ村で育った人なのでそこの生活しか知らず、「今となってはいい思い出」みたいになっているみたいだけど、それは本人の性分と、結果的に今は大きな不満のない生活をできているからであって。

 子どもは自分の意思で外の世界に出ていくことはできないし、仮に出たとしても、高校にも行かず村で貨幣のない生活をしていた子がうまくやっていくことはむずかしいだろう(著者はいろんな事情が重なって両親と一緒に村を出て、たまたまいい経営者に雇われたという幸運が重なった)。


 どんなカルトでも(外の世界に危害を加えないかぎりは)好きにやったらいいんだけど、子どもが巻き添えにされるのは気の毒だ。

 以前、米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』という本を読んだ。オウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会といった“カルト”と呼ばれる団体内で育った子どもについて取材した本だ。

 カルトがカルトと呼ばれるのは世間一般の常識と衝突するからで、大人同士であれば「あの人はああいう人だから関わらないでおこう」とできるけれど、子どもは学校を通していやおうなく“世間”と関わらないといけない。そこに軋轢が生じる。

 たとえばエホバの証人であれば、親からは「遊んだりテレビを見たりスポーツをしたりするのはサタンの行いだ。学校の選挙やクリスマス会は参加禁止。参加しないことをみんなの前で宣言しろ」と言われる。しかし学校ではまったく違う論理が生きている。遊び、スポーツをし、テレビの話をし、クリスマス会などの行事が開かれる。成長すればするほど「うちの家庭は他と違う。うちの家庭のほうが少数派だ」ということがわかってくる。

 対立するふたつの“常識”の板挟みになる子は気の毒だ。どちらにあわせても待っているのは苦難の道だ。




 新興宗教はいろいろあり、その中には急速に信者数を増やしたものもある(正確にはヤマギシ会は宗教ではないのだろうが、思想や行動を縛る教えを信じているという点ではほとんど宗教と同じだとぼくには見える)。

 だが、二十世紀以降に誕生した宗教で、三十年以上にわたって信者数を増やしつづけた宗教はないんじゃないだろうか。

 どの宗教もだんだん衰退してゆく。最初は熱心な信者たちが集まってくるが、二世世代が増えると、どうしても「外の世界」との衝突が起こる。必然、悪い話も外に出るようになり、イメージが悪くなる。ぼくの友人にも創価学会二世がいたが、彼はすごく嫌そうに活動していた。そんな姿を見て、自分もやりたいなとおもう人は少ないだろう。

 そもそもの話、宗教の教義って人権って衝突することが多い。「必ず○○しなさい」「○○してはいけません」ってのが教義で、「人にはやる自由もあるしやらない自由もある」ってのが人権なのだから、対立するのが当然だ。

 だから人権が保障された近代社会において、宗教が拡大するのは無理なのかもしれない。自分の意思で入信した一世信者と違い、二世三世は人権を奪ってまで信者でいつづけさせることはできないのだから。

 昔からある宗教は、人権意識の低い時代だったからこそ拡大できて、拡大しきって「外の世界」との摩擦が小さくなったからこそ現在でも残れている。これから新興宗教が長期にわたって拡大しつづけることは無理なんじゃないかな。


【関連記事】

【読書感想文】米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』 / オウム真理教・エホバの証人・統一教会・ヤマギシ会

【読書感想エッセイ】中野潤 『創価学会・公明党の研究』



 その他の読書感想文はこちら


2025年1月21日火曜日

【読書感想文】今尾 恵介『地図帳の深読み』 / 川と言語の密接なつながり

地図帳の深読み

今尾 恵介

内容(e-honより)
学生時代に誰もが手にした懐かしの学校地図帳には、こんな楽しみ方があった!100年以上に渡り地図帳を出版し続けてきた帝国書院と地図研究家の今尾恵介氏がタッグを組み、海面下の土地、中央分水界、飛び地、地名や国名、経緯度や主題図など「地図帳」ならではの情報を、スマホ地図ではできない「深読み」をする!家の奥に眠るあの地図帳、今もう一度繙いてみませんか。

 地図マニアである著者が、学校でおなじみの地図帳をもとに、あれこれと洞察をくわえた本。

 これを読んでいて思いだしたんだけど、社会の授業中、ずっと地図帳を見ていた子がいたなあ。クラスに一人はいたんじゃないかとおもう。何がそんなに楽しくて地図帳を見てるんだろうとおもってたけど、たぶんこういうことを考えてたんだな。

 ぼくは地図好きな子ではなかったけど、歳をとってから、地図って単なる場所を示すものではなくて、歴史だとか、経済だとか、人々の生活までが見えるものだとわかるようになり、ちょっとおもしろさを感じるようになってきた。

 まだひとりで地図を見てにやにやするほどではないけどね。でも地図に詳しい人の解説を読むのは楽しい。



 地図帳には、単なる地図だけでなく、いろんな図や表が載っていた。人口、土地面積、雨温図、名産品など。その中に言語分布地図もあった。どの地域がどの言語を使っているのかを示した図だ。

 さて、ある時にスイスの言語分布地図を見た。どこかの大きな図書館に置いてあったナショナルアトラスを閲覧した時のことかもしれない(今なら高校生用の地図帳でも載っている)。これが以前に自分でなぞった四つの河川の流域図にずいぶん似ていると感じたのである。つまりライン川流域にはドイツ語話者が多く、ローヌ川流域はフランス語、ポー川流域がイタリア語、そしてドナウ川流域がロマンシュ語という具合に流域と言語分布が重なっていた。
 スイスは日本に似て山が深いから実感できると思うが、商圏、婚姻圏といった文化圏は人の往来の多寡で決まってくる。たとえば関東と新潟県を区切る三国山脈は雪国の冬と晴れ続きの冬の境界であるが、文化圏や方言の境界でもある。考えてみればトンネルも通じていない大昔に好んでわざわざ険しい峠越えをする人は少なかっただろうし、移動にあたっても川沿いが楽なのは間違いない。そんなわけで言語、方言の違いが流域ごとに決まってくるのは普遍的な現象である。

 河川の流域図(どの川の水を利用しているかを地域ごとに区切った図)と言語分布地図が似ているのだ。

 現代日本ではどこにいってもほぼ同じ言葉を使っているのでわかりづらいけど、かつては、山ひとつ越えたら使っている言葉もぜんぜん違ったのだろう。人の往来がほとんどないので、言葉も文化も独立していたのだ。一方、同じ川沿いの集落であれば、行き来も楽だったはず。交流が盛んであれば言語も近いものになるだろう。

 川と言語に密接なつながりがあるなんて考えたこともなかったなあ。




 過去の地図帳との読み比べ。

 昭和48年(1973)の「中学校社会科地図」では、九州地方のページに有明海と島原湾の干拓を示す図が掲載されていた。凡例には干拓年代として「1767年以前」「1768~1867「1868~1967」「1967年以後」と時代ごとに4色に塗り分けられ、これに加えて「干拓工事中」「干拓予定地」が青色で大きく描かれている。その面積は明記されていないが、ざっと見たところ有明海の半分近くを陸にするような大規模な計画だったようだ。
 この計画図は出典に記されているように「有明海総合開発計画」によるものだ。干拓だけでなく、有明海の西に位置する島原半島の貝崎(現南島原市。島原市役所の約12㎞南)から熊本県側の宇土(三角)半島先端近くの狭い部分に「しめきり計画線,三角線」という赤い破線がまっすぐ描かれているように、これによって有明海を締め切って淡水化する計画であった。
 この大事業の当初の目的は食糧大増産で、八郎潟の干拓と同様に可能な限り農地を拡大して国民を飢餓から守るというものである。コメ余りで減反政策に転じた後の時代から見れば実感が湧きにくいが、国民を飢えに直面させるかもしれないという深刻な問題意識は国政を担う人たちにとって相当にリアルだったようだ。「飽食の時代」に育った世代にはなかなか想像できないけれど。ついでながら、現在では人口問題といえば言うまでもなく「少子化」だが、当時は爆発的に増えつつある人口をいかに抑えるかが急務とされた。
 (中略)
 この面積を足せば550㎢という途方もないもので、現在の琵琶湖の面積の82%にあたる。この締切堤防から奥側の有明海の面積を「地理院地図」でざっと測ってみると約1300㎢だから、4割以上を干拓するつもりだったようだ。この計画の一部にあたる諫早湾の干拓事業は当初計画では110㎢であったが、平成元年(1989)に着工された時には予算や農地の需要の関係もあって35㎢に縮小された。
 この事業に対しては地元をはじめ全国で賛否の意見が対立し、行政訴訟も行われている。農地は全国的に余り気味であったため、目的を公害や高潮などの水害防止にシフトさせたのも「現代風」だ。その後は海苔やタイラギ漁などの不振などもあり、また公共事業見直しの気運もあって干拓への逆風は続いている。締め切りが水質悪化に影響を及ぼしているかの議論は今も続いているが、それでも有明海の大規模な干拓事業は全体のわずか1割の干拓にとどまったことを思えば、当初の干拓計画がいかに壮大であったかがわかる。
 賛否はともかくとして、確実なのはいったん始動した大規模事業の見直しがきわめて難しいことだ。数十年の間に国の産業構造や国民の生活実態が激変しても身動きがとれない。どう頑張っても数十年間は大幅な人口減少が避けられない将来が約束された今、社会の「減築」―ダウンサイジングに向けた世界初の取り組みが、日本国民には求められている。

 今から50年前には、有明海の大部分を埋め立てて淡水化するという途方もない計画が立てられていた。人口がどんどん増えて、このままじゃ農地が足りないと心配されていた時代。海を埋め立てて農地を増やそうとしていたのだ。

 しかし地元漁師の反対や環境問題への懸念もあり、計画は難航。その間に日本の状況は大きく変わり、人口は減少へとシフトし、農地は足りないどころか余る状況になった。

 それでも計画は止まらない。農地拡大だった目的が、いつのまにか防災目的にすりかわっている。

 このへん、実に“らしい”話だ。大きな組織が動くと、いつのまにか手段が目的になってしまう。ひとつの「手段」だった干拓事業が「目的」になってしまい、とりまく状況が変わっても計画を止めることができず、後付けで理由をつけては無理やり続行する。

 オリンピックや万博と同じだ。経済振興とかの理由をつけて招致するのに、経済にプラスどころか大幅マイナスだとわかっても「開催」自体が目的になってしまっているので火の車となっても止められない。

 大規模プロジェクトって始めるよりもやめるほうがずっと難しいし知恵を要するよね。


【関連記事】

昭和18年の地図帳ってこんなんでした

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』



 その他の読書感想文はこちら


2025年1月15日水曜日

【読書感想文】プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』 / 偏向報道を楽しむ人が大人

芸人式 新聞の読み方

プチ鹿島

内容(e-honより)
新聞には芸風がある。だから下世話に楽しんだほうがいい!おじさんに擬人化することで親しみが湧く朝刊紙。見出しの書き方でわかる政権との距離。世論調査の質問に表れる各紙の立場。朝刊スポーツ紙と芸能事務所の癒着から見える真実etc.…。人気時事芸人が実践する毎日のニュースとの付き合い方。ジャーナリスト青木理氏との対談も収録。

 東京ポッド許可局で(一部界隈では)おなじみのプチ鹿島さん。新聞を13紙も購読している、新聞好きでもある。

 そんな新聞好き芸人が「新聞の楽しみ方」を解説した本。これを読むと、自分も新聞の読み比べをしたくなってくる。とはいえ実際にはやらないのだが……。



 ぼくの実家では朝日新聞と日本経済新聞をとっていた(一時朝日から読売にかえたがまた朝日に戻した)ので、朝日新聞を読んでいた。大学生になって一人暮らしをしたときも、就活もあるから新聞を読んでおいたほうがいいだろうなとおもって購読していた。あれだけの情報量のあるものを毎日百円ちょっとで届けてくれるのは破格だ。

 仮に何も印刷されていない真っ白な紙だったとしても、「月に数千円で毎朝あなたの自宅まで届けます」と聞いたら「それでほんとに利益出るの?」と心配になるサービスだよね。ま、いらんけど。

 ぼくは新聞を読むのは好きなほうだとおもう。活字は好きだし、なんだかんだいっても新聞の情報はかなり信頼がおけるし、政治や社会情勢にもそこそこ関心を持っている。

 だが。現在、うちでは新聞を購読していない。

 いろいろ事情があってしばらく購読しない期間があり、それはそれで大して困らない、むしろ余計なニュースに心乱されることがなくて平穏だし、なによりあの「重い古新聞を束ねて捨てに行く」という作業から解放されるのは大きい!

 というわけで、そのまま新聞の購読しないままもう十年以上。特に困らない。掃除のときとか、雨で靴が濡れたときに「新聞紙が欲しい」とおもうことはあるが、メディアとしての新聞はなくても平気だ。

 しかし新聞を嫌いになったわけではない。「ニュースなんてネットメディアで十分」とはおもわない。ネットメディアもたいてい一時ソースは新聞社発信だし。実家に帰ったときはちゃんと新聞に目を通す。もしも「24時間たつと気化して消滅してくれる新聞紙」が発明されて“古新聞捨てるのめんどくさい問題”が解消されたら、また購読するかもしれない。



 プチ鹿島さんによる新聞評が実におもしろい。

 この人は新聞全般は好きだが特定の新聞だけを贔屓にしているわけではないので、それぞれの新聞の立ち位置をうまくとらえている。

 朝日は高級背広のプライド高めおじさん、産経は小言ばかり言ってる和服のおじさん、東京新聞は問題意識が高い下町のおじさん、読売新聞はナベツネそのもの、など、「キャラ付け」をしながら読むとわかりやすいという主張はまさにその通り。

 まだ新聞が紙だけだった時代は、基本的に一世帯一紙だった(日経とか地方紙とかを併せて購読している家庭はあったが)ので、その立ち位置の差はわかりにくかった。

 だが新聞記事がネット配信されるようになって誰でも手軽に「読み比べ」ができるようになり、その差は明確になった。新聞社としても、他社との差別化を図らないといけない、読者の反応がダイレクトにわかる、などの理由でよりエッジの利いたスタンスをとるようになったとおもう。朝日や毎日はより左に、読売は産経はますます右に傾いていったようにぼくには見える。


 新聞は偏っている! だからダメだ!

 と言う人が多いが、それは子どもの意見だ。この世に完全に公正中立のものなんてありえない。

 新聞は偏っている? その通り。だったらその偏りを味わえばいい、というのがプチ鹿島さんのスタンスだ。うーん、大人!

 たとえば朝日や毎日が「政権がこんなことをしました!」大きく報じている。一方、親政権である読売や産経はそのことにほとんど触れていない。ということは「これは政権にとって都合の悪いニュースなのだな」とわかる。偏っているからこそ見えてくることもあるのだ。


 インターネットの活用が当然となった今、新聞のことを「旧メディアの偏向報道」「腐ったマスゴミ」と馬鹿にする人たちもいる。だが、切り捨てるのはもったいないと思うのだ。旧メディアには旧メディアの役割や論理がある。今まで培われてきた伝統の作法がある。
 たとえば一般紙であれば、載せるからには誰かに裏を取っている。そのうえで新聞の思惑が反映されていることもある。だったら、「正しいか正しくないか」ではなく、「誰が何を伝えようとしたのか」を読み解くために、あるもの(新聞)は利用したほうがおもしろいではないか。「また朝日と産経が全然違うこと言ってるぞ」と覗き見するくらいの下世話な気持ちで、マスコミを「信用する」のではなく「利用する」という気構えでいればいい。新聞にも観客論が必要だと思うのだ。

 たしかに新聞には様々な問題がある。組織として大きくなりすぎたがゆえにいろんなしがらみが生まれたり、市井の人々の価値観とのずれが大きくなったり、とても公正中立とはいえない報道スタンスがあったり。

 とはいえ、「だから新聞は読まない」という人より、「その歪みをわかった上で新聞を読む」人のほうがはるかに知的だ。情報強者というのはこういう人のことを言うのだ。常に遅れている時計と常に進んでいる時計の両方を見れば、現在の時刻がなんとなくはわかるものだ。


 この本に書かれている例だと、政策に反対するデモが行われたが、主催者発表の参加者数と警察発表の参加者数が大幅に異なる。

「これだけ多くの人が関心を寄せています」と言いたい朝日、毎日、東京新聞などは主催者発表の参加者数を大きく取り上げる。読売や産経は、多くの人が反対していることになると(政権が)困るので警察発表のほうを大きく取り上げて少なく見せようとする。

 同じデモを伝えているはずなのに、伝え方によってずいぶん違う景色が見えてくる。同じ富士山でも、山梨側から見るか静岡側から見るかで姿が違うように。

 それを「おまえの見方は偏っている!」と糾弾して切り捨てる人よりも、山梨の人と静岡の人の両方から話を聞く人のほうが、物事を立体的に見ることができるはずだ。

(ちなみに先のデモの件は、近くの鉄道の利用者数から判断するかぎりでは、主催者発表のほうが実情に近かったそうだ。主催者発表は水増ししてるし警察は少なく発表してるんだけどね)


 また、「来日したオバマ大統領が寿司を残した」というどうでもいいニュースから、複数メディアの記事を読み比べることにより「安倍首相と寿司業界の結びつきによる寿司利権」にまでたどりついた(とおもわれる)章はものすごく読みごたえがあった。

 取材をしなくても、新聞や雑誌を読み比べているだけで、プロの記者でもなかなかわからないような情報にたどりつくことができるのだ。アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のようでかっこいい。



 スポーツ新聞について。

 そんな「オヤジジャーナル」の中でも、とりわけ下世話なのが「夕刊紙・タブロイド」といわれるメディアだ。『東京スポーツ』『日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』が代表選手でその最大の特徴は、「玉石混淆」であることに尽きる。
 朝刊紙(スポーツ紙含む)の場合、憶測や噂を報道することは許されないが、夕刊紙ではそれをどう扱うかが腕の見せどころになっている。
 ホントのことはズバリ書けないとか、まだ裏付けが取れないからぼかして書くしかないとか、いろいろな理由によって、わざと思わせぶりな書き方をするときがある。断定はできなくても、「匂わせる」ことで書けることは積極的に書いてしまうのだ。読者には、「行間を読む」という受け身の取り方が求められる。
 もちろん、ただの憶測であったり、バッシングだったりする記事もあるが、その中に、あとから振り返ってみるととんでもない「真実の宝」が落ちていたりするからおもしろい。ああ、ぼんやり「匂わせて」いたあの記事は、このことを言っていたのか、とわかることも多いのだ。たとえば有名人の覚せい剤疑惑の記事がそうだ。イニシャルでぼかしたり、わかる人にはわかる書き方をして「いいところまで」見せてくれる。

 正直、ぼくもスポーツ新聞のことはだいぶ低く見ていた。プチ鹿島さんは「スポーツ新聞をまともに読んでない人にかぎってスポーツ新聞を軽視している」と書いているが、まさにその通りだ。

 スポーツ新聞は、一般紙に比べると信憑性の低い情報の割合が高いのは事実だろう。だが、プチ鹿島さんのような新聞上級者になると、信憑性が低いことをわかった上で情報収集先として利用できるのだ。

 たとえば「X氏が覚醒剤をやっている」という情報があったとする。X氏に近い人物、それも複数が「あいつは覚醒剤をやってるよ」と語っている。十中八九、ほんとだろう。

 だが一般紙やテレビのニュースでは「X氏が覚醒剤をやっている」と報じることはできない。どれだけ怪しくても逮捕されるまでは一般人だからだ(ほんとを言うと起訴されて刑が確定するまでは推定無罪で一般人なのだがそれはまた別問題なのでこれ以上は触れない)。

 その「かなり確度が高いけど100%ではないので一般紙では書けない」ところを、スポーツ誌なら書くことができる。もちろん、訴えられないように「読む人が読めばわかる」レベルにぼかしたりはするけど。

 また「下世話すぎるから一般紙が書かないこと」を書けるのもスポーツ誌の強みだ。案外、その下世話なニュースがまじめな話につながることもあるのだ(上に書いた、大統領が寿司を残した話から業界の利権が見えてくるように)。

 とはいえ、このへんの「確実でないからまだ書けないこと」や「下世話な話」についてはSNSやYouTubeなどのほうが向いている気もするので、今後スポーツ紙は一般紙より厳しいかもしれないね。



 青木理さんとの対談より。

青木 同感。本当にマズい。一方で新聞も妙な方向に変わりつつあって、各社ともネット展開を盛んにやるようになったけど、やっぱりネットで一番アクセス数の多い記事は芸能関係なんだそうです。だからどんどん芸能記事も作るようになっていく。でも、新聞がそれでいいのか。僕がフリーになって痛感したのは、雑誌や書籍は売り上げ、テレビは視聴率という指標に良かれ悪しかれ右往左往させられているけど、新聞には基本的にそれがないんですよ。少なくとも現場の記者として取材しているとき、「記事を書けば売れる」とか、「この記事を一面トップにしたから売り上げが伸びた」なんて誰も考えていない。これは旧来型の新聞の美点でしょう。日本の新聞は問題だらけだけど、宅配に支えられて何百万部も売れているお化けメディアだったがゆえ一方でそういう美点も当たり前に存在したんです。

 データを可視化しやすいってのはネットメディアの利点だけど、欠点でもあるよね。インプレッション数、ページビュー数、直帰率なんかを調べていったら、芸能ニュース、ゴシップニュース、テレビ番組の文字起こしがいちばん成果が良いです、ってわかっちゃうのは決していいことではない。

 もしも新聞が「ページビュー数最優先!」に舵を切ってしまったら、そのときこそ本当に新聞が終わるときだろうね。


【関連記事】

【読書感想文】調査報道が“マスゴミ”を救う / 清水 潔『騙されてたまるか』

ニュースはいらない



 その他の読書感想文はこちら


2025年1月9日木曜日

どうしてテーマパークは変に凝ったメニューを作るのか

 テーマパークや動物園のレストランが嫌いだ。

 たぶんたいていみんな嫌いだろう。めちゃくちゃ高くて、買うのに時間がかかって、こんでいるからなかなか席がとれなくて、それでいてそんなにおいしくない。


 何がイヤって、「時間がかかって高くてうまくない」の三拍子そろっているところだ。「早い・安い・うまい」の逆だ。

 このうち二つなら許せる。個人的には「時間がかかる」がいちばんイヤだ。

 なぜならテーマパークや動物園には飯を食いに行ってるわけではないから。飯を食うのはトイレと同じで「生存のために必要だからやるがなるべく時間をかけたくない行為」だ。

 そこで儲けたい会場側の思惑もわかる。だから値段に関してはしかたないと諦める。まずくてもいい。ただ、「高くてまずくていい」と割り切ってしまえば、時間のほうはなんとかできるだろ、とおもうのだ。

 コンビニで売ってるようなおにぎりとかサンドイッチを仕入れて、市価の二倍で売る。こっちはそれでいいのだ。歩きながら食べられるし。

 会場側としても、施設や人を割かずに稼げる。悪くない話だとおもうのだが。


 なのに。

 どうして変に凝ったメニューを出すんだ。

 そのテーマパークのキャラクターをイメージしたハンバーグランチとか、動物園の人気のペンギンをあしらったプレートランチとか、余計なことをするんだ。

こんなのとか

こういうの


 その変に凝ったメニューを、調理に慣れてない学生バイトが一生懸命用意するのだ。時間がかからないわけがない。

 いや、そういうメニューがあってもいい。求めている人だっているだろう。

 ただ、それとは別窓口で(ここ重要)、市販のパンやおにぎりを売ってくれ。同じ売場にすると結局全部混むからやめてくれ。


 なに? 客単価? いっぱいお金を落とさせたい?

 わかった。じゃあ二倍と言わずもっととっていい。市販のおにぎり二個と市販の魚肉ソーセージのセットにして2,000円にしていい。その代わりすぐ提供してくれ!



2025年1月7日火曜日

名物・豚汁がうまい店(ただし氷点下)

 昼時に慣れない道を歩いていたら「名物・豚汁がうまい店」と書かれた看板を見つけたので店に入った。

 うん、こんな寒いときに食べる豚汁はたまらない。


 15人も入ればいっぱいのそう大きくない店。店員は四十代ぐらいの男性と四十代ぐらいの女性。一人客のぼくはカウンターに座った。さっそく塩さば・豚汁定食を注文する。

 店内には豚汁のいい香り。これは期待できそうだ。

 定食の到着を楽しみにしていながらカウンター内の様子をうかがっていたのだが……。


 どうも店員の男女の仲が悪いのだ。

 静かに喧嘩をしている。断片しか聞こえてこないのだが、


女「あ、それごはん大盛りです」

男「大盛りにしたつもりですけど?」

女「……」


というやりとりがあったり、


女「~って言いましたよね?」

男「主語がなかったのでわかりません。はっきり言ってもらわないと」

女「……」


と、丁寧語で喧嘩をしている。


 すごく感じが悪い。

 ふたりともいい大人なのでさすがに声を荒らげたりはしないが、ずっと押し殺した声で喧嘩している。


 そりゃあ、まあさ。店員だって人間だから腹の立つこともあるさ。働いていたらいろいろ言いたくなることもあるだろう。ぼくだって同僚相手に文句や嫌味を言ったこともある。

 でもさあ。


 豚汁のうまい店で険悪な空気出さないでよ!

 コンビニとか、国道沿いのチェーンのラーメン屋とかなら、まだいい。そういう店にあったかい接客なんて期待してないから。金髪ピアスのにいちゃんが気だるげにラーメン持ってくるみたいな接客でもいい。

 でも「名物・豚汁がうまい店」はちがうじゃない。にこにこした小太りのおばさんかおじさんが「はい、豚汁おまたせ! 寒いからこれ食べて元気つけてね!」と言いながら豚汁よそってくれるみたいな雰囲気を期待しちゃうじゃない。

 喧嘩するんなら豚汁の看板をはずしてくれ!