2024年3月6日水曜日

【読書感想文】松沢 裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』 / がんばったってダメだって

生きづらい明治社会

不安と競争の時代

松沢 裕作

内容(e-honより)
日本が近代化に向けて大きな一歩を踏み出した明治時代は実はとても厳しい社会でした。景気の急激な変動、出世競争、貧困…。さまざまな困難と向き合いながら、人々はこの時代をどう生きたのでしょうか?不安と競争をキーワードに、明治という社会を読み解きます。

 岩波ジュニア新書。

 最近、この手のジュニア向けの本がけっこうおもしろいことに気がついた。若かったころは「子ども向けに書いた本なんて」と手にも取らなかったけど、つくづく良書が多いんだよな。


 序盤に書いてあることは「明治時代って、江戸時代のような身分社会が崩れて、立身出世が実現できるようになった時代のように語られるけど、ほとんどの人々の暮らしはひどいものでしたよ」という内容で、まあそりゃそうだろうなとしかおもえなかった。

 以前に紀田 順一郎『東京の下層社会』という本を読んだことがあるが、明治時代の貧民層や娼婦の暮らしは、そりゃあひどいものだったようだ。『生きづらい明治社会』では木賃宿で暮らす人々をネットカフェ難民にたとえているけど、とても比べられるようなものじゃないだろう。たしかにネットカフェ難民も楽な暮らしではないが、明治の木賃宿暮らしに比べれば天国のような生活だろう。

 あたりまえだけど、明治時代は劣悪な環境で人がばたばたと死んでゆく、過酷な時代だった。




 この本でおもしろかったのは、中盤以降に出てくる「通俗道徳」で明治時代の貧困を語っている点。

 ここで「通俗道徳」という歴史学の用語を紹介しておきたいと思います。人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼んでいます。この「通俗道徳」が、近代日本の人びとにとって重大な意味をもっていた、という指摘をおこなったのは、二〇一六年に亡くなった安丸良夫さんという歴史学者です。
 安丸さんは、勤勉に働くこと、倹約をすること、親孝行をすることといった、ごく普通に人びとが「良いおこない」として考える行為に注目します。これといった深い哲学的根拠に支えられるまでもなく、それらは「良いこと」と考えられています(だからそれは「通俗」道徳と呼ばれます)。
 それは確かに良い行為であると、私たちも普通に考えるだろうと思います。そこまでは大した問題ではありません。問題はその先です。勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることはない。親孝行をすれば家族は円満である……。しかしかならずそうなるという保証はどこにあるでしょうか。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる、いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもあります。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからです。
 ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となるわけです。

 おもしろかったのは、つい最近読んだマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』にも似たような記述があったからだ。

 近年、アメリカでも特に「努力すれば成功する。成功しなかったのは努力が足りないからだ」という考えが強くなっているという。だから成功者は富を独占する権利がある、と。能力主義(メリトクラシー)という考え方だ。

 現代アメリカと明治日本で同じ兆候が見られる。こういう「おもわぬ本と本がつながる」のが読書の醍醐味だ。

 著者は、「通俗道徳」の考え方が強くなるのは明治に入ってからだと指摘する。

 人びとが、通俗道徳一本やりで、完全にわなにはまり切ってしまうのは、明治時代に入ってからです。第一章でみたように、地租改正によって村請制は廃止され、人びとを無理やり助け合わせる仕組みは消滅しました。いやいやながら豊かな人が貧しい人を助ける必要はもうなくなったのです。
 そして政府は、といえばこれまでのべてきたようにカネがありません。何らかの理由で貧困におちいった人を助けるのに割く予算はないのです。こうして、人びとが貧困から逃れるためには、通俗道徳にしたがって、必死で働くことが唯一の選択肢となりました。
 くり返しますが、通俗道徳を守って生きていればかならず成功するわけではありません。しかし、このように助け合いの仕組みも政府の援助も期待できない社会では、成功した人はたいていが通俗道徳の実践者です。こうした状況のなかでは通俗道徳のわなから逃れることはとても難しいことです。実際に、がんばって働き、倹約し貯蓄して、成功した実例が身近に珍しくないからです。
 こうして、明治時代の前半の小さな政府のもとで、人びとは通俗道徳の実践へと駆り立てられてゆき、その結果、貧困層や弱者に「怠け者」の烙印をおす社会ができあがっていったのです。

 生まれによって階級が決まっていた江戸時代と異なり、明治時代は(理論上は)貧富の差に関係なく誰でも成功できる時代になった。実際、貧しい家庭の出身で経済や学問の世界で名を上げた人物もいた。針の穴を通すような低い確率だけど。

 そのせいで、貧しい暮らしをしている人が「努力が足りなかったから自業自得だ」とみなされるようになってしまった。

 のしあがるチャンスが0%の社会より1%の社会のほうがしんどいかもしれない。




「やればできる」が幅を利かせる社会の何がまずいかというと、できなかった人が救済されなくなることだ。だって「できなかったのはやらなかったから」なんだから。

 それに加えて政治の問題もあった。

 なぜ、増えた税金を、貧困者を助けるためにつかうという流れができなかったのか。第三章の、窮民救助法案否決の部分でのべたのとおなじ理由をここでもあげることができます。この時期の衆議院議員選挙でも、選挙権には、依然として財産による制限があり、また女性に選挙権はありませんでした。貧困者に選挙権がない以上、貧困対策は、政党の支持拡大の手段にはなりません。それにひきかえ、交通網が整備されたり、学校が増設されたりすることは、富裕層には有利です。交通網整備によって、地方と都市のあいだの物流の便がよくなれば、地方の製造業者や地主には、製品や農産物を都市で販売するうえでメリットがあります。また、学校ができて学生が集まれば、それだけのお金がその地方に落ちることにもなります。家や土地をもつ人、商店主などには利益になります。そうした利益を地方にもたらしてくれる政党や議員を、有権者は支持することになるわけです。

 明治時代には普通選挙がおこなわれておらず、選挙権、被選挙権を有するのは高額納税者に限られていた(総人口の約1%)。金持ちが投票して金持ちを選ぶのだから、貧しい者のための法が整備されるはずがない。おまけに通俗道徳や能力主義が強い時代。カネやコネのないほとんどの人にはさぞ生きづらかったことだろう。


 日清戦争以前の「小さな政府」の時代に、人びとは、自分で努力する以外に生き延びる道のない、「通俗道徳のわな」に、はまってゆきました。このわなに一度はまってしまうと、そこから抜け出すのはとても難しいのです。「実際に成功している人は努力した人」という現実がそこにある以上、成功した人たちは、自分の地位を正当化するために、このわなにむしろしがみつこうとします。自分が成功したのは、たまたま運がよかったとか、親が金持ちだったとか、そういうことではなく、自分が努力した結果なのである、と。自分の富、自分の地位は道徳的に正しいおこないの結果なのである、と。努力したのに成功しなかった人たち、いくら努力しても、貯蓄の余裕もなく、生活が改善する見込みもなかった人たちのことは忘れ去られてゆきます。

 マイケル・サンデル氏が『実力も運のうち 能力主義は正義か?』でも指摘しているように、この「やればできる。できなかったのはやらなかったから」の考えは諸外国でどんどん強くなっている。もちろん日本でも。

 電気グルーヴの『スネークフィンガー』という曲に

 がんばったってダメだって 努力をするだけムダだって

という歌詞があって、 昔は「ひっでえこと言うな」と思って聴いてたけど、最近聴いたときは「これはこれでそんなにひどい歌詞でもないな」とおもうようになった。

 少なくとも「やればできる!」を連呼する人よりはよっぽど人情味があるとおもうな。


【関連記事】

【読書感想文】マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 / やればできるは呪いの言葉

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』



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2024年3月5日火曜日

小ネタ12

切手

 切手が値上げするらしい。はがきは63円→85円、封書は84円 or 94円→110円になるそうだ。

 ずいぶん高くなるなあと感じたが、よく考えたら、日本中どこにでも、しかも相手の玄関にまで届けてくれるサービスが100円前後だなんてそれでもめちゃくちゃ安いよなあ。

 しかしスケールメリットがあるからこそ100円かそこらでできているわけで、値上げによって利用者が減ればスケールメリットもなくなってさらに値上げして……と値上げスパイラルになるかも。

 ま、「面倒だから手紙出さない」人はたくさんいるけど「63円が85円になるから出さない」って人は少ないだろうな。



後頭部

 散髪が終わった後、理容師が手鏡で後頭部を見せてくれて「どうでしょう?」と言われる。

 どうでしょうと言われても、自分の後頭部を見るのなんて散髪後だけなので、いつもと比べていいのか悪いのかわからない。

 せめて髪を切る前にも手鏡で後頭部を映して「こちらがカット前の後頭部です」とやっといてくれよな(やらなくていい)。


知らんけど

関西人「知らんけど」

論語「子曰く」

ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」



2024年3月4日月曜日

小ネタ11

ネーミング

 おしりふきは汎用性が高くてすごく便利なのに、ネーミングのせいで使われにくくなっている。もっとしゃれた名前にできないものか。


五十音順

 世界史の教科書に出てくる人物名を五十音順に並べたら、たぶん愛新覚羅(あいしんかくら)が最初だろう。

 ……とおもったけど、愛新覚羅よりもアイザック・ニュートンのほうが前だな。世界史の教科書には出てこないかな。他にもっと早い人はいるかもしれないが、最後は完顔阿骨打(わんやんあぐだ)でゆるぎない。


メイン

 学生時代、中国に旅行していた。数人の日本人で話していたとき、話の流れでひとりの女の子が「それだったら私みんなのためにメイドさんになったげるわ」と言った。

 そのとき「メイド・イン・チャイナやな」と言ったのは、ぼくの生涯ベストダジャレだとおもう。


SDGs

 娘が小学校でSDGsについて教わっている。

 それはいいんだけど、いまだに「一年生の算数で数回使うおはじきセット」とか「三年生で数回使うだけのそろばん」とかを生徒全員に買わせるのはなんでなんだ。学校で買って貸与してくれよ。鍵盤ハーモニカとかは口をつけるからわかるけど。SDGsってなんなんだ。




2024年3月1日金曜日

ハーファログ現象


 テレビで「電車内での通話は禁止行為とされているのはなぜなのか、改めて考えてみよう」という話題をやっていた。

 たしかに考えてみれば妙な話だ。かつては電車内での携帯電話の使用自体をやめましょうと言われていたが(ペースメーカーに悪影響を及ぼすという理由で)、それもなくなった。

 また、電車内での通話がうるさいと言われればたしかにそうなのだが、隣の人とうるさくしゃべっている人もいる。電車内での大声でのおしゃべりもマナー的には良くないが、禁止行為というほどではない。

 じっさいぼくも電車内で通話している人がいれば「やめろよ」と不愉快におもうが(口には出さない)、それは「禁止されている行為をしている」から腹を立てるのであって、そもそも禁止されていなければそこまで腹は立たない。


 番組では「ハーファログ現象」という言葉を紹介していた。

 近くに電話でしゃべっている人がいると、聞いている人の脳が「相手は何と言っているんだろう?」と勝手に想像してしまい、ストレスがかかるのだという。番組では「脳が乗っ取られたような状態」とまで言っていた(さすがにそれは言いすぎだ。それぐらいで乗っ取れるのなら話しかけるだけでも乗っ取れてしまうだろう)。

 まあ、それもわかる。たしかに会話の一方の声だけが聞こえてくる状況は非常にストレスフルだ。


 昔、自室にいたら隣の部屋で姉が観ているテレビの音が聞こえてきたことがあった。

 漏れ聞こえてくる程度なので、何を話しているかはわからない。だがひとりの声だけが妙に甲高くてやかましいのだ。他の人たちの声はぼそぼそ低い音が聞こえてくるだけで気にならないのだが、ひとりの声だけがとにかくやかましい。まるで猿の鳴き声のように。

 なんでこいつの声だけがやかましいのだろうとおもって隣の部屋に行ってテレビ画面をのぞいて納得した。明石家さんまがしゃべっていたのだ。


 それはそうと、「ハーファログ現象」のせいで一方の声だけが聞こえる電車内の通話が不愉快ということであれば、いい解決策がある。

「スピーカーONにするのであれば電車内で通話してもよい」というルールにするのだ。


2024年2月29日木曜日

【読書感想文】門倉 百合子『70歳のウィキペディアン 図書館の魅力を語る』 / (悪い意味で)さすがウィキペディアン

70歳のウィキペディアン

図書館の魅力を語る

門倉 百合子

内容(e-honより)
人生がどんどん面白くなる。ウィキペディアンにあなたもなりませんか!


 ウィキペディアン(Wikipediaの編集者)をやっている70歳女性のエッセイ。

 とはいえ、もともと司書や、会社員として資料整理の仕事などをしていたということで、これまでのスキルを十分に活かした上での活動。

 この人は「誰でもウィキペディアンになれるんですよ。やってみませんか」ってなことを書いているが、これを読むかぎりでは「ずぶの素人が手を出すのはなかなかむずかしそうだな……」という気がする。

 ぼくは毎日のようにブログに文章を書いている人間だが、それでも好き勝手にやっているから書けるのであって、「出典を明らかにするように」「出典は第三者が書いたものに限る」「事実と感想を切り分けて事実のみ書くこと」なんて制約をつけられたらちょっと気後れしてしまう。

 まあそれが仕事であればやってやれないことはないとおもうけど、Wikipediaの編集は無償。書いた人の名前が売れることもないし、資料の検索や整理が好きでないとなかなかできることじゃないよな。


 そういやずっと昔、ぼくがはじめてWikipediaなる存在を知ったころ(二十年近く前)、一度編集をしてみたことがある。

 自分ではちゃんと書いたつもりだったんだけど、「根拠不明瞭」とかのコメントをいっぱいつけられて、心が折れてしまった。なんで好き好んで卒論みたいなことをせにゃならんのかと。




 ただ自分で編集や執筆をやりたいとはおもわないけど、Wikipediaには常日頃お世話になっている。

 もちろん問題はあるけれど、他のWebサイトに比べればずっと信頼のおける情報が手に入るし、なにより誰でも無料でアクセスできるというのはほんとにありがたい。

 翌朝起きて記事を見てみると、既に別のウィキペディアンにより記事が手直しされ、「新しい記事」の候補になっていることもわかりました。そして翌29日には早くも「新しい記事」としてWikipediaメインページに掲載されたのです。ここに載るとたくさんのウィキペディアンの方が見てくださるので、実際に何人かのウィキペディアンによって記事にいくつも手が入り、書誌事項の書き方を整えてくださる方、インフォボックスや写真やカテゴリーを整えてくださる方などいらして、どんどん記事がグレードアップしていきました。Wikipediaは確かに成長する百科事典なのだ、としみじみ感じ、また「集合知」とはこのことか、と実感したものです。

 こういう人たちがいるおかげだよな。ひとりが書いているのではなく、複数の人たちが知識を結集して書いている、というのがWikipediaの最大の価値だとおもう。それによって中立が保たれやすいし、信頼性も増す。無償で知恵や労力を出しあうことをいとわない人たちが世界中にいっぱいいる、っておもうと、この世の中も案外悪いものではないなとおもえてくる。




 とはいえ。

 正直にいうと、この本、ぜんぜんおもしろくなかった。

 う~ん、さすがはウィキペディアン。書かれていることが事実の羅列で、心の動きだとかこぼれ話だとかがまったくといっていいほどないんだよなあ。まったく知らない人の堅苦しい日記を読んでいるだけ。とにかく退屈。

 これを読むんだったらWikipediaを読んでいるほうがずっとおもしろいな……。


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