2022年8月26日金曜日

【読書感想文】クロード・スティール『ステレオタイプの科学』 / 東北代表がなかなか優勝できなかった理由かもしれない

ステレオタイプの科学

「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか

クロード・スティール (著)  藤原 朝子(訳)

内容(英治出版HPより)
女性は数学が苦手、男性はケア職に向いていない、白人は差別に鈍感、年寄は記憶力が悪い……
「できない」と言われると、人は本当にできなくなってしまう。
本人も無自覚のうちに社会の刷り込みを内面化し、パフォーマンスが下がってしまう現象「ステレオタイプ脅威」。
社会心理学者が、そのメカニズムと対処法を解明する。


 アメリカの大学で奇妙な現象が起きていた。入学後に黒人や女子学生の数学の成績が悪くなるのだ。「黒人や女子は数学が苦手」という単純な話ではない。入学前は同じくらいの学力だった白人男子学生と比べても、なぜか黒人や女子だけが入学後に成績が悪くなるのだ……。


 著者は、実験を重ねて「ステレオタイプ脅威」が原因であることを突き止める。

 ステレオタイプ脅威とは、

「黒人は知的能力が低い」「女は理数系科目が苦手」「白人は黒人よりも運動能力が低い」など、世間一般に広まるステレオタイプがある(この際そのステレオタイプの真偽は問わない)。ステレオタイプによって一般的に不利とされる属性の人が難しい課題に挑戦したとき、そのステレオタイプによって委縮してしまい実力が十分に発揮できなくなる……。

という仮説だ。いったん「苦手」とおもわれてしまうと、本当に苦手になってしまうのだ。ステレオタイプによってステレオタイプが真実になってしまう。いってみればステレオタイプの自己実現化だ。




 はたして〝ステレオタイプ脅威〟は真実なのか。筆者は、条件を変えて様々なテストを試みる。その結果、ステレオタイプを強く意識させられた学生のほうが、そのステレオタイプ通りの結果を生んでしまった。

 結果は素晴らしかった。明確な答えが得られた。テスト前に、「このテストの結果には性差がある」と言われた(したがってステレオタイプを追認する脅威にさらされた)女子学生の点数は、同等の基礎学力の男子学生よりも低かった。これに対して、「このテストの結果に性差はない」と説明を受けた(したがって女性であることとの関連性の一切を追認する脅威から解放された)女子学生の点数は、基礎学力が同レベルの男子学生の点数と同等だった。女性の成績不振は消えてなくなったのだ。

「女子は数学が苦手だ」と何度も言われていると、ほんとに苦手になってしまうのだ。


 これに近い現象を、ぼくは高校野球において見てきた。

 今年(2022年)高校野球選手権大会で宮城県代表の仙台育英高校が優勝した。春夏あわせて200回近い大会をおこなってきた全国大会で、なんと史上初めての東北勢の優勝である。それまでずっと東北代表は優勝できなかった。

 はたして東北の高校はそんなに弱かったのだろうか。そんなことはないとぼくはおもう。

 たしかに昔は弱かった。雪によって冬季に屋外練習ができないこと、そもそも野球文化が近畿や中国・四国ほど根付いていなかったこともある。1915年の第1回大会で秋田中が準優勝してから、次に東北勢が決勝に進出するのは1969年。なんと54年も間隔があいている。その後も苦戦が続く。

 しかし2001年春に仙台育英が決勝に進出してからは、2003年夏、2009年春、2011年夏、2012年春、2012年夏、2015年夏、2018年夏と21世紀に入ってからは8回も決勝進出している。ぜんぜん弱くない。にもかかわらずあと一歩のところで東北勢は涙を呑んできた。なんと決勝での成績は0勝12敗。13回目の決勝戦にしてようやく勝利を挙げたのだ。

 甲子園の決勝戦までいくと、両チームともほとんど力の差はない。当然ながら実力があるからこそ勝ち上がってきたのだし、厳しいスケジュールの試合を勝ち抜いてきているので両チームとも万全の状態ではない。「どっちが勝ってもおかしくない」という状況がほとんどだ。にもかかわらず0勝12敗。これはもう偶然では片づけられない。何か別の力がはたらいているとしかおもえない。

 この本を読んで、東北代表が甲子園決勝で勝てなかった理由のひとつが〝ステレオタイプ脅威〟だったんじゃないかとぼくはおもった(それだけが原因ではないにせよ)。

 ずっと「東北代表は弱い」「東北勢は決勝で勝てない」とおもわれてきた。そのステレオタイプこそが、当の東北代表を(選手たちも気づかぬうちに)委縮させ、負けさせてきたのではないだろうか(あくまで個人の見解です)。




 ステレオタイプ脅威は、パフォーマンスの低下を招くだけでなく、回避行動となって現れることがある。たとえば飛行機の座席に黒人が座っていて、その隣が空いている。

 だが多くの白人はそこに座らない。それは差別意識からというより、むしろ恐れからの行動だと著者は言う。

「黒人が白人に差別される」ニュースを多く見聞きしているうちに、「白人は差別に無自覚で人種差別的な行動をとってしまう」というステレオタイプを持ってしまう。そのステレオタイプ通り、自分も差別的な行動をとってしまうのではないかと警戒し、黒人と近づくことを回避してしまうというのだ。


 似た経験がある。

 たとえば電車で若い女性の隣の席が空いているとき。ぼくのようなおっさんは座るのを躊躇してしまう。痴漢とおもわれるのではないだろうか、下心から近づいたとおもわれるのではないだろうか、そういう意識がはたらいて、わざわざおじさんの隣の席を選んでしまう(ほんとは女性の隣に座りたいけど)。

 これもステレオタイプ脅威、なのかな? それとも単に「嫌われたくない」という意識で、ステレオタイプ脅威ではないのだろうか?




 ステレオタイプ脅威は、良い方にも作用する。

 たとえば、アメリカにおいて女性は数学が苦手とされている一方で、アジア人は数学が得意とされている。

 そこで、アジア系女子大学生たちを集めてテストを受けてもらった。事前のアンケートによって女性であることを意識させられた被験者は数学テストの成績が下がり、逆にアジア系であることを意識させられた被験者の成績は向上した。

 つまり、うまく使いこなせば高いパフォーマンスを発揮できるようになるのだ。

 ステレオタイプ脅威は一般的な現象だ。いつでも、誰にでも起きうる。自分のアイデンティティに関するネガティブなステレオタイプは、自分の周囲の空気に漂っている。そのような状況では、自分がそれに基づき評価されたり、扱われたりする可能性がある。特に自分が大いに努力した分野では、脅威は大きくなる。だから、そのステレオタイプを否定するか、自分には当てはまらないことを証明しようとする。あるいはそのような脅威に対峙しなければならない場面そのものを回避する。(中略)自分の経験を振り返って、プレッシャーの存在を認識するのは難しいが、本書で述べてきたように、アイデンティティを現実のものにしているのは、まさにこうしたプレッシャーなのだ。


 ステレオタイプ脅威の説明からその裏付け、対策方法まで書かれているんだけど、とにかく長ったらしい。10ページぐらいにぎゅっと濃縮しても内容はほとんど変わらない気がする。

「社会心理学者ってこんな実験手法をとるんだー」ってわかることはちょっとおもしろかったけど、この内容でここまでの分量はいらなかったな。論文じゃないんだから。


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2022年8月25日木曜日

バレエのお迎えにゆく不審者

 長女がバレエを習っている。なかなか熱心な先生で、レッスンが終わるのは19時を過ぎている。その時間に女子小学生をひとりで歩かせるのは心配なので、ぼくが迎えに行く。レッスンが終わる時刻は日によって多少変わるので、少し早めに行って待つことになる。

 問題は、どんな顔をして待てばいいのかわからないということだ。


 わりと大きなバレエ教室で、多くの子が出入りしている。小学生クラスのレッスンの後は中高生のレッスンが始まる。

 なので、教室の前で待っているとその前をたくさんの子が通る。バレエ教室なのでほとんど女の子だ。みんな礼儀正しくてぺこりと頭を下げてくれるのだが、こっちとしては
「あー、不審者じゃないかと疑われてるんだろうなー」
という気持ちでいっぱいだ。

 そりゃそうだろう。夜、若い娘さんたちがたくさん出入りする施設の前でたたずんでいるおじさん。お迎えとわかっていても、それでも不気味だろう。

 ちょっと離れたところで待てばいいのだが、そのあたりは住宅街で待つような場所がない。無関係の家の前で待っていたらもっと不審人物だ。

 他の親もお迎えに来ているが、車で来ていたり、おかあさんが迎えにきたりしている。教室の前で立っているおじさんはぼくひとりだ。いたたまれない。


 そこでぼくは、三歳の次女を連れていくことにした。

 子連れは無敵だ。どこにいても不審人物でなくなる。

「若い女子が出入りする施設の前で立っているおじさん」と
「若い女子が出入りする施設の前で立っている三歳の女の子とその父親らしきおじさん」
とでは、怪しさが雲泥の差だ(とぼくはおもっている)。堂々と立っていられる。

 通りがかる女の子たちの態度も明らかにちがう。ぼくひとりのときは必要最小限の礼儀(=無言で頭を下げるだけ)だったのに、子どもがいると「こんばんはー」とあいさつしてくれる。

 なんだろう、これは。美容整形をした人が「整形前と後で男の態度がぜんぜんちがう」と語っているのを聞いたことがあるが、それに近い。「存在を許されている感」がまるでちがう。


 そんなわけで、無用な警戒を解くために次女を連れてお迎えに行っていたのだが、何度か行っていると次女が飽きてきて(そりゃあただ待つだけだからね)、「ねえねのお迎え行こっか」と誘っても「いかん。アンパンマンみとく」と断られるようになってしまった。

 しかたなく「帰りにお菓子買ってあげるから」などと物で釣るようになり、そうすると必然的に長女にもお菓子を買ってやらないわけにはいかず、「怪しい人でいない」だけのためにもこれでけっこう金がかかるのである。やれやれ、不審者もたいへんだぜ。


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2022年8月24日水曜日

【読書感想文】麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』 / 知人以上友だち未満

敬語で旅する四人の男

麻宮 ゆり子

内容(e-honより)
真面目さゆえに他人に振り回されがちな真島。バツイチの冴えない研究者、繁田。彼女のキツイ束縛に悩む、愛想のよさが取り柄の仲杉。少し変わり者の超絶イケメン、斎木。友人でなく、仲良しでもないのに、なぜか一緒に旅に出る四人。その先で待つ、それぞれの再会、別れ、奇跡。他人の事情に踏み込みすぎない男たちの、つかず離れずな距離感が心地好い連作短編集!


 タイトルに惹かれて購入。

 頭脳明晰で容姿端麗だが自閉症スペクトラム障害で他人とうまく関われない斎木、斎木に惚れこむ学生時代の後輩・真島、斎木の友人でよき理解者・繁田、その友人・仲杉。友人というほどではなく、共通の属性があるわけでもない四人が、ひょんなことからいっしょに旅に出る。ほどほどの距離感でつきあいながらそこそこ楽しい旅行を味わい、ときおり苦い経験もする。

 読んでいるほうとしてもすごくおもしろいことが起こるわけじゃないし、ためになる情報もあまり多くない。でもなぜか心地いい。なんともふしぎな味わいの小説だった。




 ぼくも(斎木さんほどではないにせよ)人づきあいが得意なほうではないので、大人になってから友人と呼べる人ができたことがない。友人と呼べるのは学生時代からの友人ぐらいだ。


 昔は人見知りな自分がイヤだったが、中年になってそれもどうでもよくなった。今さら性格はなかなか変えられないし、友人が増えれば煩わしいことも増える。ぼくの趣味は読書とかパズルとか昼寝とかひとりでやることばかりなので、趣味を通して交友関係が広がることもない。学生時代からの友人がいるのだからそれでいい。

 もはや新たに友人をつくろうとはおもっていない。仕事で知り合った人や娘の同級生の保護者とそこそこ親しくなることはあるが、敬語はくずさない。「大人の付き合いをしましょうね」というぼくからのメッセージだ。そこを踏み越えてこようとする人とはこちらから距離をとる。暗黙のメッセージを読み取れない人とは友だち付き合いしたくない、メッセージを読み取ってくれる人とは距離を保ったまま。つまりどっちにしろざっくばらんに話しあえる友だちにはなれない


 そんな人生を送っているので、『敬語で旅する四人の男』で描かれる四人の関係はたいへん心地いい。

 礼節は忘れない、多少の冗談は言うが引っ張らない、本人が言いたがらないことは詮索しない、ときどきは連絡を取り合うがべたべたはしない、家庭の事情には踏み込まない。そんな「知人以上友だち未満」の関係がなんとも気楽そうでいい。大人の交友関係ってこういうのでいいんだよな。友だちじゃなくたって。

 家族や友人や同僚じゃないから、多少の嫌なところも目をつぶれる。どうせ旅の間だけだし。どうしても嫌になったら離れればいいし。

 いいねえ。この歳になって新たに友だちをつくろうとはおもわないけど、こういう距離感の旅ならぼくも同行してみたい。




 この短篇集は、四人それぞれを主人公とする四篇から成っている。そしてそれぞれにちょっとした悩みをもたらす関係が描かれる。父親と離婚して家を出た母親との関係、別れた妻とその両親との関係、嫌な上司やしつこい彼女との関係、恋愛相手との関係。当人にしてみればまあまあ重大ではあるが、世間一般の中年男性からすればよくある悩みだ。

 だから他の三人は、あまり首をつっこまない。多少は心配したり好奇心をのぞかせたりはするが、アドバイスをしたり、助けるための行動をとったりはしない。助けを求められればできる範囲で手伝うが、基本的には傍観しているだけ。また、悩みを抱えている当人も助けやアドバイスを求めたりしない。

 女性の作者とはおもえないほど、〝男同士の付き合い〟をよく心得ている。そうそうそう、男同士って親しくなればなるほど深刻な悩みを相談したり、親身になってアドバイスしたりしないものなんだよ。「おれは、おまえの悩みとはまったく無関係な立場でいてやる」ってのも優しさなんだよ。なんでもかんでも相談する人には理解できないだろうけどさ。




 理想と現実のバランスもいい。小説だから多少の救いはあるけれど、悩みが雲散霧消するような解決は示されない。

 真島は母親との関係を修復できないし、繁田は元妻の実家とはぎくしゃくしたままだ。仲杉の仕事は変わらないし彼女とは縁を切ったけどお互いに傷をつくった。そして斎木は恋人ができたもののこの世界での生きづらさはまったく変わっていない。みんな、ほんの半歩前進しただけだ。ほとんど前の場所から変わっていない。

 でもまあ、世の中そんなもんだ。若い頃ならいざしらず、三十ぐらいになるとだいたいわかってくる。ある日突然状況が大きく改善するなんてことはない。急に悪くなることはあっても急に良くなることはない。明日は今日の延長線上にあり、ほとんど同じ日なんだということが。それでもほんの0.1%だけ良くなることはあるけど。

 そのへんの書き方が絶妙。救いは残しつつ、でも現実離れしていないビターな味わい。完璧な人もいないし根っからの悪人もいない。とにかく地に足のついた作品だ。

 あと、女性作家が書く男性って「性的なことは考えたことすらありません」みたいなタイプか「エロいことばっかり考えています」みたいな極端な人物が多いけど、この本に出てくる男たちはほどほどに性的(エロいことも好き、ぐらい)で、そのへんのリアリティもしっかりしてたな。




 やたらとうまい小説だとおもったら、なんとこれがデビュー作だという。へえ。すごい。

 今後に期待ですな。


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2022年8月23日火曜日

国民給食

 食事が公的に提供されたらいいのに。

 国が実施する給食だ。国営食堂で食べてもいいし、国営お弁当屋や国営お総菜屋で買って帰ってもいい。タダだと助かるし、お金をとってもいい。当然そのためなら多少の増税はやむをえない。


 もちろん義務じゃなくて、自分で作ってもいいし、民間のレストランに行ってもいい。選択式給食制だ。

 これがあればものすごく助かる。

 まずごはんを作る時間が減らせる。全国民で考えるととんでもない時間が浮く。その時間を生産や消費にまわせるわけだから、経済にもいい影響があるだろう。

 食費も浮く。家でひとりぶん調理するより、まとめて数千人分作る方がずっと安上がりになる。自炊が贅沢な行為になるわけだ。

 家からキッチンがいらなくなる。ワンルームだったらほとんどいらない。その分他のスペースを広くできるから、生活水準も上がる。

 まとめてつくればフードロスも削減できる。国が食物の生産量や輸入量を見ながら献立を決めれば、国際貿易でも有利にはたらきそうだ。

 長期的に見れば医療費抑制にもなる。バランスの良い食事を提供すれば国民の健康水準も向上する。


 もちろん外食産業や小売業は困るだろうから実現はむずかしいだろうけど。ぼく個人は食にあまり関心がなくて「まずくなくて腹がふくれて栄養がとれればいい」という人間だから、食事が国営サービスになったら助かるなあ。

 屋台文化の台湾がうらやましい。


 まあ本邦でやると中抜きの温床になって特定の業者だけがうるおって国民は大して利用しないというアベノマスクみたいな給食制度になっちゃうんだろうなあ。

 どっかやってる国ないのかな。社会主義国なんかやってもよさそうなのにな。

 ……とおもって検索してみたら、旧ソ連には「調理工場」なるものがあったらしい。


ソ連の女性を「退屈な」料理から救った調理工場
https://jp.rbth.com/history/86348-soren-jyosei-wo-taikutsu-ryouri-kara-sukutta-chouri-koujyou


 どうもあんまり利用されなくなったそうだが、この記事を読んでも原因がいまいちよくわからない。結局、官営にするとあんまり効率化できないということなのかなあ。市営とかにすればそこそこ競争原理もはたらいていいかもなあ(いい給食を提供すれば住民増加につながるから)。


2022年8月22日月曜日

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