2022年2月3日木曜日

ツイートまとめ 2021年9月


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メモ

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善行

コロナ禍テイクアウト

職業体験

誘って

くん

2022年2月2日水曜日

絶好の死のタイミング

  少し前に、母親から電話があり、祖母が倒れたと聞かされた。

「もうおばあちゃんも歳も歳だしね。お医者さんが言うにはかなり危ないらしいから、覚悟しといてね」

と言われた。

 それから一週間ほどしてまた母から電話があり「意識が戻って今はリハビリをしている。お医者さんも驚くほどの快復ぶりを見せている」とのことだった。

 ぼくは、おばあちゃんには申し訳ないが「医療よ、そんなにがんばらなくていいのに」とおもった。




 たいへん薄情な孫で申し訳ない。だが「もう死なせてやれよ」がぼくの偽らざる実感だ。

 ことわっておくが、ぼくは祖母を嫌いなわけではない。むしろ好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。

 というのは、祖母は十数年ほど前から認知症を患っており、もはやぼくのことなどまったくおぼえていないのだ。
 認知症になりたての頃はまだかろうじてぼくのことをおぼえていて、ときどき電話をかけてきては「犬犬くん? 犬犬くんなの?」などと自分からかけてきたくせに驚いていた。だが祖母から出てくる話といえば、「長男が冷たい。嫁も冷たい。娘たちも冷たい」といった愚痴ばかりで、親身になって認知症介護をしている伯父や伯母の苦労を知っているぼくとしては(もうそんな話やめてくれよ……)とうんざりしたものだ。

 しかしそんな電話もめったにかかってこなくなり、たまにかかってきても無言だったりして(たぶん携帯電話の操作を誤ってかけてしまっただけだろう)、もうすっかり祖母にとってぼくは忘却の彼方の人となってしまったようだ。娘のことすら忘れてしまったらしいから孫のことなどおぼえているはずがない。
 祖母にとってぼくの存在が消えたのと同じように、ぼくにとっても祖母は「おもしろくて優しかったおばあちゃん」という過去フォルダの中の人になってしまった。

 そんなわけで、たぶん今祖母が死んでもぼくはちっとも悲しくない。むしろ、献身的に世話をしている伯父や伯母の苦労を知っているから、「やっと死んでくれたか」と安堵するだけだ。


 祖母は九十八歳。認知症で子どもの名前すらおぼえていない。ここで死んでも、誰も「もっと長生きしてほしかった」とはおもわない。満場一致で「もう十分生きた」だ。いや、「十分」をはるか昔に通り越してしまった。

 それでも、目の前で老人が倒れたら通報しないわけにはいかないし、通報されたら救急隊員は駆けつけないわけにはいかないし、搬送されてきたら病院は治療しないわけにはいかない。
 労力と金をかけて医療を施し、残るのは家族の「ああ……助かったの……よかったね……」というなんとも微妙な言葉だけ。誰も口には出さないけど「あのまま逝ってもよかったのに……」と心の中でおもっている。

 これって誰のための医療なんだろう。医療費を負担させられる赤の他人や、介護にあたっている家族はもちろん、当人のためにすらなってないんじゃなかろうか。

 もし祖母が十数年前に亡くなっていたら、親戚一同心の底から悲しんで見送っていた。それと、長生きした結果「はあ、やっと逝ってくれたか」と安堵のため息をつかれること、どっちがいいのだろう。
 他人の幸せなんて推し量れないけど、少なくとも今のぼくなら、惜しまれながら死んでいきたいとおもう。




 自らの死について考える機会が増えた。この二年は新型コロナウイルスの流行もあったので、余計に。

 若い頃も死を想像したが、それはあくまで〝自分にとっての死〟だった。
 だが今ぼくが想像する死は〝娘にとっての父の死〟だ。

 娘は今八歳と三歳。彼女たちのことを考えると「まだまだ死ねないな」という気になる。

 生命保険には入ってるし、妻も仕事をしているし、それなりに貯金もあるので、まあぼくが死んでも経済的にはなんとかなるだろう。
 だけど娘のこれからを考えたら「まだお父さんがいたほうがいいだろうな」とおもう。うぬぼれだと言われるかもしれないが、娘たちはまだまだお父さん大好きな年頃なのだ。なにしろ八歳の娘はいまだに寝るときは「おとうさん手つないで」と言ってくるのだ。

 娘のためにはまだまだ死ねない。
 だったら、いつになったら死んでもいいのだろうか。

 世間一般に言われるのは
「子どもが成人するまでは死ねない」
「孫の顔を見るまでは」
「孫の結婚式を見るまでは」
といったところだろう。

 人間の欲望は際限がないので、その後も「ひ孫の顔を見るまでは」「玄孫(孫の孫)の顔を見るまでは」……と永遠に続いていくのかもしれないが、ぼくとしては「孫が十歳ぐらいになるまでは」だとおもっている。

 孫が子どもの頃は、じいちゃんとしてやれることもいろいろある。
 ぼくの父母も、孫と遊んでくれたり、ぼくと妻が忙しいときは預かってくれたり、お年玉や誕生日プレゼントをくれたりする。

 しかし孫が大きくなれば、当人の世界も広がってくる。祖父母の存在は相対的に小さなものになってくる。

 そのあたりで「孫に死に様を見せる」ことこそが、じじいとばばあに残された最後の役割じゃないだろうか。
「孫が十歳ぐらいになったあたり」が理想的な死のタイミングじゃないかと、今のぼくはおもう。もっと歳をとったら「やっぱもっと長生きしたいわ」と延長しそうな気もするが。




 ところで、我が両親も「孫が十歳ぐらいになったあたり」に近づきつつある。初孫(ぼくの姪)は十一歳だ。今こそ理想的な死のタイミングといってもいい(あくまでぼくにとっての理想だけど)。

 そっちもそろそろ覚悟しとかないとな。
 もしも父母が倒れて意識不明になったら……。殺せとは言わないけど、無理な延命はしなくてもいいとおもう。

 父はどうだか知らないけど、母は常々「あたしが倒れても無理な延命はしないでね。子や孫に迷惑かけながら生きながらえるなんて絶対にイヤだから」と口にしている。認知症になった実母の姿を見ているからこそ、余計にそうおもうのだろう。
 だから母が倒れて意識不明になったとして、その場にいるのがぼくだけだったとしたら、あえて救急車は呼ばない……とはできないな、やっぱり。呼んじゃう。おかあさんだもん。


 臓器提供カードみたいに、「延命拒否カード」があればいいのにとおもう。そのカードを持っている人が意識不明になったら、一切の医療行為を断つの。
 尊厳死とまではいかなくても、それぐらいの死に対する決定権はあってもいいのになあ。


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2022年2月1日火曜日

臨時休校ばかのきわみ

 娘の小学校から「新型コロナウイルス陽性者が出たので一斉休校にします」とメールが来た。

 これで三回目だ。

 それはいい。しかたない。

 ただ問題は、三回目だというのに学校の対応が何も改善されていない点だ。

 はじめての臨時休校のことは以前に書いた。

 臨時休校てんやわんや


  • 平日の昼間に、保護者にメールを送って必ず見てもらえるとおもっている。
  • 平日の昼間に突然「三時間以内に迎えに来い」という要求をして、全員応えられるとおもってる
  • 極力接触を避けなきゃならないのに保護者を学校に呼び寄せて接触機会がを増やす

と、問題があれこれあった。
「でもまあはじめてのことだし仕方ないよな」とおもっていた。

 だが、三回目になってもまったく同じやりかたをしている。

 ばかなのか? ばかなのね? ああそうですか。やっぱり。


 そりゃあ帰れる子は帰したらいいけど。

 でも「臨時休校にして保護者を学校に集める」って愚の骨頂でしょ、どう考えても。
 登校前に「今日は来ないでください」ならまだわかるけど、もう来てるのに「早めに帰らせます」って、それどれほどの意味があるの? 感染リスクよりもふだんとちがう行動とらせて事故にまきこまれるリスクのほうが高いんじゃないの?


 で、臨時休校したくせにその日の夕方メールが来て「明日は通常通り授業やります」とか言ってきてんの。
 翌日も授業やるんだったら、数時間早く下校させたことに何の意味があるんだよ?

 そんで、翌日になってまた昼頃メール来て「また新型コロナウイルス陽性者が出たので一斉休校にします。お迎えにきてください」とか言ってんの。
 何がしたいんだ。「感染拡大を防ぐ」という目的を完全に見失ってる。


 もう、ほんと、極み。ばかの極み。


2022年1月31日月曜日

カレーにふさわしいナン

 近所にネパール人がやってるカレー屋があって、そこのテイクアウトをよく利用する。

 カレーもうまいんだけど、ナンもうまい。800円のカレーセットでライスかナンを選べるんだけど、ご飯が好きなぼくですら毎回ナンを選んでしまう。

 A4用紙ぐらいのばかでかいナンが入っていて、それを見るたびに「こんなに食えねえよ」とおもうのだが、結局毎回残さず食っている。それぐらいうまい。

 この大きさのパンだったらぜったいに食えないのに、ナンだと食えてしまう。なんなんだ、これは。ナンだけに。


 こないだその店に行ったとき、メニューの隅に小さく「+200円でチーズナンにできます」と書いてあるのに気付いた。

 ほう。チーズナンか。うまそうだ。

 ということでチーズナン+バターチキンカレーのセットを買って帰って食べてみた。


 これはうまい。

 チーズナンがうまい。ものすごく。もちもちしていて、しっかりとチーズの味がする。それでいて素朴で、飽きのこない味。

 ナンというよりピッツァに近い。クアトロ・フォルマッジという四種のチーズを乗せたピッツァがあるけど、それに似ている。でももっとシンプルで、もっとうまい。

 うまいうまいとばくばく食っていたのだが、ふと気づいた。

 だめだこのナンは。うますぎて、カレーには合わない。

 チーズナンだけでも十分にうまい。カレーといっしょに食べると、もちろんそれはそれでうまいのだが、チーズナンの風味や素朴さが損なわれてしまう。

 カレーもうまくて、チーズナンもうまいのだが、いっしょに食べるとそれぞれの持ち味を殺してしまう。100のうまさと100のうまさを同時に食うことで150のうまさになっている。

 はっきり言って、チーズナンのうまさが邪魔だ。そんなにうまくなくていい。


 たとえるならば、好きなミュージシャンのライブを観にいったら、隣の席に座ったのがおしのびで観にきていたプーチン大統領だった、みたいな。

 いやこんな間近でプーチン見れたらうれしいけど。でもプーチンが気になってライブに集中できない。プーチンは後日プーチンだけでじっくり拝みたい。


 ということで、ナンはそんなにうまくなくていいです。モスクワからは以上でーす。



2022年1月28日金曜日

【読書感想文】白石 一郎『海狼伝』 ~わくわくどきどき海洋冒険小説~

海狼伝

白石 一郎

内容(e-honより)
戦国時代終盤、対馬。海と船へのあこがれを抱いて育った少年・笛太郎は航海中に村上水軍の海賊衆に捕えられ、以後は水軍と行動をともにするようになる。そしていつしか笛太郎は比類なき「海の狼」へ成長していった―。海に生きる男たちの夢とロマンを描いた海洋冒険時代小説の最高傑作。第97回直木賞受賞作。

 おもしろかった。時代小説はほとんど読まないのだが、そんな人間でもこれはおもしろく読めた。


(以下ネタバレあり)


 時代は戦国時代。長崎・対馬で育った笛太郎は、会ったことのない父親を追い、海賊になる。だが笛太郎と雷三郎は海賊同士の戦いに敗れ、村上水軍の捕虜となり、水軍の一員として行動するようになる……。

 驚くようなことが起こるわけではないのだが(ある程度史実に基づいているので当然)、それなのにわくわくさせられる。
 特に村上水軍の一味となってからの展開はスピード感もあってめっぽうおもしろい。

 

 なにしろ、一味が個性豊かだ。

 戦いは苦手だが潮の流れや風の動きを読むのがうまい主人公・笛太郎、船上の戦いでは誰にも負けない雷三郎、大将のくせに戦いは苦手だが金儲けのうまい小金吾、船づくりの天才・小矢太。
 それぞれが能力を活かして、一味は快進撃を続ける。

 これはあれだ、『ONE PIECE』だ。航海士・ナミ、剣士・ゾロ、話術巧みなウソップ、船大工・フランキー。ルフィのいない麦わら海賊団だ。最高じゃないか(麦わら海賊団の中でぼくがいちばん友だちになりたくないのがルフィだ。人の話聞かねえもん)。

 謎めいた将軍、女海賊・麗花、笛太郎が想いを寄せる三の乙女、行方のつかめない笛三郎の父親・孫七郎など、他の登場人物も魅力的。

 船の構造、海賊たちの戦術や生活も事細かく描写されているし、なんといっても戦いのシーンがおもしろい。

 能島村上の海賊衆がくり出したのは殆んど小舟だった。三艘がひと組となって四方八方から敵船を攻め立てた。
 六、七人の武者を乗せた舟が敵船に漕ぎ寄って弓、鉄砲を射る。防戦に必死の二艘はいつの間にか離れ離れに誘導される。それぞれ孤立した船を小舟たちが取り囲み、弓と鉄砲の一斉射撃。そのあいだに敵船に忍び寄った端舟が船首と船尾から炮烙を投げ入れて敵を混乱させ、舵を破壊する。
 二艘が進退の自由を失ったところで小舟たちは退き、かわって三十挺立ての小早船数艘が現われ、それぞれ二十人ばかりの武者を乗せて敵船に突進する。舷側を接して踏み板を掛け渡すと、武者たちが一斉に乗りこむ。
 船上の武者たちは敵を殺傷するより海へ抛り込む。ふきんに遊弋している小児たちが海中の敵を大熊手にひっかけて捕虜にする。
 火矢は使わなかった。船を無傷でぶん捕るためだろう。たくさんの小舟たちが貝と太鼓の合図で整然と動いて、進退は全く水際立っている。
 まるで日頃の海賊衆の調練を眺めているようである。実戦と調練が全然かわらない。笛太郎は玄界灘で襲われた青竜鬼のことを思いだしていた。おそらく村上海賊衆にとってはジャンクの一艘など、さしたる敵でもなかったろう。航行中の船を襲い、人を殺傷し、荷物を奪い、あわよくば船を拿捕するという海賊行為が、ここでは戦術として磨き上げられ、整然と組み立てられていた。
 弓、鉄砲、火矢、炮烙などの武器も、ときに応じての使い分けが、あらかじめ定められていて、船上の武者たちには迷いがない。
 小舟は小舟で前哨線を立派につとめ、大船は大船で、焦らずに出番を待っている。

 もっとも興奮するのが、三度にわたる青竜鬼(ジャンク)と村上水軍 の戦い。笛太郎は、一度は青竜鬼の乗員として村上水軍に敗れ、二度目は村上水軍として青竜鬼を助ける。そして三度目は自分たちで作った船に乗り青竜鬼と戦う。かつての仲間であり、恨みもある敵となった青竜鬼との戦いは胸が熱くなった。

 しゃらくさい正義や友情を語らないのもいい。そんなものを口にするのは海賊じゃない。悪の自覚を持っているのが潔い。


 波に揺られる船のように二転三転する笛太郎の波乱万丈な人生を読みながら、心からわくわくした。この歳になって、少年のように冒険小説で手に汗握るとはおもわなかった。

 本も終盤に近付くにつれて「こんなにおもしろいのに、もうすぐ終わってしまう……」と寂しくなった。だが、なんと続編『海王伝』に続くという。よかった、まだ続きを読める……。


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