2021年11月10日水曜日

あれから○年

 テレビ番組『はじめてのおつかい』が好きだ。

 30歳くらいまでぜんぜん観たことなかったんだけど、自分が親になって観てみるとおもしろい。娘たちも大好きで、自分と歳の近い子が奮闘している姿にいろいろと感じ入るところがあるようだ。


 さて『はじめてのおつかい』でぼくがいちばん好きなのは「あれから○年」のコーナーだ。

 番組を観たことのある人なら知っているとおもうが、

「2~5歳くらいの子どもがはじめてのおつかいに行く」
→「あれから○年」というナレーションが流れる
→ 大きくなった子どもの姿が観られる

というものだ。

 つまり「はじめてのおつかい」部分は再放送であり、「あれから○年」が最近収録したものとなっている(場合によっては「あれから○年」さえも再放送であり「さらにあれから○年」が流されることもある)。

 これがおもしろい。


 ふつう、ひとつのテレビ番組の中での時の流れは、長くて数ヶ月、短ければ数十分だ。NHKの気合の入ったドキュメンタリーだと数年かけて撮影、なんてこともあるがたいていは数時間~数日ぐらい。

 ところが『はじめてのおつかい』の映像では、長いものだと十五年ぐらいの時間が流れている。いろんなものがすごいスピードで流れる。はじめて観たときはメイド・イン・ヘブンのスタンドが発動したのかとおもった。おもうかい。

 子どもの成長が一瞬で感じられるのがたまらない。
 さっきまで三歳でおかあさんと離れるのを嫌がっていた子が、十八歳になって進路について真剣に語っているのだ。
 あの小さかった子がこんなに立派になって……と、姪っ子の結婚式を見るような気分になる。姪っ子の結婚式に行ったことないけどさ。


 時の流れを感じるのは人間だけではない。
 街並みも変わっている。

 こないだ観た『はじめてのおつかい』では、子どもが買物に行く商店街に「デジカメプリント」というのぼりが立っていた。
 ああ、なつかしい。

「デジカメプリント」を大々的に掲げる写真屋は今ではもうなくなった。
 今やカメラといえばデジタルがあたりまえだからわざわざ「デジカメ」なんて呼び方をしないし、デジカメプリントのできない写真屋なんて今どき存在しない。

 デジカメが一般消費者に買われるようになったのは2000年頃。その10年後にはほぼフィルムカメラは姿を消している。

 だから写真屋がわざわざ「デジカメプリント」と大々的にうたっていた時代は、せいぜい2000~2010年の10年間ぐらい。

「デジカメプリント」ののぼりひとつの映像だけで、「ああ懐かしい。こんな時代もあったなあ」と感じられる。時の流れが感じられるのはおもしろい。


 昨日と今日で世の中は変わっていないけど、十年前と今なら確実に変わっている。
 日々の暮らしの中では変化に気づけないのだ。


 テレビは基本的に最新の情報だけを流して後はほうったらかしだけど、その後の時の流れを記録したらそれだけでおもしろくなるはずだ。

「最新家電を紹介!」なんて番組はただのコマーシャルでおもしろくないけれど、「あれから○年」と10年後、20年後にその映像を流したらすごくおもしろいにちがいない。10年前はこんな機能をありがたがっていたのかーとか、20年前は電子辞書が売れ筋商品だったんだなーとかいろんな発見があるはずだ。


 ニュースやワイドショーもぜひ「あれから○年」をやってほしい。

 日大アメフト部の危険タックルの学生はあの後どうなったのかとか、あのときマスコミがさんざん犯人扱いしたあの人は結局無罪だったけどどれだけ人生を狂わされたのかとか……。

 やらないだろうな、不都合なことだらけだから。



2021年11月9日火曜日

【読書感想文】日本推理作家協会『小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所』

小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所

大沢 在昌  石田 衣良  今野 敏  柴田 よしき
  京極 夏彦  逢坂 剛  東野 圭吾

内容(e-honより)
ご存知、国民的マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。縁あって日本推理作家協会とのコラボ企画が実現しました。ベストセラー作家たちによるトリビュート短編小説が誕生。我らが両さんと、あの『新宿鮫』の鮫島や『池袋ウエストゲートパーク』のマコトとの豪華共演も楽しめる。ギャグあり、人情あり、ハードボイルド風の展開ありの宝石箱のようなアンソロジー。


『こちら葛飾区亀有公園前派出所』と日本推理作家協会とのコラボアンソロジー。
『こち亀』のキャラクターを使った短篇を、人気作家たちが書いている。


『こち亀』はぼくが生まれる前からジャンプ掲載していた作品。小学校高学年ぐらいでハマり、いっときは単行本を六十冊ぐらい持っていた。手放してしまったけど。

 百巻ぐらいまでの話はだいたい読んだので、「どれ、ほんとに『こち亀』の世界を小説にできたんだろうな。変な出来だったら許さんぞ」という気持ちで読んだ。


 で、結論からいうといまひとつ。

 大沢在昌『幼な馴染み』と石田衣良『池袋⇔亀有エクスプレス』は、自分の作品のおなじみのシリーズに無理やり『こち亀』のキャラクターをゲスト出演させたという感じ。『こち亀』の世界ではないなあ。

 楽な道に逃げたな、という印象。
 こういうアンソロジーって逃げるとおもしろくない。結果的にイマイチになってもいいから、真正面からぶつかってほしい。


 柴田よしき『一杯の賭け蕎麦』と逢坂 剛『決闘 二対三!の巻』はギャグに挑戦している。その心意気は買うが、ギャグが上滑りしている感は否めない。漫画のギャグをそのまま小説にしたっておもしろくないよ。

 漫画なら許されても、小説にすると「それはありえんだろ」という気になってしまう。読者の求めるリアリティの基準が漫画と小説ではちがうんだよね。

 特に『決闘 二対三!の巻』は、「麗子が他の署員に金を賭けた拳銃摘発勝負を持ちかける」というめちゃくちゃな展開で(もちろん両さんが噛んでいるとはいえ)、原作へのリスペクトも何もあったものではない。原作読まずに書いたのか? タイトルだけはいちばん原作に寄せているけど。




 個人的にいちばんおもしろかったのは、今野 敏『キング・タイガー』。

 定年退職した元刑事が時間を持て余し、ひさしぶりにプラモデルをやろうと思い立つ。模型屋に行くとそこに「両さんの作品」が飾ってある。その完成度の高さに感心し、自分もそれに近づこうと努力するが、やればやるほど両さんとの差が目に付くようになり……というストーリー。

 地味な話だが、元刑事の心中が丁寧に描かれている。

 こち亀というと、両さんの超人的な能力や強引な性格、中川や麗子の金持ちエピソードなどにまず目がいくが、あの作品が40年も続いたのはそういった〝わかりやすいキャラクター性〟によるものではない。作者のホビーに対する深い造詣など、ありとあらゆるものに対する強い好奇心が作品に投影されているからだ。

『キング・タイガー』には、『こち亀』と同じプラモへの愛とこだわりが存分に発揮されている。

 組み立て説明書を開く。さすがにこれだけの部品数のプラモデルともなると、組み立て説明書もただのペラではない。四つ折りにされた大きなもので、しかもカラー刷りになっている。
 昔の安いプラモデルとは大違いだ。
 説明書を読むと、使わない部品がずいぶんあるようだ。他のモデルと共通の部品をひとまとめにしてランナーでつないだものや、好みで選んで取り付ける部品などがあるからだ。
 これは、指揮事案と同じだ。計画性が何より大切だ。私はそう感じた。大事件が勃発したときに、捜査本部、あるいは指揮本部ができる。管理官などの幹部は、情報を集約して即座に上げ、上からの命令を的確に現場に指示しなければならない。
 その情報量は膨大でしかもすべてが緊急を要するのだ。小さな間違いが重大な失敗に結びつく恐れがある。だから、指揮をする立場の人間は常に事態の把握につとめ、さらには的確な判断を下せるように計画性を持つ必要があるのだ。

 今野敏氏は、自身もプラモデル愛好家らしい。だから『キング・タイガー』には両さんはほとんど登場しないにもかかわらず、もっとも『こち亀』らしい作品に仕上がっている。

『こち亀』ノベライズの正解を見せてくれた気がする。『こち亀』を小説にするなら、ギャグ路線じゃなくてマニアックな知識を活かした方向性だよな。活字との相性もいいし。




 京極 夏彦『ぬらりひょんの褌』と東野 圭吾『目指せ乱歩賞!』も悪くはなかった。


 まあ『ぬらりひょんの褌』に関してはぜんぜんこち亀っぽくなくて京極夏彦テイストが強すぎるんだけどね。
 でも大原部長と寺井という地味目なキャラクターを軸に据えているのがいい。両さんや中川や麗子はキャラが強すぎて小説向きじゃないんだよね。


『目指せ乱歩賞!』のほうは、「乱歩賞の賞金額が大きいことを聞いた両さんが反則スレスレの方法で乱歩賞をめざす」という原作にもありそうな話。というかこんな話なかったっけ? 漫画の新人賞を目指す話ならあったような気がする。

『こち亀』と日本推理作家協会とのコラボという点を考えれば、これがいちばん趣旨に近いかもしれない。さすが小説巧者、うまくまとめたな。


 おもしろいかどうかでいうと微妙なところだけど、「与えられた制約の中でどう料理するか」というお題のおかげで作家の力量がはっきり見えるのがおもしろかった。

 たまにはこういうアンソロジーも悪くないね。


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2021年11月8日月曜日

ツイートまとめ 2021年8月


差別や侮辱の意図

マイミク

赤十字

ハナテン

成長中の家

全集

不必要

ユニバ

ありがた迷惑

ひだまり

珍事

×わいさつ → ○わいせつ

2021年11月5日金曜日

【読書感想文】鷺沢 萠『私はそれを我慢できない』

私はそれを我慢できない

鷺沢 萠

内容(e-honより)
名前くらい覚えてくれぃ!私はワシザワでもモエでもないぞとプンスカぶりぶり。はたまた、トイレが長いと友人に立腹するが、私が短かすぎるだけなのか!?深夜ドライブに行けばガス欠で、営業中のスタンドが見つからない…。あれってひどすぎ!?それってあんまり!?というトホホな事態、ムムムな状況に直面し続けるサギサワに、思わず同感、やがて納得、おまけに爆笑のエッセイ集。

 

 1995年刊行のエッセイ集ということで、古くさい。
 いやまあ三十年近くたてば古びるのはしかたないが、それにしても古くさい。

 冒頭のエッセイの書きだしにもう「古っ」と叫んでしまった。

 基本的に、どちらかといえば「せっかち」な部類の人間なので、などというソフトな言い方をすると、友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそうなので正直に言うと、私は物凄くせっかちな人間なので、のんびりゆったり構えている人を見るとイライラする、ということはある。いや、はっきり言えば私が世界中でいちばん嫌いなのはノロノロしていることである。
 前言撤回。ノロノロしていること以上に嫌いなことを思い出した。それは「待つこと」。だから人を待たせてもゼンゼン平気、何とも思っちゃいないわーん、という感じの人を見ると、イライラを通り越して、傘の柄が折れるまで背中をぶっ叩いてせかしてやりたい、という衝動に駆られる。まあ、つまり「イラチ」なんですな。

 このダサさよ。読んでいるこっちが恥ずかしくなる。

 文体が絶望的に古くさい。
 椎名誠と町田康の文章をたして10で割ったような文体。

 椎名誠氏とか東海林さだお氏の文章が〝昭和軽薄体〟と呼ばれた。たしかにそうした文章は今読むと古い。しかしなつかしさは感じても、ダサいとは感じない。それは、自身の思想を最も効果的に表現するために試行錯誤の末に生みだしたものだからだろう。だから彼らの思想を表現する手段は、あの文体しかない。

 本物は古びない。
 町田康氏の文章は、何十年たっても「町田康の文章」だ。

 しかし鷺沢氏の文体は、そうではない。手っ取り早く「おもしろおかしいエッセイ風に仕上げるためのスパイス」として、〝友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそう〟なんて言い回しを使っている。
 己の内面からにじみ出てくる文体ではなく「そのときの流行りの文体をうわっつらだけ真似た文体」。

 中身と皮があっていないから、すぐ腐ってしまうのだ。




 気恥ずかしくなるほどダサい文章だけど、読んでいるとそのダサさも愛おしくなってくる。ああ、こんなのがおもしろおかしいとおもわれていたんだなあ、と当時のカルチャーが見えてくる気がする。


 文体だけでなく、書いている内容も「時代だなあ」と感じる。

 あの頃のエッセイってこんなんだったよなあ。
「私の友だちが言ったケッサクな一言」や「身の周りの腹立つ出来事」といった、微小な出来事を、大した工夫もせずにそのまま提示する。
「こんなことがあってむかついたんですけどー!」みたいな、ひねりもオチもないお話。美容院で場を埋めるためだけに交わされる会話ぐらいの情報。

 自慢と自虐をほどよくブレンドしてひねりのない悪口を加えただけで「人気女流作家の歯に衣着せぬ爆笑エッセイ」になった時代の産物。


 端的に言ってしまえばつまらないんだけど、そのつまらなさがなつかしい。
 今ってさ、情報量が増えた結果、おもしろい話が氾濫してるじゃない。Twitterなんか見ていると、毎日どこかの誰かが発信したおもしろい話が流れてくる。
「100万日に1度しか遭遇しないおもしろい出来事」があったとして、ユーザーが1000万人いれば毎日10個はそういう話が投稿されることになる。おもしろい話はたくさん拡散されるから、ぼくらは毎日毎日「めちゃくちゃめずらしい出来事」「とんでもなくおもしろい発想」を目にすることになる。

 それはもちろんいいことなんだけど、ちょっと疲れることでもある。
 だからたまに〝ぜんぜんおもしろくないエッセイ〟を読むと、ほっとする。ああよかった。自分だけが退屈な日常を送っているわけじゃないんだ。他の人もたいしておもしろくないことをおもしろがって生きているんだ、と安堵する。

 あんまりおもしろくない文章なのがありがたい。ほんと、皮肉じゃなくて。

 こういう文章って後世に残らないから、逆に価値がある。


 あと、ネット上ではちょっと危険な発言をするとすぐに炎上してしまうこともあって、優等生的な意見ばかりが目に付くようになった。
 二十年前は「こんなことは身の周りの人には言えないからウェブ掲示板にでも書こう」だったのに、今は逆に「こんなことを書くと炎上しそうだからオフラインだけで言おう」になった。

 だから、こうした平凡なエッセイで「それはちょっとまずいんじゃないの」ということを読むと無性にうれしくなる。

 時代のちがいもあるんだけど、『私はそれを我慢できない』には、
「阪神大震災発生直後に、被災地に住んでいる人を心配して電話をかけまくる」
とか
「ドライブしてたらガソリンが足りなくなったので消防署にガソリン分けてくださいとお願いしにいく」
とか
「夜中の12時に窓を開けて電話でおしゃべりしてたら近所のおっさんに怒鳴られた。心が狭い」
とか、今読むと「いやこれはダメでしょ」と言いたくなるエピソードがいっぱい出てくる。

 しかも著者はぜんぜん悪いこととおもってない書きぶりなんだよね。変わっていないようで、時代とともに人々の価値観は変わってるんだなあ。




「三日坊主」について。

 三日坊主ということばとは、関わったことがほんとうにない。なぜなら私は、年のはじめにあたって「今年の抱負」を語ったり、別に年のはじめじゃなくても「○月○日までに必ず○枚書きあげるぞ」と心に誓ったり、別にそういう真面目なことじゃなくても「○月までに○キロ痩せるぞ」と決心したり、ということをまるでしない人間だからである。ほんとにまるでしない。全然しない。一切しない。ハハハハハ。
 あ、またもや三日坊主で終わっちゃった、どうしよう、あたしってホントにだらしない、オレってホントに駄目な奴……、などと思うのは、そのことに少しでも罪悪感をおぼえるからこそである。

 これ、ぼくも同じだ。

 中学一年生の一学期。進研ゼミからのアドバイスに「定期テスト対策。まずは一週間の計画を立てよう!」なんて書いてあったからぼくもやってみたんだけど、すぐにああこりゃムリだと気が付いた。

 まったく守れないのだ。一日たりとも計画通りにできたことがない。

 それ以降、計画なんてものを立てたことがない。定期テストも、高校受験も、大学入試も、大学のレポートも、卒論も、社会人になってからも、計画なぞ立てていない。
 さすがに仕事では「計画を提出せよ」と言われたこともあるが、それっぽいものを提出しただけでまったく守っていない。あんなもの上司だって見ちゃいないのだ。

 それでもなんとかなっている。「目の前のタスクをとにかくこなす」だけで、受験も卒論も仕事もなんとかなった。

 計画なんて守れる人だけ立てればいいのであって、守れない人は立てないほうがいい。時間の無駄だし、ストレスの要因になるだけだから。


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2021年11月4日木曜日

「ボールをよく見て」式の教育

 子どもたちとボールを使って遊んでいると、〝運動神経〟の差が歴然としていることに驚く。


 八歳の娘にテニスラケットを買い、何度か練習した。土日は六時半に起きて公園で一時間ぐらい練習をした。通算で四時間ぐらいは練習しただろう。娘も少しずつではあるがうまくなってきた。

 休みの日に、娘と、その友だちYちゃんとテニスをした。Yちゃんはテニス初体験。ラケットを握るのもはじめてだ。はじめはラケットにボールを当てることもできなかったYちゃんだが、やっているうちにどんどんコツをつかんで上達していく。

 二十分もすると、Yちゃんはもう娘よりもうまくなっていた。

 四時間二十分練習をした娘よりも、二十分やっただけのYちゃんのほうがうまい。さらにその差はその後どんどん開いていく。

 努力を才能があっさりと追い抜いてゆく。うーん、残酷だ。




 ぼくも、決して運動神経のいい子どもではなかった。
 かけっこは中の下ぐらい。サッカークラブに入っていたが、13人しかいないチームなのにときどきレギュラー落ちするレベル。
 マラソンだけは得意だったがあれは上手とか下手とかいうものではなくほとんど肺活量によって決まる。

 運動神経が良くはないが、スポーツは苦手ではない。特に今は。
 テニスでも野球でもサッカーでも、同世代のおじさん100人をランダムに集めたら上から38番目ぐらいにはなれる自信がある。得意ですと胸を張れるほどではないが苦手でもない。
 なぜなら、経験があるから。
 高校時代、毎日放課後友人たちと野球やサッカーに明け暮れていたから。
 多くの経験に支えられ、一通りのスポーツは人並み以上にはできるようになった。

 とはいえそれは「運動神経の良くない人たちには(経験の差で)勝てるようになった」というレベルで、運動神経の良い人にはどんなに努力してもかなわない。




 持って生まれた〝運動神経〟の差は、確実にある。

 ボールの軌道を読む力とか、見た動きを自分の身体で再現する能力とか。人によって生まれもったものがぜんぜん違う。
 こちらが努力して向こうが努力しなければその差を埋めることはできるかもしれないが、両者とも努力をすれば差は拡大する一方だ。


 ところで、スポーツをしていて
「ボールをよく見て」
というアドバイスをされたことはないだろうか。
 ぼくは千回ぐらいある。

 このアドバイスは〝できる人〟のアドバイスだ。

〝できる人〟は、これだけでできちゃうのだ。ボールをよく見れば、軌道と速度がわかり、瞬時にボールが落ちてくる位置がわかるのだ。そしてその位置に手なり足なりラケットを差しだして、正確にミートさせることができるのだ。

 できない人はそうではない。ボールをよく見たところで、その後の軌道がわからない。わからないからどこに移動すればいいかわからない。仮にわかったところで、自分の身体を適切な位置に運ぶことができない。

 もちろん経験によってある程度できるようにはなるが、10回やればできるようになる人もいれば、10,000回やらないと身につかない人もいる。


 長嶋茂雄氏が「スーッと来た球をガーンと打て」などとわけのわからんアドバイスをしたことは有名だ(真偽は知らん)。
 あそこまで極端なのはめずらしいとしても、運動神経の良くない人間からすると「ボールをよく見て打て」もそれとどっこいどっこいのアドバイスだ。

 物理学者からしたら「初速度と角度さえわかれば、滞空時間も到達高度も到達距離もかんたんにわかるじゃないか(空気抵抗はないものとする)」とおもうかもしれないが、素人にはわからない。それといっしょ。




「ボールをよく見て」的なアドバイスはあらゆる分野にあふれている。

 美術教師には「対象をよく見て、見たままを描きましょう」と言われた。

 音楽教師には「お手本をよく聞いて、お手本通りに歌いましょう」と言われた。

 彼らにはそれができるのだ。見たまま描けば上手な絵になり、聞いたままに歌えば上手に歌える。

 体育教師も美術教師も音楽教師も、それぞれの教科が生まれつき得意だった人だ。みんな労せずして〝できる人〟だ。見たまま聞いたままに再現することのできる人だ。

 だからほとんどの教師には、「よく見てもできない人」の指導方法がわからない。




 以前、中国人に日本語を少しだけ教えたことがある。
 彼らの多くは「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」の音を出すのが苦手である。中国語にない音だからだ。
「『ぎゃ、ぎゅ、ぎょ』と言って」と言うと、「や、ゆ、よ」と言う。そして「あってるでしょ? どこがちがうの?」と首をかしげる。

 日本人からすると「ぎゃ」と「や」なんてまったく別の音である。混同することなんて考えられない。

 同様に、日本人はLとRの聞き分けが苦手だが、英語圏の人間からすると「LとRが聞き分けられない」なんて信じられないことだろう。

 英語圏の人が「LとRのちがいを説明してください」と言われても困るだろう。
「ちがいも何もまったく別物じゃないか。聞いたとおりに表せばいいだけだよ」という気になるだろう。

「ボールをよく見て」も同じだ。




 ぼくは運動神経は良くないし、音痴だし、絵もうまくない。
 でも幸いにして学校の勉強は得意だった。

 もちろん努力もしたが、持って生まれた〝センス〟もあったのだろう。生まれつき運動神経がいい人のように、ちょっとの努力で教わることの大半を理解できた。

 中学生ぐらいで気が付いた。自分は勉強が得意だな、と。
 同じ時間勉強しても、身につく量が他人よりもずっと多いようだ、と。


「勉強のセンスがない人」は存在する。
 彼らは人より努力しても、人並み以下にしか勉強ができない。
 運動神経の良くない人がどれだけ努力してもオリンピック選手になれないのと同じように。

 それはしかたがない。そういうものなのだから。
 身長の高い低いが本人の努力とあまり関係ないのと同じで、そういうふうにできているのだからしかたがない。

 残酷なのは、学校という場がまるで「生まれもった差はなく、できる/できないは努力によってのみ決まる」であるかのような〝ウソ〟を前提に設計されていることだ。

 だから「しっかり話を聴きなさい」「よく考えなさい」「ボールをよく見なさい」「お手本の通りにやりなさい」式の、「できる人にしか通用しない」指導方法がいつまでたってもなくならない。


 能力差に応じてグループ分けをすることと、能力差があってもみんなを同じスタートラインに立たせて同じルールで同じゴールに向かって走らせること。

 どっちが残酷なんだろうね。


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