2021年10月21日木曜日

部活は違憲

 部活は諸悪の根源。

 とまでは言わないが、部活がなくなれば世の中からパワハラがだいぶ減るんじゃないかとにらんでいる。


 小学生のとき、上級生は単なる「年上」だったし、下級生は「年下」でしかなかった。

 なのに中学生になると急に上級生は「敬うべき存在」になり、下級生は「威張っていい相手」になる。

 なんなんでしょうね、あれ。

 小学校でも縦割りの活動はあった。掃除とか運動会とかで、六年生が一年生の面倒を見ることが。
 そのときは「六年生のおにいさんおねえさんは一年生に教えてあげましょう」という感じだった。
「年下の子にはやさしくね」だった。

 なのに中学生になると急に「二年生は一年生に対してえらそうにしていい」になる。

 急にびゅんびゅん吹かしてくる。先輩風を。

 なんでだよ。「二年生のおにいさんおねえさんは一年生にやさしく教えてあげましょう」にしろよ。


 こうしてぼくらは部活動を通して
「先輩は後輩に対して敬意を払わなくていい」
「後輩は先輩が理不尽なことを言っても逆らってはいけない」
と誤った考えを学ぶ。

 憲法十四条「すべて国民は、法の下に平等であつて」は、部活においては無視される。
 部活は違憲。


 まあすべて部活のせいとは言わんが、他の学年と関わることなんて部活以外にはほとんどないから、まちがった上下関係を身につける原因の九十パーセントは部活のせいといってもいい。

 だから部活がなくなれば世の中からパワハラは減る。あと貧困と疫病と暴力と争いと鼻出しマスクでマスクした気になってるやつも減る。まちがいない。


2021年10月20日水曜日

【読書感想文】永 六輔『普通人名語録』

普通人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
再び日本全国の普通人が創った名言・箴言・格言・警句を、味わってください。なんと深く世相をえぐり、庶民の微妙な気持ちをとらえていることでしょう。この素晴らしい表現力に、だれもが驚きます。そして共感がひろがります。さあ、1億2千万人のペーソスあふれる大傑作を、声をだして読んでください。


『無名人名語録』に続く「市井の人々がふと漏らした発言」を集めた本。刊行は今から三十年前の一九九一年。

 なんてことない言葉なんだけど、うならされたり笑わされたり。

 たとえばこんなの。

「デマを流すコツは、みんなが信じたがるデマを流すこと」
「年をとってみるとわかることがあるね。
 戦争をやろうとするのは、決して若い連中じゃないんだよな。
 自分は戦地に行かないという連中が、はじめたがるんだ。
 自分が死なないとわかりゃ、
 戦争って面白いものなァ。
 で、若い連中が死ぬ……。
 年とった連中の若者に対するヤキモチだな」




「パーティとか、寄り合いで、帰りそびれて最後までつき合っちゃってさ。
 そのために、オーバーに言えば、
 人生が狂っちゃったりするんだよな。
 帰るタイミング、
 別れるタイミング。
 うまい奴がいるからねェ」

 何歳になっても「帰るタイミング」ってむずかしいよね。

 まあぼくは数年前から「どう見られてもいいや」とおもえるようになったのでスッと帰れるようになったけど、それまでは帰りそびれて後悔したものだ。そんなにおもしろいわけじゃないんだけどな、とおもいながら周囲に流されて二次会三次会に行き、やっぱりおもしろくなくて「早く帰りたいな」とおもいながら時間が過ぎるのを待つ。

 でも子どもが生まれたことで、帰る口実を作りやすくなった。

「子どもが待ってるので」「妻に怒られるので」と言えば、そこまで引き止められない。

 これは今の時代だからで、昭和の時代だったら「男が家庭なんか気にするな」なんて言われていたかもしれない。

 いい時代になったなあ。




「地下鉄に乗ってさ。
 いきなり喧嘩、なぐり合い。
 思わず、ポカンと見ちゃったよ。
 事情はわからねェんだもン。
 割って入れるもんじゃねェ。
 様子を知ろうとすりゃ、
 時間はかかるよ。
 そのうち、次の駅で、連中は、
 ホームに出ちゃう。
 それを車内で傍観していたって、
 そんなこと言われたって困っちゃう。
 正義感とか、公徳心てェものは、
 いつも持ってて、
 すぐに出せるってものじゃねェもの」

 ぼくもこの前、似た経験をした。

 街中で口論や喧嘩を目にすることがたまにあるんだけど、ほとんどの場合一部始終はわからない。

 注意 → 反論 → 再反論 → 再々反論 → 激昂してでかい声を出す

 のあたりで周囲の人は「なんか揉めてるな」と気づくから、いきさつがさっぱりわからない。

 止めたほうがいいのか、止めないほうがいいのかもわからない。たとえば痴漢を現行犯で捕まえたのだったら止めないほうがいいし、刃物を持って暴れてる人がいるんなら止めに入るより逃げたほうがいい。

 都会の無関心とか現代人は冷たくなったなんて言われるけど、たいていの場合は事情がわからなくてどうしようもないんだよね。




「ニュースショーの司会をしていると、
 自分の考えと、局としての考え、
 さらに視聴者が満足する考えと三つの発想の、
 どれを選ぶかということで疲れ果ててしまう。
 だからまず、自分の考えがない人がいい。それから局としての考えにも及ばない人がいい。
 正義も、真実も、無視して、
 視聴者が考えそうなことを言う人。
 そんな人こそ、すぐれた司会者」

 なるほどなあ。そうかもしれない。

 長続きするニュース番組の司会者って、自分の意見を出さない(もしくは何も考えてない)ように見えることが多い。

 政治家の不正や有名人の不倫にすぐ怒ってすぐ忘れるような人ばかりだ。

 みんなが右に行けば右に走り、世間が左に向かえば自分も左に移動する。思想も信条も洞察もない。わたぼこりのように風に流されて漂うだけ。

 それがうまくいく秘訣なんだろうね。




 中でもいちばんおもしろいのは、公共の電波や紙面に乗せることは決してできない、偏見まみれの本音の言葉。

「お客様、ここは東京のライブスポットです。
 田舎から来た人は下手なリズムで手を叩かないで下さい。
 それからブスの人、気取らないでェ!」
「オレがひとり暮らしの老人だからって、
 若い女のボランティアが来るんだよ。
 来てもいいけど、ケツを触ったら
 怒ってもう、来てくれないの。
 そういうケチなのも、ボランティアっていうのかい? 孤独なスケベだっているんだよ。
 触るだけなんだからさァ」

 いいなあ。

 こんなこと、Twitterでもなかなか言えないもんなあ。匿名掲示板に書いたことが原因で逮捕されることもある世の中だもんな。

 貴重な歴史的史料だ。


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2021年10月18日月曜日

【読書感想文】永 六輔『無名人名語録』

無名人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
日本全国一億二千万人が創った名言・箴言・格言・警句。巷に生きる無名人が残した言葉を、ひたすらメモしてみると、時にドキッとするような内容にであう。ジッとかみしめ想いをひろげていくと、何かそこはかとない共感と連帯の気持ちがわいてくる。ここに集めた傑作を、どうぞ声をだして読んでください。


 なんだろう。すごく新奇なことが書いてあるわけじゃないんだけど。でもいい本だったなあ。
 本ってこのためにあるのかもしれない、とすらおもえる。


 ラジオやテレビのタレントであり、番組で日本中あちこち旅をしていた永六輔さん。そんな永六輔さんが全国各地で耳にした、市井の人々の発言を集めた本。
 刊行は今から三十年以上前。

 どんな状況で誰が発した言葉か、なんてのは一切書かれていない。ただ発言だけが並べられている(一応テーマごとに分かれている)。

 これが、しみじみといい。 

「名誉や、地位は捨てられるんですよ。
 出世欲だって、性欲だって、なんとか捨てられるものです。
 物欲、もちろん、捨てられます。
 一番むずかしいのは、名前です。
 名前を捨てることができたら、プロの乞食になれます。そういうものです」

 こんなのとかね。

 ホームレスの人から聞いた話なのかな。ふしぎな説得力がある。

 たしかに、名前を捨てるのはむずかしそうだ。
 ブッダだって、名誉も地位も家族も財産も捨てたけど、名前だけは捨てなかったもんね。すべてを失っても、名前という「生きた証」だけは捨てられない。それを捨てたら人間でなくなる。

 人間と他の動物を区別するものは「自分の名前を持っているか」かもしれないな。動物には、他人からつけられる名前はあっても自称する名前はないだろうから。
(だから『吾輩は猫である』の猫は名前がないのか!)




 深く考えずに発したであろう言葉の中にも、箴言は多く眠っている。

「そりゃ若いときは有名になりたいと思ったさ、無名で終わるなんて考えもしなかった。でもね、でも、年をとってみると、ちょっとはわかってくるんだよ。
 有名人なんてものは、ありゃ世間のペットみたいなもんでさ。
 我々は気が向いたときに可愛がってやりゃいいもんだってね」

 そうだねえ。

 ぼくも有名人にあこがれたことはあった。というか、自分は有名になるもんだとおもっていた。

 でも中年になって、これから先ぼくが有名になることなんて大犯罪でもしないかぎりはないとあきらめた。あきらめたから負け惜しみでいうわけじゃないけど、有名人ってたいへんだろうな。どこへいっても有名人なんだもの。

 だからデーモン小暮さんとかゴールデンボンバーの樽美酒研二さんみたいな「素顔の知れない有名人」がいちばんいいよね。有名人と無名人を使い分けられるから。




「女郎とか杜氏っていうのは、みんな貧しさが前提なんですね。出稼ぎで都会に来たり、産地に行ったりするわけですよ。
 だからこそむかしはいい女郎も、いい杜氏も育ったわけなんですね。
 世の中が豊かになって、ソープ・ランド嬢はいてもむかしのような女郎はいませんね。
 同じことなんです。酒を作る現場も、技術は落ちてますよ」 

 日本がモノづくり大国と言われていた時代もあったけど、あれは貧しい人がたくさんいたからこそなんだろうな。

 そりゃあモノづくりが好きな人はいるけど、豊かな生活を送れる人はなかなか「汗と機械油にまみれる仕事」や「地味で、長期間の修行が必要で、それほど給料がいいわけでもない仕事」を選びませんよ。

 従事する人が減れば全体のレベルも落ちる。「モノづくり大国」が衰退したのも必然。

 しかし日本はまた貧しい国になりつつあるので、職人が復活するかもね。いやでも一度途絶えた技術はそうかんたんに取り戻せないか……。




 いい言葉はたくさんあるが、中でも気に入ったもの。

「人間が制御できない科学というのは、科学って言っちゃいけないんじゃないですか」
「政治家のなかには立派な人もいますよ。でもね、全体のことを考えて、その立派な人も入れて皆殺しにするってのは、どうですかね」

 特にこの「政治家のなかには~」なんて、大っぴらに言ったり書いたりできることじゃない。

 だからこそ、こうやって書き記しておくことには価値がある。ネット空間ですらうかつなことを書けなくなっちゃったからね。

 三十年前の日本人がプライベートな場でどんなことを言っていたのかを知る手掛かりになる、貴重な本だ。 

 当時は市井の人々の声なんてなかなか世に届けられなかったしね。

 今だったら個人ブログやSNSで発信しやすくはなったけど、それでも「書いて世界に向けて発信しよう!」という意図がはたらいた上で書いているものだから、「ふとした瞬間に漏れたなんてことない言葉」とはやっぱりちがう。

 こういう「無名な人のなんてことない言葉」を集めた本、ずっと出し続けてほしいな。永六輔さんは亡くなっちゃったから、誰か引き継ぐ人いないかねえ。日本中を旅していろんな人とふれあってる人で。


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2021年10月15日金曜日

ボール遊び禁止の公園

 近所の公園。

 小学二年生たちとドッジボールをやっていたら、警察官が来て「ここはボール遊び禁止なので……」と申し訳なさそうに言われた。

 え? 公園ですぜ?

 警官が指さす看板を見ると、たしかに書いてある。禁止事項として「スケボー・ボール遊びなど」と。

 いやあ。噂には聞いていたが本当だったか。公園でボール遊びが禁止だなんて。

(警察官の名誉のために書いておくと、彼は横で野球をやっていた高校生ぐらいの子に注意しにきて、「高校生に注意して小学生の方は見てみぬふりするのは不公平だから」って感じで一応注意しにきたのだった)


 それにしてもなあ。

 五十メートル四方ぐらいのだだっ広い公園だぜ。

 硬式野球ならわかるが、小学二年生のドッジボールだぜ。何があぶないんだ?

 ここでボール遊びしないなら、このスペースは何のためにあるの?

 警察官に言ってもしょうがないので「へーい」と言ってその場はやりすごしたが、嫌な世の中になったものだ。嫌な世の中じゃなかった時代なんてないけど。




 一律に判断しようとするとこうなっちゃうんだよね。
「公園でやってもいいボール遊び」と「やっちゃいけないボール遊び」があるわけじゃん。

 そういうのって、厳密に線引きしちゃいけないわけよ。厳密に線引きしたら「じゃあ鉄のトゲのついた球をぶんなげることは禁止されてないからやってもいいんだな」ってなっちゃうから。

 だから法律はあえて曖昧にしてる。
「公共の福祉に反しないかぎり」とか曖昧な表現にとどめている。解釈の余地を残しとかないと「書かれてないからやってもいい」ってやつがぜったいに現れるから。

 だから公園の看板も「他人の迷惑になること、危険なことは禁止」でいい。
「スケボー禁止」って書くと、「これはスケボーじゃなくてジェイボードって名前です」「これはキックボードだから禁止されてない」ってなるから。

 だからルールはゆるくつくっておくほうがいい。
 迷惑かどうか、危険かどうかは利用者が個別に判断すればいい。揉めたときだけ警察官が出てくればいい。




 ついでにいうとさあ。

「ボール遊び禁止」と書かれた横に貼り紙があって
「子どもたちが遊ぶ公園なので喫煙は配慮いただきますようお願いします」とある。

 ボール遊びは「禁止」で、喫煙は「配慮いただきますよう」かい。そっちは禁止とちゃうんかい。 


 こういうのってさ。どうやったら変わるんだろうね。

 そりゃあね。いろんな人がいるからね。
 公園でボールをぶつけられたとかで、「公園でボール遊びすんな!」って人がいるのはわかるよ。
 でもさあ、それ以上に「公園でボール遊びしたい!」って人もいるわけじゃん。

 でも、行政に届くのは「ボール遊び禁止しろ」の声だけ。そんで禁止になる。
 そうなっていったら最終的に「公園は立ち入り禁止」にするまで終わらない。


「公園でボール遊びすんな!」に対抗する「ボール遊びさせろ」という声を届けるにはどうしたらいいんだろう。

 めんどくさいクレーマーになって、役所に電話入れまくって「ボール遊びさせろ!」って言いつづけるしかないんだろうか。
「ボール遊びさせなくて子どもがまっすぐ育たなかったらおまえら責任とんのか!」って理不尽なクレーム言いつづけるしかないんだろうか。

 やだなあ。


2021年10月14日木曜日

表現するためのガソリン

 昔やっていたブログとかmixiとかを含めると、もう二十年近くネット上に文章をアップしている。
 変わらないのは、昔も今もいちばんの読者はぼくだということ。

 ほんと、かつて自分が書いた文章ってどうしてこんなにおもしろいかねえ。天才じゃないかとおもうね。いや、まちがいなく天才だな。今のところその才能に気づいているのが自分自身だけってだけで。


 それはそうと、昔書いた文章を読むと「繊細だなあ」とおもう。
 いろんなことに腹を立て、憎み、傷つき、恐れ、愛している。
 今のぼくは、他者に対してここまで強い感情を持てない。
「ま、どうでもいいじゃない」とおもってしまう。

 ひとつには、歳をとったから。
 もうひとつは、子どもが生まれ、強い関心を抱く対象がそちらになったから。

 結果、その他のあれやこれやに対しては興味がなくなった。興味がないから許せる。
 傍若無人なおばちゃんも、無礼千万なおっちゃんも、無知蒙昧な兄ちゃんも、春蛙秋蝉なねえちゃんも、「まあそんな人もいるわな」とおもえるようになった。ぼくの人生に密接にかかわってこないかぎりはどうでもいい。
 いわゆる〝丸くなった〟というやつだ。

 じっさい、生きやすくなった。
 他者に対して腹を立てることが減り、ストレスを感じることが減った。ええこっちゃ。

 その反面、創造性は低下した。
 いや元々大したことなかったんだけど(天才なんとちゃうんかい)。
 元々高くなかったものが、さらに低下した。

 他の人はどうだか知らないけど、ぼくが何かを書くための原動力の多くを占めているのが「怒り」だ。
 「ふしぎ」とか「納得」とかをガソリンにして書くこともあるけど、いちばん筆が進むのは「怒り」だ。つまんねえ本の悪口とか、書きだしたら止まらんからね。
 逆に「好き」ではぜんぜん書けない。おもしろかった本の感想なんかは書くのに苦労する。

 しかし、歳をとって怒りを感じる力が弱くなってきた。
 生きやすくなった反面、表現する力は弱まった。

 今いちばん怒りを感じるのは政治に対してだけど、これに関しては書いてて楽しくないのでなるべく書かないようにしている。
 書きたいことはいっぱいあるけど、政治批判っておもしろくならないんだよなあ。
「あたりまえのことができていない政治」を批判しようとおもったら、あたりまえのことを書くしかなくなるから。


 まあぼくの場合は書く力が弱まってもさして困らないんだけど。趣味で書いているだけだから。
 これが表現を生業にしている人だと苦労するだろうな。

 有名な作家とか画家とかで、やたら破壊的な生き方をしている人がいるじゃない。借金しまくったり家族を不幸にしたりして。団鬼六タイプ。
 ああいう人たちって「周囲や己を傷つけて怒りを感じないと表現する力が衰えてしまう人」なんだろうな、きっと。

 ぼくも表現を仕事にしていたら、表現をつきつめるあまりそっちの道に突き進んでいたかもしれない。


 あー、表現者にならなくてよかったー(完全なる負け惜しみ)。


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