2020年9月25日金曜日

【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』

子どもは「この場所」で襲われる

小宮 信夫

内容(e-honより)
暗い夜道は危ない―子どもにこう教えている親は多いが、これを鵜呑みにすると明るい道で油断してしまう。犯罪者は自分好みの子を探すために明るい場所を好むのだ。親の間違った防犯常識や油断によって、子どもが犯罪に巻き込まれる危険性は高まる。本書は、本当に知っておくべき「危険な場所」を見分ける方法をわかりやすく解説する。近所の公園、通学路、ショッピングセンター…子どもの行動範囲の中で、どこが危ないのかが一目瞭然になる。

娘が小学生になり、防犯を考えることが増えた。

今まではほぼずっと親がそばにいるか保育園に預けているかのどっちかだったので、娘が誰かに連れ去られるかもしれない……と心配することはほとんどなかった。

だが小学生になるとそうも言っていられなくなる。
平日は基本的に学校または学童保育にいるが、学童保育は「来た子は預かる」というスタンスなので仮に子どもが来なくても連絡してくれない。預かってくれる時間も保育園より短い。
習い事の日はひとりでピアノ教室まで行かなくてはならないこともある。
これから先は子どもだけで遊びに行く機会も増えるだろう。

いやがおうでも「子どもを狙った犯罪」に巻きこまれないよう心配することになる。

……ということで『子どもは「この場所」で襲われる』を読んでみた。
著者は海外で犯罪学を学び、警察庁や文科省でも指導する立場にあるという犯罪学者。




「知らない人についていっちゃだめ」「暗い道には気を付けて」と言いがちだが(ぼくも言っていた)、あまり効果はないそうだ。
それどころか逆効果になることもあるという。

 しかし、そもそも周囲に住居がない場所では、通りが明るくなっても人の目は届かず、逆に、街灯を設置することで犯罪者がターゲットを見定めやすくなってしまいます。
 シンシナティ大学で刑事司法を教えるジョン・エック教授は、「照明は、ある場所では効果があるが、ほかの場所では効果がなく、さらにほかの状況では逆効果を招く」と指摘しています。照明をつけるのが有効かどうかは、その場所の状況次第ということです。
 街灯の効果は、夜の景色を昼間の景色に近づけることです。それ以上でも、それ以下でもありません。つまり、街灯の防犯効果は、街灯によって戻った「昼間の景色」次第なのです。昼間安全な場所に街灯を設置すれば、夜間も安全になりますが、昼間危険な場所に街灯を設定しても、夜だけ安全になることはあり得ません。
「暗い道は危ない」と子どもに教えると、「明るい昼間は安全」「街灯がある道は安全」という二重の危険に子どもを追い込むことになります。子どもの事件は、夜間よりも昼間のほうが多く、街灯のない道より街灯のある道のほうが多いことを忘れないでください。

子どもが犯罪被害に遭うのは暗い道より明るい道のほうが多い、子どもを狙った性犯罪者はまず子どもと接触して顔見知りになることがある、といったのデータが紹介されている。

「知らない人に気をつけて」「暗い道に気を付けて」と言うことは「何度か話したことのある人なら大丈夫」「明るい道なら気を付けなくていい」というメッセージを伝えてしまうことになりかねない。

だから「怪しい人に注意」のような〝人〟に目を向ける防犯ではなく、〝場所〟に注目することが重要だと著者は説く。

危険な場所を見分ける力をつけさせることが重要だという。
子どもが被害に遭いやすい場所とは、「入りやすい」場所と「見えにくい」場所。
たとえばガードレールのない歩道は車で連れ去りやすいので「入りやすい」場所、高い塀にはさまれた道は「見えにくい」場所。

この本を読んで、ぼくも道を歩きながら意識するようになった。
娘の送り迎えをしながら
「ここは歩道がないので入りやすいな」
「この道は人通りもないので見えにくい場所だな」
と考えるようになった。




特に共感したのは、犯罪機会論という考え方。

 このように「人」ではなく、「場所」に注目するアプローチの方法を「犯罪機会論」と言います。犯罪を起こす機会(チャンス)をなくしていくことで犯罪を防ぐという考え方です。犯罪機会論では、犯罪の動機を抱えた人がいても犯罪の機会が目の前になければ、犯罪は実行されないと考えます。人は犯罪の機会を得てはじめて実行に移すと言い換えてもいいでしょう。
 これに対して、犯罪を行う「人(=犯罪者)」に注目するアプローチの方法を「犯罪原因論」と言います。人が罪を犯すのは、その人自身に原因があるという考え方です。犯罪者は動機があってこそ罪を犯すということです。
 日本ではこれまで、防犯については「犯罪原因論」で語られることが常でした。つまり、人が罪を犯すのは動機があってこそなのだから、それをなくすことが犯罪の撲滅につながるのだという考えです。
 もちろん、犯罪者には動機というものは存在します。動機というのは、銃でいうと弾丸のようなものです。動機という弾丸が込められているからこそ、犯罪が起こるのですが、一方で、引き金が引かれなければ弾丸は発射されません。弾丸が込められたところに、引き金として、犯罪を誘発する、あるいは助長するという意味での環境(機会)が重なり、この2つが揃ってはじめて犯罪が行われます。ただ、この弾丸は、程度の差こそあれ、誰でも持っているというのが私の考えです。

大いに納得できる。

部外者からすると、「人」のせいにするほうが楽なんだよね。

「機会」が原因だとすると、絶えず自分や家族や友人が犯罪者にならないかと気を付けなければならない。
自分を戒め、周囲の人を警戒しながら生きていくのはしんどい。
でも「人」のせいなら深く考えなくて済む。
あいつらは生まれもって犯罪者の素質があったんだ、自分とは違う人種だ、絶対に許せない、ああいうやつに近づいてはいけない。はい終わり。

でも、どんな状況におかれても犯罪者にならない人はいないとおもう。

ぼくが(今のところ)犯罪者として生きていないのは、運がよかったからだ。
「あのとき、あいつから誘われてたらたぶんあっちに行ってたな」というタイミングがいくつもある。
書けないけど、「あれがばれてたらヤバかったな」ってこともある。
今ぼくが刑務所にいないのはたまたまめぐり合わせがよかっただけだ。

逆に、犯罪に手を染めてしまった人も、タイミングがずれていたらまっとうな人生を歩んでいた可能性が高い。

教師が児童に対してわいせつ行為をしたニュースに対して、「教員免許を剥奪しろ」という人がいる。
感情的でよくない意見だ。
でも「現場復帰させない」こと自体は悪くない案だとおもう。
教員に対する罰のためではない。むしろ救済措置として。

児童に性犯罪をしてしまう教師って、たぶんほとんどは学校にいなかったらやってなかったとおもうんだよ。
そもそも子どもに欲情しなかったり、したとしてもエロコンテンツで満足してたんじゃないだろうか。
でも学校で働いていて、「子どもが眼の前にいて」「人目にふれずに手を出せる機会がある」からやっちゃったんじゃないだろうか。
もし彼らが子どもとふれあう機会がほとんどないぜんぜんべつの仕事をしていたら、やらずに済んでいたはず。

だから、ただ教員免許を剥奪して放りだすのではなく、教育委員会とかで子どもと直接関わらない仕事につくチャンスをあげたらいいんじゃないかな。
本人だって「欲情してしまう職場」よりもそうでない職場のほうが働きやすいだろうし(それでも「欲情してしまう職場」を選ぶやつは放りだしたらいい)。


わざわざ人の家に入って一万円を盗まない人でも、道端に一万円が落ちていて誰も見ていなければネコババしてしまうかもしれない。
その人は「窃盗癖がある」わけではなく、機会があったから罪を犯した。
なくせる犯罪機会は少しでもなくしておいたほうがいい。
(だからといって「痴漢されるのは、痴漢したくなるような恰好をしている女のほうが悪い!」というのは暴論だけどね)

ぼくは車の運転に自身がない。
何年か乗ったことで多少技術は向上したけど「いつか事故を起こして死ぬか殺すかするんじゃないだろうか」という不安は少しも消えなかった。
だから、仕事で車に乗らなくて済むようになったのを機に、運転をやめた。車も手放した。今後もたぶん車を買うことはないだろう。仕事も家も「車を運転しなくていいこと」を条件に選ぶ。
ぼくという「人」はなかなか変わらないので、人を轢いてしまう可能性のある「機会」のほうを変えたのだ。

「人」ではなく「機会」を改善するという考え方は、防犯以外でもいろいろ使えるかもしれないな。

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【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』



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2020年9月24日木曜日

カラス侵入禁止

 とあるマンションのごみ捨て場で見た貼り紙。


ナンセンスだ……。

いうまでもなく、カラスに文字が読めるわけがない。

カラスは頭がいいというが、それにしたってこれは伝わらない。
カタカナはともかく漢字は無理だろ……(カタカナもたぶん無理)。


これが「犬侵入禁止」ならまだわかる。

イヌが一匹で歩くことはあまりないから、飼い主に「ここに犬を入らせるなよ」と伝えられる。

だがカラスは基本的に野良だ。

この貼り紙はカラス本人に向けたものなのだ。


しかも、カラスにゴミを荒らされてかっとなり我を忘れて書きなぐった、というものではない。

パソコンでPowerPointを起動させて、テキスト欄を挿入して「カラス侵入禁止」と書き、中央に配置し、印刷設定で[印刷の向き]を[縦]に設定し、[部数]を[2]にして印刷し、出てきた紙が濡れたり破れたりしないように透明な袋に入れ、袋にパンチで穴を開け、穴に紐を通し、マンション管理組合の倉庫からカラーコーンとコーンバーを持ってきて、コーンバーに貼り紙を結わえつけてゴミ捨て場に設置する。

張り紙設置までにいくつもの工程がある。
その工程のどこかで「おかしい」とおもわなかったのだろうか。

ちゃんと文字は用紙の中央に印刷されているし、紐はほどくときのことを考えてちょうちょ結びにしている。
落ち着いた仕事だ。

冷静に、狂ったことをしている。

こういう人がいちばん怖い。




カラスに「ここに入るな」と伝えたいなら、「カラス侵入禁止」じゃだめだ。

たとえば、カラスが死んでいる絵を描くとか。


これがカラスに伝わるかはわからないが、少なくとも「カラス侵入禁止」の貼り紙よりはマシだろう。

あるいはカラスが怖がるものの絵を描くとか。
犬とか鷹とか。




百歩譲って、カラスが文字を読めて、その意味を十分に理解できるものとする。

だとしても、「カラス侵入禁止」では効果がないだろう。
これを書いた人はカラスの心理をわかっていない。

カラスに人間の法は通じない。

「カラス侵入禁止」と書いても、おとなしく従ってくれるとはおもえない。

むしろ「ここにはカラスの好きなものがあります」というメッセージを発信してしまうだけで、逆効果だ。


カラスにゴミを漁らせないような文章を書くとしたら、

「名物 焼きカラス販売中。おいしいよ!」

とかが効果的なんじゃないだろうか。
これなら文字の読めるかしこいカラスは近づかないだろう。

あるいは

「カラス様各位。いつもゴミ捨て場をきれいにお使いいただいてありがとうございます」

とか。


2020年9月23日水曜日

【読書感想文】調査報道が“マスゴミ”を救う / 清水 潔『騙されてたまるか』

騙されてたまるか

調査報道の裏側

清水 潔

内容(e-honより)
国家に、警察に、マスコミに、もうこれ以上騙されてたまるか―。桶川ストーカー殺人事件では、警察よりも先に犯人に辿り着き、足利事件では、冤罪と“真犯人”の可能性を示唆。調査報道で社会を大きく動かしてきた一匹狼の事件記者が、“真実”に迫るプロセスを初めて明かす。白熱の逃亡犯追跡、執念のハイジャック取材…凄絶な現場でつかんだ、“真偽”を見極める力とは?報道の原点を問う、記者人生の集大成。

清水潔さんの『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 はどちらもめちゃくちゃすごい本だ。

どちらも、日本の事件ものノンフィクション・トップ10にはまちがいなく入るであろう。

すごすぎて「これは嘘なんじゃないか」とおもうぐらい。

だってにわかには信じられないもの。
『殺人犯はそこにいる』 では、警察が逮捕した連続殺人事件の容疑者が無罪であることを証明し、『桶川ストーカー殺人事件』では警察よりも早く犯人を捜しあてる。
しかも、週刊誌の記者が。

ミステリ小説だったら「リアリティがない。週刊誌の記者がそんなことできるはずがない」っておもうレベルだ。

でもそれを本当にやってのけたのが清水潔さん。
ぼくは『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件』 、そして清水さんと元裁判官の瀬木 比呂志の対談である『裁判所の正体』を読み、足元が揺らぐような感覚をおぼえた。


警察も裁判所も善良な市民の味方であるとはかぎらないのだと知った。

たまにはミスをしたり、ろくでもない警察官もいるかもしれない。
だが全体として見れば警察や裁判所は善良な市民の味方のはずだ。正しく生きていれば味方でいてくれるはずだ。
そうおもっていた。

だが、警察も裁判所も、善良な市民の味方をしないどころかときには敵になることもあるのだと知った。

それもミスや誤解のせいではなく。
保身のために、無実の市民の命や権利を奪うこともあるのだと。



『騙されてたまるか』では、先述の足利事件(冤罪を証明した事件)や桶川ストーカー事件をはじめ、在日外国人の犯罪や北朝鮮拉致問題を追った事件など、清水さんがこれまでにおこなってきた取材の経緯が紹介されている。

日本で殺人を犯しながらそのまま出国しブラジルに帰った犯人を追った取材。

「とぼけないでください。浜松のレストランでのことを聞きたいんです」
 男は、私に背を向けると沈黙のまま歩き出した。
「日本に戻って警察に出頭するつもりはないか」
 何を問いかけても、無視を決め込み足早に離れていく。
 すべてのシーンはカメラに記録された。奴の仲間のジーンズの尻ポケットには、小型拳銃の形が浮き上がっていたのを後になって気づいた。
 車に戻って男を追跡する。ベンタナは車の窓を開けて、大声で何やら問いかけるが、男は動じない。途中でタバコに火をつけて、やがて建物の扉の中に逃げ込んだ。通訳が焦ったように騒ぎ出した。「あそこは警察だ、早く逃げましょう」。なぜこちらが逃げなければならないのかと訝る私に通訳は、「ここは民主警察です。市民に雇われた警察官は、我々を逮捕拘束する可能性があります。早く空港に戻らないと検問が始まるかもしれない」と説明した。
 納得できないが、この国の警察からすれば、海外メディアの取材などより自国民の保護が優先されるのだろう。私は取材テープを抜くと靴の中に隠してその場を離れた。

相手は拳銃所持の殺人犯一味、こちらは丸腰。おまけに場所はブラジル、相手のテリトリー。

そこに乗りこんでいって「警察に出頭するつもりはないか」と問う。

なんておっそろしい状況だ。
これを書いている以上清水さんが無事だったことはわかっているのだが、それでも読んでいるだけで脂汗が出てくる。

事件記者ってここまでやるのか……。

すばらしいのは、うまくいった事件だけでなく、無駄骨を追った事件のことも書いていることだ。
入手した情報をもとに三億円事件の犯人を追ったもののあれこれ調べたらでまかせだとわかったとか、他殺としかおもえない事件を追ったら結果的に自殺だったとか……。

答えがわかっていない中で取材するんだから、当然ながらうまくいかないこともある。
というかうまくいかないことのほうが多いだろう。

それでも追いかける、追いかけてだめだとわかったら潔く手を引く。
なかなかできることじゃないよね。



「記者」と一口に言うけど、『騙されてたまるか』を読むと、記者にも二種類いることがわかる。

清水潔さんのような「調査報道」をする記者と、警察・検察や企業や官庁の発表をニュースにする「発表報道」をする記者と。

当然ながら発表報道のほうが圧倒的に楽だ。
多少の要約は入るにせよ、基本的に右から左に流すだけでいいのだから。

この「発表報道」が増えているらしい。

 確かに最近は、会見後の質問も何だか妙である。 「ここまでで何かご質問があれば、どうぞ」などと、発表者に問われると、 「すみません、さっきの○○の部分がよく聞き取れなかんですけど……」  内容についての芯を食った鋭い質問や矛盾の追及ではなく、ひたすらテキストの完成が優先されていくのだ。無理もない。話の内容を高速ブラインドタッチで「トリテキ」しながら、その内容を完全に理解、把握した上で、裏や矛盾について鋭い質問をするなど、どだい不可能な話であろう。少なくとも私には無理である。

「トリテキ」とは「テキストをとる」ことだそうだ。
要するに聞いた話を文字起こしする作業。

今なら自動でやってくれるツールがある(しかもけっこうな精度を誇る)。
はっきり言って記者がやらなくていい。

悪名高い「記者クラブ」では、機械がやってくれる仕事をせっせと記者がやっているのだ。(ところで記者クラブって当事者以外に「必要だ」って言ってる人がいないよね)


少し前にこんなことを書いた。

「発表報道」の重要性は今後どんどん下がってゆく。

にもかかわらず我々が目にするニュースは圧倒的に「発表報道」のほうが多い。
官邸の発表が「文書は廃棄した。だが我々は嘘はついていない。だけどこれ以上調査する気はない」みたいな誰が見てもウソとしかおもえないものでも、NHKなんかはそのまま流している。

テレビでの芸能人の発言をそのまま文字にしていっちょあがり、みたいな記事も多い(記事って呼べるのか?)。

新聞社などの報道機関が権力の監視役として民主主義の砦となるか、それともこのまま“マスゴミ”として朽ち果ててゆくのかは、この先どれだけ調査報道をするかにかかってるんだろうな。


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【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』



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2020年9月21日月曜日

ツイートまとめ 2020年1月



図鑑

途方に暮れた

一人焼肉

子ども好き

望まない

サンタさん

過去の遺物

横綱の品格



兄貴

年齢不詳

伏せ字

死人に群がる

2020年9月18日金曜日

【読書感想文】我々は論理を欲しない / 香西 秀信『論より詭弁』

論より詭弁

反論理的思考のすすめ

香西 秀信

内容(e-honより)
著者は、論理的思考の研究と教育に、多少は関わってきた人間である。その著者が、なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手と人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。

ぼくは理屈っぽい。

特に小学生のときは口ばっかり達者な生意気なガキだった。
「弁護士になれば口が立つのを活かせるから弁護士になる!」とおもっていた。
弁護士にならなくてよかった。府知事と市長をやって無駄に敵をつくっちゃう迷惑な弁護士になるとこだった。ああよかった。


子どものころ、よく親や教師から「それはへりくつだ」と言われた。

じっさいへりくつのときもある。言いながら自分でも「これは重箱の隅をつついてるだけだな」とおもうときもあった。

だが、ほんとに「あなたの言うことは筋が通らないんじゃないですか」というつもりでおこなった指摘が、教師から「へりくつだ」と言われたこともある。
教師が議論から逃げるための口実にされたのだ。

理不尽なものを感じた。
「じゃあどこがおかしいんですか」と訊いても「おまえのはへりくつだから相手にしない」と言われた。
「おまえの言うことはへりくつだ」と一方的に断罪し、どこがどう論理的に誤っていることは一切説明しないのだ。

教室では教師のほうが圧倒的に強い。
その教師が児童に議論に負けるなんてあってはならない。だから分が悪いとおもったら「おまえのはへりくつだ」と言って終わりにする。
とるにたらない理屈だからへりくつだし、へりくつだから取り合わなくていい。無敵の循環論法だ。

ぼくは学んだ。
世の中では理屈よりも立場のほうが強い、と。



『論より詭弁』にも書いている。

 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人を論破などできない。が、説得することは可能である。先ほど論理的思考力について、「弱者の当てにならない護身術」と揶揄したが、天に唾するとはこのことで、レトリックもまた弱者の武器にすぎない。強者はそれを必要としない。

そうなのだ。論理的に正しい考えができることは、世の中ではほとんど役に立たない。

社長が言っていることが論理的にむちゃくちゃでも、ほとんどの従業員は指摘できない。

権力は論理よりも法律よりも強い。じゃなきゃブラックな職場がこんなにはびこるはずがない。


『論より詭弁』では、様々な「論理的に正しいこと」を取り上げ、その論理的な正しさは無駄だと喝破する。

たとえば「人に訴える議論」。
歩きタバコをしている人から「歩きタバコをしたらダメじゃないか」と注意されたとする。
たいていの人は「おまえだってしてんじゃねえか」と言うだろう。
論理学の世界では、これは詭弁だとされる。
「おまえが歩きタバコをしている」ことと、「おれが歩きタバコをしてもいいかどうか」には何の関係もないからだ。

これに対して、著者はこう語る。

 私が、「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる(「お前も同じ」型の詭弁である)。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。相手もまた咥え煙草で歩いていたという事実は、私が咥え煙草で道を歩いていた事実を帳消しにはしない。したがって、私に期待される論理的行動は、恥じ入って慌てて煙草を消し、それを携帯用の灰皿に収めることだ。そうしてこそ、初めてこちらも、その男に対して、「あなたも、咥え煙草で道を歩いてはいけません」と注意し返すことができるのである。
 いかにももっともらしい説明だが、惜しむらくは、誰もこの忠告に従って論理的に振る舞おうとはしないであろうことだ。おそらく、よほどの変わり者を除いたほとんどの人が、先の私のように「それじゃあ、あんたはなぜ煙草を咥えて歩いているんだ?」「あんたにそんなことを言う資格があるのか」と言い返すだろう。それでこそ、まともな人間の言動というものだ。
 だが、こうした言動は、論理的に考えると、発話内容の是非と発話行為の適・不適とを混同しているということになる。「咥え煙草で道を歩いてはいけません」という発話内容の問題を、咥え煙草で道を歩いている人間にそんな発話をなす資格があるかという発話行為の問題にすり替えているというのだ。「人に訴える議論」(特に「お前も同じ」型)が、虚偽論で、ignoratio elenchi(イグノーラーツィオー・エーレンキ、ラテン語で「論点の無視、すり替え」)という項目に分類されてきたのもそのゆえである。
 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

そう、じっさいには我々は論理の正しさに従って動かない。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で動く。

立場を無視して論理的な正しさを考えるのは「空気抵抗も摩擦もない世界での物理学」みたいなもので、考えるのが無意味とまではいわないが、その物理学で設計した飛行機は空を飛ばない。



そもそも詭弁と正しい論調は、明確に分けられるものではないと筆者は言う。

 だが、事実と意見を区別することは、実はそれほど簡単なことではない。例えば、次の二つの文章を見てみよう。

 a Kは大学教授だ。
 b Kは優秀な大学教授だ。

 事実と意見を区別せよと主張する人は、おそらくaが事実で、bが意見だと言うのだろう。確かに、「K」が「大学教授」かどうかは、事実として検証可能である。これは、「K」が「優秀」かどうかのように、個人の主観で判断が分かれるものとは明らかに違うもののような気がする。が、ここで疑問なのは、「Kは大学教授だ」が事実であるとしても、それを発言する人は、なぜそんなことをわざわざ言おうとしたのかということだ。
 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択し、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。

そう、「おれは事実を述べただけだよ。何が問題なの?」という人がいるが、たいてい問題になるのは「事実」だ。

「彼は逮捕されたことがある」「彼は離婚したらしいよ。元奥さんは彼に暴力を振るわれたと言っている」というのが事実であっても、それを聞けばたいていの人は「彼」の信頼性を大きく落とすだろう。
仮に彼の逮捕が冤罪だったり、彼の元妻が嘘をついていたとしても。



結局、自分に都合のいい意見は「巧みな論理」で、反対派の意見は「詭弁」になってしまうんだよね。

 こうしたやり方は、もちろん論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない。しかし、論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。

なんだかずいぶん身も蓋もない意見だけど、論理的に正しく生きていてもあんまり得しないってのは事実だよね。

その真実にもっと早く気づいていれば、もっと楽に生きていけたんだけどなあ。


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