2019年8月9日金曜日

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

世にも奇妙な人体実験の歴史 

トレヴァー・ノートン (著)  赤根洋子 (訳)

内容(e-honより)
性病、毒ガス、寄生虫。麻酔薬、ペスト、放射線…。人類への脅威を解明するため、偉大な科学者たちは己の肉体を犠牲に果敢すぎる人体実験に挑んでいた!梅毒患者の膿を「自分」に塗布、コレラ菌入りの水を飲み干す、カテーテルを自らの心臓に通す―。マッド・サイエンティストの奇想天外、抱腹絶倒の物語。

いやあ、おもしろかった。これは名著。
科学読み物が好きな人には全力でおすすめしたい。

世の中にはおかしな人がずいぶんいるものだ。

ぼくにとっていちばん大事なものは「自分の命」だ。あたりまえだよね……とおもっていた。

でも子どもが生まれたことでちょっと揺らいできた。
自分の命を投げ出さなければ我が子の生命が危ないという状況に陥ったら……。
ううむ、どうするだろう。
そのときになってみないとわからないけど、身を投げだせるかもしれない。少なくとも「そりゃとうぜんかわいいのは我が身でしょ!」とスタコラサッサと逃げだすことはない……と信じたい。

そんな心境の変化を経験したおかげで、大切なものランキング一位がで「自分の命」じゃない人はけっこういるんじゃないかと最近おもうようになった。
「子どもの命」や「他者」や「信仰」や「誇り」を自分の命よりも上位に置いている人は意外とめずらしくないのかも。




『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、そんな人たちの逸話を集めた本だ。

この本に出てくる人たちにとって、大事なのは「真実の解明」だ。
彼らは真実を明らかにするために自らの健康や、ときには命をも賭ける。

毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。
 この問題に決着をつけるためには実験が必要だった。ハンターのアイディアは、誰かを淋病に感染させ、その人に梅毒の兆候が現れるかどうかを待つ、というものだった。兆候が現れれば仮説が正しかったことになるし、現れなければ仮説が間違っていたことが明らかになる。淋病にも梅毒にも感染していないことが確実に分かっていて、しかも性器を気軽に毎日診察できる実験台と言えば、間違いなくハンター自身しかいなかった。
 ハンターは自分のペニスに傷をつけ、ボズウェルが「忌まわしきもの」と呼んだ淋病患者の膿をそこに注意深く塗りつけた。数週間後、彼のペニスには硬性下疳と呼ばれる梅毒特有のしこり(これはのちに、「ハンターの下疳」と呼ばれるようになった)が現れた。そのとき彼が覚えた満足感を想像してみてほしい。
 ハンターが考慮に入れていなかったことが一つあった。それは、膿を提供した患者が「淋病と梅毒の両方」に罹患しているかもしれないということだった。彼はうかつにも、自らの手で自分を梅毒に感染させてしまったのである。早期に進行を食い止めなければやがて鼻の脱落、失明、麻痺、狂気、そして死へと至る恐ろしい病、梅毒に。理性的な人間もときにはまったく道理に合わないことをするものである。
こんなエピソードのオンパレード。

世の中にはイカれた科学者がたくさんいるんだなあ。

それでもこの本に載っているのは「クレイジーな人体実験をしてなんらかの成果を上げた科学者たち」だけなので、「危険な実験をして成果を上げる前に死んでしまった科学者たち」はこの何十倍もいたんだろうな。

 彼の最初の成功は、アヘンの有効成分を発見し、これを(ギリシャ神話の眠りと夢の神モルフェウスに因んで)モルヒネと名づけたことだった。彼はまず、純粋なモルヒネを餌に混ぜてハツカネズミと野犬に食べさせ、その効果をテストした。彼らは永遠の眠りについた。これに怯むことなく、彼は仲間とともにモルヒネを服用し、その安全量を見極めようとした。彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した。すぐに全員が熱っぽくなり、吐き気を催し、激しい胃けいれんを起こした。中毒を起こしたことは明らかだった。ことによると、命に関わるかもしれない。嘔吐を促すために酢を生で飲んだあと、彼らは意識を失って倒れた。酢を飲んだおかげで死は免れたが、苦痛は数日間続いた。
 ゼルトゥルナーはモルヒネの実験を続け、アヘンで和らげられないほどの歯痛にもモルヒネなら少量で効くことを発見した。彼は、「アヘンは最も有効な薬の一つだ。だから、医師たちはすぐにこのモルヒネに関心を持つようになるだろう」と期待を抱いた。
「彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した」って……。
いやいや。
ふつうならまずネズミと犬が死んだところでやめる。犬が死んだのを見た後に、自分で飲んでみようとおもわない。
仮に飲むとしても、「安全だと現在考えられている量」から服用する(それでもこわいけど)。なんでいきなり十倍なんだよ。ばかなの?

しかしこの無謀すぎる実験のおかげで適量のモルヒネが苦痛を和らげることが明らかになり、モルヒネは今でも医療用麻薬として使われている。

こういうクレイジーな人たちがいたからこそ科学は進歩したのだ。偉大なるバカに感謝しなければならない。




今、うちには生後九か月の赤ちゃんがいる。
こいつはなんでも触る。なんでもなめる。口に入る大きさならなんでも口に入れようとする(止めるけど)。
「触ったら熱いかも」「なめたら身体に悪いかも」「ビー玉飲んだらのどに詰まって死ぬかも」とか一切考えていない。当然だ、赤ちゃんなのだから。

それで痛い目に遭いながら赤ちゃんは成長する(もしくはケガをしたり死んだりする)のだけど、この本に出てくる科学者たちは赤ちゃんといっしょだ。わからないから触ってみる、なめてみる、やってみる。
もちろん「死ぬかも」という可能性はちらっとよぎっているんだろうけど「でもまあたぶん大丈夫だろう」と考えてしまうぐらいに好奇心が強いんだろうね。賢い赤ちゃんだ。

 フィールドが死ぬほどの目にあったにもかかわらず、その後ウィリアム・マレルという若い医師がフィールドと同じ実験を試みた。マレルの実験方法は驚くほどカジュアルだった。彼はニトログリセリンで湿したコルクを舐め、それからいつもの診察を始めた。しかし、すぐに頭がズキズキし、心臓がバクバクし始めた。
「鼓動のその激しさといったら、心臓が一つ打つ度に体全体が揺れるのではと思われるくらいだった……心臓が鼓動する度、手に持ったペンがガクンと動いた」。にもかかわらず、彼はニトログリセリンの自己投与を続け、その実験はおそらく四十回以上に及んだ。彼は、ニトログリセリンの効果のいくつかが当時血管拡張剤として使用されていた薬のそれに似ていることに目ざとく気づき、自分の患者にニトログリセリンを試してみた。現在、ニトログリセリンは狭心症の痛みを緩和するための標準的な治療薬になっている。

この本に出てくる人たちのやっている実験は痛々しかったりおぞましかったり息苦しくなったりするのだが、そのわりに読んでいて陰惨な感じはしない。というか笑ってしまうぐらいである。
著者(+訳者)のブラックユーモアがちょうどいい緩衝材になっているのだ。
「実験失敗 → 死亡」なんてとても不幸な出来事のはずなのに、ドライな語り口のせいでぜんぜん痛ましい気持ちにならない。

人の死を軽く受け止めるのもどうかとおもうが、いちいち深刻に悼んでいたらとてもこの手の本を読んでいられないので、これはこれでいいんだろう。

読んでいるだけでどんどん病気や怪我や死に対する恐怖心が麻痺していく気がする。
この心理の先にあるのが……我が身を賭して人体実験をする科学者たちの心境なんだろうな、きっと。


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2019年8月8日木曜日

本好きは本屋で働くな


本屋で働いていたときがいちばん読書量が少なかった。
とにかく忙しかったからだ(1日の労働時間は平均して13時間ぐらい、年間休日は70日ぐらいだった)。
車通勤だったので移動中も本を読めないし(信号待ちのときに読んでみたことがあるけどぜんぜん集中できない)、慢性的に疲れが溜まっているので休みの日は人と会うとき以外は寝て過ごしていた。

もちろん本屋の業務をしているから、本の情報は入ってくる。
最近この本売れてるなーとか、なんだかおもしろそうな本が出たなとかの情報はいちはやくキャッチできる。
でもそうした情報を知れば知るほど、読みたいという気持ちが薄れていく。
「〇〇というキャッチコピーの帯をつけてから売れはじめて〇〇賞を受賞して〇〇年には映画化されるらしい」とかの周縁の情報を溜めこむうちに「どんな本だろう」という気持ちが薄れていってしまう。まったく読んでいないのに知ったような気持ちになってしまうのだ。
「あああれね」という気持ちになってしまうのだ。読んでいないのに!


あと、嫌いな本が増えた。

××の本なんか買うんじゃねえよ、とか。
××ですら低俗な本なのにその二番煎じ三番煎じの本が売れるのほんとくだらない、とか。
××出版社はゴミみたいな本ばっかり送りつけてくるな、××舎は営業の態度が悪いし、もうここの本は買わないぞ、とか。


それから、プライベートで本屋に行っても楽しめなくなった。
陳列の方法が気になったり、「うちは注文しても〇〇がぜんぜん入荷しないのにこの本屋にはこんなに入荷するんだ」と悔しくなったり、あと乱れている売場を無意識に整えてしまったり。
仕事モードになってしまって落ち着かない。


ということで、本屋で働いていたことは本を楽しむうえでプラスよりもマイナスのほうが多かった。
本屋なんて、本好きの働くところじゃないぞ。
ほんとに。


2019年8月7日水曜日

【読書感想文】失敗は見て見ぬふりの日本人 / 半藤 一利・池上 彰『令和を生きる』

令和を生きる

平成の失敗を越えて

半藤 一利  池上 彰

内容(e-honより)
政治の劣化、経済大国からの転落、溢れかえるヘイトとデマ。この過ちを繰り返してはならない。平成の失敗を徹底検証する白熱対談!

世界情勢、政治、天皇、災害、原発、インターネットといったテーマを切り口に「歴史やニュースをわかりやすく伝えるプロ」のふたりが平成という時代をふりかえった対談。

たくさんのテーマを扱っているので、ひとつひとつの話はちょっと浅くて物足りない。たとえば「平成の政治史」だけで一冊ぐらいの分量だったらもっとおもしろかったとおもう。
でもまあ、これ以上深い話はこの人たちの仕事じゃないか。入口まで連れていくのが半藤さんと池上さんの仕事だもんな。




「平成の失敗を越えて」とサブタイトルがついているように、話の八割ぐらいは「平成の三十年で悪くなったこと」についてだ。
年寄りのぼやきっぽさもあるが、こと日本の経済と政治に関してはまちがいなく劣化しているとぼくもおもう。
平成の三十年で、日本は数えきれないほどの失敗してきた。そしてそのほとんどはきちんと総括できておらず、いまだ手つかずの問題も多い。

政治の不調の原因は、特定の個人や団体にあるのではないとぼくはおもう。
「小選挙区制」というシステムの問題だ。
小選挙区比例代表並立制を生んだのは、1994年に成立した政治改革四法である。
池上 あのとき、「政治改革」が正義でそれに反対するのは「守旧派」あるいは「抵抗勢力」とレッテルを貼られた。「改革に反対する者たち」と括られて。
半藤 わたくしもそう言われました(笑)。二党政治というのは日本人に向かないと、かねてわたくしは思っていました。戦前の日本は民政党と政友会の二党政治でした。野党になったほうは、ときの政権をひっくり返そうと思ってしばしばおかしな勢力と結びついた。昭和初期に政友会と結びついたのが軍部と右翼でした。そしてやがて、軍部は政友会を利用しつつ好き勝手をはじめてこの国を戦争へと向かわせることになるんです。と、いうような歴史があるのだから日本の二党政治は怖いよ、と言っても、おっしゃるように「守旧派」呼ばわりされてしまう始末でね。
池上 イギリスやアメリカのように対立する二党による政権交代があったほうがいい、という論調がたしかにメディアでも強かった。日本は中選挙区制だからずっと政権交代が起きないのだと。小選挙区制にすれば大量の死に票を出すことにはなるけれど、そのことよりも、どちらかが勝つという仕組みのほうがいい。そう言って制度を変えるわけですよね。
 じつはその頃イギリスでは、保守党と労働党だけではなく、第三の勢力として自由民主党が出てきていました。二党ではかならずしもうまくいかないということが明白になっていたからです。にもかかわらず日本では政権交代可能な二党が、競い合うような制度がいいと信じられていた。アメリカだってそうじゃないか、共和党と民主党で代わる代わる政権を担当しているよと。なんとなくこう、海外はこうなっているから日本もそうすべきだ、というような発想や主張は根強くありますね。「世界に遅れるな」とばかりに。
小選挙区制のダメなところは今までにもさんざん書いているのでここではくりかえさないけどさ。

小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】

民主主義を破壊しかねない小選挙区制だけど、導入されたときは
「民主主義をぶっこわすために小選挙区制にしよう!」
とおもっていた人はほとんどいないんだろう。当時の人たちは「小選挙区制こそすばらしい制度」と信じていたんだなあ。

民主主義をぶっこわしたのは当時の日本人みんなだったのだ。
半藤 こうして認めてみると、やっぱり小選挙比例代表並立制の導入は、日本の岐路でしたねえ。政治家がすっかり政党のロボットになっちゃった。死に票が山ほど出て選挙が民意を伝えるものではなくなってしまった。よく主権、主権といいますがね、主権には二種類ある。国内的な政治主権と、外政的な政治主権です。北方領土変換交渉のさなか、ブーチンが安倍総理にこう言いました。「そこにアメリカの基地など決してつくらせないと言うけれど、沖縄で新基地建設業反対があれだけ叫ばれているというのに、政府与党はそれを無視しているじゃないか」と。つまり日本はアメリカの要求に逆らえない国なのだから、なんでもイエスなんだから、北方領土でもまたおなじことになるという疑念を示した。それが意味するのは、安倍首相の国内的政治主権というものは、ぜんぜん国民に説得力がないということなんです。
 プーチンが指摘したように、日本の政府与党は、選挙で勝ったら好きなようにやっていいのだとばかりに世論なんか無視している。わたくしに言わせりゃ、もとはと言えば小選挙区比例代表並立制のせいなんです。

まあ失敗したこと自体はいいわけだよ。
現状を予想できた人は当時ほとんどいなかったんだろうし。
ダメなのは失敗を改める制度がないことなんだよね。

今の国会議員の多くは小選挙区制のおかげで当選できた人たちなので、それを変えようとしない。
政治制度なんて完璧になるはずないんだから、フィードバックが働かない制度をつくっちゃだめだよ。

現行の小選挙区制は裁判所もずっと違憲状態だっていってるのにいっこうに直らないんだから。
民意がそのまま反映されたら困る人がいるんだろうなあ。

選挙制度は利害関係者である政治家に決めさせちゃだめだよね。裁判所とかの独立した機関にやらせなきゃ。

特に最近は、情報の地域差はすごく少なくなったし、その一方で都市と地方の人口差は開くばかり。地域ごとに選挙区を分ける理由がどんどん薄くなっていっている。
個人的には、大選挙区制にしてしまってもいいんじゃないかとおもう。




原発について。
半藤 日本では送電網をもっている旧電力会社のカがあまりに強いので、地域に合った発電・供給を実現する新しいとりくみがうまくいかないようですね。いつもギクシャクしている。いまだに原子力発電にしがみついている。
池上 ドイツは、メルケル首相が福島第一原発の大事故を見てエネルギー政策をすぐさま転換しました。前の年にメルケルさんは従来の脱原発政策を緩和させて、運転延長の方針を打ち出したばかりだったんです。しかしあの事故を契機に原発廃止に明確に舵を切った。「あの日本ですらコントロールできないものは止めるべきだ」と言ったんです。
 イタリアでも、二〇一一年のフクイチの事故後の六月、原子力発電の再開の是非を問う国民投票があって、政府の再開計画が否決されているんです。街頭インタビューで反対票を投じたご婦人が、「原発は日本人ですらコントロールできない。街のごみ収集もちゃんとできないイタリア人が、管理できるわけないわよッ」と答えていました(笑)。
半藤 他山の石としたドイツもイタリアも、えらいもんです。ところが当事国である日本の政治家どもは福島の大災害からまったく学んでいない。で、原発輸出に熱心になっている。原発問題は、平成が残した大課題だと思いますねえ。

日本の原発の失敗を見てドイツやイタリアは原発廃止に舵を切ったのに、当事国である日本だけがいまだに原発にしがみついている。
失敗であることに気づきながら責任をとりたくないばかりに失敗から目を背け、取り返しのつかない事態へ突き進んでしまう。すごく日本らしい光景だ。

「日本軍が負けるわけがない」
「地価が下がるわけがない」
「原発が制御不能になることはない」
昭和も平成も、失敗に対する日本の体質は少しも変わっていないなあ。




ぼくはまだ三十数年しか生きていないけど、ここ数年で国内の空気はどんどん息苦しくなっているように感じる。

この本の中で池上さんと半藤さんが「我々もネットでは反日と呼ばれている」とボヤいている。
彼らは日本もアメリカも中国も北朝鮮も等しく「いいとこもあるし悪いとこもあるよね。悪いところはちゃんと批判しなければ」という立場をとっているとおもうんだけど、それでも「反日」になってしまうのだ。
日本政府礼賛でなければ「反日」、という風が吹いているように感じる。

もちろんそういう人がごく一部であることはわかってるんだけど、声が大きい(あるいは複数アカウントを使うなどして数を多く見せている)から多数派であるように感じてしまう。ああ、息が詰まるぜ。


この閉塞感は、経済と無関係ではないだろう。
残念ながら日本の経済力は(少なくとも相対的には)どんどん落ちていっている。日本は先進国ではなく衰退途上国だ、と誰かが言っていた。多くの日本人の実感に近いとおもう。

景気のいいときには「このままじゃ日本はだめだ。立ち止まって反省しよう」みたいな言説が主流だったのに、経済が成長しなくて閉塞感が高まるとかえって「威勢のいい話以外は認めないぜ!」という雰囲気になってしまう。
現実から目を背けたくなるのだ。

つぶれる会社ってこんな空気なんだろうなあ。
そういやぼくは以前書店にいたけど、出版業界ってもう衰退していくことが誰の目にも明らかだから、業界の集まりなんかでも逆に景気のいい話しか出てこないんだよね。
「こんな仕掛けをした本が売れました!」とか「〇〇出版社が業績アップ!」みたいな。

たぶん大戦に突入したときも同じような空気だったんだろうね。





以前、『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』という本の感想としてこんなことを書いた。

日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。

この体質は今もって変わっていない。

だからこそこうして半藤・池上両氏は「平成の失敗を振り返ろう」と警鐘を鳴らしているわけだが、そういう人は少数派で、多数派からは「せっかくの前向きな空気に水を差すなよ」と疎まれてしまう。

はたして令和時代は失敗を総括して軌道修正のできる時代になるんだろうか。
それとも、過去と同じように取り返しの失敗に突き進んでいく時代になるのだろうか。
ぼくの予想は、残念ながら……はぁ……。


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2019年8月6日火曜日

歯が抜ける恐怖


娘の友だちSちゃん(六歳)の歯がぐらぐらしている。
乳歯が抜けそうになっているのだ。
そうか、そんな年頃かー。

「へえ。歯が抜けそうなんだ」というと、とたんにSちゃんの顔が曇った。
「ちょっと見せて」というと、「いや!」と口を固く閉ざしてしまった。見ると、涙目になっている。

Sちゃんのおかあさんが
「歯医者さんに診てもらおうとおもって連れていったんですよ。でも大泣きして暴れまわって、結局診てもらわずに連れてかえってきました」
と教えてくれた。
Sちゃんにとっては歯が抜けるというのはめちゃくちゃ怖いことで、考えるだけでも泣いてしまうことらしい。
Sちゃんのおかあさんは「すぐに新しい歯が生えてくるから大丈夫、って言ってるんですけどねー。でもすっかり怖がっちゃって」と笑っていた。


そうかー。
ぼくはもう歯が生え変わるときの気持ちをすっかり忘れてしまったけど、たしかに最初は怖いだろうなあ。

だって身体の一部がなくなるんだよ。恐怖でしかないでしょ。

「もうすぐあなたの指が抜けます。最初は小指、それから薬指、中指、人差し指、そして最後に親指。だんだん指が腐ってぐらぐらしてきますが神経は残っているので痛いです。最後はおもいっきりひっこ抜きます。もちろん強い痛みを伴います。それが両手両足であわせて二十本分あります。大丈夫、すぐに新しい指が生えてきますから」

って言われて

「そっか、新しい指が生えるのか。だったら安心☆」

とはならないわけで。


2019年8月5日月曜日

医者をめざさない理由


高校三年生の進路面談で、ぼくの進路希望を見た担任の教師からこう訊かれた。

「なんで医学部をめざさないの?」

は……?
質問の意味がわからなかった。
逆ならわかる。
ぼくが医学部に行きたいと言っていて「なんで医者になりたいの?」と訊くのならわかる。
だが、医学部を志望しないことに理由がいるのだろうか。

「なぜダンサーにならないの?」とか「なぜ軍人にならないの?」とか訊かれても、 「いや、なりたいとおもったことないから……」としか答えようがない。
それと同じだ。


その教師(おばちゃんの体育教師だった)は受験のことなどまったく知らなかったので、 「医学部に行くには成績が良くなくてはならない」を「成績が良ければ医学部に行く」と勘違いして(命題が真だからといってその逆が真だとは限らないことを知らないのだ)、ぼくの成績がそこそこ良かったので医学部に行くのが当然とおもいこんでいたらしい。


その教師に対していろいろ言いたいことはあった。

医師がみんな崇高な使命に燃えていなければならないとまでは言わないけれど、勉強ができるから、金を稼げるからってだけで医師をめざすような風潮にはぼくは反対です! とか。

それってまるで医師を一段高いものに置いていて、ほかの職業を下に見ているようじゃありませんか! とか。

医師には医師のたいへんさ苦しさがあるだろうに、なれるならなっとけっていうのは本気で医学部を目指している他の学生に対しても失礼じゃないですか! とか。


しかしなにより、いちばん言いたかったのはこれだ。

「いやぼく文系やで! あんた文系クラスの担任なんやで!」