2019年6月25日火曜日

もしかして好かれていたのか


夜中にのどの渇きをおぼえて目が覚めた。お茶を飲んでもう一度布団に入ったとき、気がついた。
「あっ、もしかして!?」

突然として、点と点がつながって線になった。

今にしておもう。
もしかして、好かれていたのか?



Tちゃんという女ともだちがいた。

大学生のとき、仲良くしていた友人だ。

お酒を飲んだり、いっしょにライブに行ったり。何度も遊んだ。
Tちゃんは酒癖が悪かったので、何度も介抱した。酔いつぶれたTちゃんをおぶってぼくの家まで連れてかえり、泊めてやったこともある(二人きりではない)。
逆にぼくがTちゃんの家で酒を飲んで酔いつぶれてしまったこともある。

Tちゃんは愛嬌のある子だったが決して美人ではなかった。
開けっぴろげの性格で、自分は処女だと公言していた。
少しも気取ったところがなく、話していると男ともだちといっしょにいるようでとても気安くつきあえる友人だった。

よく遊んでいたが、ぼくに彼女ができ、その後少ししてTちゃんも結婚した。
今では疎遠になっている。

そのTちゃんのことをふと思いだして
「あれ、もしかしてTちゃんはぼくのことを好きだったのか?」
と唐突におもったのだ。



バイトで忙しいはずなのに飲み会に誘うとほぼ必ず来てくれたこと。

酔っぱらうときまってぼくの腕にしがみついてきたこと。

家に遊びにきたとき、ぼくの母親と話すときに異常に緊張していたこと。

ぼくの恋愛相談に乗ってくれたあと、「どうせ犬犬は〇〇ちゃんのことが好きやもんな……」とつぶやいていたこと。

バレンタインデーにチョコレートをくれたTちゃんにふざけて「Tちゃんはオレのこと好きやもんなあ」と云ったら黙ってしまったこと。

彼女ができたと言ったら「寂しいけどしかたないことだとおもいます」と妙にかしこまったメールがきたこと。

それ以降、あまり誘いに乗ってくれなくなったこと。


当時はなんともおもわなかったことが、十数年たった今いっぺんに思いだされて、
「あっ、Tちゃんはぼくのことを好きだったのかも!」
とおもったのだ。


自慢じゃないが、ぼくは女性から好意を寄せられたことはほとんどない。
だからいろんなサインを見落としていたのかもしれない。

一度そうおもうと、あれもこれも、好かれていたという仮説を裏付ける根拠のようにおもえてくる。
逆に「なんで当時はTちゃんの好意に気づけなかったんだ?」とふしぎだ。
(Tちゃんに確認をとったわけではないのでまちがってるかもしれないけど)



漫画でよくあるシーン。

主人公のことを好きなヒロインが、おもわせぶりなことをいう。
「あたしじゃダメ……?」みたいな台詞。
それもう98%告白じゃん、みたいなこと。

なのに主人公は気づかない。
「おまえは大事な仲間のひとりだよ」
みたいなことを言ってしまう。

ヒロインは「もう、ほんとにニブいんだから!」なんていってふくれてしまう。
それでも主人公は「え? なにが?」と気づかない。


こういう展開を見るたび、ぼくはおもっていた。
嘘つけ―!
こんなかわいい子にあからさまに好意を寄せられて、気づかないわけないだろー!
なにすっとぼけてんだよ、ビンビンになってくるくせに!

と。


でも、案外ありうる話かもしれない。
自分が好意を寄せていない人からの好意は、ぜんぜん気がつかないものなのかもしれない。

好きな子に対しては、常に「もしかして自分のこと好きなんじゃ……」と考えながら生きている。
どんな些細な兆候も見逃すまいと注意を欠かさない。
こちらを見て笑った、たまたますれちがった、言葉を交わした、たったそれだけのことで「自分を好きだからにちがいない」とおもいこんでしまう。

すべてが「自分を好きにちがいない」という仮説を裏付ける傍証となる(まちがった推理なんだけど)。

でも、それ以外の人にはてんで関心を払わない。
『おしりたんてい』レベルのわかりやすすぎる手がかりですら見逃してしまう。マルチーズ署長のように。


ぼくは妻と付き合うとき、交際を申しこんだが「そういうふうに見られない」という理由でフラれた。
でも数ヶ月後に改めて申しいれたときにはオッケーをもらえた。

たぶん、一度好意を伝えたことで「恋愛対象」として見てもらえるようになったのだとおもう。

ぼく自身、高校時代に「〇〇ちゃん、おまえのこと好きみたいだよ」という不確かな情報を耳にして、それまでなんともおもっていなかった〇〇ちゃんをまんまと好きになってしまったことがある(結局うまくいかなかった)。

「好かれている」とおもうことは、恋愛の入口として大きなステップになる。



三十歳をすぎて、
「ちゃんと言語化しないとまず好意は伝わらない」
「好意を伝えてからが、好きになってもらえるかどうかの審査のはじまり」
ということにようやく気づいた。

たぶんモテる人はとっくに気づいてたことなんだろうけど。

ぼくはもう結婚して(今のところは)離婚・再婚の予定もないので今さら気づいたところでどうしようもないのだが、未来ある若者の役に立ってくれればというおもいで書き記す。


2019年6月24日月曜日

【読書感想文】時間感覚の不確かさと向き合う / ニコリ『平成クロスワード』

平成クロスワード

ニコリ

内容(e-honより)
平成元年から平成31年まで、それぞれの年にちなんだ言葉を満載したクロスワードパズルを1年につき1問ずつ収録しました。各年の出来事を詳しく解説したページもあります。遊んで、読んで、平成を改めて振り返りましょう。

ぼくはニコリのパズルが大好きだ。
ニコリといっても伝わらないかもしれない。パズルばかりつくっている出版社だ(他の事業もあったらごめんなさい)。

小学生のときに父親がニコリの数独の本を買ってきて、すっかりはまった。
それから「数独」や「ぬりかべ」「スリザーリンク」の本を買いこみ、いろんなパズルが載った雑誌(その名も『ニコリ』)があるのを知ると買い求めた。
『ニコリ』は近所では買えず、わざわざ電車に乗って大きなおもちゃ屋さんに買いにいっていた(当時『ニコリ』はふつうの書店に置いておらずおもちゃ屋で売っていたのだ)。

買いにいくのが面倒になると定期購読をした。
ぼくが買いはじめたころ『ニコリ』は季刊(年4回発行)だったのだが、やがて隔月刊になり、そして月刊ペースになり、そしてまた季刊に戻った。
いろいろ試行錯誤中の雑誌だということが伝わってきて、余計に愛着が湧いた。

ぼくは学生時代数学が得意だったが、それは『ニコリ』で論理的な考え方を身につけたからだと確信している。

受験を機に定期購読はやめてしまったが、その後も目についたときに買っている。
書店で働いていたときには、権力を私物化してニコリを入荷できるよう手回しした。



前置きが長くなったが、そんなパズル界の第一人者であるニコリ社から刊行された『平成クロスワード』。
クロスワードで平成の時代をふりかえるという、重厚なパズル本だ。

これはおもしろそうと早速購入して解いてみたのだが、期待通りのすばらしい本だった。

その年の出来事、流行ったこと、活躍した人などがパズルのカギになっている。


クロスワードも多く解いていると「またこれか」っておもうことが多いんだよね。
たとえば「小粒でもぴりりと辛い香辛料。この香りがする天然記念物もいる」とか。だいたい同じようなヒントになってくるんだよね。

でも平成クロスワードのカギは固有名詞が多い。
「事件の名前」とか「不祥事を起こした議員」とか「流行ったおもちゃ」とかがカギになるのはすごく新鮮。
ふだん使わない筋肉を使っているような心地よさがある。

それに、「あーあれなんだったけー。ここまで出てるのにー」という感覚+「だんだんヒントが増えてくるクロスワード」はすごく相性がいい。

「平成をふりかえる」系の本はたくさん出版されたけど、クロスワードでふりかえるってのはすごくいい試みだね。



クロスワードの後には年ごとに起こった事件や流行ったものなどが丁寧にまとめられていて、パズルとしてはもちろん読み物としてもおもしろかった。

いかに自分の中の時間感覚が不確かなだったかを実感した。
郵便番号が七桁になったのと『タイタニック』のヒットとプリウスの発売って同じ年だったんだ、とか。
ぼくの中ではプリウスっていまだに「新型ハイブリッドカー」の位置づけだったんだけど(車にぜんぜん興味ないので)、こうして見るとずいぶん古いなあ。


あと自分の老化、具体的には知的好奇心の衰えと記憶力の低下。
二十年前のノーベル賞受賞者はおぼえてるのに、ここ数年はぜんぜんわからない……。答えを見てもぜんぜんピンとこなかった……。



 その他の読書感想文はこちら


ツイートまとめ 2017年04月


機械第一主義

必要十分条件

現像

引越支援

黒猫

誘発

電話作法

才能

自打球

異業種交流会

方舟

続編

鹿町

観光地図

2019年6月21日金曜日

次女がかわいい。


次女がかわいい。

生後八ヶ月。
よく笑う。かわいい。
ハイハイをする。かわいい。
つかまり立ちをする。かわいい。
立ち上がってしりもちをつく。かわいい。
失敗して後ろにひっくりかえる。かわいい。
手づかみで野菜を食べる。かわいい。
ぼくの髪の毛をつかむ。かわいい。
パチパチ手をたたく。かわいい。
腕も脚も太い。かわいい。
寝ている。かわいい。
起きた。かわいい。

何をしていてもかわいい。
長女のときはここまでかわいかっただろうか。いや、ここまでかわいいとはおもっていなかった。


誤解のないようにいっておくと、長女の器量が劣っているわけではない。
親としてはどちらも同じぐらいかわいい。

ただ長女が赤ちゃんのときは、こちらに「ひたすらかわいがる余裕」がなかった。

けがをしないように。
病気にならないように。
正常に発達しているか。
先天的な異常はないか。
他の子と比べてどうか。
この時期に親がやるべきことはなにか。
逆になにをしてはいけないのか。
今のうちに写真を撮っておかなければ。
どうすればかしこい子に育つのか。

いろんなことが心配で、手放しでかわいがるような心持ちではなかった。

二人目ともなるといろんなことがわかってきて、肩の力を抜いて子どもと向きあえるようになった。
ちょっとぐらいこけても平気、子どもなんて病気になるもの、たぶん正常に育ってるのだろう、まあ少々失敗してもなんとかなるさ。

そんな余裕が出てきたおかげで、かわいさをそのまま「かわいい」と受けとれる。
逆にいえば、長女のときにはいろんなかわいさを見過ごしていたんだとおもう。悪いことをした。


超一流の寿司を食っていても、「そろそろ終電が」とか「財布のお金たりてたっけ」とか「こんな食べ方してマナー違反じゃないか」とか心配していたらきっとうまくないだろう。
同じように、心配事が多いとかわいい子どももかわいいとはおもえない。


孫がかわいいのも同じ理屈だろう。
過去に子育てをした経験がある、多くの子どもを見てきた、自分が育てなくてもいい。
心配しなければいけないことが少ない分、かわいさもひとしおなのだとおもう。


次女がかわいいのは「ぼくがかわいがりかたを習得した」というのもある。

かわいがるのは誰でもできることじゃない。じつはけっこう技量がいる。

いきなり赤ちゃんにほおずりして「おーかわいいな~! おまえはなんでそんなにかわいいんだ~! このぷにぷにのほっぺ! このむちむちの腕! かわいすぎて食べちゃいたい! よし食べよう。かぷっ!」というのは、いい大人にとってはなかなかむずかしい。
はじめてだと、羞恥心がじゃまをしてうまくやれない。
周りに誰もいなくても、内なる自分が「おまえなにやってんだ」と冷や水をぶっかけてきたりする。

だが親として何年も生きていると、子どもの前でばかをやることにも慣れてくる。
恥も外聞もなく全力でほおずりして甘い声を出せるようになる(とはいえさすがに外ではやらないが)。
親ばかになるのもこれはこれでなかなか技量が必要なのだ。


ぼくが次女をかわいがるのは「長女に見せるため」でもある。
「赤ちゃんはこうやって愛情を注いでやるものなんだよ」
「おとうさんは子どものことをこんなに好きなんだよ」
と見せつけることによって、
「君も赤ちゃんのときにはこんなにかわいがられてたんだよ」
「君もおとうさんおかあさんに愛されてるんだよ」
と教えてやるのだ。

じっさいは長女のときはここまでやっていなかったんだけど。
でも「君のときも同じぐらいかわいがってた」という嘘の記憶を長女に植えつけるためにやっているのだ!

長女と次女


2019年6月20日木曜日

視覚障害者を道案内

視覚障害者の手を引いて道案内した。

音の鳴らない信号にさしかかったところで
「ふだんはどうやって渡ってるんですか」と訊いたら、
「勘です。音でだいたいわかりますけど最近は静かな車が多くて困ります」
と言っていた。

また、あまりに交通量が多い交差点だと、ひっきりなしに走行音があるのでやはり怖くて渡れないのだという。

うるさすぎてもだめだし、静かすぎてもだめなのだ。

そんなこと考えたこともなかった。


ひとりでも歩けるが、そんなふうに渡れない道を避けて歩くことになるので、ひとりだと時間がかかるそうだ。

「だからこうしていっしょに歩いてくれる人がいると助かります」
とってもらえた。

よかった。
「余計なお世話かな」とおもいながらもおもいきって「案内しましょうか」と声をかけてみてよかった。

ということで、同じように躊躇している人がいたらぜひ声をかけるといいよ。