2019年4月18日木曜日

天才はいいぞ


ばかみたいに思われるから人には言わないけど、
ぼくは自分が天才だとおもって生きている

根拠はない。
だって既存のものさしで測れないから天才なんだもん

事実かどうかはどうでもいい。
大事なのは、自分で自分のことを天才だと信じること。


天才はいいぞ。

天才はいちいち腹を立てない。
仕事ができないやつを見ても、無駄に話が長いやつに出くわしても、出入口に立ち止まるやつを見ても、傘をふりまわしながら歩くやつを見ても、
「あいつは天才じゃないからしょうがないな」
とおもうだけだ。

ぼくとちがう。ただそれだけ。
赤ちゃんが上手にしゃべれなくても腹が立たないのと同じ。
後輩がミスをしても、同じ質問を何回もしても、腹を立てたりしない。
天才じゃない人は大変だなあと同情するだけ。

「なんでこんなかんたんなことができないの」とは思わない。だってぼくが特別天才なだけなんだもの。
ぼくにとってかんたんなことでも、天才じゃない人にとってはむずかしいんだろう。
ま、せいぜいがんばれよ。


今日は疲れたな。
まあ天才は人の何倍も頭を使ってるからな。疲れるのもしょうがない。

甘いもの食べたいな。
脳は糖分を大量に消費するからな。天才には糖分が必要だ。

天才は自分を大事にする。
だってぼくの脳は人類の貴重な財産なんだから。
たっぷり寝て休ませてあげるし、甘いものも食べる。お酒は脳に悪いので控えめに。


天才は本を読む。
いくら天才だからって知らないことはわからない。
たくさんの情報を仕入れないと天才が天才的発想をできないからね。


天才は失敗をおそれない。
だって天才だから。なんとかなるはずだ。で、たいていなんとかなる。天才が天才たるゆえん。

天才は失敗したって落ちこまない。
天才だからこの程度の失敗で済んだのだ。天才じゃなかったらどうなってたかわからない。天才でよかったー!


天才はいいぞ。
みんな天才になるといい。
ま、そうかんたんになれないから天才なんだけどね。


2019年4月17日水曜日

【読書感想文】ルール違反すれすれのトリック / 柳 広司『キング&クイーン』

キング&クイーン

柳 広司

内容(e-honより)
「巨大な敵に狙われている」。元警視庁SPの冬木安奈は、チェスの世界王者アンディ・ウォーカーの護衛依頼を受けた。謎めいた任務に就いた安奈を次々と奇妙な「事故」が襲う。アンディを狙うのは一体誰なのか。盤上さながらのスリリングな攻防戦―そして真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る。

(少しネタバレ含みます)

警察を辞めた元SPが来日中のチェス世界王者アンディ・ウォーカーの警護を依頼される。
どうやらチェスの世界王者は本国アメリカ大統領府と日本のヤクザから、それぞれ別々に追われているらしい。いったい裏には誰のどんな思惑が……?

というハードボイルドな感じで話が進んでいき、同時にチェスの天才アンディの生い立ちも語られる。
そして明かされる意外な真相……。

まあ意外といえば意外なんだけど、「おもってたよりスケールのちっちゃな話だった」という点で意外だった。
大統領から追われているというからどんな壮大な裏があるのかとおもいきや。

叙述トリックもしかけてあって、これも軽め。
内容紹介文には「真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る」とあるけど、ぜんぜんそんなことない。
「あーそうか」ぐらいのもの。

しかし「同名の別人」って、トリックとしてはルール違反すれすれじゃないか?
それで「やーい騙されてやんのー」っていわれてもねえ。
同じ名前が出てきたらそりゃあ読者は同一人物として読むでしょ。そこをいちいち疑ってたら小説が成立しない。
「あれ? 同じ人物のはずなのに前の記述と矛盾してない?」と思わせるような伏線をしっかり張ってくれていたらいいんだけど。



トリックや種明かしはともかく、ハードボイルド小説としてはおもしろかった。

舞台がめまぐるしく変わるのに今誰が何をやっているのかがすごくわかりやすい。
説明くさくない文章で、状況をさりげなく示してくれる。

すごくうまい小説だ。修辞的な文章が並んでいるわけではないが、読みやすい。こういう文章、好きだなあ。

文章がいいから、あっと驚くトリックや意外な真相がなくてもしっかりと楽しめた。
スリリングなチェスの対局を見ているような読書体験だった。チェスの対局見たことないけど。


あとこの小説を読むとチェスをしたくなるね。

小川洋子氏の『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだときもおもったけど。

でもチェスってやりたくなるけど、やってみると「将棋のほうがおもしろいな」っておもっちゃうんだよなあ。
将棋を先に知っちゃったからかなあ。


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2019年4月16日火曜日

【読書感想文】痛々しいユーモア/ ツチヤ タカユキ『オカンといっしょ』

オカンといっしょ

ツチヤ タカユキ

内容(Amazonより)
『笑いのカイブツ』で大ブレイクの“型破りな新人”最新作!!
「人間関係不得意」で、さみしさも、情熱も、性欲も、すべてを笑いにぶつけて生きてきた伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ。
彼は父の顔を知らない。気がついたら、オカンとふたり。とんでもなく美人で、すぐ新しい男を連れてくる、オカン。「別に、二人のままで、ええやんけ!」切なさを振り切るように、子どもの頃からひたすら「笑い」を摂取し、ネタにして、投稿してきた半生。
本書は、いまなお抜けられない暗路を行くツチヤタカユキの赤裸々な記録であり、母と息子、不器用でイカれたふたりの泣き笑い、そのすべてが詰まった、世界一ぶかっこうな青春爆走ストーリーです。

『笑いのカイブツ』でほとばしる狂気を存分に見せてくれたツチヤタカユキ氏の私小説。

ほのぼのしたタイトルだが、中身は終始殺伐としている。

すぐに新しい男を連れてくる"オカン"と、人付き合いができない"僕"。
「最悪の組み合わせ」だというふたりの歩みを中心に、社会に溶けこめずにもがく"僕"の姿がひたすら描かれている。

読んでいると苦しくなってくる。
「生きづらさ」「社会と溶けこまないといけない苦しさ」は誰しも感じたことはあるだろう。
ぼくもある。特に十代から二十代前半までは。
その苦しさを百倍に濃縮したような気持ちを、ツチヤ氏は味わっていたのだろう。
 ここに飛び込んだら、向こう側に行く事ができる。向こう側の世界では空は白色で、雲は黒色をしている。
 つまりは、乳牛の体と同じ模様が空一面に浮かんでいる。向こう側の世界には太陽がふたつあって、一方は東から昇り、もう一方は西側から昇る。ちょうどふたつが真上に来ると衝突して、毎日、ビッグバンが起こる。
 そのビッグバンによって、世界中にあるすべての花火に一気に火がつき、爆発したみたいな空色になる。そのカラフルな色彩が爆発しまくっている空から、僕がさっき捨てたナイフが降ってくる。
 向こう側の世界では僕の両親は離婚していなくて、向こう側にいる僕の頭はエンターテイメントに冒されておかしくなんてなっていないし、血液が緑色になんかなるはずもなく、そんな、何もかも順調で完璧な世界にナイフが降ってくる。
 向こう側の世界の僕らは、それに見向きもせずに、通り過ぎて行く。

高校のとき、学年に一人か二人、誰ともしゃべらないやつがいた。
誰とも話そうとしない。話しかけてもうっとうしそうにする。そのうち誰も話しかけなくなる。
そういうやつだとおもって彼らのことを気にしたこともなかったが、そうか、こういうことを考えてたのか。つらかっただろうなあ。
だからといってどうすることもできなかったんだろうけど。

ぼくはそこそこ友だちもいて楽しい学生生活を送っていたので、ツチヤ氏からしたら「向こう側の世界」にいるように見えただろう。

でも、そんなにきっぱりと分けられるものでもないよ、とおもう。
「向こう側」にいるように見える人間だって、やっぱりそれぞれもがきくるしんでいるんだよ。



ツチヤタカユキ氏の文章には、痛々しいユーモアがあふれている。
 ガキの頃、父親の事を教えてくれとせがんでも教えてくれなかった理由は、その時に明らかになった。父の話は、子どもには聞かせられないような童話の数々だった。
「あの頃、駐車場借りるお金なかったから、アンタのお父さん、いつも路上に車停めててんやん? その定位置にの人が車を停めてるのを見るたびにキレて、車の後ろから突っ込んで、無理矢理押し出しとってん」
 R15指定の過激な童話は、歳を取るごとに話のレイティングが上がり、ついにはR18指定に。
「アンタのお父さん、ベランダでマリファナ栽培しとってんけど、隣の人が飼ってはる猫がこっちのベランダに侵入してきて、育てとったマリファナ、全部食べられてん」
 その腹いせに父は、火を点けた花火で隣人の家のインターホンをドロドロに溶かしたらしい。
 その家の猫はマリファナなんか食って、大丈夫やったんやろうか?
(中略)
 オカンは、ガンで入院している。もしいなくなったら、生活ができなくなる。
 いままでずっと、モグラのように地下にいた。その間に、地上では道路が出来ていき、地上に出ようとしてもコンクリートに頭がぶつかって、土の中から出てこられなくなった。
 いくら面接を受けても受からないバイトの線は完全に消した。ここから先は、お笑い一本で生きて行く。
 父がマリファナを栽培したように、僕はネタを設定案から栽培しまくった。その双方には、共通点がある。最後に引き起こす作用は、人の笑顔だ。

前作もそうだったけど、この本も読んでいて息苦しくなるしちっとも楽しくない。
だけど、なぜか気になってしかたがない。
自分の心の中にある嫌な部分を暴かれているような気になる。ずっと見ないようにふたをしていたのに。

ツチヤさんは今後どうなっていくんだろう。作家としてやっていくのかな。
個人的には、笑いの世界に戻ってくれたらいいなと勝手におもっている。

明るく楽しい人じゃなくても笑いはつくれるんだということを証明してほしい。

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2019年4月15日月曜日

幼児とおっさんのいちごのデザート


図書館で『ルルとララのいちごのデザート』という本を借りてきて、娘(五歳)に読んであげた。


いちごを使ったお菓子のレシピが紹介されている。子ども向けの本なのですごくかんたんそうだ。ほとんどお菓子作りをしたことがないぼくでも失敗しなさそうだ。火を使わないのもいい。
「明日、このお菓子つくってみよっか?」と娘に言う。
「やろうやろう!」

翌朝、娘の友だちのおかあさんから遊びませんかと誘いが来た。公園で遊ぶ。
せっかくなのでお菓子づくりに誘ってみる。
「この後いちごのお菓子をつくるんだけど、いっしょにやる?」
「やるやる!」
たぶんよくわかっていないけど、二つ返事で参加表明。

娘、その友だちのSちゃん、Cちゃんを連れてスーパーに買い物に行く。
いちごを六パック、ゼラチン、砂糖、牛乳、ヨーグルト。Sちゃんがトッピングチョコを見つけて「これもかけたい!」と言うので、それも買う。

帰る途中で、やはり娘の友だちであるNちゃんに出会う。
「今からお菓子つくるけどいっしょに来る?」
「行く行く!」
子どもはいつも二つ返事だ。親の都合も訊かずに。
おかあさんが「いいんですか?」と心配そうに言うが、「子ども三人も四人もいっしょですよ」とぼくは答える。

ぼくと、五歳女子四人によるお菓子づくりがはじまった。全員ほぼはじめてだ。



まず五歳児にスプーンを渡し、いちごのへたをとらせる。
とったへたに実がいっぱいついているが細かいことには目をつぶる(あまりにひどい場合はぼくがやりなおした)。

それからいちごをつぶす。
スプーンの背でつぶしていくのだが、五歳児の力ではまったくつぶせないことがわかった。

そこで子どもたちにはフォークを渡し、「これでいちごをぶっ刺してくれ」と依頼。
グサグサグサといちごを突き刺していくのは楽しそうだ。心の奥底にある残虐性に火をつけるのかもしれない。

その合間をぬってぼくがスプーンでいちごをつぶしてゆく。油断していると五歳児たちのフォークで手を突き刺されそう。餅つきのこね手のような緊張感がある。

いちごをつつく幼児とおっさん

いちごをつぶすと大量のいちご汁がとれた。
こいつに砂糖をどかどか放りこんでいちごソースをつくる。いちごの重さを量っておくのをわすれたので、砂糖の量は適当だ。

ゼラチンをお湯で溶く。もちろん量は適当。
ゼラチンが手についてぬるぬるするのが気持ち悪いといって、子どもたちはきゃあきゃあ言っていた。そしてその手であちこち触る。このやろう。

さらに手についたいちごをすぐになめる。スプーンについたいちごもなめる。なめたスプーンをまた器につっこむ。

触るんじゃない! なめるんじゃない! と叱っているとNちゃんが「ねえおっちゃん、いつもはやさしいのになんできょうはこわいの?」と言う。
あれ。怒っているつもりはなかったんだけどな。ちょっとピリピリしていたのかも。反省。

しかし当人に向かって「なんできょうはこわいの?」と言える素直さ、うらやましい。
ぼくも見ならいたい。社長に「おっ、今日は機嫌悪いっすね! どうしたんすか!?」と軽快に言ってみたい。


ゼラチンを水で溶いたところにいちごソースとヨーグルトと牛乳をぶちこむ。いうまでもなく量は適当。
そいつを子どもたちにカップに詰めさせる。
これがいちばん楽しそうだった。ようやく完成イメージが見えてきたからかもしれない。
「これは〇〇(自分)の分、これはママの分」などと云いながら詰めている。

「どれが誰のかわかるようにシール貼っときや」とシールを渡してやる。
シールを貼った後で、「どのシールが誰のか忘れたらあかんから」といって画用紙に対応表を書きだした。
「ぷりきゅあのしーる → 〇〇の」みたいに書いている。
ほう、ちゃんとメモをとれるようになったんだなあと感心する。
カップに詰めたらトッピングチョコをふりかけて冷蔵庫へ。二時間冷やせばいちごヨーグルトプリンの完成だ。

汁をとったあとのいちご搾りかすと、残ったいちごソースにまた砂糖をどかどかと放りこみ(しつこいようだけど量は適当)電子レンジで加熱。いちごジャムができた。

いちごヨーグルトプリンもいちごジャムも、火は一切使っておらず、包丁もナイフも使っていない。
幼児とおっさんがやるのにふさわしい、かんたんかつ安全な料理だ。すごいぞルルとララ。



子どもたちにいちごヨーグルトプリンといちごジャムを持たせ、家まで送り届けてやる。
子どもの面倒を見た & お菓子を渡した ということでどの親からも感謝され、お礼のお菓子もいただいた。

そのお菓子はもちろん、妻に献上。
なにしろぼくが子どもたちを送っている間に、いちごと砂糖とゼラチンと牛乳とヨーグルトでぐっちゃぐちゃになったテーブルと食器を片付けてくれたので……。
本日の陰の敢闘賞だ。

2019年4月12日金曜日

【読書感想文】半分蛇足のサイコ小説 / 多島 斗志之『症例A』

症例A

多島 斗志之

内容(e-honより)
精神科医の榊は美貌の十七歳の少女・亜左美を患者として持つことになった。亜左美は敏感に周囲の人間関係を読み取り、治療スタッフの心理をズタズタに振りまわす。榊は「境界例」との疑いを強め、厳しい姿勢で対処しようと決めた。しかし、女性臨床心理士である広瀬は「解離性同一性障害(DID)」の可能性を指摘し、榊と対立する。一歩先も見えない暗闇の中、広瀬を通して衝撃の事実が知らされる…。正常と異常の境界とは、「治す」ということとはどういうことなのか?七年の歳月をかけて、かつてない繊細さで描き出す、魂たちのささやき。

「精神病院に勤務する精神科医」と「博物館の学芸員」の行動が交互に語られる。
そして別々の物語が最後にひとつに重なりあう……のかと思いきや、ちょっとしか交わらない。

えっ? なんじゃこりゃ?

別々の物語を交互に書いただけじゃねーか!

いやほんと、「博物館の謎」パートいらなかったな。ぜんぜんおもしろくなかったし。
ここ削って半分の分量にしてくれたらよかった。

「世間がひっくりかえるような秘密」とやらも蓋をあけてみれば誰もが予想する程度のものだったし、だいたいそれが世間がひっくりかえる秘密?
学芸員からしたら大問題だろうけど、ほとんどの人にとっては博物館の所蔵品なんかに興味はない。

なんでふたつの物語にしたんだろう。



ミステリとおもって読んでいたのだが(「このミステリーがすごい!」の2000年度9位作品なんだそうだ)、ミステリとしては楽しめなかった。

前半で「ある人物が墜落死した」と書かれている。その真相は終盤まで引っぱられるのだが、長々と引っぱったわりに「え? そんなしょぼい真相?」という種明かし。

「博物館の謎」もしょぼかったし、謎解きとしてはとことん期待外れだった。


結末もあっけなかった。
精神病なんてかんたんに治るようなものではないからすべてがきれいに解決するものではないのはわかるが、それにしたってこのラストはあまりに投げっぱなしじゃないか?
500ページ以上の分量を割いて、精神科医がやったことといえば「やっと診断を下した」だけ。

まあ精神科医の仕事ってじっさいはこれぐらい気の遠くなるような進捗しかないものなのかもしれないけどさ。でも小説として読んでいた側からすると「これだけ読んできてそれだけ?」って愚痴のひとつも言いたくなるぜ。



……とあれこれ書いてしまったが、この本はすごくおもしろかった。わくわくしながら読んだ。
精神病院パートはすばらしい出来だ。

あれ? これ書いてるの精神科医? と思って途中で作者の経歴を見てしまった。ってぐらい細部まで詳しく書きこまれてる。

ミステリじゃなくてサイコ小説としてなら、知的好奇心を十二分に満たしてくれるものだった。

しかも、珍しい症例をおもしろおかしくふくらませるような書き方ではなく、精神病に対する誤解を打ち消すようにひたすら慎重に慎重に書かれている。
この姿勢には好感がもてる。

話の主題になっているのは、解離性同一性障害(DID)。これはいわゆる「多重人格」で、フィクションの世界ではわりとよく扱われるテーマだ。
フィクションではたいてい猟奇的に描かれるんだけど、この本ではすごく慎重にとりあげている。
 人間の人格というのは、多面体をなしている、という言い方、よくするでしょう。優しい側面。怖い側面。清い側面。下劣な側面。……そういうものすべてをひっくるめて、ひとりの人間ができているんだ、と。そこまではいいんですが、それをさらに敷衍して、<だから人間はだれもがみな多重人格的な存在なんだ。わたし自身もそうだ>なんてことを言う者がいる。しかしね、そういうのは文学的な修辞としては許されるかもしれないが、医学的には、はなはだしい認識の錯誤ですよ。多重人格者の人格は多面体じゃなくて、優しい人格、怖い人格、清い人格、下劣な人格、その他いろんな人格が、それぞれ別個に、独立して存在しているわけです。そんな途方もない状態のことを、多重人格と呼ぶわけですからね。
 だからこそ、ひとりの人間の中での、人格どうしのコミュニケーションなどという奇妙なものが必要になってくる。
ぼくも「多重人格なんて多かれ少なかれ誰の心にもあるもんでしょ。ぼくだって家族と友人と職場の人の前では人格を使い分けてるし」とおもっていた。
「内弁慶の外地蔵」ぐらいのニュアンスで「二重人格」なんて言葉を使ったりもする。

だが本物の解離性同一性障害はそんなものではない。
ある人格が表に出ている間は他の人格の記憶がすっぽりと抜けたり、自己の内なる人格同士で対話をしたりもするとか。



ところでぼくは「多重人格」の人に会ったことがある。あくまで自称、だが。

十年ほど前。
ぼくが書店で働いていたとき、とある書店が新規オープンするというので一週間だけ手伝いに行った。

一週間働いて、最終日。
仕事を終えたぼくは、一緒に働いていた女性と話しながら駅まで向かった。
年上だったがかわいらしい女性だったので、あわよくば仲良くなりたいとおもい、お茶でもどうですかと喫茶店に誘った。
彼女は承諾してくれた。

喫茶店でたあいのない話をしているとき、ふいに彼女が言った。
「私、多重人格なんですよ」

「え?」
「私の中に何人かいて、ときどき出てくるんです。今の私でいることが多いんですけど、家にいるときはけっこう別の人格が出てきます。中には男性の人格もいます」

ぼくはどう返していいのかわからなくて、「へえ」とかつまらない相槌しか打てなかった。


そしてぼくらは喫茶店を出て別々の電車に乗った。その後は二度と会っていない。連絡先も知らない。

彼女の告白が真実だったのかどうか、わからない。
会って数日、しかももう二度と会わないぼくに向かってなぜそんなことを口にしたのかわからない。

そんな出来事があったのをずっと忘れていたのだが、『症例A』を読んで思いだした。

ひょっとすると、彼女のカミングアウトは本当だったのかもしれない。
もう二度と会わない相手だからこそ、打ち明けることができたのかもしれない。近しい人にはなかなかそんなこと言えないだろうから。


あのとき、「私、多重人格なんですよ」という彼女の言葉を聞いて、ぼくはとっさに「この人とかかわっちゃまずい」とおもってしまった。
そして「あわよくば仲良くなりたい」というぼくの気持ちは雲散霧消した。

案外、それが彼女の狙いだったりして。
「私、多重人格なんですよ」はしつこい男から逃げるための方便だったのかも。


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