2019年4月1日月曜日

【映画感想】『のび太の月面探査記』

『のび太の月面探査記』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編劇場版シリーズ39作目。直木賞受賞作「鍵のない夢を見る」、ドラえもんのひみつ道具を各章のタイトルに起用した「凍りのくじら」などで知られる人気作家の辻村深月が、映画脚本に初挑戦し、月面を舞台にドラえもんとのび太たちの冒険を描いた。月面探査機がとらえた白い影がニュースとなり、それを「月のウサギだ」と主張したのび太は、周囲から笑われてしまう。そこで、ドラえもんのひみつ道具「異説クラブメンバーズバッジ」を使い、月の裏側にウサギ王国を作ることにしたのび太。そんなある日、不思議な転校生の少年ルカが現れ、のび太たちと一緒にウサギ王国に行くことになるのだが……。監督は「映画ドラえもん」シリーズを手がけるのは3作目となる八鍬新之介。ゲスト声優に広瀬アリス、柳楽優弥、吉田鋼太郎ら。

劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。

「娘といっしょにドラえもんの映画を観にくるのははじめてだな」とおもっていたけど、よく考えたら、ドラえもんの映画を劇場に観にいくこと自体はじめてだ。

子どもの頃、テレビでやっているのを観たり漫画版で読んだりしていたので、すっかりよく観ていた気になっていた。
1作目『のび太の恐竜』 ~14作目『のび太とブリキの迷宮』あたりまでは、読んだりテレビで観たりしていた。
そのへんでぼくが大きくなったのと、内容が説教くさくなってきたので、しばらく遠ざかっていた。
昨年、娘がドラえもんを楽しめるようになってきたので、AmazonPrimeで『のび太の南極カチコチ大冒険』を鑑賞。 「最近のドラえもん映画ってこんな複雑なストーリーなのか……」とおもった記憶がある。
(あと『緑の巨人伝』を観て「これはひどい……」とおもった)



さて、『のび太の月面探査記』である。
映画館の入場時に、特典グッズ(ドラえもんのチョロQ)をもらえる。子どもだけかとおもっていたらおっさんにももらえる。うれしい。
これこれ、子どもの頃こういうグッズほしかったんだよなー。テレビで予告編を観るたびにほしいとおもっていた。

べつにぼくのうちが貧しかったわけではないけど、田舎だったので映画館まで行くためにはバスと電車二本を乗りつがないといけなかった。だから基本的にぼくらの町の人間にとって映画というのはテレビかビデオで観るもので、そもそも「映画館に行く」という発想がなかった。

今回の『月面探査記』だが、原作が辻村深月氏だと聞いていたのでおもしろそうだとおもっていた(とはいえデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』が好きになれなかったのでそれ以降の作品は読んでないんだけど)。
『凍りのくじら』でドラえもんを扱っている人、という知識だけはあったので。読んでないけど。


映画の感想だけど、まず、「これドラえもんの映画にしてはむずかしくない?」とおもった。

[異説クラブメンバーズバッジ]という道具が出てきて、これが今回のキーアイテムになる。
というかほとんど他の道具が出てこない。他に目を惹くのは[エスパー帽]ぐらいで、あとは映画でおなじみの[どこでもドア][タケコプター][ひらりマント][空気砲][コエカタマリン]などで、使用にあたって説明すらされない。

[異説クラブメンバーズバッジ]がなかなかややこしい。
天動説やツチノコ生存説のように、異説として一定の支持のある説をマイクに吹きこむと、メンバーズバッジをつけている人たちにはその説が実現しているように見える、という道具。
ううむ、むずかしいね。
「異説として一定の支持がある説じゃないとダメ」「バッジをつけている人にしか共有されない」という制約があるので、なんでもやりたい放題&全人類に適用される[もしもボックス]の劣化版という感じの道具だね。

しかしこの制約がストーリー上重要なカギを握っている。特に終盤の大逆転は、[異説クラブメンバーズバッジ]によく似た道具が登場することで実現する。
が、[異説クラブメンバーズバッジ]がすでにわかりにくいのに(うちの五歳の娘はぜんぜんわかっていなかった)、それに似ているけど異なる効力を持つ道具が登場するので(しかも簡素な説明しかない)、「え? つまりどういうこと?」とおもっている間にどんどんストーリーが進んでしまう。
ラスボスとの戦闘中なのでくだくだ説明する時間がないんだろうけど、メインストーリーにからんでくる話なのでもう少しわかりやすく表現することはできなかったのかな……とおもってしまう。


また、今作には[カグヤ星][エスパル][エーテル][ムービット]という独自の概念がいくつか登場する。
[エスパル]は[カグヤ星]から脱出して千年前から月に住んでいた種族、[ムービット]は月に住んでいるがのび太たちが[異説クラブメンバーズバッジ]によってつくりだした種族。

のび太たち地球人を含めれば三種類の種族が月にいる(さらにカグヤ星にはカグヤ星人もいる)わけで、このへんもややこしい。


観終わった後で娘に「どんな話だった? おかあさんは観てないから、おかあさんにわかるように教えてあげて」と言ったところ、エピソードひとつひとつはちゃんとおぼえていたが、やはり「どういう種族がいて何のために戦ったのか」「[異説メンバーズクラブバッジ]がどういう役割を果たすのか」については理解できていなかった。



だがストーリーがこみいっているからといって、おもしろくないかというとそんなことはない。
娘は「おもしろかった! 来年も観にいきたい!」と言っていた。

細部はけっこう練っているし登場人物も多いが、
・のび太やジャイアンなどの主要キャラはきちんと自分に与えられた役割をこなしている。
・敵味方、善悪がはっきりしている。敵はいかにも邪悪な容貌・声をしている。
「悪人とおもったら実は善人」「悪人にも悪人なりの正義があり同情すべき点もある」といった多面性もほぼない。
・ストーリーの骨格は「仲間を守るために悪を助ける」というシンプルなものから大きく逸脱しない。

といったところはきちんと押さえられていて、だから五歳児が観ても(全部はわからなくても)楽しめるのだろう。
このへんはさすがドラえもん映画だ。



この映画の見どころのひとつは
「のび太たちが一度家に帰った後、さらわれた仲間を助けにいくために再結集する」というシーン。
ポスターにもなったシーンだ( https://corobuzz.com/archives/133477 )。

台詞はほとんどないが、「死をも覚悟して心の中で家族に別れを告げる」姿が胸を印象的だ。
特にスネ夫に関してはへたれであるがゆえにその葛藤も大きいであろうことが想像できて、より胸を打つ。

のび太やジャイアンは映画版だとやたらかっこいいが、スネ夫は映画でも臆病で保身的な人間として描かれる。
『のびたの恐竜』では、命の危険を背負ってでもピー助を故郷に送りとどけようとするのび太(とジャイアン)に対して、スネ夫はピー助をハンターに売りわたして自分たちの命を助けてもらおうとする。
のび太とジャイアンの男気が光るシーンだが、ぼくだったらスネ夫側につく。他者(しかも恐竜)を救うことよりも自分の身を守ることを真っ先に考える。ほとんどの人間はそうだろう。
じつはスネ夫がいちばん人間らしいキャラクターなんだよね。だからこそ『のび太の宇宙小戦争』で活躍するスネ夫にはぐっとくる。

『月面探査記』で、再集合の時刻にスネ夫だけは姿を現さない。
怖気づいてしまったのかという雰囲気が漂う中、ジャイアンが「もう少しだけ待ってみようぜ」と言う。
そこに現れるスネ夫。「前髪が決まらなくって」と言い訳。

このシーンが、いちばん好きだった。


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2019年3月29日金曜日

元号について


ふだん、元号はほとんど使わない。
会社の書類関係も基本的には西暦で作る。

元号なんてなくしてしまえなんていう人もいる。
ぼくはそうはおもわない。あまり使わないけど、あったほうがいいとおもう。


ぼくらはあまり時間をとらえるのが得意でない。
数十年単位で物事を考えることはほとんどない。長くて数年、ほとんどが一年以内だ。

一年先の予定なんてまったく決まっていないし、一年以上前の思い出がすっぱりなくなったとしても生活する上ではそれほど不自由は感じないだろう。

八十歳まで生きて、文書や写真や映像で記録を残せるようになった現代においてもこうなのだから、原始狩猟採集生活をしていた時代の人類には、数年単位で物事を考えることなどほとんどなかったにちがいない(そして人類の歴史の大部分はそういう生活をしていた)。
人類は長いスパンで物事を考えられるようにできていないのだ。



そこで役に立つのが、時代の区切りだ。

「平成時代」という区切りをつけることで、長い時代を脳の中で整理しやすくなる。

たとえばテクノロジーの分野だと
「平成は、携帯電話やインターネットが爆発的に普及した時代」
とか。

経済だと
「平成は、長く不況に苦しみ終身雇用制度や年功序列賃金が崩壊していった時代」
とか。

たいていの物事はいっぺんには変わらないので、一年単位だと短すぎる。
一世紀だと長すぎる。百年前と今とでは何もかもがちがう。そもそも百年前のことを記憶している人がほとんどいない。

ある程度の長期的な変化を把握するには、元号ぐらいの長さがちょうどいい。
(ただし昭和は長すぎる。戦争で出征していた世代と、生まれたときからコンビニもファミコンもあった世代を「昭和生まれ」で一緒くたにするのはさすがに無理がある)

昭和は例外(大正時代が短かった+医学の驚異的な進歩があった)にしても、元号は天皇の世代交代が区切りになるから、必然的に二十~三十年ぐらいの長さになる。

平成は三十年と四ヶ月。
これはちょうどいい長さだ。

女性の初産時の平均年齢がだいたい三十歳ぐらいだそうだ。
つまり平成元年に生まれた子どもが、次の元号の元年に親になるぐらい。

元号がちょうど一世代。
これぐらいのスパンだと「ひとつの時代が終わる」という感じがして、感覚的にはちょうどいい。

数十年たってから「たまごっちが流行ったのっていつだったっけ」「CDを買わなくなったのっていつだったっけ」「あいつと出会ったのはいつだったっけ」と振りかえったときに、西暦何年かはわからなくても「平成時代だったな」ということぐらいはわかる。

数十年前の記憶なんてそれぐらいでいい。
こういう節目があるのはけっこう便利だ。

だから元号はこれからもぜひ存続させてほしいとおもう。



とはいえ、役所の文書で元号を使わせることには反対だけどね。

それとこれとは別問題だぜ。


2019年3月28日木曜日

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

オンチは誰がつくるのか

小畑 千尋

内容(e-honより)
「オンチはなおりますか?」実に多くの方が質問されます。オンチはなおすものではありません。克服するものです。オンチは病気ではなく、生まれながらの能力の欠如でもないからです。歌唱スキルは、適切なトレーニングを行えば、発達可能な能力であり、大人になってからでも十分に向上します。

ぼくは音痴だ。ものすごい音痴だ。
どのぐらい音痴かというと、2音を聴いて「どっちが高い?」と言われてもよくわからないときがある。それぐらい音痴だ。

中学生のときに友だちから「おまえ歌へただな」と言われ、そのときは「まさか」と思っていたのだが、合唱コンクールの練習時に教師から「まったくちがう」と言われて自分が音痴だと確信した。

それ以来、自分は音痴だという自覚を持って生きている。
中高生のときはすごく恥ずかしかった。音痴であることがコンプレックスだった。音楽の授業や合唱コンクールが苦痛だった。
人前では歌わない。カラオケにも行かない。どうしようもないときはしぶしぶ付きあうが、どれだけ勧められてもマイクは握らない。

もうこれは一生治らないものだからしょうがない、とおもって生きてきた。

おっさんになってからはカラオケに誘われることもなくなってきたので、特に不自由しなかった。ようやく音痴で苦しむことから解放されたとおもった。

だが娘が生まれてそうも言ってられなくなった。
子どもを寝かしつけるとき。
子どもから「いっしょに歌おう」と言われたとき。
歌ってあげたい。だが歌えない。ぼくのへたな歌を聞かせたら娘も音痴になってしまうかも。


……そんな心配もむなしく、娘は音痴になった。

娘の歌はへただ。
音痴のぼくが聞いてもめちゃくちゃだとおもうので、相当ひどいのだろう。
まあ子どもだからこんなもんかとおもっていたのだが、娘の友だちが歌っているのを聞いて驚いた。うまいのだ。
幼児でもうまく歌える子はいる。だとしたら娘は音痴なのだろう。

もうぼくが音痴なのはしょうがないが、娘にはこれから音楽の授業や合唱コンクールや友だちとのカラオケなどの試練が待ち受けている。
つらい思いをさせるのはかわいそうだ。

ということで、一縷の望みをかけてこの本を読んでみた。

いい本だった。すごく。

音痴になるメカニズムや克服トレーニング方法だけでなく、オンチの人の抱える精神面での悩み、それが生まれる社会的背景、トレーニングによって音痴を克服した人のエピソードなどじつに丁寧に説明されている。
非常に読みごたえがあった。



ぼくの妻は歌がうまい。
おまけに絶対音感もある。
ぼくがピアノで2つの鍵盤を同時に叩いてみせると、聴いただけで「ドとソのシャープ」なんて言いあてることができる。
一度聴いただけの曲でも、ピアノで演奏することができる。

特別なトレーニングをしたわけではないという。ピアノは習っていたが趣味程度。絶対音感は「自然に身についた」という。

ぼくからしたら驚異的だ。
体操選手の後方抱え込み2回宙返り3回ひねりを見ているような気持ちだ。とても同じ人間の所業とはおもえない。


歌のうまい人の例に漏れず、妻には歌のへたな人の感覚がわからない。
娘に歌を教えるときも
「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」
なんて言う。

音痴代表として、ぼくはおもう。
ちがうんだって。
よく聴いてるんだよ。よく聴いてもどっちが高いかわからないんだよ。そもそも「音が高い」という感覚もよくわかってないんだよ。

音痴にとっての「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」は、真っ暗な部屋で「ほらこれと同じ絵を描いてごらん。見たまんまに描けばいいから」と言われているようなものだ。
技巧がどうこう以前に、見えてないのに描けるわけがない。

でも歌がうまい人には、音痴の人が「見えていない」ことがわからないらしい。
 オンチだと言われてきた方は、「なんで音が外れるんだ」「なんでみんなは合わせられるのに、自分は合わせられないんだ」と思い続けてきたかもしれません。でも私がレッスンを通して強く感じるのは、彼(彼女)らは同一の音高で合わせる感覚を単に知らなかっただけだということです。
 歌唱指導で、内的フィードバックができない人に対して、いくら「この音に合わせて」「よく聴いて」なんて指示を出しても効果はありません。一体「何をよく聴いたらいいのか」がわからないからです。音楽の指導者のほとんどは、そのことが想像できていないのではないでしょうか。

学校の音楽の先生はほとんどが子どもの頃から歌が得意だった人だろう。音程を理解するのに苦労した、なんてことはまず経験していないはず。

だから「音の高低がわからない」という感覚がわからない。
平気で「よく聴いて、同じ音で歌って」なんて口にする。

英語のネイティブスピーカーが[a]を使うべきか[the]を使うべきかなんて考えなくてもわかるように、音楽の先生にとっては「ドよりレが高い」なんてのは自明のことなので考えて理解するようなことじゃないのだろう。
 私は、音程が著しく外れる歌を聴くと、どのように音程が外れているのか、本人がそのことを認知できているのかを分析しています。それは、「教育者が使う言葉として『オンチ』はふさわしくないから、使わないようにしよう」という発想からではありません。
 音程が外れた歌唱を聴いた時、「オンチ」というレッテルしか貼れない音楽の指導者だったら、(ちょっときつい言い方になってしまうかもしれませんが)それは専門性に欠けると思うのです。もし歌唱を指導する立場の人だったら、著しく音程が外れた歌を聴いた時、その人がどうして音程を正しく合わせることができないのか、その原因を探り、指導をすべきではないでしょうか。
 これも、体育に置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。たとえば、水泳で息継ぎができない子どもに対して、「どうして息継ぎができないのか」「どうやったらその子どもが息継ぎをできるようになるのか」を考え、その子どもにとって 必要な指導をするのが体育の先生の仕事です。それを、体育の先生が「この児童は、運動オンチだなぁ」と思って、息継ぎの方法を教えないのはかなり妙な話ですよね。音楽の先生が「オンチだ」と思って具体的な指導をしないのは、これと同じことだと私は感じています。

そうそう、指摘だけされて指導してもらえないってのが、音痴にとっていちばんつらいとこなんだよね。

ぼくも音楽の先生から「音がずれてるね」と言われたことがある。
でもそれだけ。
修正するための指導を受けたことはない。
どうやったらずれずに歌えるのか、そもそもずれてるとはどういうことなのか、ずれてないのがどういう状態なのか、音痴のぼくが理解できるような説明を誰もしてくれなかった。
通知表には10段階評価で3か4がつけられて、それで終わり。改善のしようがない。



今でこそ「ぼく音痴なんですよー」と堂々と言えるようになったが、思春期の頃はそれすら言えないぐらい恥ずかしいことだった。

カラオケに誘われたときも「音痴だからやめとくわ」とは言えずに、「あの狭い空間が苦手なんだよね。息苦しくって」なんて妙な嘘をついて逃げていた。

そこまでコンプレックスにおもっていた理由も、この本を読んで腑に落ちた。
 そもそも、「歌う」ことは楽器の演奏とは異なった感覚があります。弦楽器であれ、管楽器であれ、打楽器であれ、楽器は演奏する本人と、演奏する楽器が基本的に別物です。
 たとえば、ピアノは指が鍵盤に接触しています。でも、音を発する楽器本体は人間ではなく、ピアノです。弦楽器や管楽器も体が接触し、振動させる、息を吹き込むなどしても、やはり音を発するのは楽器本体です。熟練者になると、楽器がまるで自分の体の一部のように演奏する感覚もあるでしょう。でも歌は、体そのものが楽器なのです。話す時の声が体から発せられるのと同じように、歌声も演奏者自身の体から発せられます。
 ですから、たとえば学校の音楽の授業で、鍵盤ハーモニカを弾いている時に、「違う音を弾いてるよ」と指摘されたり、リコーダーを吹いて「押さえる指が間違っている」と指摘されたりするのと、歌って「音程が違う」と言われるのとでは、全く重みが違うのです。楽器だとワンクッションあるけれど、歌はダイレクトに感じられてしまうのです。
 こんなふうに考えてみると、歌に対する指摘を受けたとしても、その指摘が直接自分自身に向けられたように感じてしまっても不思議ではありません。「歌声」イコール「私自身」という感覚です。

そっか!
「歌声」イコール「私自身」だから恥ずかしいのか!

たしかにそうだよね。
ぼくは楽器全般ができないけど、それはべつに恥ずかしいとおもったことがない。
もし友人の前でリコーダーを吹くような状況になっても(どんな状況だ)、堂々とへたくそな演奏をやってやれる。
それで「おまえリコーダーへただなー」と笑われてもぜんぜん平気だ。「そやねん。へたやねん」と言える。

でも、友人の前でへたな歌を歌いたくない。「おまえ歌へただなー」と言われたら赤面してしまう。


歌のうまい人には理解できないかもしれないけど、「歌がへた」ってほんとに重いことなんだよね。
「リコーダーがへた」とか「バスケットボールがへた」とはぜんぜんちがう。
それらは「練習が足りないから」ですませられるけど、歌がへたなのは人間として欠陥があるような気さえする。


これは個人的な憶測だけど、音痴が恥ずかしいのってジャイアンのせいなんじゃないかとおもう。
『ドラえもん』の中で、ジャイアンの音痴ってめちゃくちゃひどい描かれ方してるじゃない。ジャイアンの歌声を聞いた子どもが気を失うとか、猫が木から落ちてくるとか、窓が割れるとか。
あれってべつに音痴なんじゃなくてただうるさいだけなんじゃないかとおもうんだけど、漫画の中では「歌がへたなせい」ということになっている(窓が割れるぐらいのボリュームだったらたとえうまい歌でも具合悪くなるとおもうんだけど)。

のび太が勉強できないこととかスポーツが苦手なこととかは同情的に描かれているのに、ジャイアンの音痴に対してはそういう視点は一切なく、とことん笑いものにされている。
リサイタル参加を強制する点についてはジャイアンが悪いが、音痴なのはしかたのないことなのに。

あれは「音痴は人前で歌うな」というメッセージになってしまってるんだよね。
ひどいや藤子・F・不二雄先生……。



くりかえしになるが、本当にいい本だった。

著者は東京音大を出てピアノの指導者をしている人なので、音痴で苦労した経験など一度もないにちがいない。
だけど音痴の人に寄りそう姿勢を持っている。
ちゃんと原因を分析して、音痴であることによってどんな精神的な苦痛を抱えているかをさぐって、歌が嫌いにならないようにすごく配慮しながら指導をしている。

もう、歌の先生というよりセラピストのようだ。

ぼくもこの著者みたいな先生に指導してもらいたかった……。
(学校のカリキュラムではそこまでの時間も割けないんだろうけど)

この本には、音痴のメカニズムや、修正するための方法、そしてじっさいに克服した人の事例が紹介されている。

自分はもう一生音痴として生きていくしかないとおもっていたが、この本を読んで「ぼくの音痴も克服できるかもしれない」とおもえるようになった。
もうそれだけで気持ちが楽になった。

ぼくの音痴はまったく治っていないが、しかし気持ちはまったくちがう。
「一生歩けません」と「リハビリをしないと歩けるようになりません」ぐらいちがう。

娘も、音楽の道に進むことは無理でも、友だちと行ったカラオケで恥をかかなくて済むぐらいにはなるかもしれない。
さっそくこの本に載っているトレーニングをやってもらおう(サポートするのは音程がとれる人じゃないといけないので妻にやってもらうのだが)。

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2019年3月27日水曜日

【読書感想文】晴れやかな心中 / 永井 龍男『青梅雨』

青梅雨

永井 龍男

内容(Amazonより)
一家心中を決意した家族の間に通い合うやさしさを描いた表題作など、人生の断面を彫琢を極めた文章で鮮やかに捉えた珠玉の13編。

日常のスケッチのような短篇集。
いわゆる名文なんだろうけど、個人的にはこういう「何も起こらない小説」は楽しめないんだよなあ。志賀直哉なんかもそうだったけど。

ただ、葬儀にまぎれこんだ狂人(自分ではまともで「他の人」が狂っているとおもっている)の心境をスケッチした『私の眼』、
そして同じ場面を「他の人」の視点で描いた『快晴』はぞくぞくしておもしろかった。
この男、見ず知らずの人の葬式に参列して、香典袋に靴べらを入れて渡す。あからさまな「おかしい」ではなく、当人にとってはまっとうな理由がありそうな狂気なのがいい。
読んでいて、狂気と正常のボーダーラインがゆらいでくる。


一家心中当夜の家族の落ち着いたたたずまいを描いた 『青梅雨』もよかった。
心中を前にしている家族の立ち居振る舞いは、むしろ晴れやかで楽しそうですらある。

心中って経験したことないけど(たいていの人はないだろう)、案外こんなもんかもしれないなあ。
ひとりで自殺するよりも、気楽で悲愴感はないのかもしれない。
先生に怒られてひとりだけ教室に居残りさせられるのはつらいけど、ふたりで居残りさせられるときはちょっと楽しいもんね。妙な親近感がわいて。そんな感じなんじゃないかな。

末井昭という人が「おかあさんがダイナマイト心中した」ことを書いてるけど、申し訳ないけど、もう笑っちゃうもんね。ダイナマイト心中ってちょっと楽しそうな感じするもん。

太宰治なんかあれもう心中をどっか楽しんでるようなとこあるしね。
過激派が自爆テロなんてのも、あれはやっぱり誰かと一緒に死ぬからこそできるんだろうね。
みんな心の奥底に「ひとりで死にたくない」って思いがあって、それが心中や自爆テロがなくならない理由なのかもしれない。


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2019年3月26日火曜日

軍手を剥ぎたいんです


私は軍手剥ぎ師です。
軍手を剥ぐのが仕事。といってもわかってもらえないかもしれませんが、ほら、道端に軍手が落ちてるのを目にしたことがあるでしょ。あれが私たちの業績です。


といっても剥ぐのは軍手だけじゃありません。
赤ちゃんの靴下とか、酔っ払いの靴とか、マフラー、ストール、キーホルダーその他さまざまな衣類やアクセサリーをこっそり抜き取って地面に捨てています。

ちょっと特殊な仕事と思うかもしれませんが、立場上は地方公務員です。共済年金にも加入してます。
特定を防ぐためにどの都市かは書きませんが、地方中核都市とだけ言っておきます。

この仕事のことは口外してはいけないことになっているので、家族以外には話したがありません。他人には「市の清掃局の仕事」って言ってます。まあ管轄は清掃局だから嘘じゃないんですが。

軍手や靴下を地面にばらまく理由は、注意喚起です。
財布とか携帯電話とか大事なものを落とさないように、さほど重要じゃなさそうなものを選んで地面に落とします。実際これを導入してから貴重品の遺失物が減ったと聞くのでちゃんと効果はあるらしいです。

あとは若干ですが景気拡大にも効果があるそうです。手袋落としたら買い替えてくれるので。ですから金融政策の一環でもあります。不況のときは少しだけ落とさせる量が増えます。
とはいえ最大の目的はやっぱり注意喚起です。
「私たちの本分は注意喚起です。それを忘れないように」と研修のときにしつこく聞かされました。

注意喚起が目的なので、あまり高価なものは狙いません。
無造作に尻ポケットにつっこんでる軍手とか、だいぶ使いこんでる手袋とかを見定めて落とさせます。

あと多いのは赤ちゃん関係。
子育てしてる人ならわかると思いますが、だっこされてる子やベビーカーに乗ってる子っていろんなもの落としますよね。手袋や靴下とか、ひどいときには靴まで落とす。あれは私たちが乳幼児を重点的に狙っているからです。
あれは落とし物に注意というより「赤ちゃんのことをちゃんと見てあげてね」というメッセージです。
赤ちゃんって目を離してるとすぐにベビーカーから身を乗りだしたり、へんなものを口に入れたりしますよね。だから、ちょくちょく見てくださいねって思いを込めて靴下を脱がして地面に置いてます。

仕事はまあそれなりにやりがいはあります。成果は感じやすいですし。
この仕事はほんとに世の中に必要なのかって考えることもありますが、そんなことを言ったらたいていの仕事がそうだと思うので、とりたてて不満に思うこともありません。
給料は地方公務員としてはごくごく標準的な水準だと思います。他人に話してはいけないことについても、機密保持手当がつくのでストレスに感じたことはありません。

さて、これまでこの仕事のことを誰かに漏らしたことのなかった私がなぜインターネット上で軍手剥ぎ師について書いているのか。
それは、私たちの仕事が奪われようとしているからです。

きっかけは昨年市長が変わったことでした。市長は公務員の大幅コストカットを選挙公約に掲げており、じっさいにいくつかの事業を民営化しようと乗りだしました。市バスや清掃事業など。軍手剥ぎ事業もそのひとつでした。

たしかに軍手剥ぎは利益を上げていません。お金の面で見たら、無駄といえるかもしれません。
ですが、だからこそ公的機関がやるべきなのではないでしょうか。
市長の案では民間の軍手剥ぎ業者に委託し、ゆくゆくは軍手剥ぎそのものをなくそうとしています。

しかし先ほども申しましたように、軍手剥ぎは利益を上げません。剥いだ手袋を転売してしまっては窃盗になりますので、私たちには落とさせることしかできません。
軍手剥ぎ事業に参入してくる業者は当然ながら助成金が目的です。それ自体が悪いことではありませんが、民間業者である以上コストを抑えることになり、それはつまり軍手剥ぎの質の低下につながることは目に見えています。

軍手剥ぎ事業を民営化させることは、短期的には予算削減につながるでしょう。しかしそれは市民の注意力低下につながります。遺失物が増え、市民の財産は減り、警察の労力は増えます。乳幼児の事故も増えることでしょう。長期的には大きな損失となるのです。

どうかみなさまには軍手剥ぎの実態について知っていただき、公共事業としての存続を訴えたいと思い、こうして筆を執った次第です。
どうかご理解いただきますようお願いいたします。