2019年3月27日水曜日

【読書感想文】晴れやかな心中 / 永井 龍男『青梅雨』

青梅雨

永井 龍男

内容(Amazonより)
一家心中を決意した家族の間に通い合うやさしさを描いた表題作など、人生の断面を彫琢を極めた文章で鮮やかに捉えた珠玉の13編。

日常のスケッチのような短篇集。
いわゆる名文なんだろうけど、個人的にはこういう「何も起こらない小説」は楽しめないんだよなあ。志賀直哉なんかもそうだったけど。

ただ、葬儀にまぎれこんだ狂人(自分ではまともで「他の人」が狂っているとおもっている)の心境をスケッチした『私の眼』、
そして同じ場面を「他の人」の視点で描いた『快晴』はぞくぞくしておもしろかった。
この男、見ず知らずの人の葬式に参列して、香典袋に靴べらを入れて渡す。あからさまな「おかしい」ではなく、当人にとってはまっとうな理由がありそうな狂気なのがいい。
読んでいて、狂気と正常のボーダーラインがゆらいでくる。


一家心中当夜の家族の落ち着いたたたずまいを描いた 『青梅雨』もよかった。
心中を前にしている家族の立ち居振る舞いは、むしろ晴れやかで楽しそうですらある。

心中って経験したことないけど(たいていの人はないだろう)、案外こんなもんかもしれないなあ。
ひとりで自殺するよりも、気楽で悲愴感はないのかもしれない。
先生に怒られてひとりだけ教室に居残りさせられるのはつらいけど、ふたりで居残りさせられるときはちょっと楽しいもんね。妙な親近感がわいて。そんな感じなんじゃないかな。

末井昭という人が「おかあさんがダイナマイト心中した」ことを書いてるけど、申し訳ないけど、もう笑っちゃうもんね。ダイナマイト心中ってちょっと楽しそうな感じするもん。

太宰治なんかあれもう心中をどっか楽しんでるようなとこあるしね。
過激派が自爆テロなんてのも、あれはやっぱり誰かと一緒に死ぬからこそできるんだろうね。
みんな心の奥底に「ひとりで死にたくない」って思いがあって、それが心中や自爆テロがなくならない理由なのかもしれない。


【関連記事】

【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』



 その他の読書感想文はこちら


2019年3月26日火曜日

軍手を剥ぎたいんです


私は軍手剥ぎ師です。
軍手を剥ぐのが仕事。といってもわかってもらえないかもしれませんが、ほら、道端に軍手が落ちてるのを目にしたことがあるでしょ。あれが私たちの業績です。


といっても剥ぐのは軍手だけじゃありません。
赤ちゃんの靴下とか、酔っ払いの靴とか、マフラー、ストール、キーホルダーその他さまざまな衣類やアクセサリーをこっそり抜き取って地面に捨てています。

ちょっと特殊な仕事と思うかもしれませんが、立場上は地方公務員です。共済年金にも加入してます。
特定を防ぐためにどの都市かは書きませんが、地方中核都市とだけ言っておきます。

この仕事のことは口外してはいけないことになっているので、家族以外には話したがありません。他人には「市の清掃局の仕事」って言ってます。まあ管轄は清掃局だから嘘じゃないんですが。

軍手や靴下を地面にばらまく理由は、注意喚起です。
財布とか携帯電話とか大事なものを落とさないように、さほど重要じゃなさそうなものを選んで地面に落とします。実際これを導入してから貴重品の遺失物が減ったと聞くのでちゃんと効果はあるらしいです。

あとは若干ですが景気拡大にも効果があるそうです。手袋落としたら買い替えてくれるので。ですから金融政策の一環でもあります。不況のときは少しだけ落とさせる量が増えます。
とはいえ最大の目的はやっぱり注意喚起です。
「私たちの本分は注意喚起です。それを忘れないように」と研修のときにしつこく聞かされました。

注意喚起が目的なので、あまり高価なものは狙いません。
無造作に尻ポケットにつっこんでる軍手とか、だいぶ使いこんでる手袋とかを見定めて落とさせます。

あと多いのは赤ちゃん関係。
子育てしてる人ならわかると思いますが、だっこされてる子やベビーカーに乗ってる子っていろんなもの落としますよね。手袋や靴下とか、ひどいときには靴まで落とす。あれは私たちが乳幼児を重点的に狙っているからです。
あれは落とし物に注意というより「赤ちゃんのことをちゃんと見てあげてね」というメッセージです。
赤ちゃんって目を離してるとすぐにベビーカーから身を乗りだしたり、へんなものを口に入れたりしますよね。だから、ちょくちょく見てくださいねって思いを込めて靴下を脱がして地面に置いてます。

仕事はまあそれなりにやりがいはあります。成果は感じやすいですし。
この仕事はほんとに世の中に必要なのかって考えることもありますが、そんなことを言ったらたいていの仕事がそうだと思うので、とりたてて不満に思うこともありません。
給料は地方公務員としてはごくごく標準的な水準だと思います。他人に話してはいけないことについても、機密保持手当がつくのでストレスに感じたことはありません。

さて、これまでこの仕事のことを誰かに漏らしたことのなかった私がなぜインターネット上で軍手剥ぎ師について書いているのか。
それは、私たちの仕事が奪われようとしているからです。

きっかけは昨年市長が変わったことでした。市長は公務員の大幅コストカットを選挙公約に掲げており、じっさいにいくつかの事業を民営化しようと乗りだしました。市バスや清掃事業など。軍手剥ぎ事業もそのひとつでした。

たしかに軍手剥ぎは利益を上げていません。お金の面で見たら、無駄といえるかもしれません。
ですが、だからこそ公的機関がやるべきなのではないでしょうか。
市長の案では民間の軍手剥ぎ業者に委託し、ゆくゆくは軍手剥ぎそのものをなくそうとしています。

しかし先ほども申しましたように、軍手剥ぎは利益を上げません。剥いだ手袋を転売してしまっては窃盗になりますので、私たちには落とさせることしかできません。
軍手剥ぎ事業に参入してくる業者は当然ながら助成金が目的です。それ自体が悪いことではありませんが、民間業者である以上コストを抑えることになり、それはつまり軍手剥ぎの質の低下につながることは目に見えています。

軍手剥ぎ事業を民営化させることは、短期的には予算削減につながるでしょう。しかしそれは市民の注意力低下につながります。遺失物が増え、市民の財産は減り、警察の労力は増えます。乳幼児の事故も増えることでしょう。長期的には大きな損失となるのです。

どうかみなさまには軍手剥ぎの実態について知っていただき、公共事業としての存続を訴えたいと思い、こうして筆を執った次第です。
どうかご理解いただきますようお願いいたします。

2019年3月25日月曜日

【読書感想文】イケメンがいちばんいい / 越智 啓太『美人の正体』

美人の正体

外見的魅力をめぐる心理学

越智 啓太

内容(e-honより)
なぜ美人は一人勝ちといわれるのか?納得の定説から予想を超える新事実まで、最新の研究成果に基づいたネタ満載。美人が大好きな人、美しくなりたい人の知的好奇心を鮮やかに刺激する!

人はどれぐらい美人/イケメンを好きなのか。
そもそも美人/イケメンとはどういう顔なのか。
なぜ美人/イケメンが好かれるのか。
美人/イケメンはどれぐらい得をするのか。
逆に美人/イケメンが損をすることはあるのか。

……などなど、とにかく顔の良し悪しに関する研究ばかりを集めて紹介している本。

とにかくいろんな研究のいいとこどり、悪くいえば寄せ集めという感じで、著者の主張はほとんどない。
が、個人的にはこのほうが信頼がおけて好きだ。べつに著者の個人的主張はなくてもいい。

橘玲『言ってはいけない』もいろんな研究を紹介する本だけど、あれはちょっと著者のつけたし(という名の暴走)が過ぎるからなあ。



見た目のいい人のほうがモテるのはもちろんだが、学問の面においても高い知能を持っていると期待されるそうだ。

そういや前の職場に清楚な感じのすごい美人がいて、しゃべってみたらぜんぜん物事を知らないし計算もできないしだらしないので驚いたことがある。
あれは、ぼくが勝手に「この人は顔が整っているから頭も良くて性格もきっちりしているにちがいない」と思いこんでいたせいなんだろうな。

そんなふうに勝手に期待されて失望されることもあるが、期待されることはプラスにはたらくことが多いようだ。
 ローゼンソールらはある小学校で、知能検査を行いました。そして、担当の先生に「この知能検査は、今後その子どもがどのくらい伸びるかをテストするものなのです」と信じさせて、今後伸びる可能性のある子どもとして何人かの子どもの名前を示しました。その8か月後にもう一度知能検査を行ったところ、実際にそれらの子どもたちの知能が伸びていることがわかったのです。この実験の面白いところは、じつは先生に示された「伸びる子ども」のリストは単に、ランダムに選ばれた生徒にすぎなかったことです。つまり、「この子どもは伸びる」と先生が信じたことにより、実際にそれらの子どもたちの知能が伸びてしまったのです。
 このように、先生の期待が現実化してしまう効果が存在すると仮定すると、美人だったりハンサムだったりする子どもは先生から期待され、実際に成績が良くなってしまう可能性があります。また、このような効果が自己拡大していく可能性について言及している研究者も少なくありません。つまり、魅力的 → 先生から期待される → 勉強を頑張る → 実際に成績が良くなる → さらに先生から期待される → さらに頑張るという良い方向のスパイラルが形成されるというわけです。これは逆の場合、恐ろしいスパイラルとなります。つまり、魅力的でない → 先生から期待されない → 勉強を頑張らない → 成績が低下する → さらに期待は低くなる → さらに成績が低下するという流れです。

期待されることで、それに応えようとしてじっさいに成績が良くなる。
つまり見た目のいい子はそうでない子よりも勉強もスポーツもできるようになる(傾向がある)わけで、見た目の悪い子にとってはなんとも救いようのない話だ。

「美人は性格が悪い」という通説もあるが、現実には美人は(特に異性からは)性格も良いとおもわれるらしい。

また、自信がつくことで明るく社交的になりやすいわけで、生まれついて魅力的な人はどんどん魅力的になり、そうでない人はどんどん卑屈になってしまう。

いい顔に生まれるかどうかで、恋愛以外の面でもまったく異なる人生を歩むことになるのだ。

改めておもうけど、ぼくもイケメンに生まれたかったぜ。



ただし、男の場合は「見た目がいい」が必ずしもモテるにはつながるわけではないという。
 じつはこのような「男らしい男」を選択する場合にはいくつかのリスクもあるのです。一つは、このような男性は生殖力が強いため、自分の遺伝子を最大限残すために、一人の女性との間で家庭を作って、そこで少数の子どもを作り育てるというよりは、多くの女性と短期的な関係を築くという方略のほうが有利になる可能性があります。つまり、「やりにげ」方略、子どもの養育には投資を行わないという方略をとりやすくなるのです。女性から見るとつまり「男らしい男」は、生殖力があるが「やりにげ」される可能性があるちょっと危険な存在ということになります。
 このような危険な存在をあえて選択するということも可能ですが、危険を避けて長期的な関係を築くためには、「女性らしさを持っている男性」を選ぶのもいい選択かもしれません。この場合、それほど「モテる」要素を持っているわけではないし、女性的な特性を持っている可能性があるので、「やりにげ」されずに、じっくりと自分の子どもの養育に投資を行ってくれるかもしれません。

マッチョな男、かっこいい男は一夜限りのアバンチュールの対象としてはモテるが、長期的な恋愛・結婚の対象としては必ずしもそうとはかぎらないようだ。

女性の場合、「やりにげ」されることのコストが大きいため(妊娠・出産したらひとりで子育てをしなくてはならない)、好みが多様化する傾向にあるようだ。
相手を選ぶうえで「浮気をしなさそう」ということも重要なファクターとなるため、「浮気をしなさそう」≒「モテなさそう」な男が選ばれることもめずらしくない。

たしかに「美女と野獣」の組み合わせはときどき見るが、その逆は少ない。

これはわれわれかっこよくない男性には朗報だ。



顔の好みの話。
この図を見てみると、同性の人物の場合には、自分に類似した顔が選ばれやすかったのに、異性の場合にはそのような傾向はあまり見られないということがわかります。これが、おそらく我々に備わった近親交配回避のためのメカニズムだと思われます。
 同性の場合には2人の間に子どもを作ることはなく、好意を持つということは、相手を援助することなどと関連するので、単純に血縁関係が大きい相手を選好するほうが、結果的に自分の遺伝子を多く後世に残すことができます。相手の遺伝子と自分の遺伝子に共通するものが多いほど、相手を助けてその生殖を支援することが結果的に自分と同じ遺伝子をより多く後世に残すことにつながるからです。そのために似ている個体であればあるほど好感を持ったほうが、より適応的だと考えられます。
同性であれば自分と似た顔に好感を持つ、異性に関してはそのような傾向はあまり見られない。
遺伝子を残すためには親戚は助けあったほうがいいけど、親戚には恋愛感情を抱かないほうがいいから。
なるほどね、よくできている。

そういや特に女の人にいえることだけど、似た感じの人でつるんでいる印象がある。
同じぐらいのかわいさ、同じようなメイクの人が友だちになっている。美人とブスの友情はめずらしい。
あれはこういう理由もあるのかもしれないね。



当然ながら見た目がいい人のほうが得をすることが多いんだけど、この本の最後には「美人ならではの苦労」も書かれている。

遊び目的の男に声をかけられる、不当に高い期待をされる、同性から妬まれる、など。

娘が生まれたとき、ぼくは「あまり美人すぎないほうがいいな」と願った。
美人は美人で苦労するだろうし、悪い男に目をつけられて道を踏みはずしやすそうだし、親としては心配が多そうだから。
幸か不幸か、ぼくに似て、今のところは美人ではなさそうだ(もちろん親としてはかわいいけど)。

幼なじみの美人だった子を見ても、あんまり幸福そうには見えないんだよなあ(やけに独身率が高いし)。
美人もあんまりいいことないのかもしれない。ブスよりはマシだろうけど。

「見た目がいい男」がいちばん得かもしれないな。
モテるし、優秀そうに見られるし、あまり妬まれないし(男もイケメンが好きだ)。

「美人ならではの苦労」は聞くけど、「イケメンならではの苦労」なんてぜんぜん聞かないもんなあ。

【関連記事】

【読書感想】カレー沢 薫 『ブスの本懐』

値打ちこく

【読書感想文】おもしろすぎるので警戒が必要な本 / 橘 玲『もっと言ってはいけない』



 その他の読書感想文はこちら


2019年3月22日金曜日

ラサール石井さんに教えてもらえ!


もう十年以上前、何の番組だったかも忘れたが、テレビで教育についての番組をやっていた。

「子どもたちに大人気の先生」のVTRが流れた。
小学校の教師で、ダジャレを言ったり、変な顔をしたりして、授業中は爆笑の連続。
子どもたちから大人気、そのクラスは学級崩壊とは無縁。勉強嫌いの子どももちゃんと授業を聞くと評判になって、今では他の学校からも多くの教師が視察に来る……。
という内容のVTRだった。

それを見ていた芸能人たちが口々に言う。
「すごくいい先生」
「こんな先生の授業を受けたかった」
「みんながこんな授業をやってくれたらいいのに」

そんな中、スタジオにいたラサール石井氏がこんなことを口にした。
「あのクラスの子どもたちが好きになってるのは勉強のおもしろさじゃなくて先生のおもしろさだと思う。先生の仕事は笑わせることじゃなくて勉強のおもしろさを伝えることだ」

するとその場にいた芸能人たちが言った。
「ふつうは勉強なんて好きにならないよ」
「勉強はおもしろくないけどやらなきゃいけない。だから子どもたちを授業に集中させるだけでいいじゃない」

ラサール石井氏は反論した。
「いやそんなことはない。勉強は本来おもしろいものだ」

すると誰かが言った。
「ラサールさんは勉強ができるからね」

それでその話は終わりになった。

ラサール石井氏の悔しさが、ぼくにも理解できた。



何も言い返さなかったラサール石井氏に代わってぼくが言ってやりたい(言ったのかもしれないけど少なくとも放送はされなかった)。

そうだよ、勉強できるからだよ! だから知ってるんだよ!

勉強できるようにさせたいなら勉強できる人の言うことを聞け! ラサール石井さんに頭を下げて教えを乞え!

おまえは英会話を学ぶときに「英語をまったく話せない人がおすすめする教材」を選ぶのか!
「勉強嫌いの子が選ぶ、いい授業をする先生」なんてそれと同じだぞ!



ぼくは、ラサール石井氏の意見に全面的に賛同する。勉強は楽しい。

ぼくも勉強がよくできた。授業についていけないという経験をしたことがない。
だから「勉強ができる人はそうでしょうけど」と言われたら少したじろいでしまうけど、それでもきっぱりと言いたい。勉強は楽しい、と。

たしかに、勉強ができるから勉強を楽しめるのかもしれない。だが逆もまた言える。勉強を楽しいと思うから、勉強ができるのだ。
サッカーが上手な子がサッカーを好きになり、サッカーを好きな子がサッカーの練習をして上手になるように。


小さい子どもほぼ例外なく身体を動かすのが好きだ。隙あらば外で走りまわろうとする。
運動が得意とか苦手とか関係ない。外でおにごっこしようというとみんな大喜びする。

それが成長するにつれ運動嫌いになってゆくのは、やりたくもない動きを強制されたり、できないことをバカにされたりするからだ。
「体育の授業は嫌いだったけど、身体を動かすのは好き」という人は多いはずだ。

勉強もそれと同じだ。
やりたくないことをやらされたり、できないことを笑われたりするから嫌いになるのであって、勉強は本来楽しいものだ。

わからなかったことがわかるようになる。こんな楽しいことがあるだろうか?



もちろん、「勉強が楽しい」というのと「学校の勉強が楽しい」のはまた別だ。

恐竜の名前を覚えたり、新幹線についていろんなことを知っていたり、アイドルについて詳しかったり、自分の興味のあることには興味を見いだせても、学校の勉強に魅力を感じない人は多いだろう。

でもそれは、勉強の先にある世界を知らないからだ。
ぼくは九九が嫌いだった。なんでこんなの覚えなくちゃいけないんだ、と思っていた。でもやらないといけないから嫌々覚えた。

高校数学は楽しかった。確率や数列の問題を解くのは楽しかった。解法を覚えるたびに世界の見え方が広がる気がした。
もしも小学生のとき、九九を覚えるのがめんどくさいといって算数を学ぶことを投げ出していたら、この境地にはたどりつけなかっただろう。


学んだことではじめて見えてくる世界というのが存在する。
うちの娘にカタカナを教えようとしたとき、「ひらがなが読めるんだからもういいやん」と言われた。

大人なら誰しも「カタカナの読み書きができなくても何も困らないよ」とは思わない。
それは、カタカナが読める世界を知っているからだ。でもカタカナを学ぶ前の子どもにとっては、カタカナを学ぶことに価値は見いだせないのだ。

井戸から出たことのない蛙には、井戸の外がどうなっているのかわからない。
出てみてはじめて、周りにたくさんの池や沼やべつの井戸があることがわかる。

今では娘もカタカナを読める。もう「カタカナなんかいらないよ」とは言わない。カタカナが読める世界の楽しさを知ったから。

「学ぶことで世界が広がる」という経験をたくさんすることで、学ぶことが楽しいことに気がつく。
学校の勉強というのはそれに気がつくための練習だ。社会に出てから古文が何の役にも立たなくてもいい。古文の学習を通して「学ぶことで世界が広がる」という経験をしたのなら、十分すぎるほどの成果は出ている。



教育者の仕事は、「学んだら新しい世界が見えた」経験をたくさんさせることだ。
「学んだらご褒美をあげましょう」「学ばないと叩くぞ」といって無理やり学ばせることではない。
目的は井戸を登らせることではなく、「アメもムチもなくても自分で登りたくなる」ようにさせること。

学んだからといって必ず世界が広がるわけではない。
学んだものの新しいものは何もなかった、ということもよくある。しかしそれだって学んでみるまでわからない。

失敗しても、成功体験を多く持っていればまたチャレンジできる。
本好きはつまらない本をたくさん読む。映画ファンはくそつまらない映画をたくさん観る。数多くの駄作に触れないといい作品に出会えないことを知っているから。


教師がダジャレや顔芸で子どもの注意を惹きつけること自体は悪いことではない。
しかし問題はその後、どうやって学習のおもしろさを伝えることだ。笑わせることが目的化してはいけない。

ってことが言いたかったんですよね、ラサール石井さん!

え? ぜんぜんちがう? あっ、そうですか。すんません。

【関連記事】

【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

2019年3月20日水曜日

【読書感想文】「人とはちがう特別な私」のための小説 / 村田 沙耶香『コンビニ人間』

コンビニ人間

村田 沙耶香

内容(e-honより)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて…。現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。

聞くところによると、太宰治を好きな人は「太宰のこの気持ちを理解できるのは自分だけだろう」とおもうものらしい(ぼくはまったく感じなかったけど)。

「生きづらさ」を抱えている人の気持ちを的確に表現したのが太宰の魅力で、けれどそれは「自分では特別なものだとおもっているけれどわりと普遍的なもの」であって、だからこそ太宰は今も一定数の支持を集めている。

穂村弘氏のエッセイにも同じものを感じる。
そして、この『コンビニ人間』も同じ系統の小説だ。

多くの人が「自分だけが特別に苦しんでいる」とおもっていること(つまりほんとは特別でもなんでもない)を『コンビニ人間』は見事に作品化している。
「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いてるよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」
「なんで? せっかく死んでるのに」
 私の疑問に、母は絶句した。
 私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。父は焼き鳥が好きだし、私と妹は唐揚げが大好きだ。公園にはいっぱいいるからたくさんとってかえればいいのに、何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
 母は懸命に、「いい、小鳥さんは小さくて、かわいいでしょう? あっちでお墓を作って、皆でお花をお供えしてあげようね」と言い、結局その通りになったが、私には理解できなかった。皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。
ここまで人の気持ちがわからない人はめずらしいにしても、「人が悲しんでいるところで悲しめない」とか「自分にとってはあたりまえの疑問を口にしただけなのに非常識だと言われる」なんて経験は、多かれ少なかれ誰しも持っているだろう。

ぼくはおじいちゃんやおばあちゃんが死んだとき、ちっとも悲しくなかった。「そうか、もう会えないのか」とおもいつつも「まあ順番的には当然そうなるよね」というぐらい。
自分が中学二年生のときに三年生が卒業してもちっとも悲しくないのと同じだった。

ぼくの母は、花を飾ったり植えたりする人の気持ちがまったく理解できないといっていた。
でも植物を育てることは好きでサツマイモとかゴーヤとかの食べられる植物は育てている。
花を美しいと感じない、ただそれだけ。

そんなふうに、みんな「あたりまえの常識」とはちょっとずつちがう価値観を持っていきている。
その「ちょっとちがう部分」を『コンビニ人間』は巧みにくすぐってくれる。



 いつまでも就職をしないで、執拗といっていいほど同じ店でアルバイトをし続ける私に、家族はだんだんと不安になったようだが、そのころにはもう手遅れになっていた。
 なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。
マニュアルに従うことの心地よさ、というのは少しわかる。

学生時代、家族経営のお好み焼き屋でアルバイトをした。ずっとなじむことができず、三ヶ月でやめてしまった。
「自分で考えて動け」と言われ、自分がこうだとおもう行動をとると「勝手なことをするな」と言われた。店の人は勤務中は厳しいのに、仕事が終わると妙になれなれしく「お父さんはどんな人なの」「慣れない一人暮らしで困ってることない?」と話しかけてきた。たぶんアルバイトのことも「家族同然」におもいたかったのだろう。ぼくにはそれが耐えられないぐらい居心地が悪かった。

その後でアルバイトをしたレンタルビデオ屋は、行動がすべてマニュアルで決まっていた。
返却作業、レジ、清掃、入荷や返品の処理。ひとつひとつにルールがあり、水曜日の20時になったらこれをする、と決まっていた。
マニュアルをおぼえるのはたいへんだったが、おぼえてしまうとすごくやりやすかった。
そして新たな発見があった。マニュアルに従ってやると、ふだんならできないこともできてしまうということだ。

お好み焼き屋でバイトをしていたときは「いらっしゃいませー!」と大きな声を出すのが恥ずかしかった。それはぼくがぼくだったから。
でもレンタルビデオ屋でマニュアルに沿って動いているときは「いらっしゃいませー!」がスムーズに言えた。気に入らない客にも笑顔で「ありがとうございました!」と頭を下げることもできた。自分ではない、"店員"という役になりきっていたからだろう。

ふだんは引っ込み思案な北島マヤがガラスの仮面をかぶることでどんな人物にもなれるように、マニュアルにしたがって行動することで店員らしいふるまいが自然とできるようになるのだ。
衣装を着てメイクをしたほうが役に入りやすいように、マニュアルがあったほうが店員になりやすい。
マニュアル通りの接客は人間の心が感じられないなどというが、むしろ心(みんなと同じ心)を持たない人に心を持たせてくれる装置がマニュアルなんじゃないだろうか。

社会の歯車になんかなりたくねえよ、という人もいるが、社会という機構のパーツとなることがむしろ心地いいひともいるのだ。
むしろそっちのほうが多数派なのかもしれない。



へそまがりなので話題になった本はあまり読まないのだけれど、『コンビニ人間』はすごく評判がよかったので読んでみた。


うん、おもしろい。
自分とはぜんぜんちがう人間なのに、ふしぎと共感できる。

「人とちがう特別な私」のための居場所をつくってくれるような小説だ。
この小説が芥川賞を受賞して売れている、ということこそが「人とちがう特別な私」は特別でもなんでもない、という証左なんだけどね。

「人とはちがう特別な私」であるぼくも、やっぱり共感した。
自分を特別扱いしたままで居場所を提供してもらえるんだから、こんな気持ちのいいことはない。


【関連記事】

自殺者の遺書のような私小説/ツチヤタカユキ 『笑いのカイブツ』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら