2019年1月29日火曜日

【読書感想文】そう、"まだ"なだけ / 『吾輩は童貞(まだ)である』

吾輩は童貞(まだ)である

童貞について作家の語ること

筒井康隆 平山夢明 中島らも 原田宗典 武者小路実篤 谷川俊太郎 森鴎外 小谷野敦 室生犀星 中谷孝雄 結城昌治 開高健 車谷長吉 穂村弘 しんくわ 寺井龍哉 みうらじゅん 横尾忠則 澁澤龍彦 三島由紀夫 川端康成 バカリズムのオールナイトニッポンGOLD

収録作品
・筒井康隆 「現代語裏辞典」
・平山夢明 「どんな女のオッパイでも、好きな時に好きなだけ自由に揉む方法」
・中島らも 「性の地動説」
・原田宗典 「夜を走るエッチ約一名」
・武者小路実篤 「お目出たき人(抄)」
・谷川俊太郎 「なんでもおまんこ」
・森鴎外 「青年(抄)」
・小谷野敦 「童貞放浪記」
・室生犀星 「童貞」
・中谷孝雄 「学生騒動」
・結城昌治 「童貞」
・開高健 「耳の物語(抄)」
・車谷長吉 「贋世捨人(抄)」
・穂村弘 「運命の分岐点」
・しんくわ 短歌
・寺井龍哉 短歌
・みうらじゅん 「東京アパートメントブルース」
・横尾忠則 「コブナ少年(抄)」
・澁澤龍彦 「体験嫌い」
・三島由紀夫 「童貞は一刻も早く捨てろ」
・川端康成 「月」
・バカリズムのオールナイトニッポンGOLD 「エロリズム論」

武者小路実篤、森鴎外、三島由紀夫、川端康成などの文豪から童貞界の大家であるみうらじゅんまで、さまざまな人たちが「童貞の思い」について書いた文章を集めたアンソロジー。
なかなか読みごたえがあった。どんな文豪においても「童貞卒業」というのは男の一生において避けては通れないメインイベントなのだ。
いいアンソロジーだ(しかし編者の名前がないのはなぜ?)。



まずこのタイトル『吾輩は童貞(まだ)である』についてだが、実にいいタイトルだ。童貞と書いて"まだ"と読ませるのはすごく優しい。
そう、「まだ」なだけなんだよね。だけど童貞にとっては童貞と非童貞の間にはマリワナ海溝より深い断絶がある。童貞にとっては、「一線」を超えた先にはめくるめく夢の世界が広がっているような気がするのだ。

このごろは聞かなくなったがぼくが子どものころは、知的障害児のことを「知恵遅れ」と言っていた。
今だと差別用語なのかもしれないが、「知恵遅れ」には「差はあるが決定的な断絶があるわけではない」というような寛容さを感じる。乳歯が抜けるのが遅い子や声変りが遅い子がいるように、違いはあれど彼我は地続きになってるというニュアンスを感じる。
「健常者」「障害者」と分けてしまうと、もうまったくべつの人間、という感じがしてしまう。当事者がどう思うかは知らないけど。

「童貞(まだ)」にも同じような寛容さを感じる。



中島らも『性の地動説』より。
そして、そこには今まで僕たちが見聞きしていた「肉体関係を結ぶ」だの「体を合わせる」だの「抱く」だの「寝る」だのの文学的抽象的表現はなくて、「陰茎を膣に挿入する」ということがはっきりと書かれていた。子供たちはみんな一様にショックを受けたようだった。一瞬の沈黙が通り過ぎたあとに、けんけんごうどうの大論議が始まった。まず最初に出た意見は、「これは嘘だ」というものだった。たとえば小説や映画の中では忍術や魔法やSFなどに超常的現象がたくさん出てくるが、現実にはそんなことは起こらない。それと同じで、この石原慎太郎の書いていることは、想像力が生みだした小説上のフィクションだという説である。なぜならば、そんなえげつないことを人間がするわけがない。おしっこをするところにそんなものがはいるわけがない。そんなことをしたら相手の女の人は血が出て死んでしまうにちがいない、というのである。この意見には多くの子がうなずいた。一人、中世の地動説に近いような説を持ち込んだ松野君はたいへんな苦況に立たされたのである。必死になって論厳しようとするのだが、いかんせん松野君が握っている証拠はこの石原慎太郎の本一冊だけである。自説を証明するには決定的にデータが欠けているのだった。
ぼくも小学四年生のときに同じような論争をしたことがある。
なぜか男女数人で話しているときに「セックスって知ってるか?」という話になったのだ。その場にいた誰もが、セックスに関する正確な知識を持ちあわせていなかった(知らないふりをしていただけかもしれないが)。

そこで我々が出した知識は
「男と女が重なるらしい」「すっぽんぽんでやることらしい」「エックスの字に交わるそうだ」
というものだった。
”エックスの字” に関しては完全なるデマだが、たぶん ”セックス” という音に引っ張られたガセネタなのだろう。

そして、「そんなことして何がおもしろいんだ?」と口々に言いつつ、ぼくの内心には「何がおもしろいのかはわからんがやってみたい」という思いが湧いてきていたのだった。
その気持ちはそれ以後もずっとぼくの中にある。父親となった今でも、何がおもしろいのかわからない。でもやってみたい。



三島由紀夫は『童貞は一刻も早く捨てろ』の中でこう書いている。
 そもそも男の人生にとって大きな悲劇は、女性というものを誤解することである。童貞を早く捨てれば捨てるほど、女性というものに関する誤解から、それだけ早く目ざめることができる。男にとってはこれが人生観の確立の第一歩であって、これをなおざりにして作られた人生観は、後年まで大きなユガミを残すのであります。
この意見にはぼくは反対だ。
たしかに童貞は女性というものを誤解している。だが童貞を卒業したからといって女性が理解できるようにはならない。

はじめてセックスをした男は「この程度のもんか」と思う。
しかし、そこから「この程度のものに人生の多くを費やすのはもったいない」と思う男はそう多くない。
「この程度のものならもったいをつけずにどんどんやればいい」と思う。または「今回はこの程度だったがどこかにもっとすばらしいセックスが待っているのではないか」と夢見る。
童貞の誤解から解けても、男は一生勘違いをしつづける生き物なのだ。

だから、いろんな作家が童貞について語るこの本を読んで「あーそうそう。こんな気持ちなんだよね」と思うけれども、「ほんと童貞のときってバカだったよなあ」と笑い飛ばすことができない。だって今も同じような気持ちを持ちつづけてるんだもん。

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2019年1月28日月曜日

【DVD鑑賞】『悪の教典』

『悪の教典』

(2012年)

内容(Amazon Prime Videoより)
「2010年ミステリーベスト10」、「このミステリーがすごい!2011」でともに第1位を獲得した貴志祐介原作『悪の教典』を、鬼才・三池崇史監督が映画化。高校教師・蓮実聖司は、自らの目的のためには、たとえ殺人でも厭わない。そして、いつしか周囲の人間を自由に操り、学校中を支配しつつあった。全てが順調に進んでいた矢先、小さな綻びから自らの失敗が露呈してしまう。それを隠滅するために考えた解決策は、クラスの生徒全員を惨殺することだった…。 『海猿』で人命救助の海上保安官を演じた伊藤英明が、他人への共感能力を全く持ち合わせていないサイコパスの人格を持つ高校教師・蓮実聖司を演じる。生徒役には『ヒミズ』で、ヴェネチア国際映画祭で日本人初となる新人俳優賞をW受賞した二階堂ふみと染谷将太。 

小説がおもしろかったので鑑賞。
やはり上下巻あるボリュームの小説を二時間の映画にするのは相当無理がある。数十人の登場人物がいる話だし。
ぼくは原作を読んでいたのでかろうじてついていけたが、そうでない人には何がなにやらわからないだろうな。
少なくともアメリカのエピソードなんかはカットでよかった。
また「屋上に避難するように」というアナウンスは入れながら、それが罠だという説明をしないのはあまりに不親切だ。表面だけ映像化しているからこういうことになる。


なにより残念なのが、後半の学校での大量殺戮シーン。
三文オペラの軽快な音楽に乗せて蓮見教師が生徒たちを次々に殺していくところはこの映画の最大の見どころだと思うし、じっさいよくできている。殺戮シーンにこういう表現が適当かどうかはわからないが、痛快で楽しかった。生徒たちが誰ひとり立ち向かおうとせずに逃げまどうだけなのはリアリティに欠けるが。

だがこのシーンだけを切り取れば名シーンといえなくもないが、残念ながらこの作品の中ではとんでもなく浮いてしまっている。
なぜなら、蓮見教師が「楽しんで」殺戮をくりかえしているように見えてしまうから。

原作小説を読んだ人ならわかると思うが、蓮見教師は快楽殺人者ではない。ただ単に他人に対する共感能力をまったくもたない人間(サイコパス)であり、彼にとって殺人は単なる手段であって快楽でもなければ苦役でもない。
我々が「客が来るから家を掃除しなきゃ。めんどくさいけど、でもどうせ掃除するなら好きな音楽でもかけながらやろう」と思うぐらいの感覚で、蓮見教師は殺人をする。

そこが彼のおそろしさであり魅力なのだから、ここは何がなんでも丁寧に描かなければならない。
楽しそうに見えてしまったら凡庸な快楽殺人者にしかならない。
他の些事には目をつむるが、この点のみが大いに残念。
主役・伊藤英明の演技は「共感能力からっぽのイケメン好青年」にぴったりですばらしかったけどね。

あっ、あとエンディングのEXILEはひどすぎて笑うしかなかった。いやEXILEが悪いわけじゃなくて、この映画に合わなさすぎて。
だって学校で数十人の生徒が惨殺されるという事件が起こった直後に流れる歌が
「もっとポジティヴになってLive your life♪」だよ? 笑わせようとしてるとしか思えない。

サイコパス・蓮見よりもこの映画の主題歌をEXILEにしようと思ったやつの考えのほうが怖いわ。

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2019年1月27日日曜日

トイレに間に合わなかったときの辞世の句


誰しも辞世の句を詠みたいと考えているけど、なかなかむずかしい。

人はいつ死ぬかわからないし、どんな死に方をするかわからない。
「暴漢に刺されて徐々に遠のいてゆく意識の中で一句」みたいなのが辞世の句を詠むシチュエーションとしては理想だけど、こんな死に方はむずかしい。

死ぬ間際だったらうまくしゃべれないだろうし、頭もはたらかない。
そもそも転落死や溺死や轢死だったら句を詠む時間すらないだろう(転落死ならぎりぎり時間はあるかもしれないけどたぶん誰も聞いてくれない)。

だからぼくらが辞世の句を詠むとしたら、それは「トイレに間に合わなかったとき」をおいて他にない。



便意を催したのにトイレに間に合わないというのは、社会的な死といってもいいぐらいの出来事だ。

おまけに死はいつどんな形で訪れるかわからないが、「トイレに間に合わない」は数十分前には予感として持っているし、間に合わなかったときに起こる悲劇もだいたい同じだ。

辞世の句を詠むのにふさわしいシチュエーションといっていいだろう。

だが、トイレをさがして焦っているときは、辞世の句を考えている余裕などない。
だから平常時から考えておかねばならない。



正直にいってしまうと、辞世の句の内容はなんでもいい。
どんな言葉であろうと絶望的な表情を浮かべながら悲しく口にすれば様になる。

むずかしく考える必要はない。
シンプルに「すまない……」とか「ありがとう……」というだけでも十分辞世の句だ。
マンガの台詞を使って「燃え尽きたぜ……真っ白にな……」とか「きれいな顔してんだろ」なんてのもなかなかいい。
さわやかに微笑んで「悪くない人生だったぜ……」というのも美しい。トイレに間に合わなかったということを一瞬忘れさせてくれる。

やはりシンプルなのがいちばんいい。
あまり凝った俳句調のものだと、「こいつ前々から考えてたな」と思われてかえって白々しくなる。おまけに「そんなの考える暇があるなら早めにトイレに行っておけよ」と思われて同情してもらえない。
「板垣死すとも自由は死せず」なんてちょっとかっこつけすぎだもんね。板垣は刺されたとき死んでないし。

ちなみにトイレに間に合わなかったときにもっともふさわしいとぼくが思うのは、ベートーヴェンの最期の言葉である「諸君。喝采を。喜劇は終った」だ。

2019年1月25日金曜日

【読書感想文】アヘン戦争時の中国みたいな日本 / 岡田 尊司『インターネット・ゲーム依存症』

インターネット・ゲーム依存症

岡田 尊司

内容(e-honより)
最新の画像解析により、衝撃的な事実が明らかになった―インターネット依存者の脳内で、覚醒剤依存者と同様の神経ネットワークの乱れが見られたのだ。二〇一三年、アメリカ精神医学会も診断基準に採用。国内推定患者数五百万人の脳を蝕む「現代の阿片」。日本の対策は遅れている。

少し結論ありきで論調が進んでいて、データとしては疑わしいものも多い。
「スマホ依存の人ほど脳の活動が鈍い」みたいな話が再三出てくるが、因果関係が逆なのかもしれないし。

とはいえスマホやゲームにどっぷりはまるのは良くない、ということについては異論がないだろう。
スマホにかぎらずなんでもやりすぎはよくないのだが、スマホゲームに関しては「場所や時間を問わず使える」「依存しやすいように作られている」という側面もあるため、とくにはまりやすいし、深刻化しやすい。

ぼくから見ると、電車のホームでスマホゲームをしながら歩いている人なんかはもう完全に暇つぶしの域を越えていて依存症としか思えない。
歩きスマホをするぐらい熱中するのを依存症の定義としたら、日本人の二割ぐらいは依存症じゃないだろうか。
阿片戦争直前の中国は男性の四分の一がアヘン中毒だったといわれているので、もうそれに近いぐらいのスマホ中毒者がいることになる。

だがアヘンとちがい、スマホやゲームへの依存は今の日本では大きな問題になっていない。
 行為の依存症として最初に認められたのは、ギャンブル依存症である。ギャンブル依存症の場合も、疾患として認められるまでには時日を要したが、社会がその弊害を認識していたことで、まだ抵抗は小さかった。ただし、病名はできても、本当の意味で病気」だという認識は薄かった。それを変えたのが、脳機能画像診断技術の進歩である。それによって、脳の機能に異常が起きていることが明らかとなり、今では治療すべき疾患という認識が確立されている。保険適用を受けることもできる。
 それに対して、インターネット依存やゲーム依存の場合には、気軽に楽しめる娯楽や便利なツールとしてのメリットの部分が大きく、教育や社会、文化に恩恵をもたらす希望的な側面がむしろ強調されてきた。「社会悪」とされるギャンブルや麻薬といったものとでは、そもそもその位置づけが大きく違っていたのである。それだけに、ギャンブルや麻薬依存と変わらない危険性をもつなどということは、なかなか受け入れられなかったのである。
スマホやオンラインゲームは麻薬や覚醒剤のように法に触れるものではないし、タバコのように周囲に迷惑をかけるものではない。
それが逆に、依存症という問題を認識しづらくさせてしまう。


ぼくが前いた会社に、オンラインゲームによく課金をしている人がいた。
どれぐらい課金しているのか訊いたことがある。その人が「多い月だと十五万ぐらいいっちゃいますね~」と笑いながら話すのを聞いて、ぼくを含めその場にいた人たちはドン引きしていた。

後で「あれはヤバいよね」「ゲーム廃人じゃん」「しかもあの人結婚してて子どももいるのに」とみんなでささやきあった。
大金持ちなら月に十五万課金したって屁でもないんだろうが、同じ会社にいるぐらいだから給料もだいたいわかる。どう考えたって課金しすぎだ。
しかも額の多寡はあれど、毎月課金しているという。

だが、誰も本人に「やめたほうがいいですよ」とは言わなかった。
いい大人が自分の意思でやっていることなのだから他人がとやかく言うべきではない。それは大人としては正しいふるまいかもしれないが、すごく不誠実な対応だったではないだろうか。本人に嫌われてでも、止めてあげるべきだったのかもしれない。
どう考えたって月に十五万の課金はやりすぎだ。娯楽やストレス発散といった段階を超えている。

しかし仮にぼくが「ぜったいやめたほうがいいですよ」と言ったって、おそらく彼は「そうですね」と受け流して課金を続けるか、「余計なお世話ですよ」と言ってぼくと距離をとるかのいずれかだっただろう。
 一時的な熱中とは異なるまず理解しておく必要があるのは、単なる過剰使用と依存症は、質的に異なるものだということだ。離脱症状や耐性といった現象は、心理的なレベルというよりも、生理的な現象であり、身体的なレベルの依存を示す証拠とされるものである。そのレベルに達すると、報酬系の機能が破綻することで、理性的なコントロールは不能に陥り、快楽や利得より苦痛や損失が大きくなっていても、その行為をやめられなくなる。
「一過性の熱中なら、悪い影響が出てくると、その行為にブレーキをかけるというフィードバックが働く。ところが、依存症が進んでくると、このフィードバックの仕組みが失われ、「もうダメだ」「現実は嫌なことばかりだ」「もうどうでもなれ」と、逆にアクセルを踏んで、現実逃避を加速させることも多い。これが、結果のフィードバックの消失である。使用するためなら家族を欺くことも辞さず、現実の課題は後回しにし、学業や職業、果ては自分の将来を棒に振ってさえ、痛痒を感じなくなる。ここまでくると、それはただ「はまっている」というレベルの状態ではなく、完全な病気の状態なのである。脳の報酬系の機能に異常が起きていて、もはや放っておいても元に戻らない状態に陥っているのだ。
もうこれは完全に病気だ。
もうやっても楽しくない、でもやらないと苦痛を感じる。そしてやれば確実に悪い方向に行くとわかっていながら突き進んでいくのだから、破滅願望に近い。

こういう状態に陥っている人は、相当いると思う。そしてこれからもどんどん増えていく。
個人の問題ではなく社会問題として、法律で「月額課金上限額を〇円までとする」とか定めないかぎりは、依存症患者は増えていく一方だろう。
だがはたして政治家にそれができるのかというと、まあ無理だろうな……。ゲームをさせることは(短期的な)カネになるもんな。
長期的に見たら国家の大きな損失になるのはまちがいないんだけどな。


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2019年1月24日木曜日

愛国者アピール


愛国者を名乗るやつは国を愛していないと思うんだよね。

「ぼく家族大好きなんですよ」とわざわざアピールするやつって浮気するじゃん。偏見だけど。でもだいたいあってると思う。

大学生がイキって「うわーまじバイト忙しいわーキツイわー」って言うときってたいしてキツイと思ってないじゃん。多少は思ってるかもしれないけど、それを「忙しいのにがんばってるオレすげー」が凌駕してるわけじゃん。

首元までどっぷりボートレースにハマってるおじさんは「おれギャンブル好きなんだよね」とは言わないじゃん。ほんとに好きな人にとっては好きとか意識しなくなるわけでしょ。
「ギャンブル好き」っていうのって、中学生でしょ。中学生が背伸びして「ヤバイ、おれ競馬好きすぎるわー」とか言っちゃうわけでしょ。

家族でも組織でも地域でもいいんだけど、自分がどっぷり浸かっているものに対して「好き」という感情を持つことがもうウソだと思うんだよね。

だから自称愛国者は国を好きではない。せいぜい「好きになりかかっているところ」ぐらい。それか「国を愛している自分が好き」か。

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