2018年10月4日木曜日

よいしょっ! はい元気な女の子!


赤子が産まれた。

産科病棟に入院中の妻から深夜0時に電話がかかってきた。
「もうすぐ産まれそう」とのこと。

出かける支度をする。
夜中に産気づいたときは、娘(五歳)は家に置いていくつもりだった。そのためお義母さんに家に来てもらっている。

だが、出かける前に迷いが生じた。
娘はずっと赤ちゃんが産まれるのを楽しみにしていた。自分のいないときに産まれたら悲しむだろうな。
しかし熟睡しているしな。連れていくのも面倒だな。明日は平日だしな。

葛藤しながらも、一応娘に小さく声をかける。
「赤ちゃん産まれそうなんだって。行く?」
寝ながらも聞こえていたらしい、娘は目をつぶったまま首を横に振った。

よし、これで「誘った」という事実は作れた。
後から娘が文句を言ってきても「誘ったけど行かないって言ったやんか」と言い張ることができる。

お義母さんによろしくお願いしますと伝えて靴を履いていると、娘の声がした。
「行く!」
ぎくりとして寝室を見にいく。目をつぶったままだ。寝言だろうか。
しばらく様子を見ていると、また目をつぶったまま「行く!」との声。

小さくため息をついた。しゃあない。寝言でも言うぐらい行きたがっているのに置いていくのはしのびない。腹を決めた。
「よし、行くぞ。トイレ行っとけ」
ぼくは娘を起こし、パジャマにカーディガンを羽織らせてタクシーに乗った。



深夜の病院。娘はテンションが高かった。
わかる。夜中に外出、パジャマのままお出かけ、タクシーで深夜のドライブ、夜なのに与えられたオレンジジュース。すべてが非日常。なんだか愉しい。ぼくもちょっとウキウキしている。

LDR(出産をする部屋)に入る。
ぼくひとりで来ると思っていた妻が驚いた顔で出迎える。
娘はますます昂奮し、LDRの中や病棟の廊下を歩きまわる。べつの部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえる。娘は意味なくぼくにしがみついたり、ぐびぐびオレンジジュースを飲んだり、わけのわからぬことを言ってけたけた笑ったり。
愉しそうだ。だが出産自体にはあまり興味がないようだ。LDR探索にもすぐに飽きて、「絵本読んで―」とせがんでくる。妻がいきんでいる横で、ぼくは娘にディズニープリンセスの絵本を読み聞かせる。



到着から一時間ほどで、ついに赤子が産まれた。
んぎゃあんぎゃあとか細くも力強い鳴き声を上げる。
胸をなでおろす。無事に産まれてよかった。元気そうでよかった。

娘に「ほら、産まれたよー」と声をかける。
が、娘は動かない。産まれた赤ちゃんのほうを見ようともしない。

顔を見る。怖がったりしている様子はない。表情はいつもと変わらない。
しかし赤ちゃんを見ようとしない。出産、胎盤摘出を終えたおかあさんに近寄ろうともしない。
さっきまでけたけた笑っていたのにぜんぜんしゃべらない。

どうやら相当ショックを受けたようだ。
まあ無理もない。
直接産まれるところを見ていないとはいえ、見ず知らずの医師や助産師がやってきておかあさんに何かするわ、おかあさんは今まで聞いたこともないような声で「いたーい!いたーい!」と叫んでいるわ、なのに横にいるおとうさんは止めようともせずにじっと座っているわ、産まれてきた赤ちゃんは紫色をしているわ(産道で締めつけられて)、血と緑色のうんこにまみれているわ、五歳児にとっては相当強烈な体験だったのだろう。
喜ぶんべきなのか、怖がるべきなのか、驚くべきなのか、どう対処していいかわからなかったんだと思う。

きっと娘は、赤ちゃんが産まれる瞬間について、ウミガメのおかあさんからポンポンと卵が出てくるぐらいのものをイメージしていたのだろう。
「んー、よいしょっ! はい元気な女の子!」ぐらいの感じで。で、出てきた子ははじめっからきれいなおべべを着ていて、おねえちゃんの顔を見てにこりとほほえむ。こんにちはあかちゃん、わたしが姉よ。
きっとそんなイメージを持っていた娘にとっては、ディズニー映画を観にいったつもりなのにR15のスプラッタホラーをやっていたぐらいの衝撃だったのだろう。



翌朝、娘に「昨日病院行ったのおぼえてる?」と訊いてみたら
「うん、おかあさんが痛いって言ってた」
とのこと。

んー、やっぱりそれがいちばんの印象かー。
まあこれもいい経験だろう。

とりあえずでっかいレバーの塊みたいな胎盤は見せなくてよかった。
たぶん一生忘れないぐらいのトラウマになっていただろうから。


2018年10月2日火曜日

【創作落語】金メダル


〇「ごめんよ」

△「どないしたんや。あわてて飛び込んできて」

〇「えらいもんとってもうた。金メダルや」

△「はぁ? 金メダルって、あの、オリンピックのかいな」

〇「そうそう、オリンピックの金メダル」

△「誰が」

〇「おれが」

△「おまえがオリンピックの金メダルを? 何をあほなこと言うとんねや」

〇「ほんまやねんて、ほら」

△「うわっ。これは、たしかに本物!……っぽいな。本物見たことないから知らんけど」

〇「でも重みがちゃうやろ」

△「うん、重い。少なくともおもちゃではなさそうやな」

〇「ほら、このケースに五輪のマークも書いてあるやろ」

△「おお、ほんまや。たしかに本物っぽいな。けど驚いたな、おまえとは長い付き合いやけど、まさかおまえが金メダルとれる実力の持ち主やとは思わんかった。何の競技でとったんや」

〇「それが……わからんねん」

△「はぁ? おまえがとったんやろが」

〇「そう、おれがとった」

△「ほな、わからんことがあるかい」

〇「それがほんまにわからんねん」

△「どういうことやねん」

〇「さっきのことや、新大阪の駅で急におなかが痛くなって、トイレをさがしてたんや」

△「何の話やねん」

〇「まあ聞けって。トイレをさがして走ってたら、横から出てきた男とぼーんとぶつかってふたりとも尻もちをついた。すまんと謝って、ぶつかったはずみに落とした鞄を拾った。ちょうどそのときトイレの案内を見つけたから、そっちに向かって走りだした。さっきぶつかった男が後ろから『ちょっと待て』と呼びとめる声が聞こえてくる。因縁でもつけようと思ってんのやろな。ふだんなら売られた喧嘩は買うところやが、トイレに行きたくて必死や。後ろも振りかえらずに全速力で走って、トイレに駆けこんだ。やれ一安心。ちょっとしか漏らさへんかった」

△「ちょっとは漏らしたんかいな。汚いやっちゃな」

〇「で、ふと見ると持っている鞄がおれのと違う。色も形もよく似てるけど、ちょっと違う。さっきぶつかったときに、とりちがえて相手の鞄を持ってきてしもうたんや」

△「だから呼びとめられたんやな」

〇「トイレを出て探したけど、さっきの男がおらん。あわててたからどんな顔やったかも覚えてへん。手掛かりでもないかいなあと鞄の中を開けてみたところ、入ってたのが金メダルや」

△「ええっ。それがこの金メダルかいな」

〇「そうや」

△「おまえさっき、おまえがとった金メダルやと言うとったがな」

〇「そう。おれがとった。正確には、おれがとった鞄の中に入ってた金メダルやな」

△「そういうことかい」

〇「まさか自分が金メダリストになるとは思わんかったわ」

△「いやいや、それは金メダリストとは言わへんやろ。金メダルぬすっとやで」

〇「とにかくメダルなくしたほうも困ってるやろから、返してやろうと思うねんけどな」

△「そらそうや。そう簡単にとれるもんやないんやから」

〇「しかしどこのどいつかわからんねん。金メダルに油性ペンで名前でも書いといてくれたらええのにな」

△「そんなもん書くかい。しかし金メダルとった人なんてそうたくさんおらへんやろ。限られてるで」

〇「金メダルとった人というたら……。マラソン選手のあの人とか」

△「いやいやそれはない」

〇「なんでや」

△「だっておまえに追いつかれへんかってんやろ。マラソン選手がおまえに追いつけないなんてことあるかい」

〇「いやでもおれもトイレ探してたから相当急いでたで」

△「そやかてマラソン選手やったら追いついてるわ。マラソンは違う」

〇「ほんなら柔道とかレスリングとかかな」

△「それもちゃうやろ」

〇「なんでやねん」

△「だっておまえにぶつかって尻もちついたんやろ。柔道選手やレスリング選手が、おまえみたいなひょろひょろの男にぶつかられて尻もちつくかい」

〇「ほんなら卓球は」

△「卓球選手は反射神経がすごいからおまえにぶつからへん」

〇「じゃあ体操」

△「体操選手やったら宙返りでかわしてる」

〇「ラグビー」

△「タックルでおまえをふっとばしてる」

〇「射撃」

△「おまえは背中から撃たれてる」

〇「そんなわけあるかい」

と、わあわあいうておりますと、突然家のドアが開いてひとりの男が入ってきた。

〇「わっ、なんやなんや」

選手「すみません、ぼくの鞄がここにあると聞いたんで」

△「えっ。ということはあんたが金メダリスト……?」

選「はい、そうです」

△「あんたかいな。ちょうどこっちから探しにいこうと思てたんや。しかしようここにあるってわかったな」

選「はい、金メダルをぶらさげて歩いている人を見たって人がたくさんいたもんで」

〇「ああ、さっきおれが見せびらかしながら歩いとったからな」

△「自分が獲ったわけでもないのに見せびらかすなや、そんなもん。しかしあんた、なんの選手なんですか」

選「水泳です」

△「あーそういえば見たことあるわ。服着とるからわからんかったわ。
  しかしさすがは水泳の選手やな。すごい勢いで飛びこんできたわ。いっつも飛びこんでるだけのことはある」

選「いえ、ぼくは背泳ぎの選手なんで飛びこみはしないんです」

〇「はあ、背泳ぎは飛びこみせんのですか。知らんかったな。
  ……なるほど、背泳ぎの選手か。それでおれとぶつかったんやな」

△「どういうことや」

〇「背泳ぎの選手って、いっつも上ばっかり見てるやろ。その習慣で上見て歩いとったからぶつかって尻もちついたんちゃうか」

△「そんなわけあるかい」

選「えー、ではそろそろメダルを返してもらってもよいでしょうか」

〇「えっ、返すんですか」

△「そらそやで。この人が獲ったメダルやないか」

〇「一晩だけでもうちに置いといたらあきませんやろか。この子も名残惜しいというてますし」

△「犬の仔みたいに言いな。ほら、返さんかい」

〇「わかりました。はいどうぞ」

選「どうもありがとうございます」

△「しかしあんた、金メダル見つかってよかったな。せっかく優勝したのに、メダルをなくしたらどうにもならんからな」

選「いえ、どうにもならないことはありません。銅より上の、金ですから」


2018年10月1日月曜日

作家としての畑正憲氏




中学生のときぼくが好きだった作家のひとりが畑正憲氏だ。

……というと、たいていこう言われる。
「畑正憲? 知らないなあ」

「ほら、ムツゴロウさんだよ。知ってるでしょ」

……というと、たいていこう言われる。
「えっ、ムツゴロウさんって作家なの?」


今から二十年ぐらい前には『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』というテレビ番組があった。そのイメージが強すぎたので「動物たちと暮らしてテレビに出るのを生業としている変なおっちゃん」と思っている人が大半だった。
それはそれでまったくの間違いでもないのだが、畑正憲氏のおもしろさは著作にいちばん現われているとぼくは、テレビのイメージがひとり歩きしていることに不満だった。

たしかに畑正憲氏は奇人だ。
動物の身体をべろべろなめたり、動物のおしっこを飲んだり、飼っていた動物が死んだら食べたり、テレビで観る分には「イカれているおじさん」だった。
でもそれは一面しか表していない。
彼の著作を読むとわかる。「めちゃくちゃイカれているおじさん」だということが。

テレビで映されるのは彼のぶっ飛んだエピソードのうちほんの一握りにすぎない。その数倍の奇行や蛮行は、あまりに異常すぎてテレビで放送できなかったのだろう。


畑正憲氏のエッセイは、エロ、バイオレンス、ばかばかしさにあふれていた。
でもそれらはすべて科学的視点に基づいたものだ。
ばかな人がばかなことを言うのと、賢い人がばかなことをいうのはぜんぜん違う。畑正憲氏は圧倒的に後者だ。東大から理学系の大学院に行って研究をしていた人なので豊富な知識と優れた洞察力がバックボーンにある。それをもとにばかを書いているのだからおもしろくないわけがない。

彼のエッセイはどれもおもしろかった。金がなかった中学生時代、古本屋をめぐって数十冊集めていた。
似たようなタイトルの本を何十冊も多く出していたので、まちがって買わぬよう、ぼくの財布には「まだ買っていない作品リスト」を書いたメモがしのばせてあった。

特に好きだったのが『ムツゴロウの博物誌』シリーズだ。
これは初期の傑作で、エッセイとフィクションが絶妙にまじりあったふしぎな話が並んでいた。エッセイのような書き出しなのに急に訪ねてきた客人がナマコだったり、魚が突然を口を聞いたり、自然とフィクションへと移行するのだ。
息をするようにほらを吹く畑正憲氏の技法はすごく好きだった。

ああいうエッセイ(というか半分ほら話)を書く人は他にちょっと知らない。
まったくのでたらめというわけでもなく、豊富な知識に裏打ちされたばか話だからこそおもしろいんだろうな。

畑正憲氏の著作がほとんど絶版になっているのは寂しいことだ。
学生時代に読んでいた本の多くは手放したが、畑正憲作品はすべて実家の押し入れに眠っている。

2018年9月28日金曜日

【読書感想文】矢作 俊彦『あ・じゃ・ぱん!』


『あ・じゃ・ぱん!』

矢作 俊彦

内容(e-honより)
昭和天皇崩御の式典が行われている京都の街中で、偶然、テレビカメラに映し出された一人の伝説の老人。「この男からインタヴューを取ってもらいたい」と上司から指示された人物は、新潟の山奥で四十年もゲリラ活動を展開してきた独立農民党党首・田中角栄その人だった。しかし、私の眼は、老人の側に寄り添う美しい女にくぎ付けになっていた。その女こそ…。来日したCNN特派記者が体験する壮烈奇怪な「昭和」の残照。

戦後日本がドイツや朝鮮のようにソ連とアメリカによって東西に分割されていたら……という設定の小説。
西側は「大日本国」として超経済大国になり、東側は「日本人民民主主義共和国」という名の社会主義国家になっているという設定(ちなみに東側の軍隊の名前が「社会主義自衛隊」で、西側からは「日本赤軍」と呼ばれているというのが秀逸)。
じっさい、ポツダム宣言の受諾がもう少し遅れていたらソ連が本土上陸して東西に分けられていた可能性は十分にあった。

村上龍『五分後の世界』も同様の設定の小説だ。
ただし『五分後の世界』はまだ戦争が終わっておらず、日本人同士が殺しあっているシリアスな物語だが、『あ・じゃ・ぱん!』のほうでは争いはほぼ終結しており、東西を隔てる壁(名前は「千里の長城」)によって分割されているものの人々の行き来もそこそこある。
パロディや諷刺などがちりばめられ、物語の展開はおおむね平和的。
読んだ印象としては、東北の寒村が突然日本から独立宣言をするという井上ひさし『吉里吉里人』に近かった。『吉里吉里人』を読んだのはもう二十年以上も前なので細かくはおぼえてないけど。

ひたすら長い小説、という点でも『あ・じゃ・ぱん!』と『吉里吉里人』は似ている。長い割にストーリーがたいして進まないところも。



設定はすごく好きだったんだけど小説としてはひたすら苦痛だった。つまんないとかいう以前に頭に入ってこない……。
行動の目的もないし、次から次へと人物が出てきてはたいした印象を残さないまま消えてゆくし、まるでとりとめのない日記を読んでいるかのよう。

ぼくは本をよく読んでいるほうだと思うが、それでもこの小説はちっとも頭に入ってこなくて読むのがつらかった。よほどのことがないかぎりは最後まで読むことを自分に課しているから、早く終われ、と念じながら読んでいた。

ところどころはおもしろいんだけどさ。
大阪府警が商売に精を出していたり、奈良ディズニーランドがあったり田中角栄率いる新潟だけは東西どちらとも距離を置いていたり。

でも通して読むとやっぱり話についていけない。
すごく時代性の強い小説だからかもしれない。
この本の発表は1997年。天皇崩御の少し後の時代(1990年ぐらい)が舞台だ。

1980年代後半生まれのぼくは、田中角栄も天皇崩御もベルリンの壁もリアルタイムではほとんど知らない。本で読んだので何が起こったのかは知っている。けれどその当時の空気まではわからない。

パロディというのは、知識として持っているだけではおもしろさが伝わらない。
身体感覚として共有するぐらいでないとその味を感じられない。
『ドラゴンボール』を大人になってから一度読んだだけの人と、小学生のときにかめはめ波の修行をするぐらいどっぷり漬かっていた人とでは、ドラゴンボールパロディにふれたときの心の震えも異なるように。

たぶん発表当時はすごくおもしろかった小説だったんだろうとは思うが、発表から20年以上たった今あえて読むほどの小説ではなかったな。


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表現活動とかけてぬか漬けととく/【読書感想エッセイ】村上 龍 『五分後の世界』



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2018年9月27日木曜日

自分のちょっと下には厳しい


あくまで観測範囲の話でしかないけど……。

生活保護叩きなど貧困層に厳しい人は、貧困層のちょっと上~中流ぐらいの人に多くて、
大金持ちはむしろ最低賃金のアップやベーシックインカム導入など「貧困層に手厚い支援」を提唱している人が多い。

貧しい人が増えれば消費は鈍るし治安も悪化するし良いことなんてないのに、それでも貧困叩きをする人がいなくならないのは
「自分より下の階層がいてほしい」
という願望によるものだ。



ぼくが本屋で働いているとき、1日12時間労働、年間休日80日、年収200万円台というワーキングプアだった。
そんなとき、某有名芸人の家族が生活保護を不正受給しているというニュースを見て「なんてひどいやつだ! 許せん!」と思っていた。

でも、転職してもうちょっとだけマシな生活をできるようになった今、生活保護をもらっている人に対して寛容になった。
「まあそこそこの生活をできるようになるのはいいことじゃないかな」と思う。
不正受給は良くないけど、そっちを防ぐことよりも支援すべき人に支援の手を届けることのほうが優先事項だろう。多少の不正受給が紛れこむのはまあ仕方ないだろう、と。

月収16万円の人は、生活保護受給者が月15万円をもらっていたら許せないだろう。
でも月収50万円の人はいちいち目くじらを立てない。「まあ15万円ぐらいなら」と思うだろう。

月収1000万円の人なら「みんなに一律15万円配ってもいいんじゃない?」と思うかもしれない(稼いだことないから想像だけど)。
でも「月収800万円以下の人に200万円あげます」だったらやっぱり憤るだろう。
みんな、自分のちょっと下には厳しいのだ。



ぼくは勉強ができた。
中程度の公立高校で、校内トップクラスの成績だった。
これはすごく自信になった。
もし進学校に通っていたら学校内では下位だったかもしれない。そしたら勉強を嫌いになっていたかもしれない。

「鯛の尻尾より鰯の頭」とか「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんてことわざがあるが、集団の中で上位にいることはすごく満足感を与えてくれる。


ぼくの旧友に経営者をやっていてそこそこ稼いでいる男がいるが、傍から見ていると「余裕がないなあ」と感じる。
休みなく働いていて、ひっきりなしに電話をかけていて、もっといいビジネスはないかと常にギラギラしている。
人よりずっと稼いでいるのに、まだまだ足りないという顔。
より稼いでいる経営者との付き合いが多いからじゃないかな。



幸せに暮らすコツは、近くを見ないことじゃないかな。

プロサッカー選手が〇〇億円の年俸をもらっているとか大企業の創業者が〇〇億円の資産を持っているとか聞いても、「ふーん、すごいね」と思うだけでべつに悔しくない。自分とあまりにかけ離れた世界の話だからだ。
でも会社の同僚が自分より多くの給料をもらっていたら悔しい。「なんであいつだけ」と思う。「なんでイニエスタだけ」とは思わないのに。

サウジアラビアの王族が贅の限りをつくしたとか中国の昔の皇帝がハーレムを築いていたとか聞いても「すごいなあ」と思うだけで悔しくはない。
でも隣の男が自分よりちょっとモテていたら悔しい。

すぐそばを見ない。遠くだけを見る。
灯台下暗いほうが幸せでいられそうだ。