2018年7月24日火曜日

【読書感想文】 田原 牧『ジャスミンの残り香 「アラブの春」が変えたもの』


『ジャスミンの残り香
「アラブの春」が変えたもの』

田原 牧

内容(e-honより)
この出来事は日本人にとっても、決して対岸の火事ではない。三十年近くにわたり、アラブ世界を見続けた気鋭のジャーナリストが中東民衆革命の意味を問う!「革命」は徒労だったのか。2014年第12回開高健ノンフィクション賞受賞作。

アラブの春。
2011年1月にチュニジアでデモをきっかけに政権が倒されたのを皮切りに(ジャスミン革命)、アラブ世界の各国でデモや革命が相次いで起こった。
日本では東日本大震災の時期と重なっていたこともあり大きく報道されなかったが、世界的には大きな運動だった。ぼくが見るかぎりでは「民主化バンザイ!」と手放しで賞賛する声が多かった。
民主主義が独裁政権を打ち破った、これからハッピーな世の中になるぞ、と。

『ジャスミンの残り香』を読むと、アラブの春はそんなに単純な物語ではなかったことがわかる。革命で政権を打倒した国が西欧諸国のように平和で民主的になったのかというと、答えはノーだ。

独裁政権後に政権を握った勢力も、ほとんどの場合がうまくいかなかった。旧政権側にいた人間を虐殺したり、市民を弾圧したり、内部抗争で自壊したり。
結果、再び旧政権が権力を握ったり、市民を巻き込んだ武力闘争に明け暮れたり、革命前より混乱した状況に陥っている国がほとんどだ。
だからといって「アラブの春は無駄だった」と結論づけるのはそれもまた早急すぎるけど、少なくとも手放しで褒められるものではなかった。



ヒトラーなどの影響で日本人の多くは「独裁=悪」と決めつけてしまうけど、必ずしもそうとはいえない。
江戸幕府は徳川家による独裁政権だったわけだが「江戸時代は民衆が虐げられていた悪しき時代だった」という人はほとんどいない。それなりに民衆が暮らしやすくする政策も多かった。
現在の中華人民共和国は一党独裁だが、言論の自由が制限される一方で、党が決めた場合は環境保護でも人権保護でも経済政策でもすばやく行動に移せるというメリットもある。一概に悪とは言えない。

リビアは、カダフィ大佐が強権を握る独裁国家だった。だがその反面、高福祉国家でもあった。
教育費、医療費、電気代は無料だった。新婚夫婦はマイホームを買うために50,000ドルを政府から支給されていた。アフリカの中でも治安の良い国として知られていた。産油国だったからこそできた太っ腹だったが、これを知ると「私利私欲と自身の名声のために人々を苦しめる独裁者」というイメージは変わるだろう。
言論の自由などは制限もあったが、体制に批判的でなければわりといい暮らしを送ることができた。その点では、今の日本とそう変わらないかもしれない。

だがリビアのカダフィ大佐は、内戦により殺害された。樹立された新政府はイスラム系武装勢力の台頭を抑えることができず、二つの政府と過激派組織が勢力を競う混乱状態に陥った。外国の軍事力を借りている組織も跋扈している。

リビア人の知り合いがいないので想像するしかないが「独裁政権時代のほうがずっと良かった」と思っているリビア国民は少なくないだろう。
独裁政権を打ち破ることが人々を幸せにするとはかぎらない。



著者は、革命をしないほうが良かったと語る市民はほとんどいないと書いている。
革命後の世界はたしかに良いものではなかったかもしれない。だが革命は目的ではなく手段だ。革命によって市民は武器を手に入れたのだ、と。

そうかもしれないと思う反面、生き残った人はそう言うかもしれないけど、という冷ややかな目もぼくは向けてしまう。
筆者は日本での学生運動に身を投じていた人なので、基本的に「革命をする側」の立場で書いている。革命という行為そのものを賛美しているような文章も散見される。
でもぼくは、ほとんどの革命は悪であると思う。革命という悪が「もっと悪」を打ち倒すことはあるにせよ。

革命後の混乱によって殺された人、家族を亡くした人は「革命やってよかった」と言えるだろうか。大多数の市民にとっては、平和に暮らすことが第一の願いだ。
現代のフランスに生きる人のほとんどは「フランス革命があってよかった」と思うかもしれないが、革命の巻き添えをくらって死んだ人たちはやっぱり生きたかったと思う。
世の中の多数は「革命をする側」でも「革命をされる側」でもない。



 革命の理念が成就すること、あるいは自由を保障するシステムが確立されるに越したことはない。それに挑むことも尊い。しかし、完璧なシステムはいまだなく、おそらくこれからもないだろう。そうした諦観が私にはある。実際、革命権力は必ず腐敗してきた。
 革命が理想郷を保証できないのであれば、人びとにとって最も大切なものは権力の獲得やシステムづくりよりも、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないのか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。
 革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。

この考え方も、とても立派なことは言っているが、不服従の精神が現実的に人々の幸福に貢献するかといわれるとぼくは懐疑的だ。
たしかに革命を起こす力を持っている市民は権力者にとって脅威だろう。だが市民の手に入れた武器は、自らを攻撃する凶器にもなる。
権力者が「このままだと革命を起こされるかも」と思ったときに、「だったら革命を起こされないように市民の声も尊重しよう」と考えてより穏健な政治をしてくれるだろうか。逆に「だったら革命を起こされないように市民の力を奪って弾圧しよう」と考える権力者のほうが多いんじゃないだろうか。
一度政権を失ったアラブの独裁政権を見ていると、そっちに転がっているように感じる。

日本も同じだ。一度政権の座を奪われた自民党は、政権に返り咲いた後、国民の声に耳を傾けるようになっただろうか。むしろ逆で、「批判の声に耳を傾ける」ではなく「批判の声を上げさせない」に力を注いでいるように思えてならない。


虐げられている人が声を上げ、立ちあがることはすばらしい。だけどその行為は誰も幸福にしないかもしれない。それでも立ちあがる人だけが革命家たりうるのだろう。
自分も敵も家族も友人も不幸にしながら起こす革命が正しいのか。ぼくにはなんとも言えない。だったらどうすりゃいいんだと問われると何も言えなくなる。
革命を肯定することも否定することもできない。あいまいな態度でいることが、革命の外にいる人間にとっての誠実な態度なのかもしれない。



アラブの春、そしてその後の混乱がぼくらに教えてくれるのは、権力を握ると集団は腐敗するということだ。アラブの春にかぎらず、古今東西いたるところで権力は腐敗している。

だから民主主義を守るためにもっとも必要なものは、国家権力を縛りチェックするための仕組み、すなわち憲法だ。
国民は代表者を信任して権力を委託する。だが権力者は必ず自らの利益のために権力を濫用しようとするので、憲法を定めて暴走を食いとめなければならない。
この仕組みがあるから民主主義国家は成り立っている。

権力者が改憲しようと言いだすのは、囚人が「刑務所の警備をゆるくしよう」と言いだすようなものだ。何ぬかしてんだ立場わかってんのかバカ、と一蹴しなければならない話だ。
でもそのバカなことが今の日本で着々と進もうとしている。自分たちの手で憲法を勝ち取った経験のない国民は、危機感を抱いていない。

ぼくは改憲そのものには反対しないが、「国家の権力を強くする」方向への改憲は大反対だ。逆ならまだしも。



本書の趣旨とはあまり関係がないが、おもしろかったくだり。

「もし当地に来られるのなら、盆栽を持ってくることは可能ですか。ダマスカスの空港まで持参していただければ、国内への持ち込みには何の問題もありません」
 メールの送り主は貿易関係の仕事をしているヤーセルという知人だった。彼は、私もその昔、ダマスカスのパーティーで会ったことがある「元帥」と呼ばれる独裁政権の大物とつながっていた。たしか、ダマスカスの老舗ホテル、シャームパレスで催された「元帥」の娘の出版記念パーティーの席だった。その「元帥」が盆栽をほしがっているのだという。
 独裁国家は忌まわしい。しかし、その分、そうしたでのコネは蜜の味がする。コネさえあれば、独裁国家は通常の国より、はるかに泳ぎやすい。もちろん、タダほど高いものはない。コネはときに踏み台にも足枷にもなる。両刃の剣ということだ。
 メールには査証の発行を保証するとは書かれていなかった。だが、思案投げ首の挙げ句、このチャンスに懸けることにした。つまり、盆栽と査証が交換されるという可能性である。

著者が入国が禁じられていたシリアに入ろうとしていたときのエピソード。
ライバルから盆栽を自慢された有力者が「盆栽を持ってきてくれるのならなんとかできるかも」という話を持ってきたのだ。

この後著者は、検疫でも引っかからず(検疫は持ちこみを防ぐためのものなので持ちだしには甘い)、飛行機の機内持ち込み禁止リストにも盆栽はないため、首尾よく盆栽を持っていってシリア入国を果たすことになる。

この盆栽の一件だけで、シリアがいかに混乱と腐敗の状態にあるかが伝わってきておもしろい。


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2018年7月23日月曜日

【読書感想文】 氏田 雄介『54字の物語』


『54字の物語』

氏田 雄介(著) 佐藤 おどり(イラスト)

内容(Amazonより)
9マス×6行の原稿用紙につづられた「#インスタ小説」がついに書籍化! こどもから大人まで楽しめる、世界一短い(かもしれない)短編小説90話をあなたに。あなたはこの物語の意味、わかりますか――? ◆先日研究室に送ってくれた大きなエビ、おいしかったよ。話は変わるが、例の新種生命体のサンプルはいつ届くのかね? ◆「ただいま」と言えば「お帰りなさい」と返ってくる新生活が始まった。家賃も安いし、こんな一人暮らしも悪くない。 ◆本当にこんな惑星に生命体が存在するのだろうか? 一年間に及ぶ実地調査の最終日、幸いなことに私はうんこを踏んだ。 ◆「くそ! 逃げられたか!」「いえ、あの方は何も次まなかったわ」「いや、奴はとんでもないものを次んでいきました」 ◆「やあ、私は未来から来た。今は戦前か?」「いや、戦後から七十年は経っているが」「ということは二十二世紀だな」 物語の解説&他の物語は、ぜひ本書でお楽しみください!

54字という制約の中で書かれた(一部54字未満の作品もあるが)ショートショート90篇。
ショートショートが好きで、星新一全作品はもちろん、阿刀田高作品や『ショートショートの広場』も読みあさったショートショート好きのぼくとしては放ってはおけない。

内容は玉石混交だけど、おもしろかった。さくっと読めるのもいい。
ショートショートとしてはわりとベタな内容も多く、やや子ども向けかもしれない。小学生に本好きになってもらうための入口にはぴったりかもしれないね。

作品はおもしろかったが、解説やイラストが蛇足だった。
解説は作品を野暮ったらしく説明して、イラストはひねりなく情景をそのまんま書いただけ。作品がおもしろくても解説されるとつまんなく感じてしまうんだよなあ。ショートショートは解説しないからおもしろいのに。
これだったら解説とイラストを削って、その分『ショートショートの広場』みたいに一般公募した作品を載せてほしかった。

ぼくが好きだった作品を三つ選ぶなら↓↓↓


金星で原住民に捕らえられた調査隊一行は、翌朝には解放されると聞き安堵の表情を浮かべた。夜明けまであと千時間。



数分間の格闘の末、彼が釣り上げたのは小さなゴム片だった。世界中の海面が少しずつ下がり始めたのはこの日からだ。



金属資源をめぐる戦争の最中、偶然にも大量の鉱脈が見つかり両国は歓喜した。「やった!これで新しい武器が作れる」


やっぱりショートショートはSFと相性がいいね。

娘が小学生になったら読ませてみようかな。


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2018年7月22日日曜日

ぜったいに老害になる


「Excelのマクロに仕事をさせるのは怠けてる」とか
「メールじゃ気持ちが伝わらないから直接話すのがマナー」
とか
「クーラーの効いた部屋にずっといたら身体が弱くなる」
とか、テクノロジーの進歩に伴う価値観の変化についていけない人間を、ぼくは老害としてばかにしている。
自分はああはならないぞ、とも。


でも。
自分が年寄りになったら。

どこへ行くにも人間転送装置で移動する孫には
「たまには自分の足で歩いて身体を鍛えたほうがいいよ」
と言っちゃうと思う。

学校の勉強をパーソナル学習装置にすべて任せている孫に
「勉強は自分の頭を使ってやらないといつか困るよ」
と言っちゃうと思う。

オンライン上でバーチャル結婚を送ろうとする孫には
「やっぱり結婚相手を決めるなら、一度くらいは会ったほうがいいと思うよ。古い考え方かもしれないけど」
と言っちゃうと思う。

老害をばかにしてるぼくも、ぜったいに老害になる。


死体遺棄気分の夏


高校三年生の夏休み、どういう流れだったか忘れたが、友人三人と夜の小学校に忍びこんだ。
田舎の高校生が夜遊ぶところなどほとんどない。スーパーでお菓子とジュースと少しばかりの酒(といっても缶チューハイ)を買って、住宅街のはずれにある小学校の塀を乗りこえた。

粋がってはいても田舎の進学校の生徒であるぼくらは、学校に入ったからといって尾崎豊のように窓ガラスを壊してまわったわけではない(尾崎だってやってなかったかもしれないが)。ただグラウンドの隅に座り、ジュースを飲みながら他愛のない話をするだけだった。
四人で缶チューハイ二本だけ。なめるように回し飲みしながら「おれけっこう酔ったかもしれん」なんて言いあっていた。そんな少量で酔えるはずもないのに。

そのうち、ひとりが泣きだした。友人Tだ。彼はその少し前につきあっていた彼女にフラれたのだった。その愚痴をこぼしながら「好きだったのにー!」と大声を上げだした。
ぼくらは笑いながら声のボリュームを抑えるように言った。住宅街のはずれ、裏は山とはいえ夜の小学校で大声を上げたら不審に思われてしまう。
前言撤回、Tはチューハイたった半分で酔っていたのだ。

その後もしばらく話を続けていたのだが、ふらふらと歩きまわっていたTが急にまた声を上げた。
「なんだおまえ?」

やばい、誰か来たか、とあわてて逃げだす態勢をとったが、目を凝らしても誰もいない。
Tがひとりで「おっ、やんのかおまえ?」と叫んでいる。
よく見ると、小学校のお祭りで使ったものらしい提灯が吊るされていて、Tはその提灯に向かって喧嘩を売っているのだった。
「喧嘩ならやったるぞ。おれボクシングやってんねんぞ」
Tは自分より少し高い位置に吊るされた提灯に向かって、必死に拳をふりまわしていた。
残りの三人は「おまえボクシングやってへんやないか」と云って、漫画のような酔っ払いの姿にげらげらと笑った。

やがてTはグラウンドの上に眠りこけてしまった。
ぼくらはその後も話を続けていたが、少しずつ空が白みはじめた。朝の四時ぐらいだろうか。
「おい、そろそろ帰ろうぜ」と眠っているTに声をかけた。起きない。「人来たらやばいぞ」とゆするが起きない。むりやりまぶたを開けてみるが、まったく起きる気配がない。

これはまずい。焦りはじめた。
ここは小学校のグラウンド。塀を乗りこえて入ってきたのだから、出るときも塀を乗りこえなくてはならない。だがTは熟睡中。
夏休みとはいえ、朝になれば人も来るだろう。見つかったら叱られる。いや、叱られるぐらいで済めばいいが、へたしたら警察沙汰だ。飲酒もばれるかもしれない。高校に連絡→停学というコースもありうる。

新聞配達のバイクのエンジン音が聞こえてきた。まずいまずい。そろそろ人々が起きてくる。
とりあえずぼくらはTをかついで校門へと向かった。「しゃあない、かついで乗りこえさせよう」

男三人がかりとはいえ、まったく意識のない人間をかつぎあげるのはたいへんな作業だ。塀の高さは二メートル以上もある。Tが小柄な男でまだよかった。
まずぼくが塀の上に乗り、人がいないことを確認する。下から二人がかりでTを持ちあげ、同時にぼくがTをひっぱりあげる。
いったんTを塀の上に置いて、落っこちないように身体を支える。その間に下のふたりが塀を乗りこえる。そして塀の上からTを落とし、下でキャッチする……はずだったが、五十キロ以上ある男を落とすだけでもたいへんだ。ずりずりずりっと落としたら、下のふたりがうまくキャッチできずにTは生垣の上につっこんだ。だいぶすり傷をつくったと思うが、それでも起きない。あと十センチずれていたら生垣ではなくコンクリートに頭をぶつけていたところだった。とりあえず胸をなでおろした。

作業を終えると汗びっしょりだった。死体遺棄をしている気分だった。まだTの死後硬直が始まってなくてよかった(死んでねえし)。
代わる代わるTをかついで、そこからいちばん近い友人の家に向かった。明け方だったので、幸い人には見られなかった。
友人の家にTを引っぱりあげた。さんざん苦労をかけたくせに気持ちよさそうに寝ている姿に腹が立って、三人がかりでTの身体に落書きをした。腹、背中、手足に数学の公式を書きならべてやった。「That's カンニング!」


これがぼくの、はじめての飲酒体験だ。
その後あまり酒好きにならなかったのは、このときのたいへんだった記憶があるからかもしれない。



2018年7月20日金曜日

【読書感想文】 烏賀陽 弘道『SLAPP スラップ訴訟とは何か』


『SLAPP スラップ訴訟とは何か
裁判制度の悪用から言論の自由を守る』

烏賀陽 弘道

内容(Amazonより)
自分に不利な言論(批判、反対、公益通報など)を妨害するために、相手を民事訴訟で訴えて裁判コストを負わせ疲弊させる戦術を「SLAPP(スラップ)」と呼ぶ。自らもスラップの被害者になった筆者は、日本ではまったく野放しのスラップに、アメリカでは1990年代から被害を防止する法律が整備さていることを知り、自費で現地取材を重ねた。北海道から沖縄まで、日本国内のスラップの実例を取材して歩いた。米国スラップ被害防止法のしくみ・背景、日本の事例を取材、報告し、日本でのスラップ被害防止法の立法化を訴える。「山口県・上関原発訴訟」「沖縄・高江米軍ヘリパッド訴訟」「北海道警裏金報道訴訟」「新銀行東京訴訟』など日本のスラップの実例も豊富に掲載している。

アメリカでは防止法まで作られている(州によるが)ものの、日本ではほとんど認知されていないSLAPP(スラップ)訴訟。
SLAPPとは、裁判で勝つことではなく、裁判自体によって相手にダメージを与え、言論の自由を奪おうとする戦術のことだ。Strategic Lawsuit Against Public Participationの略であり、slap(平手打ちをくらわす)ともかかっている。

烏賀陽氏はSLAPP訴訟の特徴として、

・民事裁判
・公的な意見表明をきっかけに提訴される
・提訴によって相手に金銭・時間的コストを負わせることが目的
・長期化する裁判を避けるため、被告だけでなく他の批判者も公的発言を控えるようになる

といった点を挙げている。

たとえば大企業Aが不法行為をしているとする。その事実を知ったBが内部告発をして新聞社に対してAの不法行為を告発する。
するとAは、Bに対して「事実無根の名誉棄損だ」として一億円の損害賠償を請求する裁判を起こす。
Bの告発が真実であれば、裁判をすればおそらくBは勝つだろう。だがふつうの人にとって大会社を相手に長期間の裁判をするのはかんたんなことではない。何度も平日に裁判所に出向かなければならないし、弁護士も雇う必要がある。制度上は弁自分がひとりでやってもいいが、弁護士なしで裁判に臨むのはふつうの人にはまず無理だ。完全勝訴であれば裁判費用は払わなくていいが、弁護士費用は自分で負担しなければならない。
勝ったところで得られるものはない。勝っても負けても失うものばかりだ。時間もお金も精神も削られてゆく。
そこでAがBにささやく。「告発を否定するなら、こちらも提訴を取り下げますよ」

これがSLAPP訴訟だ。裁判を起こすこと自体で相手にダメージを与えること、相手の言動を委縮させることを目的とする訴訟である。実に効果的だ。
さらにSLAPP訴訟が効果的なのは、実際に告発したBだけでなく、将来的に告発していたかもしれないCやDをも委縮させることだ。
誰だって裁判の被告になりたくない。「ものを言えば訴えられるかも」と思えば、ほとんどの人は沈黙を選ぶだろう。

 よって、提訴されたら、ただちに対応するためのコスト=時間、労力、金銭の消費や精神的、肉体的疲弊が生じる。
 応訴したらしたで、今度は法廷での審理が始まる。無視したり欠席を続けたりすれば、裁判官の心証が悪化する。不利な判決を覚悟しなくてはならない。負けると、判決には強制執行が伴う。財産を差し押さえられる。負債が発生する。
 また、裁判は長時間争えば争うほど「コスト」=「金銭の消費」「時間の消費」「手間の消費」「精神的疲労」「肉体的疲労」が増加する。提訴される方にとっては望まない裁判であることが多い。コストは「苦痛」に直結する。
 つまり「提訴される側」はいかに裁判が苦痛でも、断ることができない。選択の自由がない。
 ところが一方、第1章で述べたように民事訴訟は裁判化が容易だ。「訴状」という書類を作成して裁判所に提出するだけでいい。原告の判断だけで提訴できる。「いつ提訴するか」「いくら請求するのか」も意のままに設定できる。

強い者から弱い者を守るために裁判を起こす権利が日本国憲法32条で守られているわけだが、それが大企業、県、国といった力のある者が個人をおさえつけるために使われているのだ。
そして日本においてはこれを防ぐ方法がほとんどない。SLAPP訴訟は合法的に気に入らないやつの口を封じさせる手段なのだ。



カリフォルニア州では、訴えられた側が「この訴訟はSLAPPである」と主張すれば審理に入る前に裁判所がSLAPP訴訟かどうかを判断し、SLAPPと認定されてば提訴はそこで棄却される。
さらに、SLAPP訴訟と認定されれば、被告側が雇った弁護士費用も原告側が負担しなければならない。さらに提訴されたことによって被った被害を原告に求める裁判を起こすことができる「スラップ・バック条項」もあるそうだ。

つまり、SLAPP訴訟を起こしても、相手に大したダメージを与えられない上に、相手の弁護士費用を負担しなくてはならない、さらに逆に提訴される可能性もある、と訴えた側にとってダメージばかりなのだ。
これなら訴訟を起こす側も慎重になるだろう。


一方、日本にはそのような仕組みがない。訴える金銭的・時間的余裕のある側が圧倒的有利にできている。
ということで、市井の人々でも情報発信がしやすくなった今、SLAPP訴訟はどんどん増えるだろう。

SLAPP訴訟は強者に有利な戦術なので、強者である政治家がわざわざそれを防止する法をつくることは期待できそうにない。
報道が強く主張すれば風向きも変わるかもしれないが、それもあまり期待できない。なぜなら、NHKや読売新聞のような報道機関も、自らを批判する人に対してSLAPP訴訟ではないかと疑われるような裁判を起こしているからだ。大手マスコミにとってSLAPP訴訟は武器であって脅威ではないのだ。



瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』を読んだときも思ったことだけど、インターネットのおかげで人々が自由にいろんなことを発信できるようになったけど、言論の自由は拡大されたのかというとむしろ狭まっているように思える。
体制に批判的な発言を発見して押さえつけるための手段として、法や裁判所が使われている。

ついこないだ、エジプトで「5000人以上のフォロワーがいるフェイスブックやツイッターなどソーシャルメディアの個人アカウントやブログはメディアとして扱われ、政府の監督対象になる」というニュースを目にした。
名目はデマ拡散を防ぐことだというが、どう考えても反体制的な発言を封じるために使われるだろう。

どうでもいいことは言いやすくなったけど、大事なことは発信しづらい世の中に変わっていくのを感じてしまう。


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