2017年9月4日月曜日

VBAで魔法呪文のマクロを組んでみた


魔法使いは呪文を唱えることが多い。「チンカラホイ!」とか(『のび太の魔界大冒険』より)。
なぜ唱えるのだろうか。ぼくは魔法を使ったことがないのでよくわからない。

わざわざ呪文を口にすることにはデメリットがいくつかある。
まず、発動までに時間がかかる。
スポーツ漫画だと「トルネードアロースカイウイングシュート!」と言いながらシュートを打ったりするが(『キャプテン翼』より)、どう考えても時間の無駄だ。「トルネードアロースカイウイングシュート!」と叫ぶためには相当長い”溜め”をつくることが必要で、PKのときならともかく、ゴール前でそんなことを叫んでいたらあっという間にボールを取られてしまうだろう。

また、相手に察知されるというマイナス面もある。野球でピッチャーが「スライダー!」と叫びながら球を投げたら、打たれる可能性はまちがいなく高まる(ときどき嘘を混ぜれば効果的かもしれないが)。



かようなデメリットがあるにもかかわらず魔法使いが呪文を唱えるのは、そうしなければならない理由があるからだろう。

それはつまり、魔法というものは魔法使いの内なる力ではないということを意味する。
内なる力の発動であれば心の中で思うだけで十分だ。ピッチャーが黙ってスライダーを投げるように。
わざわざ言語化するのは他者に対して指示を与えているからだ。
たぶん精霊みたいなものが近くにいて、そいつに対して「こういう魔法を使いたいからよろしく!」というメッセージを発する、それが呪文なのだ。

構造としては、コンピュータを操作するときにコマンドを打ちこむことで望むとおりの動作をさせるのと同じだ。
つまり、魔法使いとは精霊を思い通りに動作させるプログラマーであり、呪文はプログラミング言語にあたるわけだ。



魔法は科学と対極にあるものとして語られることが多いが(『のび太の魔界大冒険』でも魔法が使える世の中では科学が迷信扱いされていた)、はたしてそうなのだろうか。

魔法を使いこなすためには、同一の条件下で同一の呪文を唱えたときは同一の動作が確認されなければならない。あるときは火が出て、あるときは氷が出て、あるときは相手を回復させるような呪文は使い物にならない。ドラクエシリーズには「パルプンテ」という何が起こるかわからない呪文があるが、これを常用するユーザーはまずいないだろう。
少なくとも呪文を唱えることによって何が起きたかという結果が確認できて、さらに「この呪文を唱えれば10回中8回以上は××という効果が生じる」といった傾向が把握できないと役には立たない。

すなわち魔法を有用なものとして使うためには検証可能性や再現性、測定可能性が求められるわけで、これはまさしく科学のアプローチそのものである。
魔法とは科学なのだ。



呪文が精霊に対するコマンドである以上、命令の内容は客観的・普遍的なものでなければならない。
たとえばドラクエシリーズにおける呪文”メラ”は「敵に対して小さな火球をぶつける」といった説明がなされているが、これはゲームユーザーに対する簡略化された説明であって、実際はこんな指示では魔法は発動できないはずだ。

まず”敵”のような漠然とした概念では場所を特定できないから、座標を用いて火球をぶつけるオブジェクト(対象)を指定してやる必要がある。
「呪文詠唱者を起点として真北から方位角132度の方向6.1メートルの位置」といった一点に定まる座標の指示を与えなければならない。
方位角や距離を正確に把握するためには三角法に対する正しい知識と素早い計算能力が必要になるから、魔法使いは相当数学に強くないとやっていけない。


さらに”小さな火球”といった曖昧な表現では精霊はうまく対応できないから、サイズ、温度、継続時間といった指標を設定する必要がある。
ただし”敵”は毎回変わるのに対して”小さな火球”は毎回同じものでもかまわないから、マクロのようなものを組んで毎回の発動を簡素化することができる。
一般にはそのマクロの名前が呪文と呼ばれるのだろう。
(ドラゴンボールに出てきた「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」のように極端に長い呪文はマクロではなくコードをそのまま読みあげているものだと予想する。神龍の召喚のように数年に一回しか使わないコマンドはマクロとして登録する必要性があまりない。)


ということで、VBAでメラのマクロを組んでみた。



2017年9月3日日曜日

【CD感想】星新一のショートショートを落語化 / 古今亭志ん朝・柳家小三治『星寄席』

『星寄席』

星新一(原作), 古今亭志ん朝 , 柳家小三治 (演) 


ショートショートの神様・星新一の作品を落語家が演じたもの。
『戸棚の男』を古今亭志ん朝が、『ネチラタ事件』『四で割って』を柳家小三治が落語化。
もともとは1978年にレコードで発売されたものだが、なぜか2015年にCDで再発売されたらしい。

星新一に関連するものなら全集から評伝まですべて揃えずにはいられないぼくとしては見逃せないということで購入。上方落語を聴いて育ったので江戸落語は肌に合わないんだけどね。

星新一作品と落語って相性がいいね。
まず落語は古典でもSFの噺が多い。『犬の目』『一眼国』『地獄八景亡者戯』など。あたりまえのように幽霊や死後の世界が出てくる。
また『蛇含草』『天狗裁き』のようなあっと驚くオチ(サゲ)で落とす噺もあり、そのへんもショートショートに似ている。

星新一自身、江戸落語が好きだったようで、『いいわけ幸兵衛』のように落語(『小言幸兵衛』)を基にした作品も書いている。本CDに収録されている『ネチラタ事件』も、古典落語の『たらちね』を下敷きにしている。 また『うらめしや』のように落語原作も書いている。
描写を必要最小限にしていること、登場人物に特徴が少なく記号的であること、時事性が強くないことなども落語的だね。



というわけで『星寄席』だけど、話のチョイスが絶妙だった。
  • 絶世の美女を妻にしたら声帯模写の達人、ルパンの孫、キューピッド、フランケンシュタインたちが間男としてやってくるようになった『戸棚の男』
  • 世の中の人々の言葉遣いが突然乱暴になる病原菌が広まった世界を描く『ネチラタ事件』
  • 賭け事が好きすぎて命を賭けたギャンブルに挑戦した男たちが地獄に行く『四で割って』
いずれもSFらしい奇抜な設定と落語らしいばかばかしい展開がうまく融合されていた。
とはいえそれは原作が良かったからこその出来であって、落語として聴いたら、正直おもしろくなかった。

まずひとつには原作を忠実に言葉にしていたこと。
落語の噺というのは著作権フリーであり、噺の改編も自由にしていいことになっている。
大筋は残しつつも、時代にあったわかりやすいオチに変更したり、節々にギャグを交えたりすることは当たり前におこなわれている。ところがこの『星寄席』に関しては、そういった”あそび”がまったく存在しない。ただの朗読劇になっており、落語としては笑いどころがほとんどない。

そしていちばん残念だったのが、スタジオ録音だということ。タイトルに「寄席」と入っているにもかかわらず高座でかけられたものではないのだ。
したがって客席の笑い声も皆無なわけで、他の客の笑い声も一体となってひとつの話を形作る落語と呼べるものではない。
これではただの朗読劇で、落語家が演じる必要性が感じられなかったなあ。
ついでにいうと、柳家小三治の『ネチラタ事件』は上品すぎた。

高座ウケするようにアレンジして客の前で演じたらずっとおもしろいものになっただろうに。
40年前の音声でもまったく古びない星新一のショートショート。ぜひ落語に取り入れて、今後もしゃべりついでもらいたいものだ。


2017年9月2日土曜日

子どもを野党に入れるには




以前Twitterにこんなことを書いた。
そっちを覚えんのかい!


親として娘に望むことはいろいろあって、その中のひとつが「素直に謝れる人になってほしい」だ。
たいていの場合、早めに謝ったほうがトクをする。意地を張っていいことなんかない。
だから娘がぼくの足を踏んだときとか、寝ているときにおなかに飛び乗ってきたには(想像してほしい。睡眠中に17kgの塊が腹部に落ちてくるのを)、「痛かったよ。ごめんは?」と厳しく注意している。

で、昨日保育園の先生から聞いたのだけれど、娘は失敗をした園児に対してとても厳しいらしい。
少しぶつかられただけで「痛かった! ごめんは!?」と強い口調でまくしたてるのだという。

そっちを覚えんのかい!
素直に謝ることではなく、相手に謝らせる方法を学んでしまったらしい。

以前「子どもは親に言われたことはしない。親がすることをする」と聞いたことがあるが、まったくそのとおりだ。

他人の失敗を厳しく糾弾するのは、とても感じが悪いのでやめてもらいたい。
野党の議員には向いている資質かもしれないけど。


2017年9月1日金曜日

ツイートまとめ 2017年8月



罵声

賛否両論
刺青


尋問

暗転

怪魚

複製人間

路上床屋

生活保護

両立

先端恐怖症

寄居虫

国際競争力

太陽系

不健康

婉曲



2017年8月31日木曜日

ビールでタコを煮た無人島


無人島の七人

学生時代、無人島でキャンプをした。

瀬戸内海の1周3kmほどの小さな島。男7人、2泊3日のキャンプ。
海沿いの小さな駅で降り、こじんまりとしたスーパーマーケットで買い占めちゃうんじゃないかってぐらい肉や酒を買いこみ、漁港の市場でタコや貝を買って、タクシーフェリーに乗せてもらって無人島に渡った。

男が7人もいたらアウトドアの達人が1人ぐらいはいそうなものだけど、ぼくらの中に「できるやつ」はひとりとしておらず、苦労しながらテントを斜めに立て、食材はそのへんに投げだして、がさつなだけのカレーをつくって食べた。涙が出るほどうまかった。


ビールは山ほど買っていったのに水をあまり買っていかなかったせいで2日目にして深刻な水不足におちいった。
水を節約するために海水で米を研ぎ、ビールでタコを煮た。酒より水のほうが貴重というソ連みたいな状況だった。「タコのビール煮ってなんかおしゃれじゃない?」とうそぶきながら食べた。じっさいはまずくて、でもうまかった。


せっかくの無人島なんだから大きな声を出さなきゃ損とばかりに無意味に島中に響きわたるほどの声を張りあげた。最終日は7人とも声ががらがらだった。


3月の海に入ったら冷たすぎて痛かった。みんなで鼻パックをつけたまま一日すごした。島にあったマリア像が怖かった。豚肉を日なたに半日放置していたけど気にせず食べた。小さい島なのに遭難しそうになった。明け方は寒くて眠れなかった。早朝の浜辺で食う焼き芋はしみじみとうまかった。


10年以上たって振り返ると、2泊3日の無人島生活が1年もいたように感じるし、あっという間の夢だったようにも思える。
細かいことは忘れてしまったが、ただあの日々を味わうことはもう二度とないという実感だけが確かなものとして今は存在する。



無人島の七人