2015年10月2日金曜日
【写真エッセイ】「エンジン バッテリー 違い」で検索
友人たちと車で出かけていると、車のエンジンがかからなくなった。
みんなで車を押してみたが、スンともいわない。
戦争が起こったら自分は真っ先に死ぬだろうなと思うのはこんなときだ。
ある友人はいろいろ触ってどうやらバッテリーに問題がありそうだと突き止めた。
別の友人はスマホで解決策を検索した。
またある友人は別の車と故障車をケーブルでつないで、バッテリーを蓄電(?)していた。
みんなが力を合わせたおかげで故障した車は息を吹き返し、再びエンジン音を響かせた。
その間ぼくが何をしていたかというと、みんなが車を直そうと奮闘している姿を「みんながんばっとるねぇ」と言いながらムービーで撮影していただけだ。
いちばん迷惑なタイプの人間だ。
非常時にまったく役に立たない、いやそれどころかただ目障りなだけのタイプだ。
だが臆面もなく言い訳をさせてもらうと、なにしろぼくはエンジンとバッテリーの違いもよくわかっていない。故障車を直せるはずがない。
こんな人間が免許を所有していて公道で車を走らせているわけだから、つくづく物騒な世の中になったものだ。まったくもって嘆かわしい。
今年で58歳のぼくの母親は
「わたしが使うと壊してしまいそうで怖いから」
という理由で、パソコンに指一本触れようとしない。
HDDレコーダーの予約録画もできないから
「ビデオの録画やっといて。これ」
と云って観たい番組を赤丸で囲った新聞のテレビ欄をぼくに渡してくる。
ぼくの自動車工学のレベルは彼女のそれと変わらない。
とうとうクラッチが何のためにあるのかよくわからないままMT免許を取得してしまったくらいなのだ(左足を退屈させないためだと自分のなかでは解釈している)。
非常時に役に立たないタイプの人間だから(ひょっとすると平常時も、かも)戦争に巻き込まれたら、敵と戦うどころか味方の手で殺されてしまうかもしれない。
こういうわけでぼくは憲法九条改変に反対するのだが、どうも最近の日本の政治家はエンジンとバッテリーの違いがわからない人のためを思って政治をしてくれないのだから、まったくもって嘆かわしいことだ。
2015年9月30日水曜日
【エッセイ】うまかったよ、大将!
外食をして、これは!と思う味に出逢ったときには、なるべく料理人に対して賞賛の言葉をかけるようにはしている。
「おいしかったです」と。
だって自分が料理人だったら云われたいから。
なのだが。
なのだが。
これがすこぶる難しい。
以前、定食屋で食事をした後、店の主人に
「ごちそうさま。おいしかったです」と云ってから店を出た。
押しつけがましくないように、かつ真心が伝わるように、微笑をたたえながら。
ところが店を出たあと。
一緒にいた同僚から「そんなに嫌そうに云うぐらいなら云わなきゃいいのに」と指摘された。
「えっ。嫌そうに聞こえた?」
「うん。なんか云わされてるって感じだった。
いじめ問題が発覚したときの校長の謝罪会見ぐらい気持ちがこもってなかった」
「そんなに嫌そうだった!?」
なんてこった。
自分の中では梅雨明けの空に一陣の西風が吹きぬけたかと思うぐらいさわやかに言ったつもりだったのに。
ごきげんな振る舞いで
「ごっそさん! 大将、うまかったよ!」
たったこれだけのことなのにどうにもうまく云えない。
ナプキンで口まわりのソースを拭いながらウェイターに
「たいへんいい味だった。
シェフに挨拶したいから呼んできてくれないか」
と伝えられればいいのだが、そういう気どったことをしていいのは年収2000万円以上の人だけだと、たしか小学校の道徳の教科書に書いてあったはず。
海原雄山ばりにキレて
「この料理をつくった者は誰だ!」
と怒鳴っておいてから、
びくびくしながら現れた料理人に
「いやあ、うまかったよ」
とにっこり微笑むという『緊張と緩和効果で褒められた喜び倍増計画』も考えたのだが、多大なる胆力を要求される上に逆に怒られそうな気がするのでいまだ実行には移せていない。
クッキングパパの登場人物みたいに、料理を口に入れた途端によだれと自尊心を垂れ落としながら
「うまかー!」
と叫べたらどんなにいいだろう。
あれだけバカみたいな顔をしてうまさを表現できたなら、きっと作った人もクッキングパパみたいにしゃくれながら喜んでくれるにちがいない。
だがしかし。
球技大会でクラスの女子が応援にきてるときのサッカー部に負けず劣らず自意識ビンビンのぼくとしては、やはり恥ずかしい。
がんばって「おいしかったです」と云うようにしているのだが、いつも照れくさくてボソボソ云ってしまうので相手にきちんと伝わっているかわからない。
もしかしたら相手は
「今の客、帰り際にぶつぶつ言ってたな。文句があるならはっきり言えばいいのに」
と思っているかもしれない。
これでは逆効果だ。
そうだ。
口に出して云うから恥ずかしいのだ。
幸いにも日本には「背中で語る」というすばらしい文化がある。
うまいとか愛しているとかは言葉で表すものではなく、態度で伝えるものなのだ。
島国根性ばんざい!
というわけで、うまいものに出逢ったときはとにかくたくさん注文する、という戦略を取り入れることにした。
身の丈を超えて大量に食っていれば、きっとぼくが感じた「うまい!」という感情も感謝の気持ちも伝わるはず!
……といういきさつを経て、
食いすぎでトイレで吐いたのが昨夜のこと。
絶品の海鮮あんかけ焼きそばを作ってくれたご主人。
トイレから出たぼくに優しく「大丈夫ですか」と声をかけてくれたご主人。
ぼくの「うまかったよ!」のこの思い、ゲロの匂いとともに無事に届きましたでしょうか。
「おいしかったです」と。
だって自分が料理人だったら云われたいから。
なのだが。
なのだが。
これがすこぶる難しい。
以前、定食屋で食事をした後、店の主人に
「ごちそうさま。おいしかったです」と云ってから店を出た。
押しつけがましくないように、かつ真心が伝わるように、微笑をたたえながら。
ところが店を出たあと。
一緒にいた同僚から「そんなに嫌そうに云うぐらいなら云わなきゃいいのに」と指摘された。
「えっ。嫌そうに聞こえた?」
「うん。なんか云わされてるって感じだった。
いじめ問題が発覚したときの校長の謝罪会見ぐらい気持ちがこもってなかった」
「そんなに嫌そうだった!?」
なんてこった。
自分の中では梅雨明けの空に一陣の西風が吹きぬけたかと思うぐらいさわやかに言ったつもりだったのに。
ごきげんな振る舞いで
「ごっそさん! 大将、うまかったよ!」
たったこれだけのことなのにどうにもうまく云えない。
ナプキンで口まわりのソースを拭いながらウェイターに
「たいへんいい味だった。
シェフに挨拶したいから呼んできてくれないか」
と伝えられればいいのだが、そういう気どったことをしていいのは年収2000万円以上の人だけだと、たしか小学校の道徳の教科書に書いてあったはず。
海原雄山ばりにキレて
「この料理をつくった者は誰だ!」
と怒鳴っておいてから、
びくびくしながら現れた料理人に
「いやあ、うまかったよ」
とにっこり微笑むという『緊張と緩和効果で褒められた喜び倍増計画』も考えたのだが、多大なる胆力を要求される上に逆に怒られそうな気がするのでいまだ実行には移せていない。
クッキングパパの登場人物みたいに、料理を口に入れた途端によだれと自尊心を垂れ落としながら
「うまかー!」
と叫べたらどんなにいいだろう。
あれだけバカみたいな顔をしてうまさを表現できたなら、きっと作った人もクッキングパパみたいにしゃくれながら喜んでくれるにちがいない。
だがしかし。
球技大会でクラスの女子が応援にきてるときのサッカー部に負けず劣らず自意識ビンビンのぼくとしては、やはり恥ずかしい。
がんばって「おいしかったです」と云うようにしているのだが、いつも照れくさくてボソボソ云ってしまうので相手にきちんと伝わっているかわからない。
もしかしたら相手は
「今の客、帰り際にぶつぶつ言ってたな。文句があるならはっきり言えばいいのに」
と思っているかもしれない。
これでは逆効果だ。
そうだ。
口に出して云うから恥ずかしいのだ。
幸いにも日本には「背中で語る」というすばらしい文化がある。
うまいとか愛しているとかは言葉で表すものではなく、態度で伝えるものなのだ。
島国根性ばんざい!
というわけで、うまいものに出逢ったときはとにかくたくさん注文する、という戦略を取り入れることにした。
身の丈を超えて大量に食っていれば、きっとぼくが感じた「うまい!」という感情も感謝の気持ちも伝わるはず!
……といういきさつを経て、
食いすぎでトイレで吐いたのが昨夜のこと。
絶品の海鮮あんかけ焼きそばを作ってくれたご主人。
トイレから出たぼくに優しく「大丈夫ですか」と声をかけてくれたご主人。
ぼくの「うまかったよ!」のこの思い、ゲロの匂いとともに無事に届きましたでしょうか。
2015年9月29日火曜日
2015年9月28日月曜日
【エッセイ】ガンマンの生まれかわり
後輩が『トイ・ストーリー』を観てみたいと言っていたので、DVDを貸してあげようと手渡した。
ジャケットを見た後輩、
「わっ、トイ・ストーリーだ!」
「返すのはいつでもいいよ」
「これ、中身入ってます?」
「入ってるよ」
「でもどうせ中身がぜんぜんちがうDVDなんでしょ?」
「なんでだよ」
「あれっ、ほんとにトイ・ストーリーだ。あーわかった。どうせディスクが傷だらけで再生できないんでしょ」
と、ディスクを裏返してまじまじと傷チェックをされた。
どんだけ信用ないんだ。
え? なんで?
親切心でしてあげたことでどうしてこんなにぼくが傷つかなきゃならないの?
前世のぼくが、決闘の相手を背後から撃ち抜く卑怯なガンマンだったとか?
ジャケットを見た後輩、
「わっ、トイ・ストーリーだ!」
「返すのはいつでもいいよ」
「これ、中身入ってます?」
「入ってるよ」
「でもどうせ中身がぜんぜんちがうDVDなんでしょ?」
「なんでだよ」
「あれっ、ほんとにトイ・ストーリーだ。あーわかった。どうせディスクが傷だらけで再生できないんでしょ」
と、ディスクを裏返してまじまじと傷チェックをされた。
どんだけ信用ないんだ。
え? なんで?
親切心でしてあげたことでどうしてこんなにぼくが傷つかなきゃならないの?
前世のぼくが、決闘の相手を背後から撃ち抜く卑怯なガンマンだったとか?
2015年9月27日日曜日
【エッセイ】嘘のマネジメントについて
最近、自分のついた嘘が覚えられない。
誕生日はいつですかとか、身長はいくつですかとか、好きなタレントはとか訊かれると、あたしは咄嗟に嘘をついてしまう。
「尊敬する人は女医の西川史子さんです」
なんてありえない答えを云ってしまう。
なぜだかわからないけど、自分のパーソナルデータを正直に申告するのが気恥ずかしい。
だから徳島県出身ですとか福祉系の大学に行ってましたとかのどうでもいい嘘をつく。
あまりにどうでもいい嘘なので、ついたあたしですらすぐに忘れてしまう。
それでも世の中には気持ち悪いほど記憶力のいい人がいて昔の細かい嘘を執念く覚えていたりするから困ってしまう。
ついた嘘をきちんと覚えていればいいんだけど、物覚えが悪くなってきているので細かい嘘をいつまでも覚えていられない。
これはよくない。
こんなことを続けていれば、いつか嘘がばれてあたしの信用が失われちゃう。
そこであたしは対策を講じた。
いつ誰に対してどんな嘘をついたのかを手帳に記録するようにしたのだ。
「9/19 三浦さんに『バツイチ。原因は夫の浪費癖』と嘘」といった具合に。
これでしばらくはうまく嘘を把握できていたのだが、嘘の量が増えてくるにつれ、手帳のメモだけではシステマティックに管理するのが難しくなってきた。
というわけで誰か、嘘を管理するアプリ知らない?
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